先週はTVで、映画「あなたへ」の宣伝番組を頻繁にやっていた。その内容のほとんどが、「高倉健の存在感」の賛美である。競演した俳優が口々に、「すごい、彼の圧倒的な存在感を改めて感じる」、「彼は画面に映っているだけで良い」、「高倉健が出演するから皆が集まった」、「高倉健は私の俳優人生のお手本です」、「彼は自分の役を普通に演じている。役者は普通にやることが一番難しい。高倉健には感動する」等々である。反対に高倉健はインタビューの中で、「こういう素晴らしい監督がいることを知ってもらうために私は出演した」。競演した大滝秀治評して、「あの人が相手でいただけで、この映画に出て良かったと思う」などと、お互いがお互いを褒めあう、お手盛りの賞賛合戦の様相である。こういうのを聞くと、「どれほどの物か、観てやろうじゃないか」と、私の反発心が起き上がる。・・・ということで早速観に行くことにした。(まんまと映画会社の戦略にはまってしまったのかも知れないのだが)
私が最初に高倉健を見たのは20才前後であろう。昭和40年代後半、「網走番外地」のシリーズを何本か見たときである。雪の舞う網走刑務所を出所して、娑婆に出てくるところから映画は始まる。やくざ家業であるが、その中でも良い方悪い方があるのだろう。主人公は悪徳やくざの非道な仕打ちに耐えに耐えるが、やがてそれに我慢が出来なくなって、一人脇差を引っさげて相手やくざの事務所に乗り込んで行く。そんな展開がお定まりのストーリーであったように覚えている。いわゆる任侠映画というやつである。当時は娯楽も少なく映画の黄金期であったから、学生仲間でも圧倒的な人気があった。そして誰もが高倉健の歌う「網走番外地」の歌を口ずさんだものである。「♪春に 春に追われし 花も散る。 酒ひけ酒ひけ 酒暮れて、 どうせ俺らの行く先は、 その名も網走番外地~、」
就職して東京に出てからは映画はほとんど観なくなった。だから高倉健の映画を再び観たのは最近の10年で、「鉄道員」(ぽっぽや)、田中裕子と夫婦役の「ホタル」、「単騎、千里を走る」の3本ぐらいである。「鉄道員」「ホタル」は高倉健の、「不器用ですから・・・・」の台詞のイメージが、役柄と合っていて秀作だと思った。しかし中国ロケの「単騎、千里を走る」は、広大な中国の地で、さすがの高倉健の存在感も埋もれてしまい、なんとなくボケた映画だったように思う。そしてその映画で、年齢からなのか俳優としての衰えのようなものを感じたのである。多分、本人もこの作品で自分の限界を感じたのかもしれない。だから今回の作品までの6年間、映画には出演しなかったのであろうと思っている。
さて映画「あなたへ」であるが、高倉健は富山刑務所で指導技官をする倉島英二の役である。ある日、亡き妻・洋子から託されたと、NPOの人が2枚の手紙を届けにくる。1枚は絵手紙で、それには一羽のスズメの絵とともに「故郷の海を訪れ、散骨して欲しい」との願いが記されていた。そして、もう1枚は洋子の故郷・長崎県平戸の郵便局へ“局留め郵便”にするから、現地に行って見て欲しいという伝言であった。
妻の洋子(田中裕子)は刑務所に慰問に来ていた歌手で、それが縁で英二が50歳を目前で結婚した。晩婚だった二人は子供を望まず穏やかで落ち着いた夫婦二人の生活を営んでいた。英二にしてみれば15年間連れ添った妻とは、お互いを理解し合えていたと思っていた。「それなのになぜ??妻は生前に散骨してほしいという想いを伝えてくれなかったのか・・・」、という不信感が募る。しかし英二は妻の遺言通りに散骨をすることを決め、ひとり車を運転して妻の故郷の平戸へ向かう。そして平戸の郵便局で局留めになっていた妻からの手紙を受け取った。しかし、そこには一羽のスズメの絵と、ただ「さようなら」としか書かれていなかったのである。
妻の故郷平戸を目指す旅の途中で、英二は多くの人々と出会う。彼らと心を通わせ、彼らの家族や夫婦の悩みや想いに触れていくうちに、洋子との心温かくも何気ない日常の記憶の数々がよみがえってくる。さまざまな人生に触れ、さまざまな想いを胸に、目的の地に辿り着いた英二は、遺言通りに平戸の海で散骨をする。そのとき妻の本当の想いが解かったように思った。 そのようなストーリーの映画である。
映画を観て、私なりに妻が夫に伝えたかった想いというものを解釈してみた。一つは夫への15年間の感謝であろう。そしてもう一つは、あとに残る夫が自分の死にとらわれることなく、自分の人生を生きて欲しいという想いだったのだろう。お墓を残さず、自分の骨を散骨にしてもらうことで、夫へ伝えようとしたメッセージのように思うのである。
さてこれからが私の感想である。まず映画に、大昔の歌手が〈懐かしのメロディー〉を歌うときのような「哀れさ、痛々しさ」のようなものを感じるのである。主人公の倉島英二は嘱託社員といえど65歳以下の設定であろう。15年間の結婚生活の以前の、めぐり会いからの回想場面もあることから、英二は40代後半からのことになる。これを81歳の高倉健が演じることに無理があるように思う。いくら歳より若く見えると言っても30歳のギャップは埋めきれない。やはりどこかに年齢が出てしまう。入れ歯なのか口元にはシワがより、喋り方もたどたどしくカスレ声である。それと一番年齢が現れるのは手であろう。静脈が浮き上がった手は、黒いシミとシワでいかにも老人の手である。ポケットに手を入れたり、手を重ねることで隠そうとするが、どうしても目に付いてしまうのである。
田中裕子(57歳)の演じる妻は53歳で亡くなったことになっている。結婚前の回顧シーンはそれから17、8年前にさかのぼるのだろうから30代の半ばからである。大女優であっても彼女のイメージが出来上がっているだけに、若さの演技にぎこちなさを感じるのである。さらに言えば海に散骨に向かう船の船長は大滝秀治(87歳)である。やせ細った体で前のめりに歩く姿は、とても現役で舟に乗る船乗りには見えない。監督が78歳の降旗 康監督、老人達が作る老人の映画という感じがしてしまい、老骨に鞭打ってがんばっている姿が痛々しく哀れなのである。
次に映画の内容である。若い人が年寄りを演じるときはメーキャップでそれと解かるが、年寄りが若さを演じるとそれが利かず、通して同じ年齢に見えてしまう。映画は多くの回想シーンを散りばめているのだが、その回想シーンもセピアにしたりカラーだったりと統一性がない。そんなことで場面場面の時間の位置関係が解かりづらく戸惑ってしまう。それと旅の途中で出会う人々の話も唐突でわざとらしく、映画全体の流れがギクシャクして、映画の世界にすんなりと入っていけない感じであった。
原作を読んでいないからなんともいえないが、主題は、妻の遺言を切っ掛けに日本の美しい風景の中を旅をして行く。その途中に大勢の人々と出会い、人のめぐり合いの妙や、面白さ大切さを感じ、自分の妻との出会いや結婚生活の意義を見つめなおす。そして妻を失った後の自分の人生を考えていく。そんな文学的な話なのだろうと思う。
しかしそうであれば年老いた高倉健はミスキャストである。どうしても過去の高倉健のイメージに引きづられ、彼の存在感を強調する演出に終始しているように感じる。高倉健の朴訥な物言い、目深に被った帽子、海を見つめながらたたずみ、霧に包まれた竹田城址に立ち、夕日の中で散骨する。彼のカッコ良さを見せる、・・・これはもう昔の「高倉健の映画」から、なにも変わっていないように思ってしまう。
「網走番外地」のように高倉健の存在感で見せようとするのであれば、すでにその威力は失われている。「あなたへ」という映画、高倉健の「存在感」という亡霊が付きまとっているように感じてしまった。
下関側から関門海峡を隔てて対岸の門司を見つめる
私が最初に高倉健を見たのは20才前後であろう。昭和40年代後半、「網走番外地」のシリーズを何本か見たときである。雪の舞う網走刑務所を出所して、娑婆に出てくるところから映画は始まる。やくざ家業であるが、その中でも良い方悪い方があるのだろう。主人公は悪徳やくざの非道な仕打ちに耐えに耐えるが、やがてそれに我慢が出来なくなって、一人脇差を引っさげて相手やくざの事務所に乗り込んで行く。そんな展開がお定まりのストーリーであったように覚えている。いわゆる任侠映画というやつである。当時は娯楽も少なく映画の黄金期であったから、学生仲間でも圧倒的な人気があった。そして誰もが高倉健の歌う「網走番外地」の歌を口ずさんだものである。「♪春に 春に追われし 花も散る。 酒ひけ酒ひけ 酒暮れて、 どうせ俺らの行く先は、 その名も網走番外地~、」
就職して東京に出てからは映画はほとんど観なくなった。だから高倉健の映画を再び観たのは最近の10年で、「鉄道員」(ぽっぽや)、田中裕子と夫婦役の「ホタル」、「単騎、千里を走る」の3本ぐらいである。「鉄道員」「ホタル」は高倉健の、「不器用ですから・・・・」の台詞のイメージが、役柄と合っていて秀作だと思った。しかし中国ロケの「単騎、千里を走る」は、広大な中国の地で、さすがの高倉健の存在感も埋もれてしまい、なんとなくボケた映画だったように思う。そしてその映画で、年齢からなのか俳優としての衰えのようなものを感じたのである。多分、本人もこの作品で自分の限界を感じたのかもしれない。だから今回の作品までの6年間、映画には出演しなかったのであろうと思っている。
さて映画「あなたへ」であるが、高倉健は富山刑務所で指導技官をする倉島英二の役である。ある日、亡き妻・洋子から託されたと、NPOの人が2枚の手紙を届けにくる。1枚は絵手紙で、それには一羽のスズメの絵とともに「故郷の海を訪れ、散骨して欲しい」との願いが記されていた。そして、もう1枚は洋子の故郷・長崎県平戸の郵便局へ“局留め郵便”にするから、現地に行って見て欲しいという伝言であった。
妻の洋子(田中裕子)は刑務所に慰問に来ていた歌手で、それが縁で英二が50歳を目前で結婚した。晩婚だった二人は子供を望まず穏やかで落ち着いた夫婦二人の生活を営んでいた。英二にしてみれば15年間連れ添った妻とは、お互いを理解し合えていたと思っていた。「それなのになぜ??妻は生前に散骨してほしいという想いを伝えてくれなかったのか・・・」、という不信感が募る。しかし英二は妻の遺言通りに散骨をすることを決め、ひとり車を運転して妻の故郷の平戸へ向かう。そして平戸の郵便局で局留めになっていた妻からの手紙を受け取った。しかし、そこには一羽のスズメの絵と、ただ「さようなら」としか書かれていなかったのである。
妻の故郷平戸を目指す旅の途中で、英二は多くの人々と出会う。彼らと心を通わせ、彼らの家族や夫婦の悩みや想いに触れていくうちに、洋子との心温かくも何気ない日常の記憶の数々がよみがえってくる。さまざまな人生に触れ、さまざまな想いを胸に、目的の地に辿り着いた英二は、遺言通りに平戸の海で散骨をする。そのとき妻の本当の想いが解かったように思った。 そのようなストーリーの映画である。
映画を観て、私なりに妻が夫に伝えたかった想いというものを解釈してみた。一つは夫への15年間の感謝であろう。そしてもう一つは、あとに残る夫が自分の死にとらわれることなく、自分の人生を生きて欲しいという想いだったのだろう。お墓を残さず、自分の骨を散骨にしてもらうことで、夫へ伝えようとしたメッセージのように思うのである。
さてこれからが私の感想である。まず映画に、大昔の歌手が〈懐かしのメロディー〉を歌うときのような「哀れさ、痛々しさ」のようなものを感じるのである。主人公の倉島英二は嘱託社員といえど65歳以下の設定であろう。15年間の結婚生活の以前の、めぐり会いからの回想場面もあることから、英二は40代後半からのことになる。これを81歳の高倉健が演じることに無理があるように思う。いくら歳より若く見えると言っても30歳のギャップは埋めきれない。やはりどこかに年齢が出てしまう。入れ歯なのか口元にはシワがより、喋り方もたどたどしくカスレ声である。それと一番年齢が現れるのは手であろう。静脈が浮き上がった手は、黒いシミとシワでいかにも老人の手である。ポケットに手を入れたり、手を重ねることで隠そうとするが、どうしても目に付いてしまうのである。
田中裕子(57歳)の演じる妻は53歳で亡くなったことになっている。結婚前の回顧シーンはそれから17、8年前にさかのぼるのだろうから30代の半ばからである。大女優であっても彼女のイメージが出来上がっているだけに、若さの演技にぎこちなさを感じるのである。さらに言えば海に散骨に向かう船の船長は大滝秀治(87歳)である。やせ細った体で前のめりに歩く姿は、とても現役で舟に乗る船乗りには見えない。監督が78歳の降旗 康監督、老人達が作る老人の映画という感じがしてしまい、老骨に鞭打ってがんばっている姿が痛々しく哀れなのである。
次に映画の内容である。若い人が年寄りを演じるときはメーキャップでそれと解かるが、年寄りが若さを演じるとそれが利かず、通して同じ年齢に見えてしまう。映画は多くの回想シーンを散りばめているのだが、その回想シーンもセピアにしたりカラーだったりと統一性がない。そんなことで場面場面の時間の位置関係が解かりづらく戸惑ってしまう。それと旅の途中で出会う人々の話も唐突でわざとらしく、映画全体の流れがギクシャクして、映画の世界にすんなりと入っていけない感じであった。
原作を読んでいないからなんともいえないが、主題は、妻の遺言を切っ掛けに日本の美しい風景の中を旅をして行く。その途中に大勢の人々と出会い、人のめぐり合いの妙や、面白さ大切さを感じ、自分の妻との出会いや結婚生活の意義を見つめなおす。そして妻を失った後の自分の人生を考えていく。そんな文学的な話なのだろうと思う。
しかしそうであれば年老いた高倉健はミスキャストである。どうしても過去の高倉健のイメージに引きづられ、彼の存在感を強調する演出に終始しているように感じる。高倉健の朴訥な物言い、目深に被った帽子、海を見つめながらたたずみ、霧に包まれた竹田城址に立ち、夕日の中で散骨する。彼のカッコ良さを見せる、・・・これはもう昔の「高倉健の映画」から、なにも変わっていないように思ってしまう。
「網走番外地」のように高倉健の存在感で見せようとするのであれば、すでにその威力は失われている。「あなたへ」という映画、高倉健の「存在感」という亡霊が付きまとっているように感じてしまった。
下関側から関門海峡を隔てて対岸の門司を見つめる