60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

酔狂に生きる

2014年08月29日 08時10分38秒 | 読書
 最近は読書をしても、その内容が頭に残らなくなった。小説はまだましだが、新書などは読む端から忘れていく。結局それでは読んだ気になっているだけで、自分の身になっていないように思ってしまう。だから今は本を読む際に蛍光ペンで、自分が面白いと思うことや、記憶に留めたいと思うケ所にラインを引くようにしている。そして読み終わったあとで、もう一度ラインを引いたところだけを読み返す。そうすると受験勉強ではないが、多少は記憶に留まるようになってきた。当初は、昔の「本は大切に」という教えがあってか、本を汚すことに抵抗があった。蛍光ペンを引けば人に貸すわけにもいかないし、ブックオフに売ることもできない。しかし考えてみれば自分のために対価を払って買った本である。だから身になるように読み込まなければ買った価値がない、そう考えるようにした。
 
 今週読み終えたのは曽野綾子著『酔狂に生きる』という本である。曽野綾子はカトリック教徒の作家でありながら、保守の論客としてあちこちに自分の考え方を書いている。その物言いは独善的だとか、弱者に対して厳しいとかの批判も有る。しかしマスコミの論調に乗って、何でもかでも社会の所為にしてしまう意見より、自分の考えを歯に衣着せぬ発言で小気味の良さを感じることもある。そんな彼女もすでに82歳、老いて益々意気軒昂のように見える。人は歳を重ねていくほどに、頑固になり、弱気になっていくようである。そんな時に彼女の生き方や主張は参考になり、励みになることもある。そんなことで今回はこの本に蛍光ペンでラインを引いたケ所の一部を書き出してみた。
 
 
 『酔狂に生きる』曽野綾子著 河出書房新社 より
 
 すべての時期を通して私が何より求め続けてきたのものは自由だった。それも魂の自由人になることだった。・・・・・その自由を願い続けて、それがある程度可能だったことに、いくつものことで感謝しなければならない。そしてそれを可能にしてくれた条件の第一は、偶然の結果なのだが、私が犯罪を犯さずに済んできたことである。(刑務所に入りさえしなければ一応の基本的な自由は手に入れられる)
 第二の条件として、私は幸運にも良い時代に生まれた。私は子供の頃、明日まで生きていられるかと思うほどの激しい空襲を東京で体験したが、その後の半世紀以上を異常な幸運としかいえない平和の繁栄の中で暮らすことができた。・・・・
 第三に私が幸福だったのは、日本の繁栄と時を同じくして生まれたので、いささかの経済的ゆとりを得たことだった。・・・・
 そして第四の条件は自由はすべて自分の力の範囲ですることだ、と思っていたことである
 
 企業の規模も大きく、業績も安泰な大会社に勤めながら、自分が誰かの考えに抑え込まれている、という不安に苛まれながらくらしている人も多い。組織が優先で、個人は自分の意見を持つどころか、組織の一員になり切れと強制される生活をしていると、精神的な奴隷の生活を送っているように感じてくるのである。しかし100%の自由人などという人はこの世にいないのだ。もし仮にそういう立場の人がいるとしたら、その人は自分の生きている空間を自由とは感じなくなっているだろう。自由が理解できるのは、不自由な要素があってこそなのだ。その上、現実問題として人は誰でもいささかのしがらみに生きている。ただしすべてのことは、程度問題だ。
 
 老年の幸福を(健康を別にして)考えると、第一の条件は身辺整理が出来ていることである。(私達は、遺体の始末だけは人にしてもらわなければならないのだが、その他の点では、自分のことは自分で始末していくことが当然のことである)。
 第二の条件は、もうそれほど先のことを考えなくって良くなっていることである。
 第三の条件は他者を愛することが自分を幸せにする、という一見矛盾した真理を認めること、・・・・・人間は人に与えられる立場にいるうちはどんなに年取っていても現役である。しかし受けることだけを期待するようになると、それは幼児か老人の心境である。・・・幸福の秘訣は、受けて与えることだ、と私は知っている。・・・今は他人に何にもしない人が多い。国家や社会が、自分にしてくれることだけを当然と思う。・・・「ないものを数えず、あるもの(うけているもの)を数えなさい」
 そして第四の条件は、適度の諦めである。この世で思い通りの人生を生きた人はいないだろう。それを思えば、日本人の99%までは実生活において人間らしくあしらわれている。
 
 生命の危機の直面しているような場合には、人は決して自殺などしないものである。今この瞬間生き延びることだけが唯一明快な目的になるからだ。・・・・・本来自殺は、社会が教えるものではない。救うのはまず当人の生への本能であり、次に個人としてのその人と接触する他者である。つまり自殺したい人がもし誰かに心を打ち明け、相手が優しければ、その人は自殺志望者に同情するのである。・・・・つまり感情を共有する間柄を示すのである。・・・・・共に運命をいたみ、時には自分が損をしてでも相手を救うことが、むしろ最低の人間の条件である。
 
 人間はいかなる人でもいかなる場所でも、「安心して」生きられることなどをありえない。それは未来永劫ありえないことだろう。そのような根源的な非合理、非連続性に人間の運命が定められていることを、社会は認めない。それどころか、社会の不備として一掃できると考えている。
 
 私は個人的に意見を述べていい関係だったりしたら、その人に不公平に馴れる訓練をした方が良いと言うようにしている。・・・・不公平、不平等を是とするのではないが、私たちの人生は思いのか短い。だから急いで、自分の道を生きることの方が大切だと思うのである。

 テレビが日本文化の全てを代表しているわけではないが、なによりもテレビに現れる日本人の問題意識のなさには目を覆う人がいても当然なのだ。それはつまり見る側にも幼稚な視聴者がいるということなのだろうが、テレビ製作者の姿勢が視聴者をなめるようになった。世界は貧困や飢えに悩んでいるというのに、これほど食べ物や温泉巡りの話ばかりしていて、恥じない国民がほかにいるだろうか。食べ物の味というものは最もテレビには向かない話題なのである。・・・・
 女性アナウンサーたちの表現力のなさもプロとは思えなくなった。画面に見える光景以上の描写は出来ない。「安心して暮らせる」生活はこの世に決してないのに、まだ平気でこの言葉を連発する。つまり、いささか社会正義を匂わせる定型の言葉を添えれば、それでことが済むと思っているようでもある。・・・・何より気持ち悪いのは何の場面にでもキャラクターなる奇妙なものが登場することである。着ぐるみが出てきて愛想を振りまくのは、ディズニーランドだけでいい。・・・・・・善もなさず、悪もなさず、すべて子供向きにものごとを作っておけば、おそらく文句を言われる筋合いはないと考えるテレビ製作者の防御的姿勢の表れなのだろう。

 自分のことだけを自分でしているようではほんとうの自立じゃない。人としての義務は人に与えることにある。その部分の責任をまったく果たしていない人は少しも幸福そうにみえない。・・・損か得かということは、その場ではわからないことが多い。さらに損か得かという形の分け方は凡庸でつまらない。人生にとって意味のあることは、そんなに軽々には損だったか得だったかがわからないものなのだ。・・・・・国家からでも個人からでも受けている間(得をしている間)は、人は決して満足しない。もっとくれればいいのに、と思うだけだ。しかし与えること(損をすること)が僅かでもできれば、途方もなく満ち足りる。不思議な人間の心理学である。







散歩(甘楽)

2014年08月22日 08時18分48秒 | 散歩(4)
 
群馬県甘楽郡甘楽町     8月16日
 
 関東近県で行ってみたいところはまだ何ヶ所もある。しかしその地はいずれも交通が不便で、日帰りの散歩には不向きである。そんな場所を今回から電車やバスを使わないで車を利用することにした。関越高速で藤岡JCTから上信越道へ入り、富岡インターで降りて「道の駅・甘楽」へ、車を道の駅の駐車場に停め、そこから一筆書きのように甘楽の町を歩いてみた。
 
 ここ甘楽(かんら)は鎌倉時代から小幡氏の拠点として栄えた。1615年に織田信長の次男・信雄(のぶかつ)がこの地に入封したのを機に城下町が整えられた。その面影は今も健在で、信雄が整備した町並みや雄川堰の水が街中を縫うように流れいる。
 
 昔は城下町として栄えた甘楽町も、今は取り残されたような小さな町である。歩いていてもほとんど住民と出会うこともなく、ひっそりとしていて時間が止まったようである。江戸時代の面影を残す白壁や石垣、街中の雄川堰の小さな流れ、何の変哲もない街には人を癒してくれるような緩やかな空気が流れている。それはいたるところに流れる水のせせらぎが有るからかもしれない。

   

                              道の駅 甘楽

   

                        雄川(おがわ)
 
   

                     雄川に沿って上流へ歩く

             

                      カワトンボ科 ハグロトンボ

             

                       雄川は透明度が高い

   

                           雄川
               この先2.5km上流に雄川堰取水口がある

   

                       雄川取水口(大口)

               

             写真の上が雄川、下が分岐された雄川堰(用水路)


               ここから今度は雄川堰に沿って再び街に戻る

   

                          雄川堰

   

                        一番取水口
        雄川堰には3ヶ所取水口が設けられ、陣屋地内・侍屋敷の間を縫って
        幾筋にも用水路をめぐらせる。その用水の水は地域住民の生活用水や
            下流の水田地帯の灌漑用水として利用されている。

            

                 左側の小さな流れが分岐された用水路

   

                          雄川堰  
               この場所では流れは浅く広くなって流れている

   

                        こんにゃく畑
        肥沃で水はけの良い土壌を活用して、こんにゃくの栽培が盛んである。

   

              雄川堰はさらに下り、畑や家々の庭にも入っていく

   

               雄川堰はさらに2番口、3番口と分岐していく

   

                         郵便局前

            

                 小さくなった用水路は街中に広がっている

                           


   

                            小幡城跡

    
                        国指定名勝 楽山園
            織田信長の次男信雄が7年の歳月をかけて築いた池泉回遊式庭園

   

                          御殿前通り
                いたるところに昔ながらの石垣が残っている

   

                        武家屋敷地区

   

                      喰い違い郭(くるわ)
            戦いの時の防衛上のために造られたものだが、下級武士が
            上級武士に出会うのを避けるために隠れたとも言われている

   

                         武家屋敷地区

   

                          中小路
             道幅14m、昔は白壁の武家屋敷や庭園が並んでいた
                昔の石積みが江戸時代の面影を残している

   
 
                  明治時代後期に建てられた古民家
              今は無料休憩所・観光案内所として利用されている

   

                 この当たりの雄川堰は桜並木になっている

   

       ところどころに堰に降りられる場所がある。昔はここで水をくんでいたのだろうか

   


            


   

                      養蚕農家群の町並み

            

              町並みの裏手は畑、昔は桑の木が植えてあったのだろう


   

               流れ下ってやがて鏑川(かぶらわ)に合流する






















映画 思い出のマーニー

2014年08月12日 09時59分59秒 | 映画
  先週NHK総合TVで、『アニメーションは七色の夢を見る』という番組を見た。宮崎駿監督が引退を宣言し、ジブリを今まで引っ張ってきた大御所がいなくなった。さてこれからの日本のアニメーションはどうなるのか?そんなテーマで、宮崎アニメの遺伝子を受け継ぐクリエーターとして、一人は、宮崎駿監督の長男で、「ゲド戦記」「コクリコ坂から」をヒットさせた宮崎吾朗監督。もう一人は、「借りぐらしのアリエッティ」で監督デビューし、この夏、2作目の「思い出のマーニー」(現在公開中)を手掛けた米林宏昌監督を取り上げていた。
 
 宮崎吾朗監督が挑むのは、テレビアニメの「山賊の娘ローニャ」(NHKBSプレミアムで10月から放送予定)。彼は今はジブリを離れ、3DCGを使った新しい表現に挑んでいる。CGというこれまでとは全く違う環境のなか、自分の目指す表現に格闘している様子をカメラは追いかける。もう一人の米林宏昌監督は実写映画で著名な種田陽平氏を美術監督に迎え、新たなジブリ作品に挑戦している。内容もこれからの目指す方向も対照的な二人だが、共通しているのは、初めて宮崎駿監督が関わらない形でアニメーションを作るということである。
 
 私の関心はCG方式に変わった宮崎吾朗ではなく、今まで継続的に見てきたジブリ作品、しかも伝統的に一枚一枚アニメーターが書いていくセル画方式を引き継ぐ米林宏昌監督の方に興味がある。彼が手がける今回の「思い出のマーニー」は、イギリスの作家、ジョーン・Gロビンソンによる児童文学作品である。主人公の杏奈(アンナ)は、もらいっ子という立場からか無気力で友達も無く、心を閉ざしている。彼女は喘息を患っていて、医者から転地療養を勧められ、夏休みに北海道の海辺の町で過ごすことになった。そこでアンナは、「これは私が探していたもの」と直感的に感じる古い屋敷を見つけた。そしてその屋敷の娘マーニーと親友になり、毎日のように接することで、次第に心を開いていく。・・・・  そんなストーリーである。
 
 宮崎駿はこの「思い出のマーニー」について語っている。「以前読んだとき、原作は好きで面白い作品だと思った。そして小説の中で描かれている風景に引かれたが、作者が描いている地図と僕の中で浮かんだ地図とが全然違っていて、これは絶対アニメーションにはならないと思った。なぜならそれはあまりにも人の内面の問題だからである。・・・」と言っている。そんな原作に米林宏昌監督が挑んだわけである。
 
 心を閉ざし他人に心を見せない少女、そんな少女の心の微妙な変化、文学ではそこを丁寧に書いていけるが、アニメではどう表現するか、米林監督はそんなアンナの心のゆれを、微妙な仕草や表情で表現して行こうとする。米林監督が言う、「この作品はジブリの今までの作品のように、青い空に白い雲が浮かんでいるという感じの世界観じゃない。これまでのジブリの常識に抗うとするものなです。ジブリは今までも常に殻を破って前進してきました。だから今回も新しいものに挑戦していきたいと思っています」
 
 「こんなTV番組を見たら見に行くしかないだろう」、そう思い日曜日に映画を見に行ってきた。小さめな館内は6~7割の入りか、やはり宮崎駿のビックネームがないからかもしれない。観客も中学生以下の子供は少なく、どちらかといえば高校生以上の女性が中心のようである。映画は2人の少女を中心に淡々と進んでいく。それは今までのジブリ作品のように型破りな表現方法で観客を驚かせたるような物ではなく、少女の心の変遷が主体である。背景画は今までのジブリ作品と同じように、緻密で美しい。伸びやかな北海道の自然の中でストーリーはテンポ良く進んで、やがて謎解きのような結末で映画は終わる。
 
 見終わって感じるのは、イギリスの児童文学だからなのか、今までのジブリのファンタジーと色合いが違うように思った。日本と西洋が入り乱れ、現実と妄想とファンタジーが入り乱れ、なんとも不思議な雰囲気をかもし出している。見るうちに次第にストーリ展開に追われていき、監督が意図した主人公の繊細な心のゆれの表現方法までは見て取れなかった。それは一回見ただけでは私の受信力(理解力)では無理だったのかもしれない。2人の微妙な表情や仕草の描き方、美しい背景画、重厚な建物や室内のこだわった美術、そんなものを確認するためにも,、もう一度見ておく必要があるようである。


   


            

                             杏奈(アンナ)

                 

                               マーニー

     

                杏奈(アンナ)は列車で札幌から海辺の町に向かう
 
     

                            舞台のモデルは釧路湿原の藻散布沼という汽水沼とか

   

                      入り江に建つ古い屋敷 通称・湿地屋敷

   

                        満潮になると広々とした湖になる

   


            


   


   








面接

2014年08月08日 09時52分16秒 | Weblog
 以前このブログで書いたことがあるが、親会社で事務社員の退社から2ケ月が経過した。その人員補充でやっとオーナーが動き、昔の従業員から紹介された女性と面接をし、9月からの入社を決めたようである。先日辞めた事務社員もオーナーが面接して決めた男性である。しかし彼は入社3年目になっても、言われたことしかやらない、言われたことも満足にできないと、戦力にならず結局は会社になじめずに辞めてしまったのである。「社長は人を見る目がない」と、社員から言われるほど自己中心で人が読めない人。そんな社長が面接して決めた社員である。さてどんな人が入ってくるのか楽しみでもある。
 
 「面接」、中小零細企業はほとんど履歴書と面接だけで人を採用する。一方大手企業も書類選考、ペーパーテストを経て、最後は責任者が面接して採用を決めている。だから面接は応募者にとって最大の関門なわけである。しかしわずか何十分の面接で人を評価できるのか?、応募する側は何をアピールすれば良いのか?、今日はそんな面接をテーマに書いてみることにした。
 
 私の息子も10数年前に就職活動で5~6社の会社にエントリーしたはずである。そんな中で、ある会社の面接の様子を聞いたことがある。その会社では最終の役員面接の前に、人事部面接というのがあったそうである(ペーパーテストなどで残った50人から人事部が20人まで絞って役員面接に送る。後は役員が10人程度を採用する)。その面接の時に人事部長が、「あなた自身を物に例えるとすると、何に例えますか?」という質問をした。息子としては想定外の質問に面食らったようだが、とっさに面接官の前にあった水の入ったコップを見て、「コップです」と応えたそうである。当然「それはなぜですか?」という質問が飛んでくる。それに対して息子がどう応えたのか聞いたが、今は思い出せない。たぶん面接官としては、想定問答で覚えてきたような答えを聞いても意味がないと思ったのであろう。この質問には模範解答があるわけでも無いし、立派な答えを期待したわけでもないのだろう。不意をつくことで受験者の鎧を外し、その人の素を見たかったのだと思う。息子の就活は他にも採用通知が来たようだが、結局息子はその会社に就職することになった。入社後その人事部長に会った時、「私の面接の基準は、《こいつと一緒に働いて見たい!》、そう思えるかどうかで決めています」、と言っていたそうである。
 
 数年前、大手菓子メーカーの営業の何人かと、工場見学に行ったことがある。見学が終わって、夕方なので直帰することになった。その折、帰りの方向が一緒だからとそのメーカーの新入社員と一緒に帰ることにした。帰りの電車の中で彼と話すうちに、私の興味は、この就職氷河期に彼が一流企業に採用されたポイントはどこにあるのだろうと考えた。しかしそれは話すうちに直ぐに分かったよううな気がした。それは会話の中でこんな話を聞いたからである。
 彼は大学2年の夏休み、家から北海道に自転車(ママチャリ)を送り、そこから1人で鹿児島まで走破したそうである。途中2台自転車を乗りつぶし、安い自転車に買い換えた。当然学生だから貧乏旅行である。夜は基本的には駐車場やお寺に野宿する。どうしてもゆっくり休みたい時やお風呂に入りたい時だけ安宿に泊まる。北海道から鹿児島までの所要日数は37日間、その間に、苦労したこと、面白かったこと、旅先で出会った人々とのふれあい、そんなことを楽しそうに私に語ってくれた。彼は就職時の面接でこの話もしたそうである。
 
 もう一つ、私の就職時の面接の話である。今から45年前、当時も就職難の時代であった。その頃は学生が勝手にエントリーするのではなく、学校に来た企業からの募集に対して、学校側が推薦する形で応募し試験に臨んでいた。従って学業優秀な生徒から順番に良い企業に紹介してくれる。私は成績があまり芳しくなかったから、なかなか順番が回ってこなかった。そしてやっと照会されたのが4年生の秋口、しかも学校の専門とは関係の無い、当時新興の流通業であった。その会社の大卒の採用予定は100人、しかも応募人数も2000人と多く、高い倍率であった。1次試験は大阪と東京と2ケ所で筆記試験、合格すれば東京で面接である。なんとか大阪でのペーパーテストをクリアーして、東京に面接を受けに行った。
 
 決められた時間に会場に入り、受付を済ませて順番を待つ、やがて名前が呼ばれ面接会場に入った。そこには面接官7~8人が長いテーブルに並び、応募者は5人づつ離れた椅子に座り面接官と向かい合う。一人の面接官が質問をすると、最初は右端から順番に受験者が応えていき、次の人の質問には今度は左端からというとふうに入れ替わる。確か私は左から2番目に座ったと思う。その時それぞれの面接官からどんな質問があり、どういう風に応えたかはほとんど覚えてはいない。しかし唯一覚えている質問と回答がある。それはある面接官が、「あなたは悩みがあるとき、どのようにな方法で解決をしますか?」という質問である。その時は右端の人から応えていった。最初の人は「親に相談して・・・・」、2番目の人は「友達に相談して・・・・・」、3番目の人は「公園など静かな場所に行って一人で悶々と考える。・・・・・」、そして私の番になった。
 
 3人が答えている間に少しの間があったのに、自分の順番が来ても、どう応えるか決まっていなかった。だから一瞬、前の人達と同じように、友達に相談するとか、父親に相談すると応えようとも思った。しかしそんな経験はほとんど記憶に無い。こんな場で嘘を言っても仕方ない、「え~い、ままよ!」と思い、「今までそんなに思い悩むこともなかったので、自分の中で特別な対処法は持っていません」と応えていた。それに対して一人の面接官が、「ほ~う、あなたは幸せな人ですね。なぜ悩まないのでしょう?」とたたみ掛けて質問してきた。しばらく考えてから、「自分のことは自分で決めたいと思っています。何かを決めなければいけない時は、その時点までの自分の知識と経験が全です。だから自分の判断はその時点では最善と思っているから、あまり思い悩むことは無いのでしょう。後は結果が良いか悪いかは運に任せるしかないと思っています」、たぶんそのような内容のことを応えたように覚えている。その答えを面接官がどう受け止めたのかはわからない。しかしほかの人とは違った答えだったのは確かである。数日後採用通知が来たのだから、結果的には良かったのであろう。
 
 年配者でそれなりの経験者が、まだ若い人達を面接するわけである。正確ではないが、ある程度の性格は読み取れるものである。だからあまり飾らず、自分を素直に出して、明るく、はきはきとし、前向きで、嘘が無く、ユニークであることが一番なのではないだろうか。最初に書いた人事部長が言ったように、「こいつと一緒に働いてみたい」そう思わせるのが一番の対策なのであろう。