60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

マラソン

2009年08月28日 09時35分56秒 | Weblog
23日ベルリンで行われた世界陸上選手権の女子マラソンで尾崎好美が銀メダルを獲得した。
前日も男子マラソンを見ていたが、やはり入賞の可能性の高かった女子の方が面白かった。
スタートして尾崎好美、加納由理、藤永佳子、赤羽有紀子の4人は先頭集団の中にいる。
やがて赤羽が遅れて行き、藤永が脱落して行く、しかし尾崎、加納は集団の中に残っている。
徐々にスピードが上がり加納が着けず、先頭は4人になりさらに尾崎を含む3人に絞られる。
息づまるデッドヒート、尾崎が仕掛けエチオピアの選手が落ちる。逃げる尾崎追う中国選手。
「逃げろ、もう少し、もう少し、頑張れ!」全身に力が入り、思わず心の中で叫んでしまう。
残り1kmで中国の選手がスパートする。必死で追いすがる尾崎、その差は徐々に開いていく。
あきらめず追い続ける尾崎、カメラがサングラスを掛けた尾崎の顔を大写しで捕えて離さない。
前を見据えて必死の粘り、その直向きな姿に思わず涙がこぼれてテレビの画面が歪んでくる。
余力は中国の選手の方に残っていたのだろう、尾崎はサングラスを取って2位でゴールした。
走り終わって、コースに一礼する尾崎、その顔にすがすがしい笑顔があった。
シドニー五輪で優勝のテープを切った時のあの高橋尚子のすがすがしい笑顔を思い出した。
これだけ全力を出し切り勝ち得た銀メダル、誇りにこそ思え悔いることなぞ無いだろうと思う。

私はなぜか昔からマラソンの実況中継が好きである。
まだテレビ中継がなく、NHKラジオで別府大分マラソンの中継を耳を聞いていた記憶がある。
たぶん中学生の頃だろう。当時の選手で地元山口県出身で鐘紡の貞永をよく覚えている。
当時は折り返しまでは後方に控えて力を貯め、後半に力を出し前の選手を追い抜いて行く、
そんな戦法が貞永の走法であった。貞永は後半どんどん追い上げゴール手前でトップに立つ。
そんな実況中継をワクワクしながら聴き入っていたことを思い出す。
当時の男子の記録は2時間25分前後、今回の女子選手の記録と同じようなものであった。
あれから50年、マラソンレースも大きくさま変わりしたように思う。
昔は水を飲まず走ることが常識、今は理論が変わり、要所要所での水分補給は欠かせない。
今は先行逃げ切り形、スピードが重要で集団から次々に脱落して行くサバイバル競技である。
記録も当時に比べ約20分も短縮された。同じ競技でこれほど記録が伸びるのかと感心する。

ラジオからテレビ中継に変わり、高校、社会人、都道府県別の駅伝等の大会も増えてきた。
選手層も広がり、オリンピックの高橋尚子や野口みずき等、世界と戦える選手が育ってきた。
正月2日からの箱根駅伝に始まり、大阪女子(1月)別府大分男子(2月)名古屋女子(3月)、
びわ湖男子(5月)福岡男子(12月)など中継があれば何より優先してみるようにしている。
野球やサッカー等スポーツは沢山ある、しかし私はどんな競技よりマラソンに魅力を感じる。

なぜマラソンに引きつけられるのか、それはマラソンが一番過酷な個人競技だからである。
万全の状態でスタートラインに立つことを考え、毎日何十キロと走り込みひたすら自分を鍛、
準備をして行く。試合への不安が自分を苛み、過剰な練習でつぶれる選手も続出していく。
シドニー後の高橋尚子、北京オリンピックを棄権してしまった野口みずき、今回の世界陸上の
渋井陽子も棄権してしまった。ぎりぎりまで追い込んだことが、逆目にでることがあるのだろう。
マラソンは気力、体力、知力に加え、徹底した自己管理が必要なスポーツなのである。

42.195キロの長丁場、選手はその長い道のりの間に、何を考え、何を見ているのだろうか?
スタートラインに立って「悔いのない練習をしたから、絶対大丈夫だ」と自分に言い聞かせ、
走り始めると自分の体調を「今日は大丈夫だ、走れるな」?」と自分に問うのかもしれない。
10キロ20キロと走ると、この集団に着いていけるのか不安に襲われて来るかもしれない。
後半は暑さが体に覆い被さり、足の疲労が増し、自分の気力体力に不安を覚えるのだろう。
「果たして走りきることができるか」刻々と変わる周りの状況、気になる周りの選手の息使い。
「誰がいつ仕掛けるか、自分は着いて行けるだろうか?」全神経を張り巡らせて周りを伺う。
前のスピードが上がる。「追いつかねば」とピッチを上げる。しかし体は思うようには動かない。
「ここで離されてはいけない。ここが頑張りどころなのだ」自分自身に言い聞かせる。

テレビを見ながら、一人一人の選手の気持を想像し、知らず知らずに感情移入してしまう。
自分が選手になって、歴史的な建造物が建ち並ぶベルリン市街を走っている気になってくる。
公園の並木、歴史を感じる石畳、両側に居並ぶ観客の声援。ちらちら見える日本の国旗。
その中をひたすら自分を信じて走り続ける。頼れるのは自分しかいない。自分が全てである。
マラソンとは自分の持てる力を振り絞り、いかに自分をコントロールできるかにあるように思う。
苦しさをどのように受け止め、持ち応え、それを克服してゴールに向かってひた走るかである。
そこに全力を出しつくす、うそ偽りのない一つのドラマを見るから、感動するのかもしれない。
私は人が全力で戦う、その姿に美しさを感じるから、マラソンに魅入られるのであろう。

犬の散歩

2009年08月21日 09時18分20秒 | Weblog
お盆で女房の実家に行った。しっぽを振りながら迎えてくれたのは初顔の小さな子犬であった。
先年3代目の柴犬が死んで義妹は落ち込んでいたが、あれから1年また犬を飼う気になったらしい。
家は義母と義妹の女所帯であったから、何かと物騒だと言うことで昔から犬を飼っていた。
結婚し私がこの家に来始めてから4頭目である。その4頭とも柴犬である。こだわりがあるのだろう。
今回も柴犬のメス犬で、生後4ヶ月ということである。名前は以前と同じで「ケン」と呼ぶらしい。
以前の犬もメス犬で「ケン」という名、命名理由はだだ「犬」を音読みにしただけだという。
名前の付け方から、いかにも無造作で愛情に欠けるようだが、あにはからんや、義妹は旦那も
子供もいないから、犬に対しては特別な愛情を注ぎ、一生懸命面倒は見ているようである。
今回の柴犬は鼻が突き出たキツネ顔、「なに、これ、狐じゃない?」と言うと義妹は不貞腐れる。
「何言ってるの、かわいいじゃない、赤柴と黒柴との掛け合わせで血統書付きなんだから」とのこと。
柴犬には「たぬき顔」と「きつね顔」とがあるらしい。今回はきつね顔の柴犬である。

毎年お正月とお盆には女房の実家に集まることが習慣になっている。義弟とその子供2人、義母
と義妹、我々夫婦と子供3人の計10名が集まるのだが、この中で私だけが血筋が共通しない。
そんなことが影響するのか、実家に来て気がねなく接することができたは歴代の犬達だけである。
手持無沙汰だと犬と遊び、朝晩散歩に連れて行くのがこの家に来た時の私の仕事になってしまった。
今回も早速この子犬を連れて散歩に行く。まだまだ散歩に慣れていないのか犬は真っ直ぐ歩かない。
右に左に走り、気になるものを見つけると急に立ち止まり、時には突然Uターンして反対に向かう。
その都度、手綱が身体にまつわりつき、それに苛立って手綱にかみつき、うなり声を上げたりもする。
立ち止まって電柱に残る他の犬の臭いを嗅ぎ、草むらに鼻を突っ込んで盛んに臭いを嗅ぎまくる。
時に蝉の死骸を見つけて食べようとし、小さなトカゲを見つけて追いかける。
前足で狂ったように地面を掘り始めたと思うと、急に走り出し、首輪が首を絞めて飛び上がる。
人間の子供と同じで片時もじっとしていない。こんな小さな体でよくもエネルギーがあるものだと思う。
活発さ、好奇心、無鉄砲、動物は子供の時は皆、生命力にあふれているように感じてしまう。
自分の意に反すると座り込み、動くまいと抵抗を試みる。強引に紐を引っ張り、引きずって歩く。
初対面の小犬との散歩、お互いの折り合いがとれないままに私と犬との葛藤が続く。

公園への道々で何匹もの散歩の犬とすれ違う。恐れをしらず、しっぽを振り振り駆け寄って行く。
子犬に向かって吠えかかる犬、何の反応もなく無視して通り過ぎる犬、犬によってまちまちである。
公園に来て周りに植えられた雑木に沿って犬を歩かせていると、老犬をつれた老人が近づいてきた。
ケンはその老犬に走り寄る。しかしその犬は興味すら示そうとしない。接触する寸前で綱を止める。
「この犬は他の犬に全く無関心なのです。自分は犬ではなく人間と思っているようです」と老人。
老人は話がしたかったのかもしれない。それをきっかけに、この老犬についての話を始めた。

15年前、家の駐車場の片隅で何匹かの猫に追われ、脅えて縮こまるっていた子犬を見つけた。
取りあえず子犬を助けだしてミルクをやった。翌日近所を歩いてこの犬の親を尋ねて回ったが、
親犬を見つけることはできず、保健所に引き渡す気になれず、我が家で飼うことになってしまう。
小さい時の恐怖がトラウマになったのか、家からは一歩も外にようとせず、家の中で飼うことになる。
今は私が連れて出ると散歩はするようになったが、決して私のそばから離れようとはしない。
他の犬に関心を示さないのも争いごとが嫌いで、無関心を装って避けているのであろう。

しかし家の中ではヤンチャである。ひとりにするとヒステリックを起こし障子をバリバリに破ってしまう。
だから出かける時は「すぐ戻るから」と言い聞かせて出かける。そうするとシブシブながら待っている。
しかし1日中留守にすることは無理で、犬を飼い始めて泊りがけの旅行は出かけたことがない。
この犬は車に乗ることが好きで、私が車で出かけるときはほとんどの場合助手席に座っている。
先日車で出かけるとき、バタバタして「まあ良いか、すぐに帰るから」と思い犬を乗せてやらなかった。
しかし帰宅すると、犬は唸りながら凄ましい剣幕で私に体当たりして抗議してきたという。
犬は自分を家族の一員だと思っている。その家族が自分を無視したことは許せなかったのだろう。
老人はそんな話を楽しそうに話してくれる。その間老犬は静かに老人の側に座ったままであった。

会話の間中、ケンは私の周りを走りまわり、手綱は私の体に巻きつき、自分に巻きついてしまう。
根負けした私はその老人と別れることにした。老人と犬はゆっくりした足取りで家路についていく。
15年前に拾われてから今までの間に、お互いに切っても切れない絆が生まれたのかもしれない。
老人と犬の間はもう親子のようなものかもしれない。お互いが家族の一員なのだと認めあっている。
ペットとはそういうものなのだろう。人と犬とがその垣根を越えて愛情を交わし合うのかもしれない。
ペットが死んだら葬儀をし、お墓を作る人も多い。最近は家族と一緒に埋葬できる霊園もあると聞く。
核家族、少子化、老人孤立の時代、ペットの存在価値はますます高まっているのであろう。

私も仕事を辞め、子供たちが家を出て行ったら、犬か猫でも飼おうと思う。
子供というカスガイがなくなった時の我が夫婦、どちらかが死ぬまではお互いに地獄になるだろう。
会話はない、意思疎通はない、譲り合うことも協力し合うこともない、想像することすら恐怖である。
そんな中で耐え忍び夫婦を維持しつけるとするならば、ペットを飼うしか方法は無いだろうと思う。
飼われるペットには気の毒なことではあるが、冷たい空気が漂う家庭のなかでの唯一の慰めだろう。
毎日餌をやり朝晩散歩に連れて行く、寒さ暑さや病気を心配する。犬もまたそれに答えてくれる。
人はただなにもせず漫然とは暮らせないものである。ペットと暮らす老人、バラを育てる隣人、
年中山登りする友人、毎日スポーツジムに通う昔の同僚、人は死ぬまで何かに対して愛情を注ぎ
興味を持ち続ける対象が必要なのであろう。私の今のそれは仕事と人間観察なのかもしれない。
ケンの手綱を引きながら、そんなことを思ってみた。


裁判員制度

2009年08月12日 15時40分33秒 | Weblog
先週は裁判員制度が施行されて、初めての裁判員裁判が話題になった。
1年に1回抽選によって、裁判員候補者名簿に登録される。その中から裁判のある度に抽選に
よって裁判員6人が選任される。誰が何時どの裁判に選ばれるかはわからない仕組みではある。
裁判員になるためには、まず年に一回の裁判員候補者に選ばれなくてはいけない。
私は今年の抽選で当るように密かに期待していた。しかし何の通知も無く残念に思った方である。
裁判員候補者名簿に登録される人は全国平均は4915人に1人だったそうである。
又その中からの抽選で裁判員が決まる。今現在65歳の私の生涯での確率は0.13%だそうだ。
これは宝くじに当たるよりむすかしいのかもしれない。

ニュースのインタビューなどでは大半の人は自分が選任されるのは避けたいような口ぶりであった。
仕事を休まなければならない。日常の生活に支障がある。何よりも責任を負いたくないからという。
しかし、私としては一度やって見たいと思うのである。それは自分が判断をしてみたいからである。
60数年生きてきて、世の中の色々な事件を見聞きし、自分なりの判断基準を持っているはずだ。
犯罪を起こす人の背景や犯罪心理、反対に被害側が感じる理不尽さ、怒り、不公平さ等々。
そんな双方の気持ちを考えて、妥当と思われるジャッチは出来るのではないかと思うからある。
私は自分を平均的な日本人と思っている。だから自分のジャッジは不当なものにはならないと思う。
こう書くと何か不遜な感じがするが、しかし人生経験を経ている私に難しければ、まだ経験の浅い
若者の方がより難しいと思う。
この裁判員制度の趣旨は国民が意見をする事で、判決や量刑に民意も反映させることにある。
であれば、堂々と自分の意見や判断を述べることに何なら躊躇することはないように思うのである。

今回の裁判員制度にいろんな意見があった。反対意見の大多数と思われるものは 「なぜ庶民に
負担になるようなことを押し付けるのだ!被告に死刑を言い渡す、そんな時の裁判員の心の負担を
どう考えるのだ、司法にかかわる人間の怠慢であり、責任転嫁ではないか」というものである。
しかし私はこう思う。この狭い日本に1億2千万人の人が住み、その中でいろんなトラブルが起きる。
そんなトラブルを警察や司法に任せっきりで、ただ批判していてはいけないのではないだろうか、
自分たちが所属する日本国という集団の中にいる限り、政治にしても司法にしても人任せであったり、
そのようなことから逃げてはいけないことなのではないだろうかと思うからである。
裁判員制度で庶民自身が関わりを持つことで、我々自身がこの国に対して関心を持つようになる。
そのように思うのである。

今回の第一回目になった事件、72歳の男性が近所に住む56歳の女性を殺害した事件である。
犯人は自分が殺したことは認めている。後は事件をどう解釈し、どう判断して量刑を決めるかである。
実際の判決が出る前に、もし私が裁判員だったら、どのような量刑を下すだろうかと考えてみた。
(その時点では求刑された量刑の懲役年数は知らなかった)        私の判断はこうである。
被告が自分の目的(例えば盗み)を果たすために人を刺し殺したのとは違う。今までも双方の間で
トラブルがあり感情的なもつれがあった。その怒りが結果的に相手を殺す結果になってしまった。
72歳という高齢者にして、何んとも幼い振る舞いだと思う。しかし人を殺したことは断じて許せない。
しかし、残忍さ、非道さ、明確な悪意があっての殺人ではなく、感情の暴発によるものと解釈できる。
であれば、量刑としては懲役10年~20年の範囲なのだろうと思った。
10年であれば殺された被害者の家族は納得できないであろう。しかし20年であれば彼の年齢から
考えて、懲役が終わる92歳まで生存して生還することは難しいように思われる。
妥当なところは15年、これであれば87歳、健康管理を怠らなければ生きて出られる可能性を残す。
被告人自身もある種の希望が持てるようにも思う。従って、私の判決は15年、そんな風に思った。
翌日のニュースで「懲役15年の判決」であった。判断の根拠は違うものの奇しくも同じ量刑である。

今回の裁判員制度の目的が量刑に民意も反映させることにあるとすれば、我々は何も専門家では
ないのであるから、自分の良識のようなもので判定すればそれでいいのではないかと思う。
判定にこれが正解だというものはなく、庶民が犯罪に対してどうジャッジするか、それだけであろう。
心情的には裁判員は被害者の側に立ち、加害者に対して厳しい判決になるのかもしれない。
しかしそれはそれで仕方がないのだろう。それだけ庶民は犯罪に対し寛容ではないということである。
それ自身が同じコミニュティーに住む同じ仲間が下したの判定である。もし被告・弁護側が不服で
あれば控訴すればいい。それでもまた同じ量刑であればそれが「正解」であるように思うのである。

銀杏爺さん

2009年08月07日 09時30分02秒 | Weblog
私と同じように元の会社から独立し、個人として生計を立てているOさんという人がいる。
彼は昔デザイナーを目指して勉強し、パッケージ会社のデザインスタッフとして入社した。
しかしデザイナーにはある種センスが不可欠である。彼のデザインは世の中に通用しなかったらしい。
その結果、デザイナーとしての道はあきらめ、版下製作を専門として仕事をするようになった。
版下も写植の時代からパソコンでの製作へ移行して行く。彼は自費でパソコンを買い、版下製作の
スピードアップとデーター管理を追及していった。やがてウインドウズからマックへと移行して行く。
やはり自前でPCやプリンターを揃え、デザイン及び版下の管理の全てをまかされやるようになった。
しかしアナログな経営者から見れば「PCを操作しているだけで生産性は少ない」と思われており、
彼の評価は低く扱われ、年功序列の社員の給与体系から外し出来高制の移行を言い渡された。
それ以来彼は個人事業主として版下製作の仕事を続けている。

版下の仕事は正確さや緻密さを必要とし、一つ一つの作業を順を追ってこなして行かねばならない。
大勢人がいるところだと気が散るからと、会社のそばのマンションに一人閉じこもって作業をしている。
部屋は乱雑に物が置かれどこに何があるかわからない。しかしPC内のファイル管理は徹底しており、
営業担当別、得意先別、年代別ですべて管理され、過去のどんなデーターも呼び出すことができる。
仕事の性格上、大量の仕事が入っても手を抜くわけにいかず必然的に時間でカバーすることになる。
忙しい時は何日も会社に泊まり込み、黙々と作業をこなしていたようである。
根をつめて頑張っても、発注した側からすれば正しくやって当たり前、納期に遅れたり、ミスがあれば
それは全て彼の性になってしまう。そんな彼の努力や苦労を理解してくれる人は少なかったようだ。

彼は自分の私生活面はルーズであるが、仕事の面では手を抜かず丁寧な仕事をする。
デザイナーから上がったデザインに、表示事項を書き込み、紙、紙器、シール、フィルム等に合わせ、
位置合わせのトンボを付け、それぞれの印刷業者に合わせた版下を作って手渡していく。
原材料等の表示事項の法令的な知識も豊富で、彼に任せておけば仕事は滞りなく流れていく。
営業担当は自分の不手際からの仕事の遅れも彼に押し付け、時間短縮を強要してはばからない。
そこでまた徹夜の作業が発生する。しかし彼はがまん強く、そんな事も対応してくれていた。
時に営業担当者の理不尽さに不平を言いつつも、しかし一人黙々とやっていたように思う。

彼が何時からうつ病を発症したのかは解らないが、病院に通い薬を服用していることは知っていた。
たぶん、出口のない仕事環境の中で、理解者が少なくストレスを溜めて行ったのが原因であろう。
彼は57歳で独身である。唯一の楽しみは仕事を終えてからの、一杯飲み屋でのお酒であろう。
彼とは何度か飲みに行ったことがある。いつも冷酒を注文する。升の中のコップに酒が注がれると、
お酒がコップから溢れ升にも満ちる。そのコップに口を持って行き、いかにも美味しそうに飲んでいた。
約2時間で3杯の酒を飲み、ふらふらとした足取りで家路につく、それが彼の生活パターンであった。
しかし独立してから彼の立場は一層弱くなり、無理な要求に次第にうつ症状も顕著になって行った。
そして、それにつれて酒量も上がり、時には昼間から酒を飲むようになっていったようである。
薬の性か、酒の性かわからないが、昼間からろれつが回らないことも多くなったように聞く。

そんな彼が先日、救急車で病院に運ばれ、そのまま1週間の検査入院ということになったらしい。
話によれば、突然胸が苦しく耐えられなくなって、自ら救急車を呼び病院に搬送してもらったようだ。
見舞いに行った人からの話では、何本もの点滴につながれ集中治療室に寝かされていたという。
医者から「最近、何にかひどいショックを受けたことはなかったか?」と質問されたらしい。
版下製作の納期に追われ、それができないため徹夜作業が続き、疲労困憊していたらしい。
それに加え、彼のうつ症状とアルコール依存が重なり、倒れたのではないかと推察することができる。
彼が倒れたことで、会社は主要な部門を彼一人に依存しきっていたことをおもい知ることになった。
彼以外では今までの仕事の経過ややり方が分らず、一時的に社内は混乱を起こすことになった。
出入りの他のデザイナーに頼んで、彼のPCを操作してもらい急場を回避しようとしている。

オーナーにすれば「仕事を与えてやっているのに、それを全うできないのは自己管理が悪いからだ」
ということになる。生活が不規則、酒や煙草が止められない。そんな者に仕事を回すわけにいかない。
今は彼の版下作業を大幅に減らし、別の下請け先に回すことを考えているようである。
自業自得なのか、それとも会社の軋轢に押しつぶされた結果なのか、一概には言えないように思う。

世の中は辛いこと、やりきれないこと、不条理なことなどストレスフルな事が毎日のように迫ってくる。
その中にさらされて、自分の適応能力をはるかに越えるようなストレスは、過度の緊張状態に陥らせ、
ついには疲弊させてしまうこのであろう。彼は版下製作の作業が好きあり、適性があったように思う。
一人で黙々とこなすことにストレスは感じなかったはずである。しかし人間関係は不得意であった。
彼は生真面目で優しく、人から頼まれると「イヤ」とはいえない性格である。人に親切にすること、
人に頼まれることは全て受けて立つことで、人間関係を良好にしようとしたのではないだろうかと思う。
そんなことが、自分の中で持ちこたえられずに、次第に酒に逃げていったようにも思う。

先日、彼の行きつけの飲み屋に行ってみた。「ここに良く来るOさん、今、入院しています」と言うと、
「あっ、そうですか、名前は知らないけど、小柄で、いつも銀杏を頼むお客さんですよね?」 
「そうかな?、彼は銀杏をよく頼むのですか?」
「来れば必ず銀杏を注文するんですよ。だからこの店では銀杏爺さんと呼んでいるんですよ」
彼は楽しいお酒だったと、女性店員が口をそろえて言う。昼間、一人きりで仕事をする彼にとって
人と話す機会は少ない。だから飲み屋で店員さんと喋ることでバランスを取っていたのかもしれない。
仕事を終えて、お酒を飲むひと時、取り留めもない会話、彼にとっては至福の時であったのだろう。
こんなに気弱で優しく親切な一小市民がちゃんと生きていけない現代社会、人に優しくない会社、
何かが、どこかが、狂っているようにも思ってしまう。

追記 
彼の入院はさらに一週間延びて、お盆前の退院になるらしい。
退院後もお盆休みがあって、結果3週間の休業になってしまう。個人商売の彼にとっては収入減も
さることながら、その間に失った信用は大きなダメージになるように思う。