60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

高倉健

2012年08月31日 09時26分34秒 | Weblog
 先週はTVで、映画「あなたへ」の宣伝番組を頻繁にやっていた。その内容のほとんどが、「高倉健の存在感」の賛美である。競演した俳優が口々に、「すごい、彼の圧倒的な存在感を改めて感じる」、「彼は画面に映っているだけで良い」、「高倉健が出演するから皆が集まった」、「高倉健は私の俳優人生のお手本です」、「彼は自分の役を普通に演じている。役者は普通にやることが一番難しい。高倉健には感動する」等々である。反対に高倉健はインタビューの中で、「こういう素晴らしい監督がいることを知ってもらうために私は出演した」。競演した大滝秀治評して、「あの人が相手でいただけで、この映画に出て良かったと思う」などと、お互いがお互いを褒めあう、お手盛りの賞賛合戦の様相である。こういうのを聞くと、「どれほどの物か、観てやろうじゃないか」と、私の反発心が起き上がる。・・・ということで早速観に行くことにした。(まんまと映画会社の戦略にはまってしまったのかも知れないのだが) 

 私が最初に高倉健を見たのは20才前後であろう。昭和40年代後半、「網走番外地」のシリーズを何本か見たときである。雪の舞う網走刑務所を出所して、娑婆に出てくるところから映画は始まる。やくざ家業であるが、その中でも良い方悪い方があるのだろう。主人公は悪徳やくざの非道な仕打ちに耐えに耐えるが、やがてそれに我慢が出来なくなって、一人脇差を引っさげて相手やくざの事務所に乗り込んで行く。そんな展開がお定まりのストーリーであったように覚えている。いわゆる任侠映画というやつである。当時は娯楽も少なく映画の黄金期であったから、学生仲間でも圧倒的な人気があった。そして誰もが高倉健の歌う「網走番外地」の歌を口ずさんだものである。「♪春に 春に追われし 花も散る。 酒ひけ酒ひけ 酒暮れて、 どうせ俺らの行く先は、 その名も網走番外地~、」

 就職して東京に出てからは映画はほとんど観なくなった。だから高倉健の映画を再び観たのは最近の10年で、「鉄道員」(ぽっぽや)、田中裕子と夫婦役の「ホタル」、「単騎、千里を走る」の3本ぐらいである。「鉄道員」「ホタル」は高倉健の、「不器用ですから・・・・」の台詞のイメージが、役柄と合っていて秀作だと思った。しかし中国ロケの「単騎、千里を走る」は、広大な中国の地で、さすがの高倉健の存在感も埋もれてしまい、なんとなくボケた映画だったように思う。そしてその映画で、年齢からなのか俳優としての衰えのようなものを感じたのである。多分、本人もこの作品で自分の限界を感じたのかもしれない。だから今回の作品までの6年間、映画には出演しなかったのであろうと思っている。
 
 さて映画「あなたへ」であるが、高倉健は富山刑務所で指導技官をする倉島英二の役である。ある日、亡き妻・洋子から託されたと、NPOの人が2枚の手紙を届けにくる。1枚は絵手紙で、それには一羽のスズメの絵とともに「故郷の海を訪れ、散骨して欲しい」との願いが記されていた。そして、もう1枚は洋子の故郷・長崎県平戸の郵便局へ“局留め郵便”にするから、現地に行って見て欲しいという伝言であった。

 妻の洋子(田中裕子)は刑務所に慰問に来ていた歌手で、それが縁で英二が50歳を目前で結婚した。晩婚だった二人は子供を望まず穏やかで落ち着いた夫婦二人の生活を営んでいた。英二にしてみれば15年間連れ添った妻とは、お互いを理解し合えていたと思っていた。「それなのになぜ??妻は生前に散骨してほしいという想いを伝えてくれなかったのか・・・」、という不信感が募る。しかし英二は妻の遺言通りに散骨をすることを決め、ひとり車を運転して妻の故郷の平戸へ向かう。そして平戸の郵便局で局留めになっていた妻からの手紙を受け取った。しかし、そこには一羽のスズメの絵と、ただ「さようなら」としか書かれていなかったのである。

 妻の故郷平戸を目指す旅の途中で、英二は多くの人々と出会う。彼らと心を通わせ、彼らの家族や夫婦の悩みや想いに触れていくうちに、洋子との心温かくも何気ない日常の記憶の数々がよみがえってくる。さまざまな人生に触れ、さまざまな想いを胸に、目的の地に辿り着いた英二は、遺言通りに平戸の海で散骨をする。そのとき妻の本当の想いが解かったように思った。 そのようなストーリーの映画である。

 映画を観て、私なりに妻が夫に伝えたかった想いというものを解釈してみた。一つは夫への15年間の感謝であろう。そしてもう一つは、あとに残る夫が自分の死にとらわれることなく、自分の人生を生きて欲しいという想いだったのだろう。お墓を残さず、自分の骨を散骨にしてもらうことで、夫へ伝えようとしたメッセージのように思うのである。

 さてこれからが私の感想である。まず映画に、大昔の歌手が〈懐かしのメロディー〉を歌うときのような「哀れさ、痛々しさ」のようなものを感じるのである。主人公の倉島英二は嘱託社員といえど65歳以下の設定であろう。15年間の結婚生活の以前の、めぐり会いからの回想場面もあることから、英二は40代後半からのことになる。これを81歳の高倉健が演じることに無理があるように思う。いくら歳より若く見えると言っても30歳のギャップは埋めきれない。やはりどこかに年齢が出てしまう。入れ歯なのか口元にはシワがより、喋り方もたどたどしくカスレ声である。それと一番年齢が現れるのは手であろう。静脈が浮き上がった手は、黒いシミとシワでいかにも老人の手である。ポケットに手を入れたり、手を重ねることで隠そうとするが、どうしても目に付いてしまうのである。

 田中裕子(57歳)の演じる妻は53歳で亡くなったことになっている。結婚前の回顧シーンはそれから17、8年前にさかのぼるのだろうから30代の半ばからである。大女優であっても彼女のイメージが出来上がっているだけに、若さの演技にぎこちなさを感じるのである。さらに言えば海に散骨に向かう船の船長は大滝秀治(87歳)である。やせ細った体で前のめりに歩く姿は、とても現役で舟に乗る船乗りには見えない。監督が78歳の降旗 康監督、老人達が作る老人の映画という感じがしてしまい、老骨に鞭打ってがんばっている姿が痛々しく哀れなのである。

 次に映画の内容である。若い人が年寄りを演じるときはメーキャップでそれと解かるが、年寄りが若さを演じるとそれが利かず、通して同じ年齢に見えてしまう。映画は多くの回想シーンを散りばめているのだが、その回想シーンもセピアにしたりカラーだったりと統一性がない。そんなことで場面場面の時間の位置関係が解かりづらく戸惑ってしまう。それと旅の途中で出会う人々の話も唐突でわざとらしく、映画全体の流れがギクシャクして、映画の世界にすんなりと入っていけない感じであった。

 原作を読んでいないからなんともいえないが、主題は、妻の遺言を切っ掛けに日本の美しい風景の中を旅をして行く。その途中に大勢の人々と出会い、人のめぐり合いの妙や、面白さ大切さを感じ、自分の妻との出会いや結婚生活の意義を見つめなおす。そして妻を失った後の自分の人生を考えていく。そんな文学的な話なのだろうと思う。
 しかしそうであれば年老いた高倉健はミスキャストである。どうしても過去の高倉健のイメージに引きづられ、彼の存在感を強調する演出に終始しているように感じる。高倉健の朴訥な物言い、目深に被った帽子、海を見つめながらたたずみ、霧に包まれた竹田城址に立ち、夕日の中で散骨する。彼のカッコ良さを見せる、・・・これはもう昔の「高倉健の映画」から、なにも変わっていないように思ってしまう。
 「網走番外地」のように高倉健の存在感で見せようとするのであれば、すでにその威力は失われている。「あなたへ」という映画、高倉健の「存在感」という亡霊が付きまとっているように感じてしまった。

              

              
              下関側から関門海峡を隔てて対岸の門司を見つめる



恋愛

2012年08月24日 11時34分32秒 | Weblog
 歳を取るとおせっかいになるのか、周りにいる未婚の男女の恋愛問題について口を挿むことが多くなった。それは人生経験の故か、旨くいかない男女関係の相談を受けても、その見通しが意外と利くようになったと思うからである。我々の時代は周りの人々が仲を取り持ったり、見合いをセットしたりと気を回してくれていたが、今は自分で相手を見つけ、自分の行動と判断で決めていかなければいけない。したがって多くの若者が自分の思いだけで突っ走ったり、将来設計を考えすぎるあまり現実と折り合わず、婚期を逸したりすることが多いように思う。

 最近相談に乗っている中で、ある仕入先の営業マンの例がある。彼は29歳、関西出身で東京の私立大学を卒業して、大手合成樹脂の会社の東京支店に勤めている。東京支店には女性社員も多く、その中の24歳の事務員を好きになった。何度かのデートを重ねて順調だと思っていた彼は、より親密さを演出するためにスポーツタイプの車を買った。金額は320万円、そのすべてをローンにして買ったようである。そして彼女を誘ってドライブに行くようになる。その当りから彼女との関係はかみ合わずギクシャクするようになっていく。

 彼はどうしても30歳までに結婚したいと思っている。しかし24歳の彼女はまだ遊びたい盛りで、そんな気は無いようである。そのあたりの温度差があったからなのか、それとも安月給なのに、すべてローンで車を買う無謀さを嫌ったのか、彼女が次第に離れていくようになった。昨年の暮れに社内の若い人達で忘年会があり、2人も出席した。2次会でカラオケ店に繰り出したとき、別の席で別の男性と親しく話す彼女を見て、とうとう彼は切れてしまい店内で大暴れしたそうである。翌日そのうわさは社内に広まり、2人の関係は決定的になってしまった。

 そんな事件の後で私に相談に来たわけである。だれが考えても元には戻りえないと思うのだが、それでも彼はよりをもどし、何とか結婚まで持っていきたいという。「自分の気持ちを、もう一度彼女に伝えようと思っているのですが、どう思いますか?」と聞かれた。さてどう答えようと迷ったが、「多分今、彼女は追われれば追われるほど逃げると思う。だからここは先日の非礼を詫びて、今後社内で彼女に会っても挨拶はするが一切誘わないようにする。3ヶ月、半年しても彼女からアプローチがなければ、彼女にその気持ちがないのだからさっぱり諦めたほうが良い。もし彼女に少しでも気持ちが残っていれば、彼女の方から誘ってくるはずだから、それまで待つしかないと思う」、そう言っておいた。その後、彼は定期的に私に経過報告してくれるようになる。

 しばらくして社内で彼女に会っても無視はされなくなり、相手から声をかけてくれるようになったそうである。しかしその時思わず誘ってしまい、その都度体よく断られたそうである。彼は私のアドバイスは聞かず、何とかしたい一心で食いついていったのであろう。それからはもう誘うことも出来なくなり、半年が過ぎてしまった。先日彼が仕事で訪ねて来た時、「どうしても彼女を諦められないから、もう一度だけチャンスを作りたい」と言う。「自分は趣味でバンドを組んでリードギターをやっている。10月に発表会をやるから、その時に彼女を誘って見たい。彼女が来てくれるようだったら、それを切っ掛けにもう一度アタックしてみる」と言う。彼の一途な思いは可愛そうに思うほどである。

 私は彼の熱くなる気持ちに水を差しておかなければと思い、「多分彼女はめんどくさいから来ないと思うよ。そのときはもうきっぱり諦めるんだね」、「結局ほれた方が弱いわけで、貴方は選ばれる方になっている。カッコ良くスポーツカーを乗り回す男、リードギターを弾くバンドマンは彼女に対してなんのポイントにもなっていないと思う。だからもう外見にこだわるのはやめて、少し本でも読んで内面の充実を図ることの方が大切だと思う。急がば回れだと思うんだが・・・」、そんなようなことを話しておいた。彼は私から見ても、気さくで明るい性格で悪い男ではないように思う。しかし彼の行動や考え方は年齢の割には幼く軽い感じがする。そして女性から見たとき、多分彼には「何か」が足らないのであろう。だから結婚対象から除外されるのかもしれない。その「何か」が男には良く分からないのである。

 最近見た記事に、「近年の若者に多くみられる恋愛スタイル」の特徴として、1.相手からの賞賛を得たがる。2.相手からの評価が気になる。3.相手の挙動から目が離せなくなる。そして結果として多くの場合、交際が長続きしない。と書いてあった。これらの特徴をもつ恋愛を「アイデンティティのための恋愛」と名づけ、最近は相手に愛情を注ぐ他者愛よりも、自分を認めて欲しいという自己愛の方が上回るような恋愛傾向にあるということである。
 これを今回の話に当てはめると、彼は自分自身に十分な自信がないため、その自信を補強するためにスポーツカーで箔をつけようとした。そして今度は自分の演奏する姿を見せることで自分の評価を上げようとするのだろう。結局彼の恋愛は本当に彼女のことを思う愛情ではなく、好きだと思う女性に自分を認めて欲しいという自己愛の方が上回るような恋愛なのかも知れない。だから彼が今後も今の路線で結婚相手を探す限り、彼の努力は報われないのかもしれない。

そして同じ記事の中に「本当の恋愛とは」として、
1.相手に条件を求めず、ありのままの相手を好きになろうとする。
2.自分のことを考えるのではなく、相手のこと二人のことを考えるようにする。
3.ありのままの自分を相手に出すようにする。
4.精神的に支えあう存在になるように意識する。
5.今だけでなく、将来の二人のことに思いをはせるようにする。
6.ときめくから好き、と言う時期を越えて、「安心感や信頼感を持てるから好き」へ移行することを喜ぶ。 とあった。

恋愛の成就は頭で考えれば考えるほど、面倒なものである。

クラシックギター

2012年08月17日 08時19分22秒 | Weblog
 以前このブログにも書いたが、老後に向かって、「自己表現の手段を持つ」が自分の大きなテーマである。そう思って水彩画をはじめたのだが、水彩画の次はギターと思っている。そのために手ごろなギターが欲しい。そんなことで会社の近くにある質流れの展示品を覗いてみた。楽器だから当然ピンからキリまでのであるのだろうが、初心者に高い楽器はもったいない。だからといって安いギターで音が悪ければ練習していても気が乗らないようにも思ってしまう。「その点質流れ品は実質的な価値に比べて値段が安いだろう」、そう考えたからである。その質屋は楽器が得意なのか、店には管楽器から弦楽器、打楽器まで多くの楽器がそろっていた。ギターはエレキギターとフラメンコ用のギターは多いのだが、クラシックギターは5台しか置いていなかった。

 店主曰く、「今はエレキギターが主力でクラシックギターは流行りませんからね」、「まあギターを選ぶなら高い安いは二の次で、自分の好みの音色を選んだ方が良いと思いますよ」、「軽い音、明るい音、澄んだ音、落ち着いた音、楽器によって音色もさまざまですから、自分で試してみて好みの音色のギターが見つかれば良いのですが」、そう言って陳列してあった品を順次下ろして手渡してくれた。しかし今の私にはそれらのギターの調弦も出来ないし、音階も弾けない。したがって商品の良し悪しも、音色を聞き分ける耳もない。「まあ仕方がない」、とりあえずその中で一番安いギターを買うことにした。

 私がギターを最初に手にしたのは今から50年前である。学生になって1年間は学生寮に寄宿していた。寮生活にも慣れ同部屋以外の寮生のこともわかり始めた頃、ある部屋の寮生がギターがうまいという話を聞いた。それで何人かで彼の部屋に押しかけ、無理やり弾いてもらったことがある。「禁じられた遊び」の他何曲か聞かせてもらったと思うが、澄んだ音色で憂いを感じる演奏に、しばし聞きほれてしまった。たった一つの楽器でこれほど多彩に曲が弾けるのか?、その後何度か彼の部屋まで聞きに行き、「自分もやって見たい」と思うようになっていった。これがクラシックギターをはじめるきっかけである。当時から「思い立ったらすぐ実行」、「惚れやすの飽きやす」の性格、安いギターを買って見よう見まねで練習を始めたのである。

 2年生になって寮を出て学校の近くの農家の2階に下宿するようになった。やはりギターを始めて近所に下宿していた友人が、市内にギターを習いに行くと言い出した。これは好都合、「基礎から勉強してみたい」そう思って私も一緒に習いに行くことにした。教室は民間アパートの一室で、先生は40代の独身の男性だった。当時はクラシックギターはまだ盛んで常時10名程度の生徒が習いに来ていたように思う。ギターの持ち方、弦の押さえ方、はじき方、指の訓練方法まで、我流の弾き方を徹底的に否定され、基礎からスタートであった。そして何ヶ月かして練習曲を何曲か弾けるまでになった。しかし練習曲ばかりでは飽きたらない。「聞きなれた曲を弾いてみたい」、そう思って楽譜を買ってきて弾きはじめるようになる。やがてそちらの方に興味が向いて、1年足らずで教室には行かなくなってしまう。そして就職で東京に出てきてからはギターを手にすることもなくなってしまった。

 質屋でギターを買って家に帰り、早速調弦をはじめる。しかしどの弦がどの音程なのか?どこを押さえればどの音階になるのか?まったく覚えていなかった。ギターに触ってみれば多少は思い出すだろうと思っていたのだが、40数年の間にギターの知識も体で覚えた記憶もすっかり消えてしまっている。翌日、山野楽器に行って、ギターの教則本を買ってくる。そして教則本を見ながら1弦1弦音を合わせていき、一つ一つ弦を押さえて音階を覚えていく。まったく初心者と同じぎこちなさである。弦を押さえる指は開かず、弦をはじく指は動かず、右手と左手の連動もままならない。昔はレパートリーも10曲程度あり、人に聞かせるほどには弾けたのに・・・。さて50年前のレベルに戻るにはどれほどの時間を要するのだろうか? ある程度指が動くようになればギター教室に通うことも考えてみたいと思っていたのだが、果たしてそこまでいけるのか自信がなくなってしまった。

幸せ感

2012年08月10日 09時35分30秒 | Weblog
 先日のニュースで、FRBのバーナンキ議長が、国際学会にビデオメッセージを寄せ、「個人が実感できる幸せや豊かさなど、多様な経済指標の研究が必要との考えを表明した」、と報じていた。米国の中央銀行にあたるFRBは雇用を拡大し、物価を安定させることを政策運営の目的としているが、バーナンキ議長はFRBが政策を運営する際の判断材料としている国内総生産(GDP)や個人消費支出(PCE)などの経済統計の問題点とし、「指標が景気回復を示していても、現実には多くの個人や家庭が困難に直面していることがある」と指摘する。その上で、健康や教育、治安、家族や地域社会との良好な関係、雇用の安定などを例示して、国民の幸せを重視するブータンが導入した国民総幸福量(GNH)」にも言及し、「多様な経済指標があれば経済の現状分析や政策決定、将来見通しなどに役立つだろう」と期待感を示したようである。

 現状の経済成長はある意味行き着いてしまっているように思える。これから先さらに経済が豊かになり、生活が楽になったとしても、万人が幸せと感じるとは思えないのも確かである。GDPが日本の20分の1のブータン王国の国民の95パーセントが「自分は幸福」と感じているそうであるから、豊かさと幸せとは必ずしも連動するものではないのであろう。これからの時代、経済発展ばかりに目を向けるのではなく、人が幸せと感じる世の中とはいったいどんな社会なのか?、FRBのバーナンキ議長のコメントは経済政策一辺倒の行き詰まりから、そろそろ方向転換していく時期であると示唆しているのであろう。

 では人が「幸せを感じる」のはどんなときなのだろう? 自分の人生を振り返ってみても「幸せだなあ~」と感じたことは特に思い当たらない。しいてあげるなら、今が一番こころ穏やかで安定している時期なのだろうと思うぐらいである。考えるに「幸せ」という言葉に敏感なのは、どちらかといえば女性の方であるように思える。映画やドラマで、男性がプロポーズする相手に「貴女を幸せにするから・・・」とか、女性の親に結婚の承諾を得る時、「お嬢さんを幸せにしますから」と誓い、親も娘に対して「幸せになって・・・」と願っている。だから「幸せ」という言葉が何時も女性に付随してくるように思うのである。また本人も、「絶対幸せになってやるんだから・・・」と、幸せが一つの目標のような言い方を聞くが、男性が自分にその言葉を当てはめるのは(加山雄三以外)あまり聞いたことがない。

 「幸せ」を辞書で引くと、「運がよいこと。また、そのさま。幸福。幸運」としか書いていなくて、具体的な表記はないようである。ある機関の調査で「幸せ感を構成する条件」を調査したとき、健康・・・70%、家計・・・65%、家族・・・65%、という結果が出たようである。家族全員が健康で和気藹々とし、なに不自由なく暮らせること、それが絵に描いた幸せのようにも思えるが、それも少し違うように感じる。何を「幸せ」と感じるかは100人いれば100人違うのだろうし、同じ人でもそのときの状況や心の持ち方で違うようにも思える。そして「幸せ」とは待っていれば降ってくるものではなく、また人から与えられるものでもなく、自らが努力して得るもののように思うのである。

 先日妊娠6ヶ月の女性と話す機会があった。彼女は30代前半、華奢な体つきで低血圧症、また導眠剤を使わないと、まともな睡眠も取れないぐらいの不眠症で、なにかと体調不良な状態が多かったようにも見えた。だからなのか自分には子供は作れないし、あまり欲しいとも思っていなかったようである。しかし夫や親との会話の中に暗にその期待が伝わってくると、「まあやるだけやってみようか」と思い直し、不妊治療にチャレンジしてみることにしたそうである。そして1年以上に及ぶ辛く苦しい治療を経て、今年の春に目出度く妊娠したのである。それからも何度か危機もあったが、今は6ヶ月の安定期に入っている。彼女が言うには、妊娠したことで自分の体質が変わったのか、風邪も引かないし、食欲もあり、適度な疲れからか導眠剤を使わなくても寝られるようになったと言う。自分の中に迷いがなくなり、今が30年の人生の中で一番充実しているように思えると言う。彼女にとっては妊娠出産という、当面の大きな目標が現実のものになり、日々お腹の中で成長していく命を実感することで、自分の使命感のようなものが出来上がったのだろう。
 以前読んだ心理学の本に「幸せ感」について書いてあったことを思い出す。人が「幸せ」と感じる時は、自分が良い方に変化していると感じる時、その変化がフラットになった時は「幸せ感」は消失し、反対に自分が悪い方に変化していると感じる時はストレスを感じると書いてあった。この説からすれば彼女は自分の希望が叶い、良い方に変化している自分を日々感じることが出来るわけだから、今が一番「幸せ」な時期なのかもしれないと思うのである。

 ある調査によると日本人の幸福度は6.5点(10点満点)、幸福度の判断基準は「自分の理想との比較」(35.7%)が最多で、「他人や世間との比較」(24.1%)と続くそうである。この調査では男性は40代が幸福度が最も低く、歳を重ねるごとに上昇して行って80代が最高になるそうである。それに対して女性は60代をピークに幸福度は下降していくらしい。自分が関わる子育てで、成長を見守ってきた子供が巣立っていったとき、自分の置かれた環境に変化が感じられなくなるから幸福度は落ちるのであろうか。それに対して男性は仕事で家族の生活を支えるという責任やストレスを抱え、精神的に最も大変な時期が40代なのであろう。しかし退職後はそのことから開放され、自分のために使える時間が多くなる。趣味とか健康とか、自己の向上を目指すことで自分の変化を楽しんでいける。そんなことから幸福感は増していくように思うのである。

 こういうことから考えると、「幸せ」を感じたければ、自らを変化(向上)させて行けばいいのではないだろうかと考えてしまう。何かに打ち込み、日々の自分の成長を感じ取ることが出来れば、充実感というか「幸せ感」を得られるようになるのかもしれない。したがって「幸せな社会」とは経済的に豊かで便利で保護することではなく、経済的には豊かでなくても個人個人が自分の意思を発現し、活き活きと暮らせることに価値を置く社会であるように思うのである。

商品価値を貶(おとし)める

2012年08月03日 08時17分24秒 | Weblog
  7月28日は朝から猛烈な暑さ、これでは散歩に出られないと思い「TSUTAYA」 にDVDを借りに行く。新作2本、準新作1本を選んでレジに持って行った。店員が、「この3本、1泊2日で1,130円ですが、今5本借りると1000円です。どうしますか?」と問われる。選んだ3本に2本追加した方が安いというおかしな価格設定である。ふに落ちないが、もう一度陳列棚から2本を選んで1000円を支払い借り出した。後で選んだ2本は旧作で7泊8日の期間がある。別に全部を見なくてもいいのだが、借りたからには見ないで返すのは口惜しい。しかし、結局まともに観たのは2本だけで、後は面白くなくて途中で止めたのが1本、残りの2本は早送りと途中飛ばしで大体のストーリーを追っただけである。そして翌日の夜には全部を返してしまった。久々に借りてきたDVDだが、5本も映画を見なければいけないと思うと、意欲が失せてしまい楽しめないものである。

                

 先日、帰宅途中に池袋で「ABCマート」という靴屋を覗いてみた。紳士の靴売り場の壁面は2万円前後の高い靴が並び、中央部分のゴンドラにはお手ごろ品コーナーなのだろう、「1足12,390円、2足目半額(6,195円)」のプライスカードが付いた商品がずらりと並んでいる。ゴンドラの前で商品と値段を見比べて、「果たしてこのコーナーで1足だけ買えるだろうか?」と考えてみる。やはり「2足目半額」の表示がある限り、1足だけ買うのはばかばかしいと思ってしまう。しかし、かといって2足も買う気はしない。店としては「売らんかな」で、1足でも多く売りたいのであろうが、みすみすその手には乗りたくない。少しからかってやろうと、店員を呼んで聞いてみた。「このコーナーの靴、3足目はいくらなの?」。店員曰く、「3足目は12,390に戻ります。そして4足目はまた半額です」。何のことはない、9000円程度の商品を高く設定し、2足買わせるために、姑息な価格の付け方をしているのである。「3足買った方が2足より平均単価が高いとは、おかしな値段の付け方だね」、店員にそう言って店を出た。

                     
 
 「ABCマート」を出た後、夏用のスラックスを見てみようと思い「洋服の青山」に入った。1階のメイン売り場にスラックスのコーナーがある。そしてその一画の棚の上に「2本目半額、3本目プレゼント」というショーカードが目に入った。ハンガーに掛かったスラックスの値札を見ると7,900円である。さすがにこれは行き過ぎではないかと思い、傍を通った店員に聞いた。「この表示、2本買えば3本目はタダということなの?」、店員は「そうです」との返事である。「これじゃあバナナの叩き売りじゃない、最初の価格設定がおかしいよね」と言うと、店員も「まあ私もそう思うのですが、本部の指示ですから、」と口ごもった。
 7,900円+3,950円=11,850円でスラックス3本ということは、1本3,950円である。考えるに1本づつでは売り上げが上がらないから、3本まとめて11,850円のバンドルセールの表現を変えただけである。3本まとめて○○円というのならまだ許せるが、最初から商品価格を倍に設定し、2本目半額、3本目タダという売り方は姑息で、消費者を愚弄するような手法である。こんな販売をしていると他の商品の価格設定も不信感が出てくる。そして何よりこんな販売方法をとる「洋服の青山」という会社の企業スタンスに怒りさえ感じるのである。「この店では絶対にものは買わない!」、そう思って売り場を出た。

 「ツタヤ」にしても「ABCマート」にしても「洋服の青山」にしても、全国に店舗展開している専門店のトップ企業である。DVDを5本も借りてしまえば、10時間も映画に拘束されなければいけない。そうなれば見る方も雑になり、流し見のようになって、作品に対しての集中力や印象が薄くなってくるように思う。過当競争の今、新作1本1泊2日で410円という価格設定が通用しなくなっているのだろう。しかし、だからといって安さを演出するためにバンドルセール的な扱いで映画を押し付けるのは止めてほしい。膨大な時間と費用を費やして作った映画、映画本来の価値をどんどん貶めているように感じるからである。

 それから靴にしてもスラックスにしても長く自分の身に付けるものである。だから1足1足、1本1本を吟味して選びたいと思うのが普通であろう。それをその場で2足選べ、3本選べというのでは、消費者は商品選定の段階から気持ちが入らない。それでは商品に対して愛着が湧かず、その後の取り扱いが雑になるのではないだろうか。もう大量生産大量消費の時代は終わっているはずである。どこかで今の販売方法を見直さないと、早晩消費者に見捨てられてしまうのではないだろうかと思う。私は今後、DVDは「見たいのを1本だけ」を借りるようにする。靴も洋服も値段が高い安いに関係なく、1足単位1着単位の販売を基本としている店でしか買わないことにした。これが「売らんかな」で商品価値を貶(おとし)める売り方をする企業への、せめてもの抵抗である。