読む本が切れた時、たまたま新聞で「倍賞千恵子の現場」という新書の広告が目に入った。倍賞千恵子、私が高校2年のとき、我校が春の選抜野球で甲子園に出場することになった。試合当日応援のため球場に入ったとき、まだ前の試合が続いていた。一般席でその試合を見ていると、スコアボードに倍賞という選手名を見つけた。友達に「珍しい名前だね」と問うと、「あれは倍賞千恵子の弟だよ」と聞いたことが記憶に残っている。半世紀以上前の話である。ウィキペディアで倍賞千恵子を調べると76歳である。私はその弟と同学年、倍賞千恵子も同じ時代に生まれ、同じ年代を過ごしてきたという親近感がある。しかし生きてきた世界はまったく違う。
倍賞千恵子は中学校を卒業してから、松竹歌劇団に入学し芸能界に入り、若くして映画や歌手として活躍し始めた。そんな女優をTVの歌番組や映画で時折見ることがあった。彼女はどちらかといえば下町育ちの清純なイメージがあり、華やかさがついて回るというより、しっかりとものごとを捉え考えて行動する俳優のように思っている。そんな俳優だからか、山田洋次監督に気に入られ山田作品に60本以上出ているのだろう。「男はつらいよ」のさくら役や「幸福の黄色いハンカチ」などの山田作品は覚えている。そんな彼女が仕事で出会った渥美清や高倉健、笠智衆など往年の名優や山田洋次監督などとのエピソードから、著者自身の生き方、演じ方、歌い方などを語っている。映画など出来上がった作品からしか見ていない立場からすると、現場の苦労や裏話は知らない世界だけに面白く読むことができた。以下特に印象に残ったヶ所を抜書きしてみる。
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渥美さんがすっと立っている姿は、高倉健さんが立っている姿とどこか似ていました。もちろん、健さんとは違ったかっこよさですが、役に対する姿勢なのか、生き方なのか、そこにいるだけで成り立つ存在感なのか。山田監督は「いい役者は贅肉がない」とおっしゃっています。肉体的なことを言っているのでわけではなくて、演技に自信がない役者さんほど、やたらと頭をかいたり、タバコを吸ったり、ポケットに手を入れたり、そうした小芝居を、山田さんは「贅肉」と呼んだのでしょう。
そういう思いで見ていると、ああ確かになるほどなぁ。自分でも肝に銘じたい言葉です。その意味で、まったく「贅肉のない芝居」をされていたのが渥美清さんであり、高倉健さんであり、笠智衆さんだと思います。深い川は静かに流れるそうです。三人とも若いころから役者さんとして苦労され、ストイックに努力を怠らずに歩んできた方々でした。
みなさんに共通しているのは、隙がないのに隙があること、そして、隙があるのに隙がない。隙というのは余裕のことか、一種のユーモアなのか、なんだろう、言葉で言い表わすのが難しい。張り詰めて隙がないのは息がつまるけど、かといって隙だらけではもちろんいけない。でもやっぱり隙がなければいけない。それでいて、みなさん、美しかったです。渥美さんも、健さんも、笠さんも。すっと見たときに、ああすごい、もういるだけでいい。余分なものが何一つない。心身ともに贅肉が、無駄なものがありませんでした。
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俳優さんの演技がどこか自分のイメージと違うと、山田(監督)さんはよく、「ど、ど、どうして、どうして君はそうなるの?」と尋ねます。聞かれた俳優さんも、「そ、そ、そんなふうに言われても、ちょっとわかりませんけれど・・・・・」 監督と俳優さんのこうしたやりとりは、すこし離れたところで見ていると、とても面白く勉強になります。山田さんの中にはきちんとしたイメージがあって、それがうまく役者と共有できない感じ。少しちぐはぐな会話から、だんだんイメージがより合わさっていくんでしょうね。
それがいちばんよくわかったのは、エキストラさんへのダメ出しでした。手前にとらやの中にいる寅さんとさくらさんのアップを捉えて、背景の参道を通行人が自転車に乗って通り過ぎてていくというシーン。お芝居が始まって、通行人のエキストラさんが普通にすーっと駆け抜けたら、山田さんがダメ出しの声。「違う、違う、違う、違う」 「え?私かな?」と思ったら、私の前を通り過ぎ、エキストラさんに突進していって、「あなたは今、どこから来たの?どこに帰る人なの?」と問いただしています。「こういうところを通るにも、子どもが待っているから早く家へ帰ろうだとか、ああ美しい夕暮れだなぁってゆっくり帰るとか、歩き方の一つひとつ、自転車の乗り方一つひとつ違うでしょう」
山田さんの中では、その通行人は、たとえば一杯ひっかけるなんかしてタラタラした感じで通り過ぎるというイメージだったのかもしれません。その「タラタラ」が「すーっと」になってしまったものだから、手前の寅さんとさくらさんの動きともタイミングが合わない。だから途端にダメ出しをしたんでしょうね。
手前の寅さんとさくらさんにカメラのピンとは合っているので、参道通行人は少しピントが甘くなって映ります。そこには役者でもなければ役者志望でもない人たちだっています。そういう人たちのわずかな役にも山田さんは命を吹き込もうとして、それぞれどんな家庭で育った人間か、どんな風に暮らしているか、今、何を思っているのかをちゃんと見るようにしているのでしょうね。もしかしたら、山田さんのエキストラさんへのダメ出しは、芝居はそんな風にするんだということを皆に伝えるためなのかもしれません。
ああ、なるほどなあ。今、子どもが病気なのか、それとも銭湯の帰りなのか。それで自転車の乗り方ひとつも違う。みんな同じ歩き方をしているわけではないし、ただ歩いているのでもありません。その人の生まれ育ち、状況、気分でみんな違います。そう考えると、歩き方ひとつ取ってみても、画面に映ることを考えたとき、「ちゃんんと生きた歩き方」というのがあるんだな、歩き方って難しいなぁと教えられました。だから山田さんの作品には隅々まで無駄な人がおらず、それぞれに存在感があります。
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どんな役でも、私の台本にはびっしりと書き込みがしてあります。台本をいただいて読んだときから、その役については、いつも考えをめぐらしていて、気がついたり思ったりしたことを全部書き込むようにしていました。・・・・・中略・・・ 自分のことだけではなくて、お芝居の相手の人についても、やはり思ったことを書き込みます。山田(監督)さんは、「相手のセリフをよく聞いて。聞いていれば、自然に自分のセリフも出てくるはずだから」とおっしゃいます。だから台本をいただいて読むときも、まず相手のセリフから読むようになりました。「家族」という映画のときは、夫のセリフをすべて覚えていました。すると相手のセリフから自分の役が見えてきたりします。相手の役のことについて考えることは、自分の役について考えることなんですね。
大きな声では言えないけれど、仕事がすべて終わったあとに、書き込みをした台本は捨てるようにしています。もったいないような気がするし、今となればもう一度読んでみたいと思いますが、一、二冊だけを残して、あとはもう手元にはありません。そういうものを大事に取っておくこと、記念に残しておくことが、私は好きではありません。台本もビデオも、だってふだん、あとに残ってしまう仕事しかしていないから。それ以上はもう要りません。それにはきっかけがありました。
映画「家族」は、その年の映画賞を独占してしまうほど高い評価を得て、私もたくさんの女優賞をいただきました。クレージー・キャッツの桜井センリさんのお店で、お祝いのパーティーを開いてくださったとき、記念の寄せ書きに助監督の五十嵐敬司さんの書いた言葉が、「たくさんの賞、本当におめでとうございます。いっぱい喜んで、なるべく早く忘れましょう」。ああ、いい言葉だなぁと心に残りました。賞をもらって、いっぱい喜んだら、早く忘れる。いつまでもその喜びに浸っていたら前に進めない。忘れて次ぎの仕事に向かえばいい。私はそんな風に受け取って、それをきっかけに記念のものを残さなくなりました。トロフィーや記念の品をいただいたら、キッチンの冷蔵庫の一番上に飾る。しばらく飾ったら奥にしまう。賞状はいつまでも壁に貼っておかない。そして、台本も残さなくなりました。
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「夕鶴」の主人公「つう」の役を1037回演じた山本安英さんは、「舞台でお芝居をするときは、自分がいて、もう一人の自分がいて、この自分を操ることができたときにいい芝居ができる」、というふうにおっしゃっていたそうです。もうずいぶん前のことですが、山田監督から伺ったとき、えっ?どういうことなんだろう。待てよ待てよ、もう一人の私ってだれ?と考え込みました。
山田さんがよくおっしゃっていたのは、 「芝居をしているときに、もう一人の自分がいて、自分をコントロールできるように、・・・」「すばらしく演じていることができたときは、もう一人の自分がそれを見ているときだ・・・」。ああ、そうか。そういうことか。演技はただ「なりきればいい」というものではない。「なりきる」ということは、自分のことがわからなくまってしまうことでもある。自分をコントロールできるもう一人の自分がいなければいけないんじゃないか・・・。それはすごく面白いこと、大事なことのように思います。
・・・・中略・・・・
じゃあ、歌はどうなんだろう。歌の世界にどっぷりつかってしまって、そのまま歌ったら、ただそれだけのことなんだと思います。その世界につかっても、必ずどこかに冷静な目で見ている自分がいないと・・・・。コンサートのステージに立つと、そのことがよくわかります。幕が上がりステージに出ていくと、お客さんからの気が一度に押し寄せてきます。その風圧に負けないように、しっかりと立って歌わなければなりません。歌っているうちに、もう一人の私が、「倍賞さん、大丈夫、大丈夫」と言いながら、歌っている自分を客席から見ていたり、もう一人の自分を通してお客さんが見えたりします。
このもう一人の私がちゃんといると、冷静に自分をコントロールしているので、歌もうまくコントロールできます。もう一人の自分を感じると、歌っていても歌がすごく変わることがわかります。歌に集中して、さまざまな表現ができるのです。逆に、もう一人の私がいないと、やたらとお客さんの方にこちらから出かけていく、というか、言ってみれば媚を売ってしまう歌い方になってしまいます。
ある日、ステージで歌っているときに、もう一人の私がいました。お客さんが向こう側にいて、私は舞台で歌っています。歌ったことによって、お客さんが反応するさまが、もう一人の私の目からはっきりと見えました。そして自分をコントロールして、たとえばお客さんが、ふっと笑ったことに対する反応がすっとできる。私はこのままどんなことでもできてしまう。このままどこかに行ってしまうんじゃないか、そう思うぐらいの鮮烈な体験でした。