最近は読書をしても、その内容が頭に残らなくなった。小説はまだましだが、新書などは読む端から忘れていく。結局それでは読んだ気になっているだけで、自分の身になっていないように思ってしまう。だから今は本を読む際に蛍光ペンで、自分が面白いと思うことや、記憶に留めたいと思うケ所にラインを引くようにしている。そして読み終わったあとで、もう一度ラインを引いたところだけを読み返す。そうすると受験勉強ではないが、多少は記憶に留まるようになってきた。当初は、昔の「本は大切に」という教えがあってか、本を汚すことに抵抗があった。蛍光ペンを引けば人に貸すわけにもいかないし、ブックオフに売ることもできない。しかし考えてみれば自分のために対価を払って買った本である。だから身になるように読み込まなければ買った価値がない、そう考えるようにした。
今週読み終えたのは曽野綾子著『酔狂に生きる』という本である。曽野綾子はカトリック教徒の作家でありながら、保守の論客としてあちこちに自分の考え方を書いている。その物言いは独善的だとか、弱者に対して厳しいとかの批判も有る。しかしマスコミの論調に乗って、何でもかでも社会の所為にしてしまう意見より、自分の考えを歯に衣着せぬ発言で小気味の良さを感じることもある。そんな彼女もすでに82歳、老いて益々意気軒昂のように見える。人は歳を重ねていくほどに、頑固になり、弱気になっていくようである。そんな時に彼女の生き方や主張は参考になり、励みになることもある。そんなことで今回はこの本に蛍光ペンでラインを引いたケ所の一部を書き出してみた。
『酔狂に生きる』曽野綾子著 河出書房新社 より
すべての時期を通して私が何より求め続けてきたのものは自由だった。それも魂の自由人になることだった。・・・・・その自由を願い続けて、それがある程度可能だったことに、いくつものことで感謝しなければならない。そしてそれを可能にしてくれた条件の第一は、偶然の結果なのだが、私が犯罪を犯さずに済んできたことである。(刑務所に入りさえしなければ一応の基本的な自由は手に入れられる)
第二の条件として、私は幸運にも良い時代に生まれた。私は子供の頃、明日まで生きていられるかと思うほどの激しい空襲を東京で体験したが、その後の半世紀以上を異常な幸運としかいえない平和の繁栄の中で暮らすことができた。・・・・
第三に私が幸福だったのは、日本の繁栄と時を同じくして生まれたので、いささかの経済的ゆとりを得たことだった。・・・・
そして第四の条件は自由はすべて自分の力の範囲ですることだ、と思っていたことである。
企業の規模も大きく、業績も安泰な大会社に勤めながら、自分が誰かの考えに抑え込まれている、という不安に苛まれながらくらしている人も多い。組織が優先で、個人は自分の意見を持つどころか、組織の一員になり切れと強制される生活をしていると、精神的な奴隷の生活を送っているように感じてくるのである。しかし100%の自由人などという人はこの世にいないのだ。もし仮にそういう立場の人がいるとしたら、その人は自分の生きている空間を自由とは感じなくなっているだろう。自由が理解できるのは、不自由な要素があってこそなのだ。その上、現実問題として人は誰でもいささかのしがらみに生きている。ただしすべてのことは、程度問題だ。
老年の幸福を(健康を別にして)考えると、第一の条件は身辺整理が出来ていることである。(私達は、遺体の始末だけは人にしてもらわなければならないのだが、その他の点では、自分のことは自分で始末していくことが当然のことである)。
第二の条件は、もうそれほど先のことを考えなくって良くなっていることである。
第三の条件は他者を愛することが自分を幸せにする、という一見矛盾した真理を認めること、・・・・・人間は人に与えられる立場にいるうちはどんなに年取っていても現役である。しかし受けることだけを期待するようになると、それは幼児か老人の心境である。・・・幸福の秘訣は、受けて与えることだ、と私は知っている。・・・今は他人に何にもしない人が多い。国家や社会が、自分にしてくれることだけを当然と思う。・・・「ないものを数えず、あるもの(うけているもの)を数えなさい」
そして第四の条件は、適度の諦めである。この世で思い通りの人生を生きた人はいないだろう。それを思えば、日本人の99%までは実生活において人間らしくあしらわれている。
生命の危機の直面しているような場合には、人は決して自殺などしないものである。今この瞬間生き延びることだけが唯一明快な目的になるからだ。・・・・・本来自殺は、社会が教えるものではない。救うのはまず当人の生への本能であり、次に個人としてのその人と接触する他者である。つまり自殺したい人がもし誰かに心を打ち明け、相手が優しければ、その人は自殺志望者に同情するのである。・・・・つまり感情を共有する間柄を示すのである。・・・・・共に運命をいたみ、時には自分が損をしてでも相手を救うことが、むしろ最低の人間の条件である。
人間はいかなる人でもいかなる場所でも、「安心して」生きられることなどをありえない。それは未来永劫ありえないことだろう。そのような根源的な非合理、非連続性に人間の運命が定められていることを、社会は認めない。それどころか、社会の不備として一掃できると考えている。
私は個人的に意見を述べていい関係だったりしたら、その人に不公平に馴れる訓練をした方が良いと言うようにしている。・・・・不公平、不平等を是とするのではないが、私たちの人生は思いのか短い。だから急いで、自分の道を生きることの方が大切だと思うのである。
テレビが日本文化の全てを代表しているわけではないが、なによりもテレビに現れる日本人の問題意識のなさには目を覆う人がいても当然なのだ。それはつまり見る側にも幼稚な視聴者がいるということなのだろうが、テレビ製作者の姿勢が視聴者をなめるようになった。世界は貧困や飢えに悩んでいるというのに、これほど食べ物や温泉巡りの話ばかりしていて、恥じない国民がほかにいるだろうか。食べ物の味というものは最もテレビには向かない話題なのである。・・・・
女性アナウンサーたちの表現力のなさもプロとは思えなくなった。画面に見える光景以上の描写は出来ない。「安心して暮らせる」生活はこの世に決してないのに、まだ平気でこの言葉を連発する。つまり、いささか社会正義を匂わせる定型の言葉を添えれば、それでことが済むと思っているようでもある。・・・・何より気持ち悪いのは何の場面にでもキャラクターなる奇妙なものが登場することである。着ぐるみが出てきて愛想を振りまくのは、ディズニーランドだけでいい。・・・・・・善もなさず、悪もなさず、すべて子供向きにものごとを作っておけば、おそらく文句を言われる筋合いはないと考えるテレビ製作者の防御的姿勢の表れなのだろう。
自分のことだけを自分でしているようではほんとうの自立じゃない。人としての義務は人に与えることにある。その部分の責任をまったく果たしていない人は少しも幸福そうにみえない。・・・損か得かということは、その場ではわからないことが多い。さらに損か得かという形の分け方は凡庸でつまらない。人生にとって意味のあることは、そんなに軽々には損だったか得だったかがわからないものなのだ。・・・・・国家からでも個人からでも受けている間(得をしている間)は、人は決して満足しない。もっとくれればいいのに、と思うだけだ。しかし与えること(損をすること)が僅かでもできれば、途方もなく満ち足りる。不思議な人間の心理学である。