60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

牛の鈴音

2009年12月25日 09時09分29秒 | 映画
インターネットの映画紹介で、☆印が4つ半ついていた韓国映画「牛の鈴音」が気になった。
解説を読んでみると、こう書いてある。
「牛の鈴音」はイ・チュンニョル監督の第1作目となるドキュメンタリー映画である。3年余りの
月日をかけて完成させたこの映画が韓国映画界に奇跡をおこした。今年1月にアート作品
専門の7館で封切られると、口コミによってまたたく間に全国150館に拡大していった。
その後、数々のメディアに取り上げられ、累計300万人動員というドキュメンタリーとしては
驚異的な記録を達成した。何事も速いスピードで過ぎていく現代社会にあって、この映画の
ヒットは人々が安らぎを求めているという世相を反映しているのではないだろうか、とあった。
この時期はお正月映画が目白押しの中、都内では3館のみの上映である。19日の初日
早速銀座シネパトスという映画館に出かけて行くことにした。

映画は韓国の一農村。農業を営む79歳のチェじいさんと76歳のイばあさんは60年以上を
連れ添ってきた.。夫婦は9人の子供を立派に育てたが、子どもは皆都会に出て暮らしている。
子供たちは親の体を気遣い仕事をやめるように言う。しかし頑固で昔かたぎのチェじいさんは、
耕作機を使う時代に、牛とともに昔ながらのやり方で働き続けている。牛の寿命は長くて25年
と言われているが、この老牛は40歳になった今でも、夜明けから毎日チェじいさんに連れられ
畑仕事に出かけて行く。
チェじいさんは小児まひの後遺症なのか、細く頼りない右足でまともには歩けない。それでも
重い荷を担ぎ、牛を操って田んぼを耕し、四つん這いになって草を取る。イばあさんも共に
働くが、しかしこの家に嫁に来た自分の不幸を嘆き、いつもぶつぶつと愚痴をこぼしている。
この映画にはナレーションはない。大きな事件もおこらない。政治的メッセージもない。
描かれているのは韓国の美しい四季を通して、静かな時の流れの中で、腰の曲がった2人の
老人と寿命をはるかに超えた40歳の老牛の日常を追ったドキュメンタリー映画である。

インターネットのホームページを見ると、監督の後日談が書いてあった。
映画の舞台となる農村で、この牛とチェじいさんに出会った。だが老人は読み書きができず、
耳も遠いためインタビューができない。「カメラを向けるとスチール写真だと思って動きを止め、
表情も変になってしまう。ありのままを記録するのがドキュメンタリーの原則だが、イばあさんも
お化粧したり何回も着替えたりして撮り辛かった」、苦肉の策として無線マイクを彼らにつけ、
遠くから望遠での撮影を続けたという。
だからこの映画では老人2人のほとんど素のままの様子が撮られている、音が生きている。
虫の音、おばあさんの愚痴、おじいさんのうなり声、そして牛の首に付けられた鈴の音、牛が
動くたびにその鈴が鳴り続ける。病気で伏せっているチェじいさんがこの牛の鈴音を聞いて
「ビクッ」として起き上がるシーンがある。チェじいさんは鈴音で牛の様子が分かるのであろう。
牛には市販の飼料は与えず、草を刈ってきて与える。牛が食べる草に農薬が着くのを嫌い、
畑にも農薬は使わない。農作業もすべて人力で行い耕作機械は使わない。道端で牛が
草を食べ始めたら止まり、動くまでじっと待つ。そんなスローペースなリズムが刻まれている。

老牛と頑固なチェじいさん、映画はその日常を追い続けて行く。言って見ればただそれだけの
ドキュメンタリーである。そこに製作者の「こんなことを訴えたい。こんな風に感じて貰いたい」
という明確な意図はあまり反映されていない。映画を見ていると、韓国の田舎の中に自分が
居て、その空気感にひたり、そのおじいさんや老牛とシンクロしていくような感覚になる。
そんな中で観客はそこに何を感じるか、何を思うかはそれぞれである。その労働条件を過酷と
考えればそうかもしれない。しかしチェじいさんはそんな風には思ってなく、すべて受け入れ、
作物に対して、牛に対して、愛情を注ぎ淡々と生きているように思える。そこに気負いもなく、
使命感もなく、損得も効率も関係なく、自分の人生の定めのようなものに従って、ひたすら
歩み続けているようにも思えるのである。

監督自身が農家の生まれ、父親は牛と共に働いて、4人の子供を育て上げた。ある時自分
勝手な人生を送っていたことに気づかされる。そして苦労して大学まで出してくれた父に、申し
訳ないと思うようになった。それで父親を慰労するような物語を撮りたいと思い、この作品を
考えたそうである。「誰も無から生まれたわけではなく、自分を生み出してくれた過去がある」
そんなことを感じてもらえばこの映画は成功である、・・・と、そんな風に語っている。

観客のほとんどが50歳以上の年配の人達である。映画の入れ替えをロビーで待っていたら、
隣の人の読んでいる本はハングル文字の本であった。観客の中には韓国の人達も多数いた
のかもしれない。映画が終わって明るくなるまで誰一人席を立たない、話し声もしない。
うっすら涙を溜め手で拭ういる人もいる。映画が与えた感動は人によってまちまちであろう。
私はこの映画のチェじいさんに、人の「生きざま」を感じる。農業をやる人々の並はずれた
覚悟や性根を感じる。受け継いだ田畑をひたすら耕し、自分を信じ、分相応な生き方に
徹し、愚痴を言うわけでもなく、人をうらやむわけでもない。自暴自棄になるわけでもなく、
天から与えられた運命を受け入れひたすら働き続ける。
チェじいさんの子供時代は日本に統治された時期であり、その後第二次世界大戦があり、
朝鮮戦争では国は南北に分断され、混迷の中をかいくぐって生き抜いてきたのであろう。
今、牛とともに農業ができる、傍から見ると苦労に思えるが、本人にとっては充実して幸せを
感じているのかも知れないと思った。

人にとって何が幸せなことか、何も都会の華やかな生活が幸せなのではないのであろう。
自分にやるべき仕事が有って、その仕事に損得や効率を度外視するほど打ち込めれば、
充実した人生を実感できるのではないかと思う。私の父も大正生まれ、このチェじいさんと
同じ時代を生き抜いてきたわけである。そして2人に共通していることがあるとすれば、
それは「楽を考えない、手を抜かない、必死に生きてきた」ということであろう。この映画に
涙するのはそういう父親たちの生き方に、あこがれと共感を感じるからではないだろうか。

年賀状

2009年12月18日 09時12分56秒 | Weblog
「さて今回はどうしよう?」 12月も中旬を過ぎると年賀状のことが気にかかる。
年賀状は小学校に行く頃、たどたどしい平仮名文字で従兄弟に書いたのが始めである。
それ以来、親戚、学校の友達、先生、就職してからの上司や同僚、取引の関係者等々、
だんだんその枚数は増えていった。就職してからは一気に枚数が増え職場が変わるごとに
新たな差し出し先を積み増していった。やはり職場における人間関係を、少しでも良くして
おこうという打算が働いたのであろう。しかし近年は徐々に枚数も落ち、落ち着いてきた。
それは自分の活動範囲が限定されてきて、交友関係の広がりがなくなってきたからだろう。

私は年賀状に対して自分の中で決めたルールがある。
それは自分の方からは「決して切らない」ということ。職場が離れ、どんなに疎遠になっても
相手から年賀状が来る間は出し続ける。しかし身近にいる人でも、相手から2年続けて
こなければ3年目からは出さないようにしている。年賀状はある種儀礼的な習慣である。
それを大切にする人にはそれを重んじ、そんなことはどうでも良く、面倒だと思う人に、
こちらから出し続けるのは相手に対して負担になると思うからである。

学校卒業後一度も会っていない地方の友人、会社を辞めて地方に帰って行った元同僚、
直接の関係がなくなった会社の取引関係の人達、結婚式以来会っていない親戚等々、
もう何十年と年賀状が往復している。そしてこれからも逢うことはないかもしれない人々、
実利的な人にとっては無駄なことなのかもしれない。しかし私にとっては自分の人生のある
時期を形作ってくれた大切な人達に思えるのである。普段思い出すことのない人達も
年に1度その人の住所と名前を見ると、当時のことを思い出し、その人の面影を思い出し、
生き生きしていた昔の自分自身を懐かしく思い出すのである。相手も出し続けているのは
同じような気持ちがあるのかも知れないと思う。多分このまま続き、どちらか鬼籍に入るまで
続くのではないだろう。

そして年賀状が往復しているもう一つの良さは、何時でも連絡をつけていいという許可証の
ようなものをも貰っているように思えることである。年賀状に住所や電話番号や携帯の番号、
最近はインターネットのアドレスまで書いてある。
彼の知っていることで教えてほしいことがある。彼のネットワークで紹介してほしい人がいる。
近くに行ったから逢ってみたい。昔の仲間で集まってみよう。なんらか連絡する用件があれば
躊躇することなく連絡できる。年賀状はそんな保険のような役割も持っているように思う。
多分ほとんどそのネットワークは使わないかもしれないが、それがあることに安心感はある。

毎年貰う年賀状は、人によりその様式はほとんど同じパターンで踏襲されているように思う。
家族の写真がプリントされているもの、干支の絵柄が変わるだけで文面はまったく同じもの、
その人らしい版画やイラストが印刷されているもの、毛筆で手書きのもの、等々まざまである。
私はサラリーマン時代は印刷したものを作り、親しい人には一言二言、添え書きをしていた。
しかし、還暦を迎えると、この味気ない年賀状を出し続けることに反省をするようになった。
何でもいい、自分のオリジナルな年賀状を出したいと思う。しかし悪筆で手書きは無理である。
版画やイラストを制作するセンスはない。市販品に頼ることなくオリジナル性を出すには
結局パソコンを使って制作するしかなかった。それで相手方の区分(親戚、友人、仕事関連)
別に自分の近況や周りの変化、自分の思いや希望、そんなことを織り込んで何パターンかの
文章を書き、それを出すようにしたのである。

年賀状は買った。「さて来年はどんな年賀状にしよう?」、もう1週間近くも考えているが、
まだ何のアイデアも浮かばない。元旦の配達は25日ごろまで投函にとか、後1週間である。
年の瀬を迎え世相も自分の周りも明るい話題は何もない。閉塞感に押しつぶされそうな
中で明るい話題を探すことは難しい。それでも、毎年年賀状をくれる人達にとって来年は
心から良い年であってほしいと思う。


デフレ

2009年12月11日 09時02分42秒 | Weblog
池袋東口駅前、明治通りに面した居酒屋は大勢のアルバイトがメニューを持って店の
前に立ち,、客引きをしている。料理270円均一、どの店も同じような値引き合戦である。
会社から帰り、自宅のある駅に降り立つと、首から看板をぶら下げた居酒屋のアルバイトが
やはり大声で客引きをしている。「ビールも半額で~す。料理は全品30%オフで~す!」
駅前には大手の居酒屋チェーンが2店ある。どちらかが、あるいは両店とも毎日立っている。
客引きが始まったのは今年の夏前ぐらいからだろう。1店が初めてすぐにもう1店が追従した。
もうひとつ、駅に隣接するインストアベーカリー、値引き開始は何時からかは分はからないが、
夕方はいつも「全品50%OFF」の立て看板が立っている。これも最近始めたことである。

先週土曜日映画を見に行って、映画館を出ると雨が降り始めていた。雨宿りで駅前の
西友に入ると、レジのところにビニール傘が出してあり、150円のプライスが付いている。
コンビニで350円と同程度の商品である。「安い傘が何本も家に溜まるが、まあ良いか」
結局安さに負けて買ってしまう。先般のニュースで西友で32型のテレビが39,800円で
売り出したとか。しかも同商品は「エコポイント」対象商品として、1万2000ポイントが
付与される。このため実質2万7800円で購入できる。またドンキホーテのジーンズが
690円とか。.280円弁当が出回り始めたとか。ここ何ヶ月かで、世の中底が抜けたような
安売り合戦のオンパレードである。

昨年のリーマンショックからの世界不況の波が我々の目にも見えるようになったのだろう。
企業業績の悪化、失業、買い控え、安売り、さらなる企業の業績悪化とデフレスパイラル
という現象が起こったのか、経済全体が収縮に向かっているといわれるようになってきた。
昨年から矢継ぎ早の景気対策の手が打たれ、金がつぎ込まれる。先日のニュースでは
来年度予算は国債を過去最大の53.5兆円発行し、経済対策に7.2兆円の財政
支出するとあった。税収(36・9兆円)見込みをはるかに超える国債という借金をして
までこのような経済対策をする必要があるのか、疑問を感じてしまうのである。

確かにリーマンショックが発端になってドミノ倒しのように世界中が影響を受けることになる。
しかしそれは今までがバブルで、正常な経済活動から逸脱していたから起こったのであろう。
世の中、何年も前から人を取り巻く環境は変わっていたのに、経済活動そのものが、身の丈に
合っていなかったのではないだろうか、だからバブルは遅かれ早かれ弾けたのである。
それをお金をつぎ込み、元のようにもどそうとするのは間違いのように思うのである。

昨年のリーマンショックからクルマが売れなくなった。それはすでに予兆は有ったのである。
先日新聞のコラムに「若者はなぜ車を買わなくなったのか?」のアンケートが載っていた。
「デートにクルマはいらない」「クルマに金をかける男はダサい」「事故の責任を負うのは嫌」
「税金や駐車場などいくらかかるか分からないのは不安」等々若者の意識は変化している。
車に対する意識が変化する中、エコカー減税をまた半年延ばす必要があるのだろうか?
事業仕訳で科学技術予算を削ってまで、高速道路を無料化する必要性があるのだろうか?
自動車産業は裾野が広く基幹産業という理由なのだろが、しかし温暖化問題の意識の
高まりの中でいずれ自動車産業は大きく変化を求められ、次第に淘汰されるのであろう。
そんな産業のテコ入れをするのは少し方向が違うように思うのである。
小さな島国の日本、車で走り回る世の中より、車なしで生活できる世の中を目指すべき
なのではないだろうかと思う。電気バスの路線網の充実、路面電車の復活、自転車専用
道路の充実、そんなお金の使い方の方が、国が目指す方向が国民に分かりやすいし、
理解も得やすいと思うのだが、どうだろう。

もう、大きな駐車場の大型スーパーはいらない。ブランド品をこれ見よがしに売る百貨店も
時代のニーズに合わない。安いだけのありきたりのメニューしかないレストランも居酒屋も立ち
ゆかなくなるかも知れない。今の企業活動の延長線上に将来に続く道はないようである。
多分、ますますデフレの現象は激しくなっていくように思う。これは今までと違って、社会の
仕組や価値観が変わって行き、大きくダウンサイジングするために必要不可欠な現象では
ないだろうか。地球温暖化にブレーキをかけるには消費社会、使い捨て、物への執着から
我々の意識は、文化的な活動、精神的な充実など、物の豊かさより、精神的な豊かさ
に方向転換すべきなのだろうと思う。

今の若者を見ていると、我々世代と違って慎ましやかに生活し、どちらかといえば精神的な
充実を求めているように思う。彼らにとってバブリーな生活は望んでいないのである。
だから、今の社会の方向にジレンマを感じ、絶望し、結婚しない、子供を産まない、などの
社会現象にも通じるようにも思うのである。そんな状況の中いまだに方向を見いだせず、
バブルに未練を残しているのはバブル期に育った40代以降の人々が多いように思ってしまう。

地球温暖化が68億人の人間の消費活動や生産活動に起因することは間違いないだろう。
鳩山政権が温室効果ガスの25%削減を目標に掲げたは評価できる。しかしそれならエコカー
減税や、高速道路無料化はやるべきでなく。世界の模範となるような社会インフラを大胆に
変更すべきだと思うのである。そうすれば今の若者にも展望が開け、将来に対し意欲を持てる
ようにも思うのである。700兆円に及ぶ大量の国債という借金や、地球温暖化の危機を
後世の人達に残さないためにも、我々自身が自分のエゴを抑えなければいけない時であろう。
自分でも、何か高邁な理想論を言っているように思うが、歳をとってきて欲がなくなってくると、
次第にこういう考え方になっていくようである。

富岡製糸場

2009年12月04日 09時00分54秒 | Weblog
JRの駅構内のラックにあった冊子の中に「小さな旅-富岡製糸場というのが目に付いた。
以前ニュースで富岡製糸場が世界遺産を目指すというような記事があったのを思い出し、
早速行ってみることにする。このあたりの腰の軽さは我ながら感心なところである。

西武線を秋津で乗り換え、武蔵野線で新秋津から南浦和へ、京浜東北で浦和に行き、
そこから高崎線に乗り換える。高崎までは快速アーバンで1時間20分ほどの所要時間。
車中で新聞をゆっくり読み、余った時間で単行本を読む、この時が至福の時である。
高崎は群馬県一の都市であるが、駅前はそれほどのにぎわいはなく静かな感じであった。
高崎から上信電鉄の2両編成の電車に乗り換えて約40分。上州富岡で下車をする。
富岡で降りた乗客は10人程度、観光客らしき人が4、5人で後は地元の人であろう。
駅前に3台のタクシーがいるが、誰も利用することなく三方に散っていった。駅は瞬く間に
人がいなくなって、また元の静寂にもどったように感じる。

駅を出て商店街を富岡製糸場に向かう。休日というのに人がほとんど通らない商店街、
はたしてこれで商売になるのかと不思議である。商店街を抜けると国道245号線に出た。
国道を右に少し歩き又奥に入っていく。道は細くなり、車1台がやっと通れる路地になる。
両側の住宅は人の気配を感じないほど静まり返っている。ところどころに朽ち果てた廃屋が
あり、過疎化が進行していく街の現状を目の当たりに見る感じである。
高崎、富岡駅、商店街、そしてこの路地と、進むほどに非日常の世界に中に入り込む。
東京の喧騒に比べると時の流れが遅くなっていくように感じてしまう。歳とともにこのゆったり
とした雰囲気の方が心地よい感じである。やがて路地は広い道に出て長い塀にぶつかる。
塀の中には高い煙突が見える。駅から歩いて約20分、目的の富岡製糸場に着いた。
施設を囲む入口の塀に「祝、世界遺産暫定リストに記載」の横断幕が掲げられている。

入場料500円を払って中に入る。眼前にレンガ作りの2階建ての建物が立ちはだかる。
構造は木材の骨組みの間に、レンガを積み並べる工法で「木骨レンガ造」というものらしい。
説明書によると、富岡製糸場は明治5年の創業ということである。明治維新当時の日本は
急速に近代化を進めていた時期であり、その資金を稼いだのが最大の輸出品の生糸だった。
ところがこのブームは粗製濫造を産みだし、急速に日本生糸の評価をさげていったようだ。
そこで政府は最新式製糸器械を備えた模範工場をつくり、生糸製造の改良を行う計画を
立てる。明治3年、横浜のフランス商館勤務のポール・ブリューナの指導を得て上州富岡に
適地を見いだし、明治4年から建設は始まり、翌年7月に竣工10月に操業が始まった。
繭を生糸にする繰糸工場には300釜の繰糸器が置かれ、約400人の工女さんの手に
よって本格的な機械製糸が始まったということである。

左手に入り口でもらったパンフレットを持ち、右手にデジカメを持って広い敷地を見て回る。
繭倉庫、乾燥場、繰糸場、女工館、診療室、病室、寄宿舎、1万5000坪に及ぶ
敷地内にそれぞれの役割を担った施設がまとめてある。フランス人の指導で建築され
操業したこの工場は当時としては日本一の近代工場、この富岡の街も活気にあふれて
いたのかもしれない。

敷地内を歩いていると、ガイドさん付きで回っている20名近くの集団に出会った。
しばらく、その集団の後をついて話を聞くことにする。 60歳を過ぎた白髪のその人は
この富岡出身のボランティアのガイドさんであるということである。施設の説明はあらかた
終わっていたようで、今は世界遺産についての話をしているようである。
今世界遺産は全世界で750ケ所の登録があるそうである。そのうち日本では広島の
平和記念公園や日光、姫路城、京都奈良の文化財など14ケ所が登録されている。
そして世界遺産暫定リストには平泉、鎌倉やここ富岡製糸場など12ケ所だそうだ。
暫定リストは、世界遺産登録に先立ち、各国がユネスコ世界遺産センターに提出する
リストのことで、原則として、文化遺産については、このリストに掲載されていないものを、
世界遺産委員会に登録推薦することは認められていないということである。

だからといって暫定リストにあるから世界遺産に登録されることにはならないようである。
はたしてこの富岡製糸場が世界遺産の価値があるのだろうかと考えてみる。たしかに
明治初期に造られたこの工場、日本の産業革命の原点に位置するものなのだろう。
今は国の重要文化財になっている。しかしこれを世界遺産に認定させるには少し
無理があるように思ってしまう。よくテレビ番組などで見る世界遺産と比べると、大きく
見劣りしてしまうように思う。世界の遺産というよりローカルの遺産なのではないだろうか、
そんな風に思いながら説明を聞いていた。

昭和62年に操業停止するまで115年間にわたり休むことなく活躍してきた工場、
20数年前に操業停止してから、人が去り、物が流れなくなって、富岡の灯が消えた
ように寂しくなっていった。「我々はこの富岡製糸場を世界遺産に登録されることが夢で、
そのために一人でも多くの人に、富岡製糸場のことを知ってもらいたいと思っています」
そんな話でガイドさんは話を締めくくった。

富岡製糸場を見終わって、門の外にある食堂で遅い昼食を取って、再び街中を歩き、
駅まで戻る。商店のウインドウの中に「目指せ!世界遺産」そんなポスターが貼ってあった。
もう何年もこの場所に貼ってあるのであろう。そのポスターも街と同じように色あせていた。