60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

私にとっての名著

2014年12月26日 09時39分24秒 | 読書
 先日、日経新聞の最終面の「芸術と科学のあいだ」福岡伸一(生物学者)のコラムに免疫のことが書いてあった。
 
 免疫系には、襲い掛かってくる外敵(ウイルスや細菌、毒素など)に結合し、効果的に無力化する武器が準備されている。抗体である。免疫系は、どんな敵が来襲してくるか、予想することはできない。そのかわりどんな敵がやってきても対応できるよう、ランダムに100万通りもの抗体を用意しておく。そのうちどれかが、侵入者にフィットすればいいのである。そのランダムさが私たちを守ってくれる。風邪のウイルスが毎年どのように変異しようとも、あるいは未知の病原体が襲ってきても、私たちはなんとか戦い、人類は生き延びてきた。予想や目標をもたずランダムであること。これが最良の戦略だった。が、同時に困難をももたらした。抗体はランダムに作り出されるゆえに、中には外敵ではなく自分自身を攻撃してしまう抗体も存在しうる、とういう問題だった。
 免疫システムはこの問題を回避するため、巧妙なしくみを編み出した。まだ外敵と出会うことのない胎児のある一時期、抗体を産生する細胞群は血液やリンパ液にのって身体の中をぐるぐるまわる。ぐるぐるまわりながら、もし自分自身のパーツと反応してしまう抗体を作る細胞があれば、そのまま自殺プログラム(アポトーシス)が発動して自ら消え去ってしまうのである。
 この選別が進行した結果、生き残った細胞が、非自己(自分ではない外敵)と将来戦うために保存される。逆に消え去ったものが自己なのだ。つまり免疫系にとって自己とは空虚な欠落(ヴォイド)に過ぎない。生物学を学ぶものは、このあまりにも逆説的な生命の実相にまず驚愕し、次いで感嘆する。
 故多田富雄は彼の代表作『免疫の意味論』の表紙に風変わりな絵を置いた(写真)。自己とは、今いるあなたから切り抜かれたもの。世界の中心にいるつもりの自分は、実はなにもないヴォイドなんだよ。だからさ、自分を探しに旅に出ても、自分などどこにも存在しない。彼の声はそうこだまして聞こえる。
 
 ここで取り上げている『免疫の意味論』という本は私も20年前に読んだ本である。この本を読んだ時、人体の不思議、免疫系の仕組みに圧倒されたように感じた。人体はウイルスや細菌をどう識別するのか、生体間移植した後なぜ免疫力を弱めていなければいけないのか、リュウマチは免疫系に異常を生じ、免疫が自己を攻撃する病気であるなど、免疫の仕組みが論理的に理解できるようになったように思えた。私にとっては久々の名著だったように記憶している。
 
 人生70年を過ぎ、振り返ってみたとき、私にとって意識改革をさせてくれたと思う本が何冊かある。それを思い出して書き出してみた。
 
『物理学入門』、カッパブックス、1963年。
 私が高校生の時に読んだ本である。アインシュタイン以後の自然科学について、数式を使わずわかりやすく解説してあった。例えばアインシュタインの相対性理論とは?宇宙の果てはどうなっているのか?など、高校生の私には興味津々で面白く、砂に水が染み込むように自然科学が理解できたように思えたものである。たぶんこの本によって、「自分は理系に向いている」と確信をもったように思う。
 
『蛍川』、宮本輝、1978年芥川賞受賞
 小説らしい小説を読んだことがなかった私に最初に小説の面白さを教えてくれたのは、会社の女の子に借りた三浦綾子の「積み木の箱」である。それから自分で本を買うようになった。本屋で多くの書籍のなかから何を選ぶかに迷った時、とりあえず賞を貰った本と思い買った一冊である。なんとなくノスタルジックで少年から青年へと変化する多感な時期の男の子の心のありよう。そこに友情があり初恋があり、誰しもが時代を問わず経験した甘酸っぱい感覚を呼び起こされてくれる。そして圧倒的なラスト、小説を読んで感動したのは後にも先にもこの一冊が最高であった。これ以降宮本輝の本は全て読破した。
 
『唯脳論』、養老孟司  1990年
 『バカの壁」など多くの著書を書いている養老孟司の初期のころの代表作である。内容は文化や伝統、社会制度はもちろん、言語、意識、心など人のあらゆる営みは脳という器官の構造に対応しているという考え方。ただし、脳が世界を創っているなどとしてすべてを脳に還元する単純な脳一元論ではない。「脳が心を作り出す」というよりは「脳という構造が心という機能と対応」しているとする。そして構造と機能を分けて見ているのは脳である。すべての人工物の仕組みは脳の仕組みを投影したものである。人は己の意のままにならぬ自然から開放されるために人工物で世界を覆おうとする。そのようにしてできた世界が脳化社会である。というよう風になかなか難解な部分もある本だったが、人間社会の基本的な有りようを理解していく上で、「まさしく」と感じた著書である。
 
『利己的な遺伝子』、リチャード・ドーキンス、1991年
 ダーウインの自然淘汰の単位を「種」に求めたり、種内の「個体群、集団」と考えたり、あるいは、「個体」を単位と考えたりするのではなく、リチャード・ドーキンスはその単位を「遺伝子」においた。固体は「死」ということで滅びても、遺伝子だけは代々繋がって生きていく。この「遺伝子」があたかも意志を持ち、自分の遺伝子を最大化するように個体を操っているかのように解説したものである。 これを読んだ時、この説で自然界の生命の営みが全て解き明かせるように思えた。その後この利己的遺伝子論には色々と反論が出てきて、今ではあまり注目されてはいないが、当時はまさしく「目からウロコ」を感じたほど面白い本であった。
 
『人は変われる』、高橋和巳 1992年
 地方から東京に出て働き始め色んな人間関係に遭遇し、戸惑いや不信感や不思議を感じていた。そんなときに本格的な心理学に接した最初の本である。著者は精神科医として臨床経験から、人の心の変遷をリアルに書いている。そして人が主観性を獲得するためには、苦悩や悲しみや絶望を経験することで、その悲観している自分や、絶望している自分を、自分自身が客観視する能力をもってるようになる。そのことで人は変わっていくことができると解説していたように思う。この本を読んで以降、人の心理に興味を持つようになり、専門家の書いた心理学の本をよく読むようになった。
 
『免疫の意味論』、多田富雄、青土社、1993年
 NHKの番組で取り上げていた一冊、内容は上に書いたようなものである。
 
『動的平衡』、福岡伸一 2009年
 生物を俯瞰してみる時、一番納得がいった解説書である。動的平衡を一概に語ることはできないが、内容は、生命は絶え間なく動きながらバランスをとっている。動きとは、生命内部の分解と合成、摂取と排出の流れである。これによって生命はいつも要素が更新されつつ、関係性が維持されている。ちょうどジグソーパズル全体の絵柄は変えず、しかしピースを少しずつ入れ替えるように。我々を構成している物質(分子)は1年もすればほとんど全て入れ替わっている。骨もしかりである。しかし人はほとんど変わったようには見えない。これが動的平衡である。生命が動的平衡であるがゆえに、生命は環境に対して適応的で、また変化に対して柔軟でいられるのである。というものである。
 
 私はここに上げた本以外にも多くの本に影響を受けたはずである。「本は成長の糧」、「本は心の糧」と言われる。今の若者はどちらかといえば、目先の娯楽や安易なツールに頼り、あまり本を読まないといわれている。私が自分の人生を振り返ったとき、やはり「良書は成長の糧」になっていたことは、紛れもないように思うのである。








物忘れ

2014年12月18日 10時02分47秒 | Weblog
 歳とともに物忘れが激しくなっていることを痛感するようになってきた。今週月曜日、通勤で池袋まで出てきたときに携帯(スマホ)を忘れたことに気がついた。昔なら「ああ、何てことをしてしまったのか」と、後悔と自分の不甲斐なさに地団駄踏むところである。しかし今は「ああっ、またやってしまったか」と、その後のことを考えて憂鬱になるぐらいである。会社にくる電話やメールは全てスマホに転送されるようになっているから、会社に居なくても仕事はこなせる。しかし反対にスマホが中心になっているから、これが無ければ仕事にならない。池袋から自宅にスマホを取りに帰ると往復2時間弱かかってしまう。しかし「面倒でも仕事にならなければ帰るしかないだろう」、そう自分を納得させてUターンした。
 
 先週はジャケットを着替えたことで、胸ポケットに入れていた定期券を忘れてしまった。この場合は駅で気づくから折り返せば良いのだが、それでも往復で40分のロスになってしまう。「まあ、歩くのだから健康のためには良いだろう」、そう自分に言い聞かせて駅に向かう通勤の人とすれ違いながら歩いて帰った。下の写真はある雨の日の通勤駅の写真である。キップの販売機の側に折りたたみ傘が置いてあった。推測するに、キップを買おうとして傘を畳んで脇に置いた。しかしキップを買ってから傘をさして来たことを忘れ、そのまま改札を入って電車に乗ったのだろう。これはたぶん60代以降の女性だと思う。
 
     

           
                      
 物忘れには二とうりあるように思う。一つは人の名を思い出せないとか、約束をわすれるとかの記憶力の衰え、もう一つが実際に物を忘れてしまうとか、風呂のお湯を出しっぱなしにするとか、自分の行動に対して意識低下から起こる物忘れである。どちらも加齢に伴い起こることなのかも知れないが、被害や危険度は後者の方が大きい。
 
 最近読んだものに、物忘れは「病的な物忘れ」と「生理的な物忘れ」という二種類に分ける事ができ、食事をしたこと自体を忘れてしまう場合は「病的な物忘れ」、食事をしたことは覚えているが、何を食べたかを忘れてしまった場合は「生理的な物忘れ」になるそうである。医学的な観点で以前は「病的な物忘れ」ばかりが重要視され、「生理的な物忘れ」は歳を重ねる毎に起こる、いわば「仕方のない事」で片付けられていた。しかし最近の研究では物忘れの種類の垣根が取り払われ、結局は「物忘れのレベルが違うだけ」、という風に捉えられるようになっているようである。だから、今まで軽く見られていた生理的な物忘れも、そのまま繰り返し放置していると軽度の認知症になり、さらにそのまま放っておくとアルツハイマー型認知症になる可能性が高いと言われるようになったそうである。
 
 では自分の物忘れレベルはどのぐらいかと考えてみる。20代の全盛期を10とすれば、今はレベル6ぐらいではないだろうかと思う。昔はスマホのデュアルコアではないが、2つのことを同時にこなすことは簡単にできていたように思う。例えば「自転車を漕ぎながら携帯電話で話す」ようなことである。しかしそれがだんだん難しくなってくる。だから出勤の準備をするという行為に付随して、定期券は?スマホは?財布は?と同時平行での処理がスムーズにできなくなって、物忘れの頻度が多くなってきたのであろう。上の写真のようにキップ売り場に傘を置き忘れるのもこのためだろうと思う。
 
 TV番組で認知症のバロメーターとして、歩きながら傘を差せなくなったら初期の認知症だと言っていた。そうなればレベル5以下なのかもしれない。そしてもう少し進むと、ドアノブをまわして引くとか、ネクタイが結べないとか、同時に2つの動作が混じった行動ができなくなるそうである。こうなればレベル4以下なのだろう。私の認知力も年々歳々衰えていく。それを少しでも食い止めるために「何をすれば良いのか」、そろそろ真剣に考えておかないと、認知障害は目の前に迫っているように感じるのである。





散歩(六義園)

2014年12月12日 08時41分19秒 | 散歩(5)
 先週友人がメールで駒込の六義園の紅葉の写真を送ってきてくれた。いつも散歩で何処に行くかで迷っているから、メールに刺激されて早速行ってみることにした。六義園の入り口には横断幕が掲げてあり、それには「大名庭園 ライトアップ11/20~12/7」となっている。郊外ではすでにほとんどの木の葉は落ちているが、都心でも紅葉は最終段階なのである。園内入ってみると普段に比べればお客さんも多いが広い庭園なのでそれほど混んでいる気もしない。大きな松の木には弧も巻きがしてあり、雪吊りの樹も見える。落葉樹は半分以上が葉を落とし、園内はすっかり晩秋の風情であった。

    
                  落ち葉の中をカモが泳ぐ

    
                      吹上茶屋

              
                      紫式部?

    
                   名札に「紅霧島」とあった。
     ツツジだからゴールデンウイーク頃が開花時期だが、これは狂い咲きか?

          

    
              大きな松の木には弧も巻きが施されている

          
                   職人の遊び心

    
               枝が張った樹には雪吊りがされている

    

    

          一番右の2人、バックの中からなにやら出して撮影を始めた

    
        半紙に書いた「羊」の一文字、メールの年賀状につかうのだろう

    
               2人の距離感で夫婦仲が読み取れる

    
     おじいさんが手押し車を止めてタブレットで撮影、世の中の変化を感じる

    

            

    
                       田鶴橋      

           

    
                       渡月橋


    
              園内で一番小高い藤代峠からの眺め

    
              日の当たるところだけ色が飛び出している

    
                   近づくと燃えるような赤

    
                      もみじ茶屋

    
                  思わずカメラを向けたくなる

    

    

    

    

    
                         これはハゼの木?
 
    
                     紅葉が水に写って幻想的
 
    
                      晩秋を感じさせる光と色
 
 
 
 
 
 
 

                  

アドラー心理学

2014年12月05日 08時38分10秒 | 読書
 最近本屋で「アドラー心理学」関連の本が目についていた。心理学の本も今までは「フロイト」や「ユング」が主で「アドラー」は馴染みがない。心理学も時代の変化の中で考え方の方向性も変わってくるのかも知れない。そう思ってここ2ヶ月で3冊ほど入門書を買って読んでみた。当然人の心の問題であるから内容も広範囲に及んでいるが、私としてこれがポイントだろうと思える箇所をまとめてみることにする。
 
 人は一人で生きているのではなく、〈人の間〉に生きている社会的動物である。従って人が生きていく上で重要なテーマの一つが、「仲間」を作るということである。アドラーは、人が成長の過程において「仲間」に出会うことの重要性を繰り返し述べている。しかし現実には人の悩みやストレスの多くは周囲の人達との対人関係に起因するものが多い。親と子、兄弟、夫婦、上司と部下、仕事での取引関係、友人知人、自分を取り巻く人間関係において程度の差はあれ悩みは尽きることはない。今から世に出ていく若者、今実際に人間関係の難しさに悩んでいる現役世代、我々シニアーのように人生を振り返って思い出す人間関係の葛藤、我々は人との関係を上手にこなすことができていれば、もう少し楽しく暮らせる(暮らせた)ように思うのである。
 
 アドラー心理学ははっきりとした目標を揚げ、絶えずその目標を達成する方向で人(特に子供)にアドバイスしています。先ず行動目標として、1・自立する。2・社会と調和して暮らせるということ。そしてこれを支える心理面の目標として、1・私は能力がある。2・人々は私の仲間であるという目標を提示します。アドラー心理学では行動は信念から出てくると考えますから、自立し、社会と調和して暮らせるという適切な行動ができるためには、それを支える適切な信念が育っていなければならないのです。ここで言う信念は、自己や世界についての意味づけの相対であり、アドラー心理学ではこれを「ライフスタイル」と呼んでいます。この信念を人は比較的早い時期に形成します。(現代アドラー心理学では10歳前後と言われている)、そしてこのスタイルはあくまでもスタイル(型)であるから、他のものに置き換えることはそれほど困難なものではないと考えるのです。では今の自分が持っている「ライフスタイル」に反省があるとすれば、どんなスタイルに変えれば良いのだろうか。
 
 アドラー心理学では、縦の人間関係は精神的な健康を損なうもっとも大きな要因である、と考え、対等な横の対人関係を築くことを提唱します。階段は狭くて2人が同時に同じ段にいることはできません。上の段に登ろうとすれば、そこにいる人を押しのけなければならないのです。ここには協力ということはなく上に登って行こう、トップになろうとする人は他の人を段から落とそうとしたりします(芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」のように)。アドラー心理学では人はそれぞれ自分自身の出発点、道、目標を持っており、自分で望むように、あるいはできる形で、早くあるいはゆっくり進んでいくのです。大人も子供も、教師も生徒も、役割は異なるけれども、優劣の関係ではないのです。教師と学生は「同じ」ではありませんが、人間としては「対等」なのです。人は「進化」(進むべき道筋)をめざして「前」へ進むのであって、「上」へと進むわけではないのです。狭い階段を上がるのではなく、広い道路を並んで歩いているのですから、別に誰が先に行こうと、後を歩こうとかまわないわけです。
 
 アドラーは人を(特に子供の教育において)罰したり叱ったりすることを否定します。罰すること、説教することでは何も得るものがない、といっています。また「ほめる」こともよくないと言います。そもそもほめることができるということは、その人の対人関係が基本的に「縦関係」であることをあらわしています。ほめるということは、能力がある人が能力の無い人に、あなたは「良い」と上から下へと相手を判断し、評価する言葉であるわけですが、そのときの対人関係の構えは縦関係なのです。罰したり叱ったりすること、またほめることは、自分に能力が無い、また(叱った場合は)人々は私の仲間ではないということになり、望ましいことでないと言います。このように言えるということは言葉じりの問題ではなく、対人関係の構え(基本)の問題であると考えることができます。
 
 たとえば親子の関係で、親は子供に「勉強しろ!勉強しろ!」と言います。勉強しない子を叱ったり、説教したり、勉強させるために褒美をあげたり、誉めそやしたりします。しかし勉強は誰の課題かと言えば子供の課題です。勉強が子供の課題であるとすれば、いきなり「勉強しなさい」と親が言うことは、子供の課題に踏み込んだことになり、子供との衝突は避けることができません。他方、子供が勉強をしないことが気になるとすれば、それは親の課題です。原則的にいえば人の課題を引き受けることはできません。イライラするからといって子供に宿題をしなさいとはいえないということです。ところが誰の課題かわからないほど課題が混同されているのが現状ですから、もつれた糸をほぐすように、これは誰の課題と言うふうにきちんと分けていかなければなりません。これを「課題の分離」といいます。頼まれもしないのにこちらが勝手に判断して、相手は助けを必要としているだろうと考えて手出しをしないということです。
 
 課題は克服できない障害ではなく、それに立ち向かい征服するものです。たしかに忍耐も地道な努力もいるかもしれませんが、自分には課題を達成できる能力があるという自信を持つように援助することができれば、勇気づけができたということができます。ではどうすれば、どう言えば勇気づけになるかは、人によってあるいは状況によって違いますが、原則的にいえば、ほめるとか評価するのではなく、喜びを共有すること自分の気持ちを伝えることは勇気づけになります。当たり前だと思って見逃しがちな行為に対して「ありがとう」とか「うれしい」とか「助かった」とかいうような言葉をかけることから始めるようにすると良いでしょう。叱るとかほめることに対して、勇気づけは「横の関係」を前提とするものであり、横の関係のときだけ勇気づけることができる、ということができます。人と人とは対等の横の関係にあるのですから、
 
 多くの人との対人関係が横の関係でいられるとすれば、自分をよく見せようという努力をしなくていいようになるでしょう。横の関係であれば、自分が優れていることを誇示することで、よく思われようと背伸びをすることは必要なくなります。世界は本当はシンプルであるにもかかわらず、そう思えないのはなぜか・・・・・・。それは私達が世界は複雑であるという意味づけをしているからです。そのような神経症的な意味づけを止めれば、この人生は意外と快適なものになるように思うのです。
 
 上の内容は主に、「アドラー心理学入門」岸見一郎著から抜粋してまとめたものです。しかしここに書いたものはアドラー心理学の一部で基本的な考え方のように思えます。さらに別な本を読んでみて、私として面白いというものがあればまた書いて見たいと思います。