60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

打楽器アンサンブル

2012年01月27日 09時10分25秒 | Weblog
 音大の打楽器を専攻した知人から、「打楽器アンサンブル」という演奏会を案内され行ってみることにした。この演奏会、打楽器専攻の同期生が、卒業から10年の節目に昔の仲間で演奏してみようと企画したものである。全国に散らばる同期生、会場探しから楽器のレンタルと費用がかかることもあり、入場料を取って一般客にも来てもらうことにしたそうである。オーケストラの中では何時も脇役の打楽器、その打楽器だけでのアンサンブル、さてどんな演奏会なのであろろう。そんな興味もあってチケットを譲ってもらった。

 私は打楽器と言うか、太鼓に対して拒否反応があった。それは小学校の低学年の頃、両親に付いて映画を見に行ったことがある。その映画は洋画でアフリカが舞台だったのだろう、真っ黒で半裸のアフリカ人が火を真ん中に円陣を組み、太鼓のリズムに合わせて踊っていた。子供の私には映画の字幕は読めない。訳の分からない言葉が飛び交い、筋も理解できず、ただただ眺めているだけであった。それはあたかもアフリカの中に迷い込み、異色の人種に取り囲まれ、その叫びと踊りの輪の中に放り出されたような感覚であった。それは子供にとっては恐怖である。場内の人混みもあって気分が悪くなり、吐き気を催してきた。そのことを母に訴えたが、映画に夢中な母はかまってくれない。結局映画館を出て、一人で夜道を家まで帰ったことを覚えている。それがトラウマになったのだろうか、その後は太鼓の単調なリズムが受け入れられず、嫌悪感すら感じるようになってしまった。
 
 お祭りの太鼓の音、応援団の大太鼓、地方によくある和太鼓の競演、若者がこれ見よがしに打ち鳴らすドラムの音。「叩けば鳴る単純な楽器を、なんでそんなに気負って叩いているんだよ」、そんな一種軽蔑の眼差しで見ていたように思う。それは子供の時に感じた、人の気持ちを荒立たせる単純なリズムの繰り返しを、音楽とは認めず、うるさいだけの雑音にしか捉えられなかったからだろう。そんな風に打楽器を嫌っていたから、私にはリズム感がない。(反対にリズム感が無いから打楽器を嫌ったのかもしれないが、)

 私の通っていた大学にマンボ楽団があった。単科大学で学生数が少ないから、まともにメンバーがそろわない。当時の友人に「北九州地区の学生大会があるから、手伝ってくれ」と懇願される。楽器は何も出来ないからと断ったのだが、「叩くだけの打楽器だから出来るだろう」、そう言われて無理やり練習にひっぱりだされてしまった。練習場になっていた体育館にいくと、マラカス、ギロ、クラベスという3つの楽器を渡され、これをこなせるようにしてくれという要請である。
 ※マラカス(柄のついた楕円の玉の中に小豆のような粒が入っていてシャカシャカと音をだす)
 ※ギロ(洗濯板のようなギザギザが付いていて、これを棒で擦ってギーッコギーッコという音をだす)
 ※クラベス(2本の拍子木で、カーンという澄んだ音がでる)

 手取り足とりして教えてもらい何とか音は出せるようになった。しかしいざ全員で練習と言う段になると、ギロとクラベスは曲の中に入っていけないのである。大縄跳びで、何時その輪の中に入るか、そのタイミングがつかめないのと同じような感じである。何度お手本を示されても、全体の調子とは異なるリズムでクラベスを叩かくのかが理解できなかった。結局、全体のリズムに合わせて手を動かすだけのマラカス専門で舞台に立つことになった。

 「私にはリズム感が無い」、そう自覚するようになって益々打楽器と言うものが縁遠くなったように思う。そんな私が打楽器アンサンブルなるものを聞きに行くわけである。自分でもどう感じるのか予測がつかないほどである。場所は飯田橋にあるトッパンホール、凸版印刷小石川ビルの1階にある。400席あるホールは開演の時間までにはほとんど満席の状態になった。ステージの上にはマリンバやドラムや鐘など名前も分らない楽器が並べてある。時間になり、4人の演奏者が楽器の前でスタンバイし、静かにライトが点いて演奏が始まった。演奏曲目は全部で6曲、短い曲で5分程度、長い曲でも15分程度であろうか、それぞれに4~5名の演奏者が入れ替わりで演奏していく。最後に全員で『ウエストサイド・ストーリー』を演奏して終わった。総勢13名での演奏会であった。

 今この時点でそれぞれの曲についてコメントが出来るほど覚えてもいないが、一言で言うと「楽しめた」という感想である。オーケストラで初めて聞くクラシックの曲だと、その旋律が自分の中に入ってこないことが多い。そんな曲が第二楽章、第三楽章と続いて行くと、「まだ続くのか」と、うんざりするほどである。演奏している本人達は何十回と演奏して曲に溶け込めるのであろうが、聞いてる方は曲に馴染めないと苦痛に感じるほどである。反対にオーケストラで何時も脇役の打楽器がメインになると、ガラリと雰囲気が変わる。打楽器の宿命で音が短いからスローな曲には向かないのだろう。テンポよく音を繰りだしていくからリズムが主体の演奏になる。ラテンポイと言ったら良いのだろうか、明るく、激しく、快活な調子で、聞く側の気持ちも高揚させてくれるのである。

 演奏者の大半は女性(男性3名)であった。全員が筋肉質な体型で、中にはタンクトップの黒のTシャツで両肩をむき出しにした服装の人もいる。そんな演奏者が全身でマリンバやドラムをバチで叩く。いかにもパワフルである。その音の多彩さや広がりと迫力は新鮮で、聞いている観客を引き込まずにはおかない。打楽器のリズムが人のリズムを同調させ共振させ、知らず知らずのうちに引き込むのであろう。子供の頃、アフリカの太鼓の音に恐怖したのも、打楽器が持つ独特の音質とリズムによるのかもしれない。歳をとり不感症気味の感覚に刺激を与え、リズム感なるものをすこしは呼びさましてくれたように思う。

 図らずも接することになった音大生の絆の集まり、そこに参集する先生や仲間や家族、その雰囲気は一般の演奏会とは少し違った雰囲気を持っていたように思う。幕間での人々の会話や演奏を終えての拍手の強弱、それは一曲終わるごとに微妙に違う。たぶん演奏を一方的に聞くということでは無く、内容を評価するという空気が漂っているからだろう。演奏者の真剣な顔つき、場内の張り詰めた緊張感、プロを目指して切磋琢磨してきた人達の、音楽に対する真摯な態度が全体の雰囲気を変えて行くのかもしれないと思ってみた。
 
 プログラムのメンバー表を見ると今回の演奏者は、地方の交響楽団に所属していたり、ソロやアンサンブルで活躍したり、学校や教室の先生で音楽を教えたりと、そのキャリアを生かし音楽と関わりを持ちながら生活をしているようである。美大や音大、そこで専門知識を得て卒業しても、それを生かして生計が立つ人はほんの一握りだと聞いたことがある。同期で何人のメンバーが在籍したのか知らないが、今なお音楽に携わりなりながら過ごしている彼らは、打楽器に人並み以上の愛着があるのだろう。全身全霊を込めてバチを振る彼らをみていると、何時までも自分の夢を追い続けてもらいたいものだと思ってしまう。

水彩画教室(2)

2012年01月20日 08時21分21秒 | 美術
                             道具一式

 水彩画教室も先週で5回目である。続けていけるだろうか?という懸念はなくなり、2週に1度の教室が待ち遠しいほどである。多分それは学ぶことへの楽しさがあるからだろう。小学校や中学校の図工の時間は、ただ自由に絵をかかせるだけで、具体的な手法は何も教えてくれなかった。そして出来あがった作品を教室の後ろや廊下に貼りだし、上手な絵には金紙や銀紙を貼るだけであったように思う。物を見てどんな風に表現すれば上手く描けるのか?先生自身にその知識がなかったのだろう。だからなのか、私の絵は一向に上達せず、しだいに絵を描くことが苦手になり、やがて描くことが苦痛に思えるほどだった。

 今教わっている先生は美大の大学院まで学んだ人である。その内容は、ただ単に感覚的なことでは無く、描き方の一つ一つの論理的な手法を教えてもらえる。遠近感はどう描けば上手く表現できるか?立体感はどうすれば出るのか?構図はどう設定すればバランスが取れるのか?、絵を描くにあたっての基本的な考え方を実地で教えてくれるのである。数学や物理に法則ががあるように、絵にもその基本の原則があることに新鮮さを感じるのである。

 前々回の授業から色を付けることになった。教室は水彩画教室であるが、先生は何を選んでも構わないという。子供の頃はクレヨン、パステル、水彩絵の具を使っていた。水彩は水が必要で、絵の具の色を変えるたびに筆を洗い、パレットの中で色が混じって汚くなり、片づける都度パレットを洗わなければいけない。絵を描くことが嫌いだった私は、そんなわずらわしさを思い出して、水彩には抵抗があった。それと、じっくり腰を据えて絵を描くのではなく、散歩の合い間にサラサラとスケッチする。そんな描き方が私には理想なのである。だから初めは色鉛筆を考えた。しかし線で色を表現するのは何となく単調な感じに思えてしまう。そんなことを先生に相談したら、今は「水彩色鉛筆」と言うのがあると言われた。色鉛筆で色を塗り、その上から水を含ませた筆でなぞると、色が融けて水彩画のような質感が出る、と言うものである。試しに先生の持っていた「水彩色鉛筆」で描かせてもらった。その時の絵が下のバラである。「まあこれなら自分にも扱える。最初はこれでやって見よう」、そう思って24色の「水彩色鉛筆」というのを買ってきた。

 先週その色鉛筆を使ってスケッチするため、散歩の時に撮りためた写真を持っていく。この写真を見て描いたのが一番下の2枚である。中学校以来初めて風景画を描いたことになる。描き終えた絵を眺めると、いかにも中学生の絵という感じである。考えてみれば中学から止まっていた私の中の「絵を描く」という「表現手段」が、50年ぶりに再開したわけである。当日は友人がプレゼントしてくれた絵の具も持参していた。その絵の具を見た先生が、「この絵に今度は実際の絵の具で加筆すればどうでしょう?、筆の跡が残っている絵の方が味が出ますよ」とアドバイスしてくれた。鉛筆で軽くデッサンし、水彩色鉛筆で色を付ける。それから筆に水を付けて色を伸ばし、最後に絵の具で加筆して仕上げて行く。これを私のスタイル(当面の)に決めた。

               
                     「柿」 光と影を何時も意識して描く。

               
                 「ゆず」  表面の凸凹をどう表現するかが難しい。

               
          カップの縁の円と皿の円、上から見ると下の方が真円に近くなるはず。
        実際とは違うのだが、ある程度その円形を意識して変えた方が、立体感が出る。

               
   カップの口は奥にもその円形が繋がっていることを考え丸みをデッサンしなければいけない。

               
         工業製品はシンメトリー(左右対称)を意識して描く(定規を使ってもよい)
              グラスの透明感を出すために練り消しゴムを上手く使う。
         奥行きを出すため、手前の線は強く、奥の線は細く弱く描いた方が良い。

                     
   水の透明とグラスの透明、二つが重なりあっている部分をどういう風に描き込むかが問題。

       
                    水彩色鉛筆を使って描いたバラ(造花)
             葉脈などは水で伸ばしたあとに、再び色鉛筆で加筆していくと良い。

       
                                富士山
           富士山をど真ん中に、海岸線を中心に持ってこない方がバランスが良い。

       
                              城ケ島               
          水彩色鉛筆で描いた後、手前の草と枯れ枝を絵の具で加筆してみた。
               この方が筆のタッチが残って絵に味が出てくるように思う。

散歩(三浦海岸)

2012年01月13日 08時30分31秒 | 散歩(2)
                          三浦海岸 南方向

駅からの散歩

No.327       三浦海岸      1月8日 (日)

 年末年始と気ぜわしい日が続き、何時もの散歩が出来なかった。正月休みが終わった最初の日曜日、久々にどこかを歩いて見ようと思う。「去年はあまり海に行っていないなぁ~」、そう思うと無性に海が見たくなった。京浜急行で三浦海岸駅へ、駅を降りて6~7分も歩けば海岸に出る。海岸に出ると広い砂浜に2~3組の人しか見えない。空は薄く雲がかかり、時折り陽が射す天気である。以前来た時はここから海岸伝いに南方向に歩いた。今日は北方向へ歩いて見ようと思い歩きだす。砂浜に打ち寄せては引く波の音、海の臭い、どこまでも広い空、海辺は街ち中に暮らす私にとっては別世界である。そして海は癒しの世界のようにも感じるのである。それは生まれ育った下関と言う環境にあるのであろう。

 下関は本州最西端で九州に向って三角にとがった町である。西は響灘、東は瀬戸内海と海に挟まれている。物心付いた頃から、毎週のように父に連れられて港の岸壁に釣りに行っていた。夏は兄弟や友達と山陰線の海辺へ海水浴に行く。小学校こそ街中にあったが、中学校は響灘の見える高台にあった。毎日の通学は漁港の傍を通う。魚の臭い、空を舞うカラスやトンビ、漁船のエンジン音、製氷会社から直接船に大きなトイを使って氷を流す音、そんな空気がバックグランドであった。高校は中学とは反対の瀬戸内海側にあった。毎日路面電車で源平合戦で有名な壇ノ浦の傍を通った。対岸の九州の門司との狭い海峡は流れが速い。時々途中下車をして関門海峡を飽きずに眺めていた。流れに逆らって進む船は止まったように動けず、流れに乗った船は自動車のようなスピードで進む。大学も海の傍である。授業の中に遠泳があり、潜水があり、カッターボートや手漕ぎの和船の訓練もあった。東京に出てくるまでの20数年、私の間近には常に海があったのである。だからなのであろう、海を見るとホッとした懐かしさを感じるのである。

 昨年、東北の沿岸は大津波で甚大な災害を受けてしまった。身近に感じていた海が一転して、人々に襲いかかってきたわけである。地球規模からすると地溝のわずかなズレで海がゆれ、それが何時もより高い波となって海岸に打ち寄せただけである。しかし自然界からするとあまりにも小さな存在の我々人間にとっては、住いも生命をも飲みこんでしまうことになったのである。

 海に接するたびに思うことがある。それは圧倒的な大きさである。その水の量、その深さ、そしてそこから発せられるエネルギー量である。子供の頃海水浴に行ってわずかな波にも足を取られていた。風の強い日、岩に打ちつけられ高く波立つ様子をみて圧倒的な力を感じた。船で沖に出て陸地が遠く見えなくなると、その広さに不安を覚え、その底知れない深さに恐怖を感じたものである。船乗りの言葉に、「板子一枚下は地獄」というのがある。自分の乗っている舟と海とはたった一枚の板で仕切られているだけ、ということである。海岸線に住む人々にとっては風光明美で自然を満喫して暮らしているように思えても、海岸線の向こうは、時に地獄にもなり、人知も及ばず、抗うことも出来ない別世界なのである。だからこそ私は海岸線に立つと、大自然をダイレクトに感じて、その大きさに癒されるのである。

      
                          三浦海岸 北方向

      

      
                         三浦海岸は砂浜が広い

      
                         対岸は千葉県金谷方面

                  
                        砂には貝殻が混じっている

      
                     海岸にはズラリと大根が干してあった

      
              これは名物の「三浦大根」を使った沢庵作りの為に干している。
            大根の成育から収穫、天日干し、樽詰め、販売まで100%三浦産

                  

                  

      

                  

      

      

      

      

                  
                            タコつぼ

      
                       三浦市から横須賀市に入る
 
                  
                      海岸そばのケンタッキーで一服

      
                             津久井浜
  
      

      

      

      

      

      

      

      

      

      
                          高台にある熊野神社
              海岸から歩いて10分、津波が来ても走れば5分で避難できる

                  

      
                          市立 北下浦中学校

                  
                     学校の柵に海抜が表示されている

                     ここから京急長浜駅にでて帰る。


初詣

2012年01月06日 12時13分42秒 | Weblog
 毎年お正月は女房の実家に行く。そして2日か3日の日に実家の家族と近所にある諏訪神社の分社に初詣に行くことが恒例になっている。もう何十回この神社に初詣に行ったことだろう。3人の子供それぞれの高校、大学、就職の合格祈願は全てこの神社であった。現在3人の子供はそれぞれ就職し、元気に働いている。長男と長女は今年結婚する運びとなった。このことも、考えようによっては諏訪神社の御加護があったればこそとと言えるのかもしれない。しかし私自身は「神」の存在など信じてはいないし、反対に宗教があるがゆえに世界で紛争が絶えないのだと思っている。そうは言っても、お賽銭をあげ、手を合わせれば家内安全と周りの人達の無病息災を祈ってしまうものである。これが日本人的な宗教感なのであろうか。今年はこの初詣に珍事があった。それはおみくじを引いたら、5人全員が大吉だったのである。普通であればこんなことはあり得ない。昨年の大震災で元気のなくなった人々の気持ちに、少しでも明るい希望をという神社側の配慮なのであろうが、なんとなく割り切れない感じもするものである。

 3.11の衝撃以来、我々の気持ちの奥底に重いおもりのようなものが止まっているように思う。それはただ単に東北の災害に止まらず、原発の問題だったり、国の大借金の問題だったり、年金の破綻だったり、若者の就職難だったり、北朝鮮の問題だったり、政治不信だったりと、出口の見えない問題がうずたかく積まれているように思うからである。それが人々の気を萎えさせ、何となく陰鬱な気分にさせているように思っている。年末年始のTV番組を見ていても、震災絡みの、やれ「絆」だ、「元気を出そう」だ、と言う、とうり一片の抽象的なテーマで終始していて、ヘキヘキした気分になってしまった。年が明け、もうすぐ震災から1年になる。総花的な話は止めて、もう具体的なテーマにそれぞれの分野で取り組んで行く時期のように思うのである。個人についても周りの気分に流されず、自分のテーマに対して具体的な行動をしていく年にしたいものである。

 さて、今年はどんな1年になるだろう、どんな1年にしたら良いだろうと考えてみる。仕事の方は若干でも給料が取れる今の会社を、半年でも1年でも継続させるように頑張って見ようと思う。しかし軸足はやはりリタイヤ後に置き、自分の行動範囲を広げることをテーマにしたい。一つは昨年から始めた水彩画教室を続けて、秋にはスケッチブックを持って外で描いて見たいと思っている。もう一つは何かボランティア的な仕事の目星をつけけ、出来れば仕事を辞めた時から、そちらに時間を使えればと思っている。三つ目は今住んでいる近場で私的なサークルを作るか、あるいはどこかのサークルに参加することを考えてみたい。これが私の漠然とした方向である。「健康で活き活きと暮らしている」、これが子供たちにとっても一番安心な親の生き方だと思うからである。

                     
                          全員が大吉