23日ベルリンで行われた世界陸上選手権の女子マラソンで尾崎好美が銀メダルを獲得した。
前日も男子マラソンを見ていたが、やはり入賞の可能性の高かった女子の方が面白かった。
スタートして尾崎好美、加納由理、藤永佳子、赤羽有紀子の4人は先頭集団の中にいる。
やがて赤羽が遅れて行き、藤永が脱落して行く、しかし尾崎、加納は集団の中に残っている。
徐々にスピードが上がり加納が着けず、先頭は4人になりさらに尾崎を含む3人に絞られる。
息づまるデッドヒート、尾崎が仕掛けエチオピアの選手が落ちる。逃げる尾崎追う中国選手。
「逃げろ、もう少し、もう少し、頑張れ!」全身に力が入り、思わず心の中で叫んでしまう。
残り1kmで中国の選手がスパートする。必死で追いすがる尾崎、その差は徐々に開いていく。
あきらめず追い続ける尾崎、カメラがサングラスを掛けた尾崎の顔を大写しで捕えて離さない。
前を見据えて必死の粘り、その直向きな姿に思わず涙がこぼれてテレビの画面が歪んでくる。
余力は中国の選手の方に残っていたのだろう、尾崎はサングラスを取って2位でゴールした。
走り終わって、コースに一礼する尾崎、その顔にすがすがしい笑顔があった。
シドニー五輪で優勝のテープを切った時のあの高橋尚子のすがすがしい笑顔を思い出した。
これだけ全力を出し切り勝ち得た銀メダル、誇りにこそ思え悔いることなぞ無いだろうと思う。
私はなぜか昔からマラソンの実況中継が好きである。
まだテレビ中継がなく、NHKラジオで別府大分マラソンの中継を耳を聞いていた記憶がある。
たぶん中学生の頃だろう。当時の選手で地元山口県出身で鐘紡の貞永をよく覚えている。
当時は折り返しまでは後方に控えて力を貯め、後半に力を出し前の選手を追い抜いて行く、
そんな戦法が貞永の走法であった。貞永は後半どんどん追い上げゴール手前でトップに立つ。
そんな実況中継をワクワクしながら聴き入っていたことを思い出す。
当時の男子の記録は2時間25分前後、今回の女子選手の記録と同じようなものであった。
あれから50年、マラソンレースも大きくさま変わりしたように思う。
昔は水を飲まず走ることが常識、今は理論が変わり、要所要所での水分補給は欠かせない。
今は先行逃げ切り形、スピードが重要で集団から次々に脱落して行くサバイバル競技である。
記録も当時に比べ約20分も短縮された。同じ競技でこれほど記録が伸びるのかと感心する。
ラジオからテレビ中継に変わり、高校、社会人、都道府県別の駅伝等の大会も増えてきた。
選手層も広がり、オリンピックの高橋尚子や野口みずき等、世界と戦える選手が育ってきた。
正月2日からの箱根駅伝に始まり、大阪女子(1月)別府大分男子(2月)名古屋女子(3月)、
びわ湖男子(5月)福岡男子(12月)など中継があれば何より優先してみるようにしている。
野球やサッカー等スポーツは沢山ある、しかし私はどんな競技よりマラソンに魅力を感じる。
なぜマラソンに引きつけられるのか、それはマラソンが一番過酷な個人競技だからである。
万全の状態でスタートラインに立つことを考え、毎日何十キロと走り込みひたすら自分を鍛、
準備をして行く。試合への不安が自分を苛み、過剰な練習でつぶれる選手も続出していく。
シドニー後の高橋尚子、北京オリンピックを棄権してしまった野口みずき、今回の世界陸上の
渋井陽子も棄権してしまった。ぎりぎりまで追い込んだことが、逆目にでることがあるのだろう。
マラソンは気力、体力、知力に加え、徹底した自己管理が必要なスポーツなのである。
42.195キロの長丁場、選手はその長い道のりの間に、何を考え、何を見ているのだろうか?
スタートラインに立って「悔いのない練習をしたから、絶対大丈夫だ」と自分に言い聞かせ、
走り始めると自分の体調を「今日は大丈夫だ、走れるな」?」と自分に問うのかもしれない。
10キロ20キロと走ると、この集団に着いていけるのか不安に襲われて来るかもしれない。
後半は暑さが体に覆い被さり、足の疲労が増し、自分の気力体力に不安を覚えるのだろう。
「果たして走りきることができるか」刻々と変わる周りの状況、気になる周りの選手の息使い。
「誰がいつ仕掛けるか、自分は着いて行けるだろうか?」全神経を張り巡らせて周りを伺う。
前のスピードが上がる。「追いつかねば」とピッチを上げる。しかし体は思うようには動かない。
「ここで離されてはいけない。ここが頑張りどころなのだ」自分自身に言い聞かせる。
テレビを見ながら、一人一人の選手の気持を想像し、知らず知らずに感情移入してしまう。
自分が選手になって、歴史的な建造物が建ち並ぶベルリン市街を走っている気になってくる。
公園の並木、歴史を感じる石畳、両側に居並ぶ観客の声援。ちらちら見える日本の国旗。
その中をひたすら自分を信じて走り続ける。頼れるのは自分しかいない。自分が全てである。
マラソンとは自分の持てる力を振り絞り、いかに自分をコントロールできるかにあるように思う。
苦しさをどのように受け止め、持ち応え、それを克服してゴールに向かってひた走るかである。
そこに全力を出しつくす、うそ偽りのない一つのドラマを見るから、感動するのかもしれない。
私は人が全力で戦う、その姿に美しさを感じるから、マラソンに魅入られるのであろう。
前日も男子マラソンを見ていたが、やはり入賞の可能性の高かった女子の方が面白かった。
スタートして尾崎好美、加納由理、藤永佳子、赤羽有紀子の4人は先頭集団の中にいる。
やがて赤羽が遅れて行き、藤永が脱落して行く、しかし尾崎、加納は集団の中に残っている。
徐々にスピードが上がり加納が着けず、先頭は4人になりさらに尾崎を含む3人に絞られる。
息づまるデッドヒート、尾崎が仕掛けエチオピアの選手が落ちる。逃げる尾崎追う中国選手。
「逃げろ、もう少し、もう少し、頑張れ!」全身に力が入り、思わず心の中で叫んでしまう。
残り1kmで中国の選手がスパートする。必死で追いすがる尾崎、その差は徐々に開いていく。
あきらめず追い続ける尾崎、カメラがサングラスを掛けた尾崎の顔を大写しで捕えて離さない。
前を見据えて必死の粘り、その直向きな姿に思わず涙がこぼれてテレビの画面が歪んでくる。
余力は中国の選手の方に残っていたのだろう、尾崎はサングラスを取って2位でゴールした。
走り終わって、コースに一礼する尾崎、その顔にすがすがしい笑顔があった。
シドニー五輪で優勝のテープを切った時のあの高橋尚子のすがすがしい笑顔を思い出した。
これだけ全力を出し切り勝ち得た銀メダル、誇りにこそ思え悔いることなぞ無いだろうと思う。
私はなぜか昔からマラソンの実況中継が好きである。
まだテレビ中継がなく、NHKラジオで別府大分マラソンの中継を耳を聞いていた記憶がある。
たぶん中学生の頃だろう。当時の選手で地元山口県出身で鐘紡の貞永をよく覚えている。
当時は折り返しまでは後方に控えて力を貯め、後半に力を出し前の選手を追い抜いて行く、
そんな戦法が貞永の走法であった。貞永は後半どんどん追い上げゴール手前でトップに立つ。
そんな実況中継をワクワクしながら聴き入っていたことを思い出す。
当時の男子の記録は2時間25分前後、今回の女子選手の記録と同じようなものであった。
あれから50年、マラソンレースも大きくさま変わりしたように思う。
昔は水を飲まず走ることが常識、今は理論が変わり、要所要所での水分補給は欠かせない。
今は先行逃げ切り形、スピードが重要で集団から次々に脱落して行くサバイバル競技である。
記録も当時に比べ約20分も短縮された。同じ競技でこれほど記録が伸びるのかと感心する。
ラジオからテレビ中継に変わり、高校、社会人、都道府県別の駅伝等の大会も増えてきた。
選手層も広がり、オリンピックの高橋尚子や野口みずき等、世界と戦える選手が育ってきた。
正月2日からの箱根駅伝に始まり、大阪女子(1月)別府大分男子(2月)名古屋女子(3月)、
びわ湖男子(5月)福岡男子(12月)など中継があれば何より優先してみるようにしている。
野球やサッカー等スポーツは沢山ある、しかし私はどんな競技よりマラソンに魅力を感じる。
なぜマラソンに引きつけられるのか、それはマラソンが一番過酷な個人競技だからである。
万全の状態でスタートラインに立つことを考え、毎日何十キロと走り込みひたすら自分を鍛、
準備をして行く。試合への不安が自分を苛み、過剰な練習でつぶれる選手も続出していく。
シドニー後の高橋尚子、北京オリンピックを棄権してしまった野口みずき、今回の世界陸上の
渋井陽子も棄権してしまった。ぎりぎりまで追い込んだことが、逆目にでることがあるのだろう。
マラソンは気力、体力、知力に加え、徹底した自己管理が必要なスポーツなのである。
42.195キロの長丁場、選手はその長い道のりの間に、何を考え、何を見ているのだろうか?
スタートラインに立って「悔いのない練習をしたから、絶対大丈夫だ」と自分に言い聞かせ、
走り始めると自分の体調を「今日は大丈夫だ、走れるな」?」と自分に問うのかもしれない。
10キロ20キロと走ると、この集団に着いていけるのか不安に襲われて来るかもしれない。
後半は暑さが体に覆い被さり、足の疲労が増し、自分の気力体力に不安を覚えるのだろう。
「果たして走りきることができるか」刻々と変わる周りの状況、気になる周りの選手の息使い。
「誰がいつ仕掛けるか、自分は着いて行けるだろうか?」全神経を張り巡らせて周りを伺う。
前のスピードが上がる。「追いつかねば」とピッチを上げる。しかし体は思うようには動かない。
「ここで離されてはいけない。ここが頑張りどころなのだ」自分自身に言い聞かせる。
テレビを見ながら、一人一人の選手の気持を想像し、知らず知らずに感情移入してしまう。
自分が選手になって、歴史的な建造物が建ち並ぶベルリン市街を走っている気になってくる。
公園の並木、歴史を感じる石畳、両側に居並ぶ観客の声援。ちらちら見える日本の国旗。
その中をひたすら自分を信じて走り続ける。頼れるのは自分しかいない。自分が全てである。
マラソンとは自分の持てる力を振り絞り、いかに自分をコントロールできるかにあるように思う。
苦しさをどのように受け止め、持ち応え、それを克服してゴールに向かってひた走るかである。
そこに全力を出しつくす、うそ偽りのない一つのドラマを見るから、感動するのかもしれない。
私は人が全力で戦う、その姿に美しさを感じるから、マラソンに魅入られるのであろう。