60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

閉店

2009年03月31日 08時34分52秒 | Weblog
池袋三越が閉店する。入口の横断幕に《51年間のご愛顧ありがとうございました》とあった。
百貨店業界の不振、今回の金融危機、長く営業してきたこの店も又成り立っていかなくなった。
池袋には西口に東武百貨店と丸井が、東口に西武百貨店と昔は丸物という店と三越があった。
丸物は閉店し、私が東京に就職した年にパルコとして衣替えしてオープンした記憶がある。
その後それぞれに増築や改装を重ねて行き、今日までしのぎを削って闘ってきたのである。
私は西武線に隣接している西武百貨店を多く利用していて、三越にはなじみが薄かった。
三越は高級品の店という印象が強く、庶民派の私には少し近寄り硬い雰囲気もあったように思う。

三越は三井家の「三」と江戸時代からの呉服商越後屋の「越」とをとって命名されたという。
その三越百貨店が日本橋に日本で初めての百貨店としてオープンしたのが100年前。
高級百貨店として高島屋と並び日本を代表する百貨店として長い間百貨業界に君臨していた。
三越の包装紙は一つのステータスシンボルであり、庶民的にはなかなか近寄りがたいものもあった。
そんな三越も一時の隆盛はなくなり、地方の小型の支店から順次閉店して、歯止めがかからない。
そしてとうとう生き残りをかけて、昨年4月に三越と伊勢丹とが経営統合することになったのである。
新宿三越が大塚家具になり、横浜三越、吉祥寺三越がヨドバシカメラになったことは知っていた。
ネットで調べると、他に滝山、上大岡、武蔵村山、名取、金沢、岐阜、神戸、奈良、大阪、枚方、
倉敷と数多くの支店が閉鎖して行き、今年は池袋店に続き、鹿児島店も閉店になるようだ。

なぜここまで、三越が、いや三越だけでなく百貨店業界全体が低迷していくのであろうか?
私が子供の時代は物を買うのは生鮮の市場と町の小売店と駅前にあった大丸百貨店だけであった。
それが、流通革命と称しスーパーマーケットが乱立し、次第に大型店になって郊外型になっていった。
それにつれて、街の個人商店が立ち行かなくなり、1軒また1軒と店をたたんで行くことになる。
やがてコンビニエンスが台頭し、小売店は壊滅的になり、商店街はシャッター通りと化したのである。
一方郊外に大きなショッピングモールやアウトレットが出来、車社会に適応した小売形態も発展する。
さらに通販が広がりを見せ、ネット通販やネットオークションが芽生えて、その選択肢は限りなく多い。

時代の変化の中で、消費者の消費意識も日々変化していった。
昔は耐乏生活の中で、物に対する憧れがあり、買い物することが楽しみで、喜びでもあった。
百貨店で買い物をする、買い物ができるということは一種のステータスであり、ハレの日でもあった。
親に「今日はデパートに行くぞ」と云われれば朝からウキウキし、一番いい服に着かえたものでる。
そんな時代から消費というものが当たり前になって来て、物に対する執着も薄くなってきたように思う。
次から次へ新しいものが出てきて、市場に物があふれかえり、売らんかなの圧力が高まっていく。
もう昔のように、物に対しての、期待も感動も無くなってしまっても仕方がないように思う。

私自身も思う、「もう物はいらない」と。
食べるもの、着る物、最低限必要なものだけで良い、そしてそんなに贅沢をしようとは思わない。
後は自分の趣味に合わせて、時々欲しいものがある。それを丁寧に吟味して買い、大切に使いたい。
それは私が歳をとってきて、将来に対して広がりがなくなったせいだけでもないように思う。
息子や娘を見ていても物のは買わないし欲しいとも言わない。まだ物欲があるのは女房だけである。

多くの人々が物を所有するめにお金を使うのではなく、生活を楽しむためにお金を使うようになった。
それが今の人々のマインドであり、そこに今回の金融危機が拍車をかけた。
したがって、金融危機が収まって世の中がまた元の流れに戻ったとしても、消費は物には向かわず、
生活をエンジョイするため、生活の質を高めていくためのにお金が流れていくように思うのである。
旅行や音楽や美術や映画、習い事や勉強やスポーツやボランティア等々、より自分の暮らしを
豊かにしてくれるだろう手段に対してお金が流れていくように思うのである。
言ってみれば昔の町の小売店が変化についていけず、多くの商店がシャッターを閉めたように、
今の百貨店の凋落は相変わらず物販に頼って、消費者の心の変化に着いていけていないと思う。

三越池袋店の後は家電量販店最大手のヤマダ電機が入るようだ。
売り場面積が約2万5000平方メートルと、家電量販店としては国内最大級となるという。
ヤマダ電機は池袋は2店目、ビックカメラは池袋に本店があり駅周辺に5店舗展開している。
昔の百貨店の競争が、スーパーの競争になり、コンビニの競争になり、今は家電量販店の競争。
ある程度この競合が行きついてくれば、今度はまた別の業態が現れるのかもしれない。
平家物語の、「おごれる人も久しからず、ただ春の世の夢のごとし、たけき者も遂には滅びぬ、
盛者必衰の理をあらわす」ではないが流通業界には勝者はいないのであろう。

三越の入口にある見慣れたライオン像、これも閉店セールが終われば撤去されるのであろう。
ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン提督像を囲むライオン像がモデルとされというこの像。
一頭一頭、消えて行く。そろそろ絶滅危惧種になるのではないかと心配でもある。

古民家カフェ

2009年03月27日 08時35分17秒 | Weblog
以前の会社の同僚3人(私よりずーっと若い30代と40代の女性)とでランチをすることになった。
彼女たちが設定したのが「cafe紅」というところ。小伝馬町から歩いて3分程度のところにある。
その店はビルとビルの狭間に残っている昭和に建てられた個人住宅をそのまま使用している。
道路に面した開口分はペンダント、ブレスレット、ブローチ、イヤリング等を並べて販売している。
お店に上がるには家の左側にある人一人が通れる程度の狭い路地を入って行く。
その突当たりに玄関があり、ガラス戸を開けると、2人でいっぱいになるぐらいの小さな土間がある。
左側には昔ながらの木製の下駄箱があり、玄関を上がってガラス障子を開けると畳の8畳間である。
部屋の左は広いガラス窓になっていて、外は小さな中庭があり、植木が数本と庭石が配置してある。
八畳間の中央にはテーブルやちゃぶ台が4卓、ガラス窓の前に一人用のテーブルが庭に面して4卓、
それぞれに赤い座布団が敷かれていた。板の間の部屋には椅子席も2卓用意されている。
昭和の初期に建てられたであろうその家は、当時は何の変哲もない一軒の民家ただったはずである。

1時を過ぎての入店であったが、席は7割方埋まっていて、ほとんどが30代からの女性であった。
ランチメニュー4品の中から、私は「とうふと鶏ひき肉のハンバーグ¥1000」を選んだ。
この店のコンセプトは自然食、健康であろう。他のメニューも「ハマナス紅茶」「ジンジャーオレ」など、
ドリンク類も個性的なメニューが多く、いかにも今風な雰囲気のお店である。
丸いお盆に乗せて出てきたものは、ハンバーグと雑穀を混ぜたご飯、味噌汁、香の物だけである。
古い民家の畳の部屋でテーブルを囲んでの食事。何か昭和の時代にタイムスリップした感じである。

中庭に面した一人席には女性が背中を向け、何か調べ物をしながら、お茶を飲んでいる。
我々のように3人で語らう組、2人でおしゃべりをする組、一人で静かに自分の時間を過ごす人、
この昭和を彷彿させてくれる空間で、それぞれがそれぞれに、思い思いの時間を過ごしている。
店のキャッチフレーズに、「小伝馬町の隠れ家的古民家カフェ、都心にありながら京都町屋の赴き、
平成でありながら昭和の佇まい、お店でありながら我が家のくつろぎ」とあった。
休日の閑散としたオフィス街にあるこの店、最近はこんな雰囲気のお店に人気が集まるのであろう。


昨年の夏からのサブプライム問題に端を発した金融危機、いわゆる世界的なバブルの崩壊である。
日本としては20年前に続いて、二度目でもあり、免疫があってか、ある意味対岸の火事であった。
食品の仕事が中心の我々の周りでは世間で言われるほど劇的な変化も動揺もなかったように思う。
しかし半年以上経過し、その影響はじわじわと現れてきて、次第に切羽詰まってくるようになった。
消費の鈍化、百貨店の不振、企業の経営統合、スーパーの安売り、新規の商品開発の停止、
年が明けてからは1割2割のダウンは当たり前、ピタリと物が動かなくなったような感じである。
今は景気浮揚に向けて全世界の国々が取り組んでいる。いずれはこの危機も脱出するのであろう。
しかし、今回の危機後は今までの大量生産大量消費の時代と違って大きく様相が変わるように思う。
これから先、世界のバランスは変化していき、どんな世界になり、どんな方向に向かっていくのか?
それに合わせて会社や個人は、どう変わっていくのか?今はそんなことを問われているようである。

第二次世界大戦後、日本も世界も復興と経済成長を目指し右肩上がりの成長を目指していた。
我々の時代は「車」を持つことが夢であった。「家」を持つことが人生の目標でもあった。
経済的に豊かになれば自分の周りも物が豊かになり、つれて心も豊かになるうように錯覚していた。
しかし、いくら身の回りを固めても、いくら贅沢なものを揃えても、心はいっこうに豊かにならなかった。
物と心とは別問題だったのである。物が豊かになるにつれ反対に心は疲弊して行くようでもあった。
たぶん、今回の金融危機をきっかけに世の中(特に日本)は大きく変わっていくのであろう。
それは今までの反動で、物に執着しなくなり、精神的な充実を求めるようになるように思うのである。

今までにも傾向としてあったが、今の若者は「車」離れが始まり、高級ブランドにも関心が薄い。
飲食でいけば、すかいらーくのような大衆路線がダメになり、日常ではマックやドトールなど低単価、
すこしハレの日の食事は今回の「cafe紅」のように、より個性的な店が選ばれるように思う。
決して高級豪華なものではなく、雰囲気を楽しめるような場所が好まれるようになったのである。
日常は質素で慎ましやかに、非日常はより個性的な方向へ向かっていくのではないだろうかと思う。

「大衆」「皆一緒」というものが嫌われ、「自分らしさ」がキーワードになるのかもしれない。
ファッションも、食べ物も、趣味も、音楽も、持ち物も、鉛筆1本から、自分らしさの追及になる。
自分の内側から出てくる譲れないことをしっかり言葉や形にして行く、そんな時代になるように思う。
若い女性が、安い「しまむら」の衣類をコーディネートして楽しむように、押しつけのものや、
世の中の基準やものさしに合わせるのではなく、自分のオリジナルを作っていくようになる。
我々の時代から2回のバブルを経て、今の若い人達は大きく「チェンジ」して行くように思うのである。
「省エネ」「エコ」そんな言葉をキーワードにして、この「行き過ぎた世の中」は変わっていくのであろう。
それに伴い問われる個人の生き方、若い人は何を求めていくのだろう、そして老年の私はどう変化
していけるのであろうか、「古民家カフェ」を体験したことで、そんなことを思ってみた。

硝子体はく離

2009年03月24日 08時41分20秒 | Weblog
会社へ出勤し、階段を上がっていると、突然左上に糸くずのようなものが見え始めた。
机に座って、目をこすってみたが、その糸くずは取れない。「はて、何が起こったのだろう???」
左目を手で押さえて右目だけだと異常がない。反対に右目を押さえて見る。
左斜め上2~3㎝前に糸くずのようなものがボケた感じで、大きいのと小さいのと二つ見える。
その先に景色があり、ちょうど3D映像を見ているようだ。そして目を動かすとその糸くずも動く。
「網膜はく離?」そんな語句が頭をよぎり、何となく嫌な予感がする。
眼球に傷が付いているのかもしれないと思い、洗面所に行って鏡の前で左目を開けて覗きこむ。
しかしなんともなっていないようである。時間が経過してもその糸くずは消えてくれない。

朝の朝礼が終わって早速眼科へ行くことにした。
受付を済ませると、看護婦の人が視力と眼圧を測る。視力は0.2と0.3である。また悪くなった。
視力検査が終わって待つこと30分、やっと先生に呼ばれ、診療室に入った。
正面を向いて顔を固定され、部屋が暗くなり、そして光が眼の中に飛び込んでくる。
「顔を動かさないで、右を見て。ハイ左。ハイ上。ハイ下」医者の指示に従って眼球を動かす。
左目をみながら「相当うっとおしいですね」と先生は言う。私のうっとうしさがわかるのであろうか。
両眼を同じように診察してから診療室の明かりが灯る。改めて先生の顔を正面に見た。
カマキリのような顔である。最初からこんな顔だったかと不思議な気がしてきた。
診察の間、ビデオカメラを回していたのだろう。機械の操作をする間先生は無言である。
「はたして、このカマキリ先生に何を言われるのだろう」そう思うと少し心配になる。

「これはショウシタイハクリと言います。ショウシはガラス(硝子)と書きます。タイは体ですね。
糸くずのように見える現象を飛蚊症と言います。蚊が飛んでいるように見えるからです。
人によって違いますが、目の前を小さな 「浮遊物」が飛んでいるように見えたりします。
形状は糸状や、小さな粒や丸い輪 、また、半透明の場合もあります」と説明が始まる。

この先生は結論は後回しにするタイプらしい。重大な病気なのか早く言ってくれればと思う。
テレビモニターに眼球を輪切りにした写真を写してから、再び先生の説明になる。
「これを見てもらえばわかるように、目の中には硝子体というものがあります。
これはコラーゲンの線維で出来ていて、網膜と3ヶ所でくっついています。
その網膜とくっついている奥の視神経との接着面がはがれ硝子体が収縮しているのです。
その離れた接点を今あなたは見ているのです。それが糸くずのように見えるわけですね」

ここから私の質問が始まる。
「はく離は何が原因なのですか?視力に影響するのでしょうか?なにか問題がでますか?」
「子供の時から、硝子体は収縮していって、歳をとるごとに離れて行こうとしています。
それがやがて耐えられなくなって、接点が離れ、はく離するわけです。
はく離した時点で像が見え始めたのです。しかしそれで視力が悪くなるわけではありません。
近視の強い人はなり安いですが、やはり一種の老化現象です。ほっておいて大丈夫ですよ」

「ではずーっとこの糸くずは見えているのですか?」
「今は、はく離したばかりでお互いの距離が近いからはっきり見えます。しかし距離が離れると、
その像もボケてきて、気にならなくなります。これも人によりけりで、ずっと見える人いますね。
まあいずれ右目も同じようなことが起こるでしょう。しかしそのことでは心配することはありません。
ただ硝子体が他の部分で網膜と癒着していて、はがれる時網膜に穴を開けることがあります。
その穴から水が入ると網膜がはがれ網膜剥離ということになります。そうなると視野が狭くなり、
はく離が網膜の中心部に及ぶと急激に視力が低下し、最悪の場合は失明するようになります。
今回は良いですが、右目の時も検査した方がいいでしょうね」
そんな話で、診察は終わった。歳をとるとこんな事も起こるのか、と改めて思う。
眼球が動くたびに、この糸くずも目の先をうろうろする。何時になったらとれるのだろう。
これが両目に来たら、さぞかしうっとうしいだろうと思うと、憂鬱である。

歳とともに、だんだん頭が薄くなって白髪が多くなる。歯が衰えガタがきて虫歯が多くなる。
そして今度は目、60年に渡り使い続けてきた体、支障がくるのは仕方がないことなのであろう。
今回は前触れもなく突然に現われた。今からはいろんなことが突然に起きてくるのかもしれない。
60年間住み続けた家にガタがきて、建てつけが悪くなり、壁ははがれ落ち、雨漏りがし始める。
何時までもつのか、何時まで住み続けられるのか、いずれは朽ち果てていくのは免れない。
人の体もそんな感じだろうか、母が82歳、父は94歳まで生きてくれた。
家系的に免疫系は丈夫な方だから、大事に使えばあと20年は使えるかもしれない。
この際、定期健診をやって、もう一段のメンテナンスを強化しておこうと思った。


春の一日

2009年03月17日 08時32分04秒 | Weblog
先週の土曜日は冷たい雨と風が舞った。明けて日曜日は久々の晴天である。
会社の事務の女性から映画「ホノカア・ボーイ」が良いらしい、と聞いたので観に行くことにする。
恵比寿ガーデンプレイスにある映画館で上映していたので、久々に恵比寿まで足を伸ばしてみた。
ガーデンプレイスは歩道や広場が広く、建物はレンガ色が基調で落ち着いた雰囲気である。
花壇には春の花が咲き乱れ、春の暖かな日差しがさして、まばゆいばかりである。
老夫婦が散歩し、恋人同士がベンチに座って語らう、買い物客が携帯で写真を撮っている。
「ああぁ~、やっと春が来たのだ」大きく伸びをしたくなるような天気である。

旧暦では1月・2月・3月が春である。(新暦に直すとだいたい半月ずれるようだ)
社会通念や気象学的には3月・4月・5月が春という分類になるのであろう。
しかし、私が春を感じるのはまず、視覚的には菜の花の黄色を見た時であろうか。
そして本当に春になったと体が実感するのは気温が15度を維持するようになった時である。
冬の寒さからの緊張感がほぐれ、安心して体を大気にゆだねられる温度だからであろう。

映画の「ホノカア・ボーイ」、恋に破れた青年(岡田将生)がハワイ島の北部にあるホノカア村に来る。
彼はこの村唯一の映画館で助手として働き始めたのだが、そこで風変りな日系のおばあちゃん
(倍賞千恵子)と出会う。以来その青年はおばあちゃんの作る美味しいゴハンを毎日ごちそうになる。
毎日毎日、一品一品、愛情をこめて作って食べさせてくれるゴハン、美味しくないわけがない。
ハワイののびやかな舞台で展開される、のんびり流れる時間と空気とを切り取ったような美しい映像。
特段のストーリーがあるわけでなく、日常の出来事をそれぞれが受け入れ淡々とした営みを映す。
優しく温かい町の人々との生活、おいしいご飯、かわいい女の子への恋心、そんな毎日の積み重ね。
何でもない「普通」を楽しむことの大切さを教えてくれる。なんとも幸せな気分に浸れる映画でもある。

恵比寿ガーデンの落ち着いた雰囲気、美味しいパンとコーヒー、暖かな日差し、心地良い映画、
「今を楽しむ」為に、たまにはこんな穏やかな1日があってもいいように思う。

趣味

2009年03月13日 11時56分26秒 | Weblog
日本橋にあるギャラリーで開催されている木版画の作品展へ行ってきた。
私の友人が自分の作品を出品しているということで見に行くことにしたのである。
この作品展では版画教室に通う約30人の生徒さんの作品が並んでいる。
発表会は2年に1度ということ、その間に自分達が取り組んできたことの成果の発表の場である。
会場には10名近くの人たちがいて、作品を見ながらあちらこちで話の花が咲いているようである。
皆、ニコニコとし会場は明るく華やいだ雰囲気、生徒さんにとっては2年に1度の晴れ舞台である。
一作一作見て回る。静物画、風景画、抽象的な作品。いかにも華やいだ女性らしい作品。
よくここまで根気が続くものだと思う緻密な描写の男性の作品。さまざまな作品がずらりと並ぶ。
作品に費やされたエネルギー、作者の思い、そんなものを作品を通じて感じとることができる。
素人ながらよくここまで集中し、一生懸命になれるものだ。そう思うとなんだかうらやましくなってくる。

60歳に近づいて、自分も何かの趣味を持ちたい、何かに取り組んでみたいと思うようになった。
取り組んでみたいというより、取り組まねばいけない、という方が正しい言い方であろう。
いずれ仕事をしなくなったとき、その空いた時間を何で埋めるかが問題だと思ったからである。
「濡れ落ち葉族」「粗大ゴミ」世間ではそんな風に言われ、退職男のふがいなさを言われている。
毎日テレビばかりを見ていて暮らせるものではない。では自分は何をするのか、何をしたいのか。
結婚してから、仕事と家庭に忙殺され、自分の趣味というものが無くなっていた。
仕事を言い訳にしているが、本当は自分にやってみたい、というものが無かったのである。

子供のころは男の子らしく、何か物を作ることに夢中になった時代があった。
家にあった木切れを集め、飛行機や自動車、パチンコ台や実用的に本立てなども作った。
小遣いをためて、プラモデル、模型飛行機、組み立てラジオ、手製で望遠鏡なども作っていた。
大学になって、マンボ楽団に所属し、またギターを買いクラシックギターを習いに行ったこともある。
しかしどちらも1年程度やったが次第に億劫になって行き、いつの間にか止めてしまった。
就職してからは山登りを始めた。北アルプス、南アルプス、八ヶ岳などの主な山は踏破した。
しかし50歳になって、病気をしてからは激しい運動を制限されてしまい登山からも足を洗った。
そしてそれ以降、語るべき趣味も、特技も、打ち込むものも、なにも持っていない。

時々自問自答する。自分が好きなことは何か?自分が打ち込めるとしたらそれは何だろう、と。
そう思っても、結局「これ」というものがないのが現実である。
何かに取り組もうと思い、鉛筆画の本と道具を買って、スケッチしたこともある。
朝日カルチャー教室の「小説教室」に通い、小説を書いてみようとしたこともある。
しかし、どれも1年もたたないうちにあきらめてめてしまった。
今は毎週、関東近郊を散歩している、本も読むようにしている。映画も多く見るようにしている。
しかしもう一つ物足りない。何かに「打ち込む」「没頭する」という感じの趣味を持ってみたいのである。

そう思うとは反対に、それほどまで考えて「趣味」を探す必要もないのではないかとも思ってしまう。
以前読んだ加藤諦三の本ではないが、
《今を生きるためには「今」が「明日」の手段ではいけない、そのためには今が快適である必要がある》
そのような見方に立てば、趣味を作ることが目的であってはいけない。趣味はあくまでも手段である。
「今」を楽しく生きるために、「今」を充実した時間にするための手段方法であると考えるべきであろう。

では、自分は「今」を楽しく生きているのだろうか?
自分なりに評価して今はまあまあ楽しく生きていると思っている。評価点は60点ぐらいだろうか。
あまり趣味というものを大げさに考えず、あと20点程度加点するための趣味と考えてみよう。
そうすれば、もう少し気楽に、幅広く「趣味」というものが考えられるのかもしれない。
「今」を楽しむためには何で良い。、植物を育てること、工作すること、絵を描くこと、音楽を聴くこと、
映画を見ること、歩くこと、人と話すこと、写真を撮ること、食べること、仕事をすること、等々
本当はなんでもいいのであろう、ただ億劫がらずに、興味を持ち、チャレンジする気持ちがあれば、
何時か自分の中に引っ掛かってくるものがあり、熱中することが出来るかもしれないと思うことにした。
60歳を超えてもまだまだ考え方は定まらないものである。

人間関係

2009年03月10日 09時07分01秒 | Weblog
先週、昨年離職して浪人中のOさんに逢った。
彼が会社を辞めてからは毎月1度は逢うようにしている。もう10回以上は逢っているだろう。
彼は相変わらず働く意欲が湧いてこず、失業保険をあてにした生活で、家でブラブルしている。
「年老いた親の食事の面倒を見てやらなければいけない」それが唯一のモチベーションになっている。
今は週1回のパソコン教室と土日の馬券買いが外にでる用事、後は食事の買い出しだけである。
それではまずいからと、1日1度は喫茶店に行き、新聞や雑誌を読んで帰ってくるそうである。
勤めていた会社の同僚との連絡も途絶え、昔からの知り合いで逢うのは私だけになったようだ。、
会社の仲間とはいえども、毎日の仕事の中での接触がなければ当然の成り行きなのであろう。

今の業界を取り巻く環境のことや最近の出来事、彼自身の状況や心境、昔話など、
あまり深刻にならずに、冗談を交えての話で盛りあがり、3時間程度話しをしてお開きにした。
店を出て、西武新宿駅までの並んで歩いていた時、彼がぽつりと言った。
「Fさんにとって、私と逢うことは一銭の得もないでしょう。なぜ声をかけてくれるんですか」
今の彼の心理状態では自分に自信を失い、どうしても卑屈になってしまうのだろうと思ってしまう。
「別に損得で人にあっているわけではなくって、興味が持てる人と逢っているだけですよ」
そう答えて別れた。

私も20年前に仕事でのトラブルで会社を辞めた。その後どこに行く当てもなくである。
その時期、人から見ればとるに足らないことだが、私には大きな衝撃を与えられた事件があった。
あるメーカーの営業のKさん、私より年上だったが、10年の付き合いで親しくしていた。
よく飲みに行き、相手のことも自分のこともざっくばらんに話しあって、気の置けぬ友人と思っていた。
会社を辞める時「会社辞めた後、一度訪ねて来て下さい。Fさんのその後について相談しましょう」
そういう話があって、私もある種の期待を持って、その日の2時にアポイントをしてあった。
彼の勤める会社に早目に着いたので、近くにあった公衆電話から電話を入れた。

「もしもし、Fと申しますが、Kさんをお願いします」
「どちらのFさんですか」
「どちら」がなくなった私、日本中のどこにも、所属していないことを突きつけられたように思った。
「営業部のKさんの知り合いです。今日2時にお約束で伺うようになっています」
「しばらくお待ちください」との返事があってから、長い時間が経過する。
10円玉が1枚又1枚と落ちてゆく。以前の関係だったら相手もこんなには待たせないだろうと思う。
こちらから電話を切れば、後の連絡が付けづらくなると思い、じりじりしながら電話を待った。
3、4枚10円玉が落ちたとき、Kさんは電話口に出てきた。
「やあやあ、お待たせしました」
「Fです。今日2時に伺うようになっていますが、ちょっと早いのですが、今から伺っても良いですか?」
「ああそうでしたね。う~ん、・・・・だけど今日はすごく忙しいんですよ、又にしてもらえませんか」
「・・・・・そうですか、じゃあまた連絡します」言い終わると同時に、相手方からプツンと電話は切れた。

約束してあったことをこんな簡単に反故にするのか、今までであればこんな扱いは受けなかった。
結局、今までの彼はメーカーの営業として、得意先の私とは親しく振舞っていただけなのだろうか、
それを見抜けなかった自分は間抜けな存在、そしてなんとうぬぼれが強い人間だったのかと思う。
屈辱感、悔しさ、自分の不甲斐なさ、自己嫌悪、さまざまな感情がこみあげてきて涙が出てくる。
これからどうしよう、逢うために家から出てきた。これが消えてしまえば今日は何もすることがない。
今からもこれから先もやることがない、自分の身を寄せる場所もない。この広い東京のどこにも無い!
完全に自分が孤立してしまったこと、自分にはこれから先に何の保証もないことを実感する。
公衆電話のボックスのなかで、恐怖感からか膝がガクガクと震えはじめ、止まらなくなった。

メーカーのKさんも、決して悪気があったわけではなく、仕事として親しく装っていたのであろう。
得意先の私に対し彼は自分の感情を押し殺し、時間と金を使い、必至に取り入ったのだろう。
私も今まで、好きでもない上司に媚び諂い、ご機嫌を取り、自分の地位の保全を図ってきた。
仕事にとって、自分の将来にとって、有利になるか否かが人間関係の基準であったのかもしれない。
送別会を終えて、家にいるようになってからはほとんど人とのコミュニケーションが途絶えてしまう。
仲間は仕事に追われ、喧噪の中に日々過ごしているだろう。自分はポツンと何もやることがない。
1日が虚しく過ぎて行き、いくら待っても電話は来ない。私は何を期待して待っているのだろうと思う。
私は世の中から完全に忘れられた存在だ。今から先、何時までもこんな状況が続くように思った。
ひしひしと感じる孤立感、焦燥感、自分の今までの人間関係がいかにも頼りないものかを知った。
今までの連帯感や仲間意識は仕事を介してのもので、個人対個人の絆ではなかったのである。
仕事を離れればそれは霧散してしまうようなものだったのだろう。

人生の中に何個かの節目というか屈折点があるとすれば、この時もその一つのように思われる。
振り返ってみるとその時から人との関わり方や考え方が大きく変わったように思う。
まず、人から誘われたら、よほどの都合がない限り断らなくなった。意識してではなく自然にである。
人はある思いがあって私を誘ってくれる、それをこちらから断ってはいけないと思いがあるからである。
次に相手から誘われるのを待つだけではなく、こちらからも声をかけるようになった。
相手が会社を辞めたり、変わったりする場合は絶対にこちらから電話やメールをすることにした。
離れていく人は自分からは声をかけられない、こちらから声をかけねば付き合いは終わってしまう。
それから大勢での集まりではなく、出来れば一対一で話した方がいいと思うようになった。
人間関係を良くすることは、相手をよく知ること、相手を理解することが前提と思うからである。

私にとっての人間関係の基準は「損か得か」ではなくなった。
損か得かでは仕事の中でしか人間関係は広がらっていかないし、人間関係に嘘が入り込んでくる。
今の私にとっての基準は「好きか嫌いか、ウマが合うか合わないか、興味が持てるか否か」である。
たとえ仕事の関係から始まった人間関係でも、相手が好きであれば、ウマが合えば、興味があれば、
お互いが離れようが関係はない。反対に会社を離れた時から本当の人間関係は始まるように思う。
仕事を挟まないことで、お互いが強く結び付いているという手ごたえさえ感じることができるのである。

ただ仕事をしている以上は嫌いだからと言って排除はできない。損得の人間関係は依然として残る。
しかしそれも今までのようにストレスを強く感じることなく、淡々とこなしていけるようになった。
それは一方で私基準の確かな人間関係を持っているという自信があるからであろう。


誕生日

2009年03月06日 08時32分39秒 | Weblog
3月は長女の誕生日がある。「はて、今年何歳になるのだろうか?」
26歳か?27歳か?わからない。昭和何年生まれだったのかも定かではない。
まだ、学生の時代は何年生だから何歳と、だいたい類推して娘の歳を言うことができた。
しかし成人式が終わり、大学を卒業して就職するとその関連付けが使えなくなる。
就職してから何年になるかがはっきりしないからである。
長男も昭和何年生まれで、今何歳になったのか分からない。
「確か去年か、一昨年に30歳になったとか言っていたなぁ」そんな程度である。
下の娘は昭和が終わる年(昭和63年)に生まれているから、平成の年と同じですぐわかる。
そんなことで、良いのだろうか、我ながら自分の家族への無関心さに驚くばかりである。

毎年誕生日にはプレゼントを贈る。これがまた困りもので、何を贈るか悩みの種である。
娘が小さい時はおもちゃや絵本でよかった。小学生の時は学年に合わせての本を買ってやった。
中学生や高校生になると親から押しつけられるのは嫌であろうと思い、図書カードにした。
大学生になるとCDカードが多かったように思う。
しかし就職して自分でお金を稼ぐようになれば読みたい本や聞きたい音楽はさっさと買うだろう。
そうすると金券的な贈りものは貰った方も印象がないだろうと思う。
このことで毎年悩むことになり、誕生日が来るのが憂鬱である。

母親はTシャツやセーターや手袋やバックなどを贈っている。
果たして本人が気に入っているかはわからないが、娘は「いいわね~ぇ」といってにこにこしている。
女同士、相手にはこれが似合うという自信があるのだろうか、身に着けるものが多いように思う。
男親はそれができない。娘はどんな趣向を持ち、どんなものが気に入るのかが皆目分からない。
年頃の女性としては親父が選んだものを身につけるのは嫌であろうと思うのである。
また、贈ったはいいが、気に入られず一度も使われないままに放置されるのは辛いものである。
だから、好みがあるものを避け、出来るだけ無難なもので、しかも本人が持っていないものになる。
以前は目覚まし時計を贈った。しかし携帯の着メロを鳴らして朝は起きているようである。
去年は電動歯ブラシ贈った。しかし使っているのを見たことがない。
さて今年はどうしよう? 考えても考えても全く思いつくものがない。

娘の誕生日が明日に迫り、買物の時間が無くなった来たので、会社帰りに百貨店を歩いてみる。
食品売り場を歩いていて、一旦はチョコレートにしようと思った。一番無難だと思ったからである。
しかしもうすぐホワイトデー、娘からはチョコレートを貰ったから何か返さねばいけない。
返すなら、やはりクッキーかチョコレートだろう。ダブってもいけないからと思ってチョコレートは諦める。
フロアーを順次上がって行って、化粧品の売り場、衣料品の売り場も歩いたが、全く歯が立たない。
「あいつはどんなものが好みなのだろう、全くわからない」そう思うと娘が他人のように思われてくる。
やはり文房具だろう、そう思って百貨店の上の階にあるLOFTに行ってみることにする。
雑貨、化粧小物、文具、CD、・・・・どこを歩いてもコレというものは何も思いつかない。
唯一、目がとまったのが貯金箱。30万円とか50万円貯まるものから、声が出るのもまである。
まあ、しかし少し子供じみているし、お金が入れられず、放置されているのを見るのは忍びない。

歩いているうちに健康グッズというコーナーがあり、万歩計や体脂肪測定器が置いてあった。
自分が使っていた万歩計をなくしていたので、もう一度買おうと思い自分のものとして選んで見た。
レジに並んで、考えた。自分のものは買えても、娘のものは買えない。
「これからまた探すのか?え~い面倒だ。これを娘のプレゼントにしよう」
レジで自分の順番が来た。「すみませんが、これプレゼント用に包んでもらえますか」
これでやっと、苦しさから解放される。

娘に「どんな音楽を聴くの?」と聞いて、今の歌手の名前を言われてももさっぱりわからないだろう。
「どんな本を読むの?」と聞いても、自分が読んだ本は1冊もないかもしれない。
今娘が、何を考え、何を思い、何に悩み、どんな希望を持っているのか私は分からない。
毎日会社に通い、時には夜遅くに帰ってくる。残業なのか、遊びなのか?
土日はほとんどどこかに出かけて行き、家にいる日は朝から洗濯をしている。
こちらが尋ねることも、ぽつりと返事を返すだけで、会話としては成り立たない。
「まあ、仕方ないだろう」私自身も親の干渉がわずらわしかったのだから、と思うことにしている。
小さい時、1日中私の周りを付いて離れることがなかった娘。それが今次第に距離が広がっていく。
やがては我が家を巣立っていくであろう。そうなれば娘の顔を見ることも少なくなるかもしれない。
「話さなくてもいい。離れて行ってもいい。健康で、楽しそうであればそれでいい」今はそう思う。

誕生日おめでとう。
今、大切なことは自分に対する投資。
たくさんの本を読み、映画を見、旅行をし、友人と語らい、自分の好きなことを続けてみる。
そんな積み重ねが何時かきっと役に立つことがある。   父より

家族で書くメッセージカードにこんな言葉を添えてみた。


鬱からの脱出(2)

2009年03月03日 09時28分24秒 | Weblog
今やうつは国民病といってもいいくらいポピューラーな病気になった。
うつになる人は概して柔和で優しく、温厚な善人である。傷つきやすいが凶暴性とは縁遠い。
私の周りにいる人たちも真面目に真剣に物事を考え、一生懸命に生きようとしている。
何かに追い詰められ、ストレスに押しつぶされ、もがいているうちに逃げ道を見失ってしまった。
そして負のスパイラルにハマってどんどん落ち込んでいく。
うつとは「抑うつ」を主な症状とする心の病である。抑うつとは落ち込むこと、気持ちがふさいで
何もする気がしなくなること、生命のエネルギーが不足している状態である。
本人が親から受けついだ性格や幼児期の環境やトラウマが潜在的な内因になるのかもしれない。
しかし大人になっての発症のきっかけになるのは人間関係の不調が原因になることが多いらしい。
人間関係を良好に保ち、不満、不快、息苦しさ、険悪さなどを少しでもやわらげることは、
人間が社会性の動物で一人で生きていけない以上避けては通れない道なのかもしれない。

負のスパイラルに落ち込まないために、落ち込みはじめた時に浮き上がるようにするためには
自分に浮き輪を持つしかないであろう。その浮き輪とは家族や友人や恩師や医者になるのだろう。
浮き輪がしっかりしていれば、後は世の中の泳ぎ方、いずれは浮き輪なしいでも泳げる時がくる。
うつを回避するために何をすればいいか、斉藤茂太《「うつ」がスーッと晴れる本》から抜粋してみた。

人はうつ状態になったとき、孤独感と寂しさを味わう。他人の存在をわずらわしいと感じることもある。
しかし心の底では助けを求めている。そのとき本当に助けてあげられるのは友人や家族であろう。
一対一の対等な人間として素直に語り合える相手や環境を作っておくことは必要なことである。
心の中にわだかまっていることは誰かに言わないとスッキリしないものだ。
今まで誰にも言わず押し殺していた不満や怒りを言葉にして発散させることは心の重しを取り除く。
自分の悩みを聞いてもらい理解してもらえるのは、なににもまして大きな慰めとなり「癒し」となる。

もうひとつの方法は腹を立てたり、いやな気分になったりしたときに、日記やメモを作ってはどうだろう。
書くためにはたとえ乱暴な感想をむき出しにしているようでも、ある程度は自分や相手に対して、
冷静に客観的にならなければならない。書いている時にはすでに激情は去っている。
書くという行為が気分の鎮静化に役立ち、こころにゆとりが出てきて発想の転換になるのである。

毎朝ほぼ決まった時間に起床し、ほぼ決まった時間に食べ、ほぼ決まった時間に働き、
ほぼ決まった時間に就寝する。生活がそんなふうに規則正しいのは良いことである。
体内時計は人間だけではなくほとんどの動植物が持っている。
そしてこの体内時計は日照が時刻を決めるよりどころとしているらしい。
だから朝日が昇ったとき、体内時計は朝と認識する。
朝日の入らない閉め切った部屋で寝ていると、何時まで経っても体内時計は朝とならない。
朝日を浴びること、これは体(脳)の混乱を起こさない一番てっとり早い方法である。

うつ傾向のある人はなるべく朝型にシフトした方がいい。
次の七点を守れば徐々に改善していく。
①睡眠薬やアルコールに頼ってはいけない。
②夜遅くまでテレビを見たり、精神集中を必要とする作業はなるべくしない。
③目標とする早い時間に目覚ましをセットする。
④部屋を閉め切らず、朝日が入る部屋で寝る。
⑤朝、早く目覚めたら二度寝をしない。昼寝もしない。
⑥夜眠くなったらすぐに寝る。
⑦そして翌日も早く起きる努力をする。

家事労働は一見単純で、創造性の余地はなさそうである。
しかしやってみれば、仕事の見通し、段取り、実行、実行にに伴う観察、集中、手際のよさ、
ミスをした時の対応、仕上げ、仕事の評価と、頭脳と筋肉のさまざまな働きを伴うことがわかる。
家事をやることは物事をあるレベルでやり終えた満足感とすがすがしさは味わえる。
「家事を積極的にやること」家事に没頭している間は、うつはあなたを襲わない。

歩くことは足だけでなく全身の血のめぐりを良くする。だから、片頭痛や肩こりにも効果がある。
脳にも大量の栄養と酸素が流れ込み、脳細胞を活性化することにつながる。

うつとは脳の働きが低下した状態だから、ブドウ糖をしっかり補給してやらなくてはならない。
それには砂糖をとるのがもっともてっとり早い。
うつのときは食欲も低下することが多いから、なるべく自分の好きな物を食べた方がいい。
ルールで自分を縛らず、自分に怠惰を許し、自分を甘やかすことだ。
「良く頑張っている」「良くやっている」と自分を誉めて良い。また自分をもっと甘やかしていい。
完璧を求めず、70%の出来であれば合格点、80%なら「最高」と自己評価すべきである。

自分がともすれば仕事にのめりこむタイプだと思う人は自分と仕事の距離を常に意識的に
測定してみる習慣をつけた方がいい。
自分が仕事に持っているのは「愛着」なのか「執着」なのかと自問してみるとよいだろう。

自分自身を鍛えるために、未知の分野へ初心者として入り込んでみたらどうだろう。
同好の人たちとの交流が生まれやすい。仕事でのつきあいとは違ったつき合いが生まれる。
まったく別の喜びがあり、別の価値観があり、新しい視野が開けるかもしれない。
自分の暗がりを見つめるのではな、外の世界に目を向け、外の世界とのつながりを持つことも必要。

家にいると落ち着かないなら、旅行をしても良い。何日か実家に帰ってもいい。
のんびりできる環境で思い切り自分を解放することが心にはとてもいいことである。

鬱にならないためにSTRESS(ストレス)を溜めないために、著者が自分に言い聞かせている6項目。
S・・スポーツ、  なるべく体を動かす。
T・・トラベル、  旅は適宜の刺激、緊張、ストレス、そしてくつろいだ気分を与えてくれる。
R・・レクレーション、本業以外に何か趣味や道楽をもつ。
E・・イート   食べることを楽しむ。なるべくいろんなものを食べる。おいしいものを食べる。
S・・スリープ  睡眠はストレスからの解放である。良い眠りはストレスのダメージをやわらかく癒す。
S・・スマイル  ほほ笑みは良い人間関係を作る。良い人間関係は大抵のストレスには負けない。

昔、親から「背中が曲がっている」とか、「好き嫌いしないで、なんでも食べて」とか、注意されていた。
時には背中に物差しを差し込まれ、食事中に残したものを強引に食べさせられたこともある。
他からは見えて、自分では気がつかない偏った姿勢や偏食、しだいにバランスを崩していくのだろう。
人間関係も同じなのかもしれない。どうしても好き嫌いがつきまとうから、嫌いな人を遠ざけてしまう。
そして自分の殻に閉じこもって行き、次第にバランスを崩していって世の中を生きづらくしてしまう。
しかし、胸襟を開いて話してみれば、本当は皆自分と同じように悩みもがいているのが解って来る。
解れば、相手に対して親しみが湧いてきて、人生の同士として認めるようになるように思う。
生活のバランスを正し、心のバランスを立て直す。「急がば回れ」そんなことが一番の早道かもしれない。