私の生涯学習のテーマは生物学全般である。動物行動学から進化論や遺伝子の話し、当然ヒトも動物であるから人間の行動や心理学など、雑多なものを読み漁っている。とりあえず、生命にかかわることを広く浅く知っておきたいと思うからである。最近、福岡伸一という分子生物学者の本を面白いと思い何冊かを読んでみた。分子生物学者であるから、アミノ酸のような分子の世界から、生物界全体の流れや生命観までを語っている。ミクロの世界から生命へ、そこで語られている内容には一本筋が通っているように思う。そして今まで不可解に思っていたことに対して、何か回答が得られたような気もする。近著「動的平衡(2)」を読んで、自分の疑問が氷解したことの一つを書いて見る。
ダーウイン以降の生物学は、生物は遺伝子に突然変異が起こらないと変わらないと考えて来た。その突然変異に方向性は無く、色々な方向にランダムに起こっている。そして環境に適合した突然変異だけが生き残って来たのだと・・・・。適者生存、自然淘汰説である。だから今までの説は「進化には目的や方向性は無く、ランダムに変わっている。けれど、環境がそれを選択するからいかにも目的があるように見える」と言ってきたわけである。そこで私の疑問である。鳥の先祖は恐竜と言われている。飛べない恐竜が突然変異の積み重ねの結果で鳥になったとしよう。羽根のない恐竜が一気に羽根が生えるわけもない。だから飛べるような羽根が確立するまでの長い間、中途半端な時期もあったはずである。その間も無目的で淘汰もされずに突然変異を待ち続けることができたのだろうか、という疑問である。キリンの首やゾウの鼻は本当に無目的の突然変異の積み重ねで今の形になったのであろうか?そう言う疑問は常に付きまとってきた。突然変異はごく稀なことである。それが環境に対して有利な方向に起こるのはさらに稀なことである。たぶん遺伝子の突然変異の頻度だけでは、その多様化のスピードや多種多様な進化の量は説明がつかないように思うのである。
本によると、最近「エピジェネティックス」という考え方が出てきたそうである。エピは「外側」、ジェネティックスは「遺伝子の」、つまり「遺伝子の外側で起きていること」という意味だそうである。簡単にいえば遺伝子以外の何が生命を動かしているかを考えるのが、エピジェネティックスである。ではエピジェネティックスで進化をどう考えるのかである。
遺伝子上でにはそれほどの変化は起こっておらず、遺伝子のスイッチのオンオフの順番とボリュームの調整に変化がもたらされたのではないかという仮説である。ある生命の遺伝子はその生命が生きている間、ずっと同じように活動し続けるわけではない。必要となったある時期、あるタイミングに、遺伝子はたんぱく質合成の設計図を提供するにすぎない。つまり私たちの体のどこかに、その設計図を開く時に遺伝子をオンにするスイッチがあるのだ。例えば、少女が12歳で初潮を迎えるのは、繁殖への体制がほぼ整い、そのスイッチが入ったことを意味する。そして50歳くらいで更年期を迎え、閉経するがこれはスイッチがオフになったことを意味している。生命体を動かしている遺伝子にはそれぞれにこうしたスイッチがあり、それが生育や環境の条件によって、オンになったり、オフになったりするのである。ここに3つの遺伝子があったとしよう。Aがいつ働くか、Bがいつ働くか、Cがいつ働くか、その順番が変わると、生命は変われるのではないか、・・・・・。エピジェネティックスはそう言う考え方をするらしい。
人間が動物を家畜化していった過程の中で、その代表である犬にはセントバーナードからチワワまで多くの種類がいる。言うまでもなく、人間が隔離してかけあわせたきた品種改良の結果である。しかしそれぞれの品種の遺伝子はほとんど違わない。毛の長さや色などをコントロールする遺伝子に違いがあるが、それはセントバーナードとチワワの違いを説明しきれるほどのものではないのである。つまり犬種の多様性は遺伝子の違いから生じているのでは無く、共通に有している遺伝子の動くタイミングや順番、ボリュームが異なるからではないか・・・・・・・・・。エピジェネティックスという考え方はまだ十分な市民権を得ていないけれど、そう考えているひとは少なくない。たぶん遺伝子は音楽における楽譜と同じ役割をはたしているにすぎない。記された音符は一つ一つ同じでも、誰がどのように演奏するかで違う音楽になる。遺伝子はある情報で私たちを規定すると同時に「自由であれ」とも言っている。そう考えたほうが私たちは豊かに生きられるのではないだろうか。 著書にはこのように書いてあった。
私はこう思うのである。ここはff(フォルティッシモ)で弾くか、pp(ピアニッシモ)で弾くかで、同じ譜面の曲でもまったく違った曲になるだろう。同じ譜面をどう解釈するか?で、それぞれの系統に分かれて行く。そしてその強調されるべき部分をより鮮明にしたいという力(思い)が遺伝子に働き、突然変異(編曲)を促すことになるのではないだろうか? まだ初期のころの恐竜が、大きいことは生き残ることと思い続けた結果、成長をつかさどる遺伝子に変化が起き巨大化したのであろう。ある恐竜は空を飛ぶ昆虫を見て「ああいう方法も有るのだ!」と考え、前足を広げて真似をしたのかもしれない。そしてその思いがやがて空を飛べるようになる。そんな風に考えなければ、ただただ突然変異を待つだけでは今のような多種多様な生き物に分化できなかったように思うのである。生き物には人間と同様に何らかの形で意思があるのであろう。そしてその意思や思いがやがて空を飛べるようになる。著者が言うように「生命はある種の制約はあるが、基本的には自由」なのである。そう考える方が理屈にあうし、ロマンがあるのである。
ダーウイン以降の生物学は、生物は遺伝子に突然変異が起こらないと変わらないと考えて来た。その突然変異に方向性は無く、色々な方向にランダムに起こっている。そして環境に適合した突然変異だけが生き残って来たのだと・・・・。適者生存、自然淘汰説である。だから今までの説は「進化には目的や方向性は無く、ランダムに変わっている。けれど、環境がそれを選択するからいかにも目的があるように見える」と言ってきたわけである。そこで私の疑問である。鳥の先祖は恐竜と言われている。飛べない恐竜が突然変異の積み重ねの結果で鳥になったとしよう。羽根のない恐竜が一気に羽根が生えるわけもない。だから飛べるような羽根が確立するまでの長い間、中途半端な時期もあったはずである。その間も無目的で淘汰もされずに突然変異を待ち続けることができたのだろうか、という疑問である。キリンの首やゾウの鼻は本当に無目的の突然変異の積み重ねで今の形になったのであろうか?そう言う疑問は常に付きまとってきた。突然変異はごく稀なことである。それが環境に対して有利な方向に起こるのはさらに稀なことである。たぶん遺伝子の突然変異の頻度だけでは、その多様化のスピードや多種多様な進化の量は説明がつかないように思うのである。
本によると、最近「エピジェネティックス」という考え方が出てきたそうである。エピは「外側」、ジェネティックスは「遺伝子の」、つまり「遺伝子の外側で起きていること」という意味だそうである。簡単にいえば遺伝子以外の何が生命を動かしているかを考えるのが、エピジェネティックスである。ではエピジェネティックスで進化をどう考えるのかである。
遺伝子上でにはそれほどの変化は起こっておらず、遺伝子のスイッチのオンオフの順番とボリュームの調整に変化がもたらされたのではないかという仮説である。ある生命の遺伝子はその生命が生きている間、ずっと同じように活動し続けるわけではない。必要となったある時期、あるタイミングに、遺伝子はたんぱく質合成の設計図を提供するにすぎない。つまり私たちの体のどこかに、その設計図を開く時に遺伝子をオンにするスイッチがあるのだ。例えば、少女が12歳で初潮を迎えるのは、繁殖への体制がほぼ整い、そのスイッチが入ったことを意味する。そして50歳くらいで更年期を迎え、閉経するがこれはスイッチがオフになったことを意味している。生命体を動かしている遺伝子にはそれぞれにこうしたスイッチがあり、それが生育や環境の条件によって、オンになったり、オフになったりするのである。ここに3つの遺伝子があったとしよう。Aがいつ働くか、Bがいつ働くか、Cがいつ働くか、その順番が変わると、生命は変われるのではないか、・・・・・。エピジェネティックスはそう言う考え方をするらしい。
人間が動物を家畜化していった過程の中で、その代表である犬にはセントバーナードからチワワまで多くの種類がいる。言うまでもなく、人間が隔離してかけあわせたきた品種改良の結果である。しかしそれぞれの品種の遺伝子はほとんど違わない。毛の長さや色などをコントロールする遺伝子に違いがあるが、それはセントバーナードとチワワの違いを説明しきれるほどのものではないのである。つまり犬種の多様性は遺伝子の違いから生じているのでは無く、共通に有している遺伝子の動くタイミングや順番、ボリュームが異なるからではないか・・・・・・・・・。エピジェネティックスという考え方はまだ十分な市民権を得ていないけれど、そう考えているひとは少なくない。たぶん遺伝子は音楽における楽譜と同じ役割をはたしているにすぎない。記された音符は一つ一つ同じでも、誰がどのように演奏するかで違う音楽になる。遺伝子はある情報で私たちを規定すると同時に「自由であれ」とも言っている。そう考えたほうが私たちは豊かに生きられるのではないだろうか。 著書にはこのように書いてあった。
私はこう思うのである。ここはff(フォルティッシモ)で弾くか、pp(ピアニッシモ)で弾くかで、同じ譜面の曲でもまったく違った曲になるだろう。同じ譜面をどう解釈するか?で、それぞれの系統に分かれて行く。そしてその強調されるべき部分をより鮮明にしたいという力(思い)が遺伝子に働き、突然変異(編曲)を促すことになるのではないだろうか? まだ初期のころの恐竜が、大きいことは生き残ることと思い続けた結果、成長をつかさどる遺伝子に変化が起き巨大化したのであろう。ある恐竜は空を飛ぶ昆虫を見て「ああいう方法も有るのだ!」と考え、前足を広げて真似をしたのかもしれない。そしてその思いがやがて空を飛べるようになる。そんな風に考えなければ、ただただ突然変異を待つだけでは今のような多種多様な生き物に分化できなかったように思うのである。生き物には人間と同様に何らかの形で意思があるのであろう。そしてその意思や思いがやがて空を飛べるようになる。著者が言うように「生命はある種の制約はあるが、基本的には自由」なのである。そう考える方が理屈にあうし、ロマンがあるのである。
