先週、娘(長女)が彼を家に連れて来た。逢うのは初めてである。その彼と結婚を約束したいということは聞いていた。今回は正式に結婚の承諾を得るために来ると言うことである。元々私は娘の選んだ結婚相手に異を唱える気は全くない。だからあくまでもセレモニーである。「さて、どんな風に迎えようか?何を話題にしようか?」、初対面の相手だけに考えてしまうものである。
娘は28歳である。以前、このブログに娘のことは書いたことがある。その時の文章を一部抜粋してみる。・・・娘は持って生まれた性格なのか、大人しく内気な性格である。小さいときから我がままを言ったり、自己主張することはほとんどなかった。いつも、「どちらでも良いよ」、「何でも良いから」、と人任せなところがあった。同じ年の子と比較しても覇気が無く、他人の中にみずから入って行くことはしなかった。そんな娘も4歳までは、近所の「フサちゃん」という同じ年の子と仲が良く、彼女だけとは打ち解けて遊んでいたようである。しかし、そのフサちゃんが親の転勤で引っ越してしまうと、娘は完全に窓口を失い、それ以来外部に対して心を閉ざしてしまったのである。
幼稚園小学校と休むことなく通ってはいたが友達は一人も出来ず、常に教室の中で孤立していたようである。授業も自分の方から手を挙げることはなく、先生に指されれば答えるには答えていたようである。先生の話では昼休みも仲間に入れず、独り教室でぼんやりしていることが多かったそうである。そんなことで児童相談所へ相談に行ったこともある。親の傍に寝せなさい、何か自信を付けさせるために習い事をさせてみたら、そんなアドバイスもあって女房は娘にピアノとバレーを習いに行かせた。バレーの方は性に合わなかったのか、1年足らずで止めてしまったが、ピアノの方は続けていった。
小学5年6年になると、クラスに面倒見の良い子がいて、あれこれと誘ってくれ、いくらか喋るようになって遊んでいたようである。幸いなことに、酷いいじめに合うこともなく小学校を無事に終えた。中学に入ると部活が必須になる。娘は吹奏楽部を選び、クラリネットを選択した。楽譜が読めることが、娘にとっては自信になっていたのかもしれない。指導の先生が熱心で県大会を目指し、毎日毎日遅くまで練習に明け暮れる日々だったように思う。中学時代も特に親しい友人がいたわけではないが、それでも学校を嫌がることもなく登校出来たのは、音楽活動が一つの支えになっていたように思う。
高等学校(女子高)に入学しても、迷うことなく吹奏楽部に入り、やはりクラリネットを吹いていた。部活を通じて友達も出来たのか、時々は友達と旅行に行くようになったり、一人前にスカートの丈を短くすることに、こだわるのを見ると、父親としては普通の娘になったと、ホッとする気持になったものである。一浪して大学に行くとやはり管弦楽団に入部し、今度はクラリネットではなくチェロにチェンジした。大学で本当に勉強しているのかと疑うほど、部活に一生懸命で、夜遅く帰ってくることも多かった。その時のメンバーとの交流が楽しかったのだろう、今でもOBの管弦楽団で演奏会のための集まりを楽しみにしているようである。
以前、娘に小さかった頃のことを聞いたことがある。その時娘は、「私にとって幼稚園と小学校の時が一番辛かった。毎日毎日、自分がどうすればいいのか解らず、ひたすら我慢していたように思う」と言う。娘は人生のスタートの時に、つまづいてしまったのかもしれない。周りとのコミュニケーションの取り方で、自分がどう対処し、どう受け入れたら良いのかが分からなくなったのであろう。小さい頃から、娘に障害になるような大きな出来事も思い当たらない。だから何が原因だったのかと思うことがある。フサちゃんとの別れにあるのか、潜在的に持っていた娘の気質にあるのか、それとも親の育て方が問題だったのか、今振り返っても解らない。しかし「娘に辛い思いをさせてしまった」、その気持ちは今だに私の中に残っている。
振り返って見ると、娘を孤立から救い友達を作る手助けになったのは、まぎれもなく音楽なのだろうと思う。発表会を目標にし、上手くなることを励みにし、自分の楽器によるパートを認識することで、帰属意識や仲間意識を持つようになったのであろう。今勤めている会社は女性中心の職場で、色々の問題もトラブルもあるのであろう。しかし娘にとっては幼少期の辛さに比べれば、我慢できる範囲なのかもしれない。愚痴も言わず、体調を崩すこともなく、黙々と務めている。最近は夜遅く帰ってくることも多く、残業なのか、飲み会なのか、恋人でもいるのかと思うが、しかし基本的には詮索しないことにしている。20数年間、娘は娘なりに試練を受けて自分の人生を歩んできたわけである。私が思うことは、これからの人生は自分が思うように決めていけばいい。仕事がどうの、結婚がどうの、そんなことはどはどうでも良い。自分の人生を活き活きと生きて欲しい、そう願うだけである。そう思うのは、幼少期の娘の辛さを思うからなのだろう。・・・・
娘が12時に駅まで迎えに行き、彼を連れて帰ってきた。中肉中背、さっぱりした風貌で真面目そうな雰囲気である。挨拶もそこそこに、出前で取ってあったお寿司で昼食をすることになる。娘から時計の設計の仕事をしていると聞いていたから、時計の話題から入ることにした。「今はデジタルが主流だから設計の仕事は基盤の設計?」、「安いものは1000円から出回っているから、時計も斜陽産業なのでは?」、「太陽暦ではなく陰暦で動く時計を作って見たらおもしろいかも?」、そんなことから話を進め、しだいにお互いの家族構成などの話をしてみた。食事を終え、お茶を出した頃から、彼は正坐したり崩したりともぞもぞとし始めた。娘に促されるように彼は、「私は娘さんと付き合い始めて8年になります。就職してから4年、ある程度生活の目途も立ってきました。娘さんとの結婚をお許し願いたいと思います」、と一気に喋る。私も考えていた言葉を喋る。「娘が選んだ結婚相手、私どもに異存はありません。昔と違って今はあくまでも当人どうしが主体です。これからのこと、2人で話し合って進めて行けば良いと思っています。今後とも末永くよろしくお願いします」と話し、一応の儀式は終わった。式場のこと、費用のこと、新居のこと、そんな話も雑談の中で確認し終わった頃、娘が「もうそろそろ、」と言いだした。緊張する彼を早く解放してやりたいという思いがあったのだろう。娘は駅まで送ってくると言い、2人で出かけて行った。私は玄関の外まで見送る。並んで歩いて行く後姿を見ると、「これで良いのだろう」、そんな思いになった。
彼は同じ大学の、同じ学年(学部は違う)で、同じ楽団でトランペットを吹いていた。同じサークルで知り合ってから8年である。よほど馬が合ったのであろう。彼は真面目で誠実な性格で、人を押しのけガムシャラに自己主張するタイプではないように見える。今風に言えば草食系に分類されるだろう。しかし、最近は自転車を始め、トライアスロンにも挑戦するのだと言っていたから、人生を楽しむ余裕もあるのだろう。私が一番安心したのは、娘が彼と話している様子を見たときである。今まで家や外では見せたことが無いような、親しく打ち解けた口調と笑顔を見たからである。幼児期からひたすら自分を抑えていた娘が、彼の前では素直に自分を出すことができる。私にとって、それは何よりの喜びなのである。「自分の居場所がある」、それは人にとって最大の安心材料のようにも思うからである。誰の人生でも無い娘の人生である。自分が納得する相手と一緒になり、共に助け合い活き活きと暮らしていける。父親とすれば、そんな結婚であることを願うばかりである。

娘は28歳である。以前、このブログに娘のことは書いたことがある。その時の文章を一部抜粋してみる。・・・娘は持って生まれた性格なのか、大人しく内気な性格である。小さいときから我がままを言ったり、自己主張することはほとんどなかった。いつも、「どちらでも良いよ」、「何でも良いから」、と人任せなところがあった。同じ年の子と比較しても覇気が無く、他人の中にみずから入って行くことはしなかった。そんな娘も4歳までは、近所の「フサちゃん」という同じ年の子と仲が良く、彼女だけとは打ち解けて遊んでいたようである。しかし、そのフサちゃんが親の転勤で引っ越してしまうと、娘は完全に窓口を失い、それ以来外部に対して心を閉ざしてしまったのである。
幼稚園小学校と休むことなく通ってはいたが友達は一人も出来ず、常に教室の中で孤立していたようである。授業も自分の方から手を挙げることはなく、先生に指されれば答えるには答えていたようである。先生の話では昼休みも仲間に入れず、独り教室でぼんやりしていることが多かったそうである。そんなことで児童相談所へ相談に行ったこともある。親の傍に寝せなさい、何か自信を付けさせるために習い事をさせてみたら、そんなアドバイスもあって女房は娘にピアノとバレーを習いに行かせた。バレーの方は性に合わなかったのか、1年足らずで止めてしまったが、ピアノの方は続けていった。
小学5年6年になると、クラスに面倒見の良い子がいて、あれこれと誘ってくれ、いくらか喋るようになって遊んでいたようである。幸いなことに、酷いいじめに合うこともなく小学校を無事に終えた。中学に入ると部活が必須になる。娘は吹奏楽部を選び、クラリネットを選択した。楽譜が読めることが、娘にとっては自信になっていたのかもしれない。指導の先生が熱心で県大会を目指し、毎日毎日遅くまで練習に明け暮れる日々だったように思う。中学時代も特に親しい友人がいたわけではないが、それでも学校を嫌がることもなく登校出来たのは、音楽活動が一つの支えになっていたように思う。
高等学校(女子高)に入学しても、迷うことなく吹奏楽部に入り、やはりクラリネットを吹いていた。部活を通じて友達も出来たのか、時々は友達と旅行に行くようになったり、一人前にスカートの丈を短くすることに、こだわるのを見ると、父親としては普通の娘になったと、ホッとする気持になったものである。一浪して大学に行くとやはり管弦楽団に入部し、今度はクラリネットではなくチェロにチェンジした。大学で本当に勉強しているのかと疑うほど、部活に一生懸命で、夜遅く帰ってくることも多かった。その時のメンバーとの交流が楽しかったのだろう、今でもOBの管弦楽団で演奏会のための集まりを楽しみにしているようである。
以前、娘に小さかった頃のことを聞いたことがある。その時娘は、「私にとって幼稚園と小学校の時が一番辛かった。毎日毎日、自分がどうすればいいのか解らず、ひたすら我慢していたように思う」と言う。娘は人生のスタートの時に、つまづいてしまったのかもしれない。周りとのコミュニケーションの取り方で、自分がどう対処し、どう受け入れたら良いのかが分からなくなったのであろう。小さい頃から、娘に障害になるような大きな出来事も思い当たらない。だから何が原因だったのかと思うことがある。フサちゃんとの別れにあるのか、潜在的に持っていた娘の気質にあるのか、それとも親の育て方が問題だったのか、今振り返っても解らない。しかし「娘に辛い思いをさせてしまった」、その気持ちは今だに私の中に残っている。
振り返って見ると、娘を孤立から救い友達を作る手助けになったのは、まぎれもなく音楽なのだろうと思う。発表会を目標にし、上手くなることを励みにし、自分の楽器によるパートを認識することで、帰属意識や仲間意識を持つようになったのであろう。今勤めている会社は女性中心の職場で、色々の問題もトラブルもあるのであろう。しかし娘にとっては幼少期の辛さに比べれば、我慢できる範囲なのかもしれない。愚痴も言わず、体調を崩すこともなく、黙々と務めている。最近は夜遅く帰ってくることも多く、残業なのか、飲み会なのか、恋人でもいるのかと思うが、しかし基本的には詮索しないことにしている。20数年間、娘は娘なりに試練を受けて自分の人生を歩んできたわけである。私が思うことは、これからの人生は自分が思うように決めていけばいい。仕事がどうの、結婚がどうの、そんなことはどはどうでも良い。自分の人生を活き活きと生きて欲しい、そう願うだけである。そう思うのは、幼少期の娘の辛さを思うからなのだろう。・・・・
娘が12時に駅まで迎えに行き、彼を連れて帰ってきた。中肉中背、さっぱりした風貌で真面目そうな雰囲気である。挨拶もそこそこに、出前で取ってあったお寿司で昼食をすることになる。娘から時計の設計の仕事をしていると聞いていたから、時計の話題から入ることにした。「今はデジタルが主流だから設計の仕事は基盤の設計?」、「安いものは1000円から出回っているから、時計も斜陽産業なのでは?」、「太陽暦ではなく陰暦で動く時計を作って見たらおもしろいかも?」、そんなことから話を進め、しだいにお互いの家族構成などの話をしてみた。食事を終え、お茶を出した頃から、彼は正坐したり崩したりともぞもぞとし始めた。娘に促されるように彼は、「私は娘さんと付き合い始めて8年になります。就職してから4年、ある程度生活の目途も立ってきました。娘さんとの結婚をお許し願いたいと思います」、と一気に喋る。私も考えていた言葉を喋る。「娘が選んだ結婚相手、私どもに異存はありません。昔と違って今はあくまでも当人どうしが主体です。これからのこと、2人で話し合って進めて行けば良いと思っています。今後とも末永くよろしくお願いします」と話し、一応の儀式は終わった。式場のこと、費用のこと、新居のこと、そんな話も雑談の中で確認し終わった頃、娘が「もうそろそろ、」と言いだした。緊張する彼を早く解放してやりたいという思いがあったのだろう。娘は駅まで送ってくると言い、2人で出かけて行った。私は玄関の外まで見送る。並んで歩いて行く後姿を見ると、「これで良いのだろう」、そんな思いになった。
彼は同じ大学の、同じ学年(学部は違う)で、同じ楽団でトランペットを吹いていた。同じサークルで知り合ってから8年である。よほど馬が合ったのであろう。彼は真面目で誠実な性格で、人を押しのけガムシャラに自己主張するタイプではないように見える。今風に言えば草食系に分類されるだろう。しかし、最近は自転車を始め、トライアスロンにも挑戦するのだと言っていたから、人生を楽しむ余裕もあるのだろう。私が一番安心したのは、娘が彼と話している様子を見たときである。今まで家や外では見せたことが無いような、親しく打ち解けた口調と笑顔を見たからである。幼児期からひたすら自分を抑えていた娘が、彼の前では素直に自分を出すことができる。私にとって、それは何よりの喜びなのである。「自分の居場所がある」、それは人にとって最大の安心材料のようにも思うからである。誰の人生でも無い娘の人生である。自分が納得する相手と一緒になり、共に助け合い活き活きと暮らしていける。父親とすれば、そんな結婚であることを願うばかりである。
