60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

水彩画教室(17)

2017年08月25日 08時32分23秒 | 美術
 水彩色鉛筆から水彩絵の具に切り替えて2年、やっと筆にも慣れてきた感じである。しかしあいかわらず筆のコントローが上手くいかず、細密な絵は望むべくもない。だ24色の絵の具を混ぜて色をだすことは少し慣れてきた感じもする。慣れるに従って使える色の数も増えていく。しかし先生に色の配合を教わっても、次のとき、どの色とどの色を混ぜたのか忘れてしまう。そして何回か試して覚えたつもりでも、時間が経過するとまた忘れてしまう。今は100円ショップで買ってきた色付きのシールをパレットに貼って覚えるようにしている。しかしシールが増えていくと、今度はシールに従って混ぜるとどんな色になるのか分らない。この覚えの悪さが高齢での習い事の弱点であろう。

        
 
 下の絵は4月から8月まで5ケ月間に描いた絵である。昔学校で習字を習った時、先生に赤字で上書きして教えてもらうように、今は絵が大体出来上がったとき、先生が加筆(全体の1~2割程度)してもらいながら教えてもらっている。先生の筆が加わることで、自分の技量の拙さが見えてくる。従って良くできたと思う作品は、先生の加筆が効いている場合が多い。今教わっているのは、最初は色を薄くつけ、全体のバランスを見ながらしだいに色を加えて行く、しかも絵の中でどこを強調したいか?それによって色の強弱もつけていく、そんなことを教わっている。
 
  
 
                 台東区 本覚寺
 
  
 
                日高市高麗 巾着田
 
  
 
               日高市高麗 巾着田
 
  
 
               大宮市 氷川神社参道
 
  
 
                   大宮公園
 
  
 
                    富津岬
 
  
 
                   富津漁港
 
  
 
                   富津海岸
 
  
 
                  養老渓谷
 
  
 
                   養老渓谷
 
  
 
                 市原市朝生原
 
  
 
                    鴨川漁港
 
  
 
                   鴨川市太海
 
  
 
                    入間市
 
  
 
                  新潟市太夫浜
 
  
 
                   三峰神社
 
  
 
               千葉県鋸南町(きょなんまち)
 
  
 
             城ヶ島 安房崎(あわざき)灯台
 
  
 
                   秩父 長瀞









 
 
 
 

倍賞千恵子の現場

2017年08月18日 08時31分11秒 | 読書
 読む本が切れた時、たまたま新聞で「倍賞千恵子の現場」という新書の広告が目に入った。倍賞千恵子、私が高校2年のとき、我校が春の選抜野球で甲子園に出場することになった。試合当日応援のため球場に入ったとき、まだ前の試合が続いていた。一般席でその試合を見ていると、スコアボードに倍賞という選手名を見つけた。友達に「珍しい名前だね」と問うと、「あれは倍賞千恵子の弟だよ」と聞いたことが記憶に残っている。半世紀以上前の話である。ウィキペディアで倍賞千恵子を調べると76歳である。私はその弟と同学年、倍賞千恵子も同じ時代に生まれ、同じ年代を過ごしてきたという親近感がある。しかし生きてきた世界はまったく違う。
 
 倍賞千恵子は中学校を卒業してから、松竹歌劇団に入学し芸能界に入り、若くして映画や歌手として活躍し始めた。そんな女優をTVの歌番組や映画で時折見ることがあった。彼女はどちらかといえば下町育ちの清純なイメージがあり、華やかさがついて回るというより、しっかりとものごとを捉え考えて行動する俳優のように思っている。そんな俳優だからか、山田洋次監督に気に入られ山田作品に60本以上出ているのだろう。「男はつらいよ」のさくら役や「幸福の黄色いハンカチ」などの山田作品は覚えている。そんな彼女が仕事で出会った渥美清や高倉健、笠智衆など往年の名優や山田洋次監督などとのエピソードから、著者自身の生き方、演じ方、歌い方などを語っている。映画など出来上がった作品からしか見ていない立場からすると、現場の苦労や裏話は知らない世界だけに面白く読むことができた。以下特に印象に残ったヶ所を抜書きしてみる。
 
               ・・・・・・・・・
 
 渥美さんがすっと立っている姿は、高倉健さんが立っている姿とどこか似ていました。もちろん、健さんとは違ったかっこよさですが、役に対する姿勢なのか、生き方なのか、そこにいるだけで成り立つ存在感なのか。山田監督は「いい役者は贅肉がない」とおっしゃっています。肉体的なことを言っているのでわけではなくて、演技に自信がない役者さんほど、やたらと頭をかいたり、タバコを吸ったり、ポケットに手を入れたり、そうした小芝居を、山田さんは「贅肉」と呼んだのでしょう。
 
 そういう思いで見ていると、ああ確かになるほどなぁ。自分でも肝に銘じたい言葉です。その意味で、まったく「贅肉のない芝居」をされていたのが渥美清さんであり、高倉健さんであり、笠智衆さんだと思います。深い川は静かに流れるそうです。三人とも若いころから役者さんとして苦労され、ストイックに努力を怠らずに歩んできた方々でした。
 
 みなさんに共通しているのは、隙がないのに隙があること、そして、隙があるのに隙がない。隙というのは余裕のことか、一種のユーモアなのか、なんだろう、言葉で言い表わすのが難しい。張り詰めて隙がないのは息がつまるけど、かといって隙だらけではもちろんいけない。でもやっぱり隙がなければいけない。それでいて、みなさん、美しかったです。渥美さんも、健さんも、笠さんも。すっと見たときに、ああすごい、もういるだけでいい。余分なものが何一つない。心身ともに贅肉が、無駄なものがありませんでした。
 
・・・・・・・
 
 俳優さんの演技がどこか自分のイメージと違うと、山田(監督)さんはよく、「ど、ど、どうして、どうして君はそうなるの?」と尋ねます。聞かれた俳優さんも、「そ、そ、そんなふうに言われても、ちょっとわかりませんけれど・・・・・」  監督と俳優さんのこうしたやりとりは、すこし離れたところで見ていると、とても面白く勉強になります。山田さんの中にはきちんとしたイメージがあって、それがうまく役者と共有できない感じ。少しちぐはぐな会話から、だんだんイメージがより合わさっていくんでしょうね。
 
 それがいちばんよくわかったのは、エキストラさんへのダメ出しでした。手前にとらやの中にいる寅さんとさくらさんのアップを捉えて、背景の参道を通行人が自転車に乗って通り過ぎてていくというシーン。お芝居が始まって、通行人のエキストラさんが普通にすーっと駆け抜けたら、山田さんがダメ出しの声。「違う、違う、違う、違う」 「え?私かな?」と思ったら、私の前を通り過ぎ、エキストラさんに突進していって、「あなたは今、どこから来たの?どこに帰る人なの?」と問いただしています。「こういうところを通るにも、子どもが待っているから早く家へ帰ろうだとか、ああ美しい夕暮れだなぁってゆっくり帰るとか、歩き方の一つひとつ、自転車の乗り方一つひとつ違うでしょう」
 
 山田さんの中では、その通行人は、たとえば一杯ひっかけるなんかしてタラタラした感じで通り過ぎるというイメージだったのかもしれません。その「タラタラ」が「すーっと」になってしまったものだから、手前の寅さんとさくらさんの動きともタイミングが合わない。だから途端にダメ出しをしたんでしょうね。
 
 手前の寅さんとさくらさんにカメラのピンとは合っているので、参道通行人は少しピントが甘くなって映ります。そこには役者でもなければ役者志望でもない人たちだっています。そういう人たちのわずかな役にも山田さんは命を吹き込もうとして、それぞれどんな家庭で育った人間か、どんな風に暮らしているか、今、何を思っているのかをちゃんと見るようにしているのでしょうね。もしかしたら、山田さんのエキストラさんへのダメ出しは、芝居はそんな風にするんだということを皆に伝えるためなのかもしれません。
 
 ああ、なるほどなあ。今、子どもが病気なのか、それとも銭湯の帰りなのか。それで自転車の乗り方ひとつも違う。みんな同じ歩き方をしているわけではないし、ただ歩いているのでもありません。その人の生まれ育ち、状況、気分でみんな違います。そう考えると、歩き方ひとつ取ってみても、画面に映ることを考えたとき、「ちゃんんと生きた歩き方」というのがあるんだな、歩き方って難しいなぁと教えられました。だから山田さんの作品には隅々まで無駄な人がおらず、それぞれに存在感があります。
 
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 どんな役でも、私の台本にはびっしりと書き込みがしてあります。台本をいただいて読んだときから、その役については、いつも考えをめぐらしていて、気がついたり思ったりしたことを全部書き込むようにしていました。・・・・・中略・・・ 自分のことだけではなくて、お芝居の相手の人についても、やはり思ったことを書き込みます。山田(監督)さんは、「相手のセリフをよく聞いて。聞いていれば、自然に自分のセリフも出てくるはずだから」とおっしゃいます。だから台本をいただいて読むときも、まず相手のセリフから読むようになりました。「家族」という映画のときは、夫のセリフをすべて覚えていました。すると相手のセリフから自分の役が見えてきたりします。相手の役のことについて考えることは、自分の役について考えることなんですね。
 
 大きな声では言えないけれど、仕事がすべて終わったあとに、書き込みをした台本は捨てるようにしています。もったいないような気がするし、今となればもう一度読んでみたいと思いますが、一、二冊だけを残して、あとはもう手元にはありません。そういうものを大事に取っておくこと、記念に残しておくことが、私は好きではありません。台本もビデオも、だってふだん、あとに残ってしまう仕事しかしていないから。それ以上はもう要りません。それにはきっかけがありました。
 
 映画「家族」は、その年の映画賞を独占してしまうほど高い評価を得て、私もたくさんの女優賞をいただきました。クレージー・キャッツの桜井センリさんのお店で、お祝いのパーティーを開いてくださったとき、記念の寄せ書きに助監督の五十嵐敬司さんの書いた言葉が、「たくさんの賞、本当におめでとうございます。いっぱい喜んで、なるべく早く忘れましょう」。ああ、いい言葉だなぁと心に残りました。賞をもらって、いっぱい喜んだら、早く忘れる。いつまでもその喜びに浸っていたら前に進めない。忘れて次ぎの仕事に向かえばいい。私はそんな風に受け取って、それをきっかけに記念のものを残さなくなりました。トロフィーや記念の品をいただいたら、キッチンの冷蔵庫の一番上に飾る。しばらく飾ったら奥にしまう。賞状はいつまでも壁に貼っておかない。そして、台本も残さなくなりました。
 
・・・・・・・
 
 「夕鶴」の主人公「つう」の役を1037回演じた山本安英さんは、「舞台でお芝居をするときは、自分がいて、もう一人の自分がいて、この自分を操ることができたときにいい芝居ができる」、というふうにおっしゃっていたそうです。もうずいぶん前のことですが、山田監督から伺ったとき、えっ?どういうことなんだろう。待てよ待てよ、もう一人の私ってだれ?と考え込みました。
 
 山田さんがよくおっしゃっていたのは、 「芝居をしているときに、もう一人の自分がいて、自分をコントロールできるように、・・・」「すばらしく演じていることができたときは、もう一人の自分がそれを見ているときだ・・・」。ああ、そうか。そういうことか。演技はただ「なりきればいい」というものではない。「なりきる」ということは、自分のことがわからなくまってしまうことでもある。自分をコントロールできるもう一人の自分がいなければいけないんじゃないか・・・。それはすごく面白いこと、大事なことのように思います。
 ・・・・中略・・・・
 
 じゃあ、歌はどうなんだろう。歌の世界にどっぷりつかってしまって、そのまま歌ったら、ただそれだけのことなんだと思います。その世界につかっても、必ずどこかに冷静な目で見ている自分がいないと・・・・。コンサートのステージに立つと、そのことがよくわかります。幕が上がりステージに出ていくと、お客さんからの気が一度に押し寄せてきます。その風圧に負けないように、しっかりと立って歌わなければなりません。歌っているうちに、もう一人の私が、「倍賞さん、大丈夫、大丈夫」と言いながら、歌っている自分を客席から見ていたり、もう一人の自分を通してお客さんが見えたりします。
 
 このもう一人の私がちゃんといると、冷静に自分をコントロールしているので、歌もうまくコントロールできます。もう一人の自分を感じると、歌っていても歌がすごく変わることがわかります。歌に集中して、さまざまな表現ができるのです。逆に、もう一人の私がいないと、やたらとお客さんの方にこちらから出かけていく、というか、言ってみれば媚を売ってしまう歌い方になってしまいます。
 
 ある日、ステージで歌っているときに、もう一人の私がいました。お客さんが向こう側にいて、私は舞台で歌っています。歌ったことによって、お客さんが反応するさまが、もう一人の私の目からはっきりと見えました。そして自分をコントロールして、たとえばお客さんが、ふっと笑ったことに対する反応がすっとできる。私はこのままどんなことでもできてしまう。このままどこかに行ってしまうんじゃないか、そう思うぐらいの鮮烈な体験でした。






知的な老い方

2017年08月10日 16時41分01秒 | 読書
 最近は高齢者の書いた本をよく読むようになった(佐藤愛子94歳、篠田桃紅104歳、日野原重明105歳など)。それは次第に歳をとってきた時、これからの指針を探すためなのかもしれない。60代はまだ両親がいた。両親の生きる様子を垣間見、話を聞き、その年代の課題や心構えのようなものを参考にしていたように思う。その両親も亡くなり、今は家族の中で先頭の年齢を歩んでいる。そんな時、老後を生きるアドバイスになればと思い読んでいる。
 
 「知的な老い方」の著者、外山滋比古は1923年生まれの93歳である。私より20年ほど前を歩いている。この歳になって今何を考え、何を思い、何を心がけ、何を目指しているのか、そんなことを少しでも吸収できればと思って読んでみた。その中から「さもありなん」と思われるところを抜書きしてみる。
 
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 かつての知人に小学校の校長がいた。組合運動のはげしい学校ばかりを振り当てられて、辛酸をなめた。早くやめたいと、残りの歳月をかぞえるような生活をしていた。やっと念願がかなって、定年、退職、かねて建ててあった田舎の家で、毎日好きな釣りを楽しむ自適の日々を送った。ところがその幸福は2ケ月しか続かなかった。釣り針を爪の間にさした傷がもとで破傷風にやられ、一晩のうちになくなってしまったのである。
 
 何十年も釣りをしてきた人にしてみれば、仮に傷からバイ菌が入っても、張り切っているときなら、はね飛ばしてしまったにちがいないが、退職して、張りを失ってしまったこの人には命とりになってしまった。その人の通夜で、年金関係の仕事をしている係りの人から元校長の年金受領年月が、平均30ケ月に満たないということを聞いて、つよい印象をを受けた。どんなにつらくても、苦しくても、仕事に忙殺されている間は、ちゃんと生きていられる。やっと暇になったとたん、病魔が襲ってくる。あわれである。
 
 ※私の周りでも60代で亡くなった仲間も何人もいる。また60代でガンの手術をした者も多い。そういう人の性格を振り返って見ると、おしなべて組織の中で周りに(特に上司に)気を使いすぎていた人が多かったように思う。自分の立場を維持するためには周囲との協調は不可欠であるが、しかしそれも程度問題である。あまりに自分を殺し続けていればストレスを溜め、結果として免疫力を弱めて、病気になりやすい体質になるのであろう。
 
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 これは、ヨーロッパのある国の話。社会学の研究者たちが、老人はいつ死ぬかという調査をした。亡くなったひとの誕生日を調べて、亡くなったのはその前か後か、ということである。それによると、死亡率は誕生日の50日前くらいから急に低下する。つまり、死ななくなる。誕生日で最低になる。当日に亡くなる例はほとんどない。ところが誕生日が過ぎると、また、死亡率が急上昇する。もちろん誕生日前よりはるかに高い。
 
 誕生日前に亡くなる人が少ないのは、楽しい祝いの日を待つ心が、活力になるのであろう。ところが、お祭りのような楽しい日が過ぎれば、また、当分は、黄昏のような日々が続くことになる。やれやれ、と思うと、急に活力が抜ける。それを見はからったように、死神が、”そろそろ参ろうか”と近づくというわけになるのか。人間は、目指すものがなければ弱くなる。なにか楽しいことを期待できないと、生命力を支えることが難しくなるらしい。楽しみのあとが危ない。ストレスはおそろしい。いつも、行く手に、なにか明るい希望、楽しみのあるのが、老年のし幸福の条件である。
 
 ※退職後何をして過ごすか、これは我々年代の最大のテーマである。退職後やるべきことが見つからず、競馬や競輪、パチンコと賭け事にはまること、また昼間から酒を飲むようになること、これは最悪である。老後にやるべきテーマを見つけておくこと、老後に備えて気力を残しておくこと、そしてネットワークを維持しておくこと、そんなことが老後を生きる上で大切なように思っている。
 
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 北欧のノルウェイで面白い調査が行われた。中年のサラリーマン2000人を2つのグループに分けて1000人ずつにする。一方のグループには全く何もいわずなにもせず、そのままにしておいた。他方のグループには何人もの医者をつけて、定期的に健康のアドバイス診察を行った。医者付きのグループの方が、健康になるだろうと想像するが、実際は、驚くべきことといってよい、その逆であった。2年後に、両グループの健康状態をチェックしたところ、医師からいろいろと注意を受けていたグループの方が、不健康で病気にかかっている人が多いという結果であった。
 
 いかにも理屈に合わないようであるが、おそらく、医師のアドバイス、診察を受けることで、気にやんだり、落ち込んだりすることが、放っておかれたグループよりもずっと多かったと想像される。たしかに早期発見すれば完治する病気がたくさんある。なるべく早く診察を受けるのが大切であるのは周知のところである。ところが医師のいうことを深刻に受け止めたり、それにこだわってくよくよするようだと、知らず知らずのうちにストレスを生じる。ストレスは免疫力や抵抗力を弱めるから、病気にかかりやすくなる。すくなくとも、神経質な人はその危険は大きい。
 
 医師に見てもらわなければ「知らぬが仏」でいられる。少しぐらいの不調なら、それぞれ持っている自然治癒力で治ってしまうこともないではない。専門家の注意を受けることは、もちろんよいことだが、それがストレスとなると、得られるプラスより失うマイナスの方が大きくなるかもしれない。なんでもすぐ医師に診てもらうということが、必ずしも最善ではないというのは、単なる逆説ではない。医学的には異論もあるだろうが、かよわい心をもった人間にとって、恐ろしい情報、医師のことばが、しばしば有毒有害なものになるということもあるだろう。歳をとったら、なるべくストレスを近づけないようにしないといけない。
 
 ※TVの健康番組ではタレント医者が病気の深刻さを語り、視聴者の警戒感を煽る。そして予防方法として、食生活と健康体操を紹介し、早期発見が大切だから不安がある人は医者に診てもらえと勧める。民放の健康番組はどれも同じパターンである。穿った見方をすれば、視聴者の不安をあおり、病院を受診させ検査をし病気を見つけ出し薬を処方する。これは医療と製薬会社の壮大な利益誘導なのだろうと思う。

 老年になれば病というものが差し迫った問題である。そのため、安心感を得るために病院へ通い、たくさんの薬を飲んでいる人をよく見かける。「本当にこれで良いのだろうか?」、いつもそう思う。本来「健康」とは社会が与えてくれるものではなく、食事や運動、ストレス耐性など考え、自己免疫を強化し、自分で組み立てるべきものだろうと思う。それでも不調があれば病院で検査し、原因を知り対策を立てる。それが本来の医療のように思うのだが。






散歩(鋸山)

2017年08月04日 08時42分48秒 | 散歩(6)

 「地獄のぞき」、TVで何度かこの光景を見たことがある。ここは千葉県の突端に近い千葉県安房郡鋸南町、自宅からはかなり遠く、今までは行く機会がなかった。「行くなら日の長い夏の時期」、そう思って行って見ることにした。

 東京駅8時4分発の総武快速で君津まで、君津で乗り換えて内房線の浜金谷に着いたのは10時をまわっていた。駅から15分ほど歩くとロープウエイ乗り場がある。約5分程度で山頂駅に、そこから鋸山山頂、百尺観音、地獄のぞき、千五百観音、大仏など見ながら麓まで下っていく。

 この地区は小さな漁村で、地獄のぞきや大仏が唯一の観光資源であろう。しかし都心から遠く、1度見れば何度も来る場所でもないのだろう、夏休みなのに観光客は少ない。私は麓に降りてからの保田駅までの田舎道の方が、海が見えたり田んぼがあったりと、郷愁を感じ楽しく歩けたように思う。 

   
 
                  内房線 浜金谷駅
 
   
 
                    国道127号線
                   右手は金谷漁港
 
   
 
                    鋸山ロープウエー
 
                     
 
                     
 
                     
 
                      
 
                      
 
 
 
                      
 
                   鋸山 山頂329m
 
 
   
 
                 対岸は神奈川県三浦市

   

   

   
 
                  百尺観音
          昭和35年から6年の歳月をかけて石切り場にほられた。
          30mと大きさはあるが表面的で薄っぺらい感じがする
 
              
 
                
   
 
                     地獄のぞき
 
   
 
    高所恐怖症なのか、手前の男性は柵につかまったままで端までいけない
 
   
 
                   突端から下を覗く
 
   
 
 
 
   
 
 
   
 
                     千五百観音
  名工大野甚五郎英命と門弟が生涯をかけて刻んだ1553体の石像が点在する
 
 
   

   
 
   
 
   
 
 
   

 
   
 
                                    急な石段を降りていく
 
   
 
                      大仏
                       
   
 
          天明3年(1783年)に完成した薬師瑠璃光如来
         総高31mと座像および石仏としては日本最大を誇る
 
   
 
          長く崩壊が進んでいたが昭和44年に修復された
 
   
 
                      心字池
 
   
 
                     仁王門
 
   
 
   
 
   
 
                   右手は東京湾
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
                   内房線の踏み切り
 
   
 
               内房線の線路に沿って保田駅へ
 
   
 
                      保田駅
 
   
 
                      保田駅