60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

水彩画教室(11)

2014年10月31日 08時42分36秒 | 美術

                  教室で最初に描いたデッサン 2011.11.4の日付がある 

 今月(10月)で水彩画教室に通い始めてから3年になった。絵を始めてみようと思った切っ掛けは老後対策である。仕事を辞めてからの趣味としていくつか考えたが、結局水彩画が一番取っ付きやすいと思ったからである。しかし元々絵に対して興味があったわけではない。しかも自分には絵心など全くないという自覚もあった。だから教室に通うにあたって、「石の上にも3年」と教室には休まず行くことを最優先にしてきた。結果その間は1度も休むこともなく、3年X12ヶ月X2回X2時間=144時間、絵を描いたことになる。

 
 描けば徐々にではあるが描けるようになってくる。描けるようになればもっと上手く描けないだろうかと考える。そんなことから始めたのが安野光雅の模写であった。その模写も合計17枚になった《前回の水彩画教室(10)で7枚と今回の水彩画教室(11)で10枚掲載》。これだけ描けばもうそろそろ良いだろうと思い、模写を止めて再び撮り溜めた風景写真を見て描くことにする。しかし新しく描くほどに、安野風から遠ざかっていく感じである。「これでは模写でやってきたことが活きていないではないか!」そんな風に思ってしまう。そのことを先生に言うと、「まあ、何にか身についたものもあるから、それはそれで無駄にはなっていないでしょう」と、意に介してないような答えであった。
 
 考えてみれば模写はあくまでも模写である。出来上がった作品を真似て描いているから似たような絵になるわけで、その見本がなくなれば、新たなものはどう描いて良いか分からなくなる。安野光雅は風景を見て自分の感性で自己の画風で表現することが出来る。だから画家安野光雅なのである。しかし私は新しい風景を描こうとしても、それを安野風に表現する感性はないのである。結局17枚描いても、自分の物にはならなかった。
 
 さて4年目からはどうすれば良いのだろうかと考えてしまう。結局先生が言うように、自分が(美しい、面白いと)感じたものをどう表現(パホーマンス)していくかしかないのかも知れない。そのために表現力を磨き自分のスタイルを追及していくことなのだろう。働いている間は教室には通う予定であるが、その間にある程度の自分の画風のようなものが確立できれば、と思っている。
 

    

              

                    お手本 安野光雅『津和野』 南谷大橋から

    

              

                      安野光雅『津和野』 喜時雨の農家

    

              

                    安野光雅『津和野』 大橋遠望

    

             

                    安野光雅『津和野』 機関庫

    

             

                     安野光雅『津和野』 女学校あと

    

               

                      安野光雅『津和野』 庄屋

    

               

                     お手本 安野光雅『奈良』  山辺の道

    

              

                     安野光雅『奈良』  奈良坂から大仏殿

    

             

                      安野光雅『奈良』  今井町

    

              

                       安野光雅『奈良』  薬師寺遠望

 

                          ここまでが安野光雅の模写

                   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                 これ以降は撮り溜めた写真を見て描いている

 

    

                         都立六道公園

    

                         佐渡 加茂湖

    

                         新潟市 太夫浜

    

                         箱根 芦ノ湖

    

                        下関市 関門海峡

    

                         秩父 山道

    

                       北茨城市 大津港

  

 

            


散歩(秩父)

2014年10月24日 08時05分15秒 | 散歩(4)
 「気持ちよさそうに歩いているね~」、刈り取りが終わった田んぼの傍を歩いていたら、おばあさんからそんな言葉をかけられた。「良い季節になりましたからね」、そんな風に応えてまた歩き始める。2週続けて台風の影響で散歩を控えていた。今日の日曜日は秋晴れで絶好の散歩日和、少し遠出をしようと思いたって秩父までやって来た。そんなウキウキした気分が歩いている私の様子に表れていたのだろうか?

 秩父には何度も来ていて、今年の大雪の1週間後に雪を見に来たことがある。今日は秩父の中でも、レトロな建物にスポットを当てて歩いてみることにした。西武線の西武秩父駅で下車、秩父神社周辺の街中をぐるぐると歩いて回る。時にはわき道に入り、時には行き止まりの路地に入る。秩父はかつて銘仙やセメントや林業で栄え、今でもいたるところにその当時の名残がある。古い民家が点在し、すこし郊外に出れば昔ながらの農家がある。戦後育ちの私には郷愁を感じさせてくれる街である。この光景、何時まで残っていてくれるのだろう。

    

                          西武秩父駅

         

                  秩父の街は四方山に囲まれている

    

                 街のいたるところに古い民家が点在する

            

 

    

                       木造三階建て 松本家

             

 

    

 

    

             祭りの準備で山車が電柱に引っかからないように点検

    

 

    

                     暖簾が出ている店はヨガ教室

            

                   ヨーガは日本語では遊舞なのか

    

                     ここは昔はダンス教室?

    

 

    

                      ノコギリ型の屋根は織物工場

            

 

    

                            銭湯

    

                          武甲酒造

    

                          武甲酒造

    

                  黒門通りに人が並んでいる蕎麦屋さん

    

               その隣は喫茶店 登録有形文化財になっていた

    

 

    

                 黒門通りと買継通りを結ぶ秘密めいた路地

    

                    秩父神社に通じる番場通り

    

                     小池煙草店 昭和2年建造

             

 

    

                       羊山公園への上り坂

            

                          そばの実

    

            

                      同じ地点からの冬の景色

            

 

    

 

             

 

    

                         のどかな農家の景色

             

                           十月桜

    

                        西武線 横瀬駅

 

 


葬儀に出て思う

2014年10月17日 08時59分30秒 | Weblog
 日曜、以前取引関係でお付き合いがあった人の葬儀に参列した。個人的に親しいという間柄でもなかっが、その人が会社を退職されて個人商売を始められてからは、よく情報交換などで話をするようになった。しかしその商売も手仕舞いされたようで、ここ5~6年はお会いする機会もなかった。そんな関係から先週末に訃報を貰ったとき、私の中で参列するか否に迷いがあった。しかし昨今は周りで直接係わり合いがあった人達の訃報が多く入る。「今までの人間関係も逝去によって否応なしに途絶えていく年齢。だからこれからは一つ一つにケジメをつけていく時なのだろう」、そう思って葬儀に出かけることにした。
 
 故人は享年81歳、1年前に肺がんになりその後入退院を繰り返して、最終的には呼吸不全で亡くなられたようである。受付を済ませ式場に入る。仕事を離れて長いからか会社関係の人は少なく、大半が親戚筋や近隣の身近な人のようである。席について祭壇の遺影に目をやると、黒い遺影リボンの後ろでにっこり笑っている故人の顔に戸惑いを覚えた。どちらかというと面長だった顔はまん丸になり、頭には髪の毛は1本もなく剃っているようである。私の記憶にある故人とはあまりにも違う変わりようである。隣に座る人にそのことを聞いてみた。するとその人も違和感を感じたのか、身内の人に聞いたことを話してくれた。この写真は入院の中のもので、お孫さん達が笑っている顔が良いからと遺影に選んだそうである。たぶん治療で使った抗がん剤の副作用で頭の毛は抜け、顔は浮腫んでしまったのであろう。闘病中の故人の苦悩を思わせる遺影である。
 
 席についてしばらくすると、進行係のアナウンスから式は始まった。宗派は日蓮宗のようで、黄色い法衣に帽子で身を包んだ導師様が祭壇の前に着席する。お経が始まり日蓮宗独特の木柾(もくしょう)(木魚)がリズムを刻み、時々リンの音色がアクセントになる。淡々と読み進んでいくお経の中に「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」と覚えのある部分が何度も出てくる。しばらくして読経の中でご焼香が始まる。車輪つきの焼香台が喪主の前に置かれ、焼香が済むと隣の席へと周っていく。喪主の奥様は70歳代であろう、喪服の姿はほっそりとして小柄で品が良い人である。隣の席に娘さんであろうか50代の女性が並び、その隣もやはり50代の女性、そしてその隣は20代の男性とまだ学生のような女性と続く。たぶん喪主の奥様と2人の娘(姉妹)さん、そして妹さんの方の子供達(孫)であろう。時折奥様と2人の娘さんは右手に持ったハンカチで涙を拭っている。今まで故人のことしか知らなかったが、こうして見渡せば故人の家族環境のようなものを垣間見ることができる。
 
 一時間を要して、葬儀と初七日の法要が終わった。お坊さんが退席すると喪主の挨拶である。型通りの挨拶の後、故人が好きだった「月の砂漠」の歌を唱和して欲しいと、歌詞のコピーが配られ、場内に伴奏が流れる。歌い終わったあと棺が会場の真ん中に置かれ蓋が開けられて故人との最後のお別れである。故人が愛用していたブレザーコートと帽子が入れられている。係りの人がお盆に盛ったお花を持ちまわり、参列者はそれを貰って白装束の故人の傍に置いていく。私もお花を貰って棺の中に置きながら故人の顔を拝見した。すると遺影の顔と違って、私の覚えている面影が残る穏やかな顔である。たぶん治療の終盤は抗がん剤を止めたから、顔の浮腫みも取れたのかもしれない。会場にいた男性数人で棺を持ち霊柩車まで運び、親戚縁者はマイクロバスと乗用車に分乗して火葬場に向かって出発して行った。後に残った参列者は三々五々それぞれの方向へ戻って行く。今回の葬儀は涙涙の様相はなかった。それは故人がすでに80歳を過ぎていること、亡くなるまでに1年と少しの期間があったこと、そんなことから家族にはある程度の納得の葬儀だったのかもしれない。
 
 今までの人生の中で何度葬儀に出ただろうと振り返って見た。たぶん100回以上150回未満であろう。若いお父さんが亡くなって、残された奥さんと小さな子供たちが慟哭していた葬儀、冬の石巻のお寺で耐え難いような寒さだったこと、お寺で正座し痺れが切れて立てなかったこと、夏の暑い盛りにセミ時雨だけが記憶に残っている葬儀、会社関係のお偉いさんの葬儀でご焼香に築地本願寺に何百メートルも並んだこと、もし今までに参列した葬儀記録(故人と斎場)があれば、その時々の情景を思い出すことが出来るように思う。しかし今はその記憶は頭の中に散在していてすでに遠くの幻のようでもある。人は生まれてやがて死んでゆく、その最後のケジメとしての葬式も、いずれその人の記憶と共に忘れられていくのであろう。





「がんは放置」でほんとうにいいんですか?

2014年10月10日 08時27分08秒 | 読書
 「がん放置療法」は元慶応大学の医者で近藤誠氏により提唱されたものである。ガンには転移するものと転移しないものとがある。転移するものはそれが見つかる前にすでに転移しているから、その都度がん治療(手術、抗がん剤、放射線)を行うことで反対に体を痛め寿命を縮めてしまう。転移しないがん(がんもどき)は放置していても命に差し障りは無い。だからそのガンが大きくなって、QOL(生活の質)が落ちるようになった時点で適切な治療を行えば良い。ガンが見つかれば医者は治療を勧め、本人は心情的に放置することへの恐怖が芽生える。だからガン検診はしない方が良いし、やること自身が無駄である。ガンを治療すれば、必ず痛みや苦しみに悩まされ続けてQOLが悪くなってしまう。だからガンは「放置しても良い」ではなく、「放置した方が良い」そういう理屈である。
 
 この説は今の医療の有り方を真っ向から否定するもので異端である。当然医療業界からは猛烈な反論があり否定された。近藤誠氏は医学会で論陣を張っても抵抗勢力が多いため、マスコミ(本や雑誌)を通じて自説の展開し始めた。そして次第に同業医やがん患者からも賛同者が出始め、今は歯牙にもかからない異説ではなく、一考に価する療法という認識も出てきたようである。
 
 今回新たに出版された本の中に、世間で大きな話題になった有名人のガン治療の顛末が書いてあった。例としてTV司会者の逸見政孝(胃がん)、歌舞伎の中村勘三郎(食道がん)、レポーター梨元勝(肺がん)、小説家渡邊淳一(前立腺がん)、将棋の米長邦雄(前立腺がん)、レポーター筑紫哲也(肺がん)は、大病院で積極的にガン治療を行った人達である。しかし結果は手術や抗がん剤によって体はボロボロになり、痛々しい終末を迎えることになった。彼らのガンは転移性のもので、いずれも助からないものだから、手術などせず放置していれば、ギリギリまで活動を続けることが出来たであろうと言う。一方、忌野清志郎(喉頭がん)、赤塚不二夫(食道がん、脳内出血で死亡)、緒方拳(肝臓がん)は、自分の意思でガンを放置した人達である。彼らは結果的に、最後まで仕事を続けることが出来き、穏やかな終末を迎えたと言う。スティーブジョブスは膵臓がんを放置したが、その後膵臓の移植をし死亡に至った。また小沢征爾(食道がん)、桑田啓祐(食道がん)は手術をして復帰し、成功したように言われているが、しかし著者によれば2人は転移性のガンではなかったため積極的な手術の必要はなかった、ということである。
 
 これを読んで見れば結果を知っての後だしジャンケンのようにも思える。しかし著者の言い分は、同じガンでも転移するものと転移しないものがあることは医学会で周知のことである。しかしどれが転移し、どれが転移しないかは今の技術レベルでは識別できない。しかしガンを全て転移するものとして処置する今の考え方は間違いで、転移するガンであれば何をしても治らないから治療するのは無駄で、また転移しないガンで有れば積極的に治療するする必要は無い。だから転移するしないに関わらず、手術や抗がん剤で命を縮めてしまい、治療しない方が長生きし穏やかに過ごすことができる。従って上記の事例はそれを物語っているだけで、後出しジャンケンにはならないと言う。
 
 著書によるとガンは10年以上かけて大きくなってくる。そして検査で発見できる大きさ(1センチ)では、すでに10億個のがん細胞にまで増えている。当然転移型のガンであれば、その間にあちらこちらに転移していているから一ヶ所をつぶしてみても、いたちごっこになってしまう。手術や抗がん剤で殲滅しようとすれば正常な臓器もダメージが出てくる。また手術をすれば、ガンが暴れだし、返って転移しやすくなる。しかも神経を傷つけるから治療後にも痛みが出てくる。一方放置したガンはあまり痛みは伴わない。同じ死を迎えるのにどちらを選択するか?それが著者の主張である。
 
 10年前、近藤誠氏のこの手の本が出た頃、身内(義弟)の外科医に「近藤誠の主張についてどう思う?」と聞いたことがある。そのとき彼は、「一介の医者の主張と今医学会が向かっている方向とどちらを信じるのか?、もし貴方がガンだと宣告されたとき、ガンと戦わず放置して後悔しないのであればそれで良いのだが、・・・・」、という突き放した言い方であった。当然ガン患者を何百人と手術して来た義弟に聞くだけ野暮な話であったわけである。そして丁度その頃は母が大腸がんで手術をし、手術後肝臓に転移しているからと抗がん剤を投与し、それによって死期を早めたように思っていた次期でもあった。だからなのか当時の私のガンに対するスタンスは、ガンが見つかれば一旦は手術または放射線(抗がん剤は使わない)でガンを取る。しかし再発や転移があればその後はガンとは戦わない。そんな心算もりであった。
 
 あれから10年が経った。今年70歳を迎えたことで少しガンに対する考え方も変わったようである。今、男性の平均寿命は80歳、健康年齢は72歳である。今から私がどうあがいたところで自分の寿命が大きく変わるものではないだろうと思う。そうであればあと10年(どんなに長くても20年)、その間はボケず、寝込まず、人に頼らずに生きていけることが一番良いと思うようになった。そして死を迎えるに当たって、できればあまり痛みや苦痛が伴わないことが最善だとも思うのである。今はガンでの死亡率は50%を超えている。だからいずれ自分もガンを言い渡されることになるだろう。そのときどう選択するか?、たぶん今の自分は放置療法を選択する可能性が高いように思うのである。
 
 いざガンを宣告されたとき、人によって向き合い方は千差万別であろう。患者のその時の年齢や患者を取り巻く環境、患者の意識や精神状態によって大きく違ってくるはずである。従ってこの「ガン放置療法」も、人によって捉え方も違い、納得の度合いも違ってくるはずである。しかも人の死は自分の納得だけでは済まされない場合もある。そこには家族の納得も大きなファクターになってくるはずである。だから日ごろから自分のスタンスを決めて、周りによく自分の意思を説明して置くことも必要なのかも知れない。
 
 
 
 

 

肩関節周辺炎

2014年10月03日 08時15分15秒 | Weblog
 1ヶ月半ほど前から右の二の腕の上部が痛い。いつも右肩にカバンを掛けるから、その習慣で何らかの障害がでたのだろうか?、右肩を下にして寝るから寝違えたのか?、それとも最近何か重いものを持っただろうか?、振り返って考えても「これ!」と思える原因が見当たらない。時々右肩を回すような動作をすると激痛が走ることがある。筋肉に亀裂が入ったかと思える痛みで、しばらくは身動きが取れないほどである。大きく動かさないかぎり、生活に差しさわりがあるわけでもないからそのままほって置いた。しかし1ヶ月を過ぎても痛みが取れない。薬局でサロンパスを買ってきて貼ってみたが、特段の効果も無いようである。
 
 1ヶ月半を過ぎると、さすがにこのままほっといて治るのだろうかと心配が出てくる。やはり何が原因でこうなるのか、自分自身で把握しておかなければと思い、会社の近くにある整形外科へ行ってみた。受付を済ませ、診察室の前で待つこと5分、名前を呼ばれて診察室に入る。「どうされましたか?」、医者の質問に対して今までの経過を話す。医者は私の右ひじを持ち、前後左右に持ち上げ、どういう位置の時、痛みが出るのか確認していく。一通りの検診が終わると、「我々の病名で言うと〈肩関節周辺炎〉と言いますが、いわゆる五十肩です。骨に異常があるといけないですから、一応レントゲンを撮っておきましょう」。そういってレントゲン室に連れて行かれ、角度を違えて2枚のレントゲン写真を撮られた。現像が出来上がってから再び診断室に呼ばれる。
 
 レントゲンフィルムを見ながら医師は「まあ骨には異常は無いようですから、やはり五十肩でしょう」、「70になって五十肩ですか??」と私、「50歳前後でなる人が多いので五十肩なのでしょうが、これは年齢に関係なく起こります」、「何が原因なのでしょう?」。「原因ははっきりしません。これは関節炎と違って、関節の外周にある腱板などに炎症が起こるためです」、そういって肩の模型図が書いてあるパネルを指して説明してくれた。「どうすれば良いでしょうか?」、「痛みで眠れないようであれば、痛み止めの注射をしますが、その必要は無いでしょう。しかし痛いからといって動かさないと固まってしまいますから、あまり痛みが出ない範囲で動かしてください。夜寝るときは右肩を下にしない方が良いでしょう」。診断が終わり湿布薬をもらって病院を出た。
 
 「五十肩」、今まで経験したような気もするがはっきりした記憶が無い。自分の体調の異変について、だいたいの記憶は残っているから、たぶん「五十肩」があったとしても、大した症状にはならなかったのであろう。会社に帰ってネットで調べてみると、「・・・炎症が最も多く起こる場所が「腱板」、腱板は線維組織からできているため、加齢とともにもろくなりやすいのです。しかも、もともと血管が少ない部位で、いったん傷つくと修復されにくい性質があります。50歳代は老化が進みやすい年代ですから、ちょっとした力が加わるだけで傷ついて、炎症を引き起こしやすくなることが考えられます。・・・」と書いてある。「おっ、また加齢や老化という言葉が出てきたか、まあ50歳からの老化の症状が70歳で出たのだから良しとしよう」
 
 私は何でもかでも医者に行くわけでは無いが、自分にとっては未知であり、不可解に思ったときは、思い悩むより先ずは専門家に聞いて見る。そして自分の症状と医者の言うことが合致していればそれで納得をする。医者に頼るのか、自分で治すのか、後は自分の判断である。私はそういう風に考えるが、しかし周りを見渡すと、病気と病院との考え方は人によって千差万別のようである。
 これはどちらかといえば高齢の女性に多いのだが、「医者は病気を治す責任がある」という考え方である。だから医者に通って、自分の思いどうりに快方しないと、「あの先生は何もしてくれない。不親切だ!」、と医者の個人攻撃になり、病院を転々とする。腰痛や膝痛や生活習慣病、どちらかといえば自分の生活習慣に問題があるのに、それは棚に上げて被害者意識が強い人が多い。二つ目が医者嫌いである。「俺の体は俺が一番良く知っている。あいつら(医者)は金儲けしか考えていないから、俺は医者には行かない」、そう言って胃潰瘍で血を吐いても病院に行かない人がいた。また、「俺はもう何時どうなってもかまわない。だから医者に行って、ああだこうだといわれたくない」と言う人もいる。これらの人は老年の男性に多い。
 
 三つ目が自己逃避型である。「咳がもう何ヶ月も続いているのに医者には行かない」、「健康診断で要検査の指摘が有ったのに医者に行かない」、これらの人は行けば、酒、タバコ、食事など、自分の生活習慣を変えるように指摘されることが分かっている。「そんな話は聞きたくない」だから医者を敬遠する。それは自分の生活習慣を変えるのがわずらわしいから、逃避し続けるのであろう。私の身近に居た人で、親が肝臓の病気で若くして死亡し、本人もある時期肝臓の数値の異常を指摘された人がいた。彼はそれ以来健康診断にも行かなくなり、サプリメントや民間療法に頼った。しかし結局は62歳で肝臓ガンで亡くなってしまう。医者に行き何らかの治療をしていれば、もう少し長く生きただろうと思うのだが、真実を知ることが怖く、目を瞑ってしまった。
 
 「酒とタバコをやめないのであれば、私は貴方の手術はしません」、医者にそう言い渡された喉頭がんの人がいた。「俺は太く短く生きるんだ!だから酒もタバコも絶対やめる気はない」そう言っていた彼も、やはり酒もタバコも辞めることになった。人は命と引き換えだとやはり命の方を選ぶものである。しかしそれが差し迫ったものにならない限り、なかなか動けないものでもある。自分の中に異変を感じたら、先ずは何が起きているのか調べて、自分で知っておくことであろう。今はネット等で、症状や療法と治癒の可能性は大体把握できるものである。その上でどうするかは自分で決める。それが責任ある老後のスタンスのように思うのである。