ゴールデンウイークから始めた庭木の手入れ、最大の難関は10m近くにまで伸びた杉の木の伐採であった。この歳になってこんなに高いところに登って作業するのは危険だし恐怖である。かといって業者に頼めば何十万円もとられるだろう。一旦は息子に頼もうとも思ったが、やはり自己責任だと思い直した。狭い庭で左右に隣家があり、周りには電線や電話線が張り巡らされている。だから下から切り倒すわけには行かない。色々と考えた末、チェーンソーを買い、一番高い脚立(延ばせば4mになる)を買ってきて準備を整える。切り始めは足場になる太い枝は残し、下から小さな枝葉を落としていく。そして手が届かなくなってからは、もう一つの脚立(延ばして3m)を太い枝に引っ掛けロープで固定し、それに登って枝を落とす①。周りの枝葉を掃って作業しやすくした後、今度は上から1mぐらいの間隔で順に幹を切り落としていった②。
①
② ③
樹を切り終わった庭は広々として明るくなった③。自分の気持ちの中で懸案だったことが消え、精神的に楽になったようにも思う。明るくなった庭を見ると、リタイアしたら庭の一部を耕して花でも植えてみようと思ってみる。長めに残した切り株の上に餌台を置いて、野鳥を呼んでみようかとも考える。たった1本の木を切ったことで、今まで停滞していた自分の思考が少し変化し、前向きになってくるものである。
人は歳を取るほどに何事も億劫になるものである。そして「今度やろう」と先延ばしにし、時間だけがどんどん経過していく。やがて「やらなければいけない」と思うものの、それに伴う労力を考えてさらに延びてしまう。しかし何時かは踏ん切りをつけなければならない。そんな時の動機になるのが、経済的な価値を考え、比較することなのかもしれない。今回の伐採は業者に任せたときの費用ということが背中を押してくれた。友人が言うように、これ以上ほっておけば伐採するために、クレーン車を持ち込み道路を封鎖し、何人もの人数でやることになるだろう。そうなれば当然費用はかさむ。木は年々伸びていき、反対に私の運動神経は年々衰えていく。自分でやるとすれば「今だろう!」、そう思って一大決心をしたわけである。
放置して置くとどうしようもなくなるものに持ち物がある。我が家にしても兄弟の家にしても友人の家を見ても、夫婦2人なのに家の中は物であるれている。当人にとっては思い入れがあり捨てられない物でも、他人にとっては何の価値も無いガラクタがほとんどである。冷静に考えれば今後もほとんど使うことも無いのに、捨てられないものである。そして物は庭木が伸びるようにドンドン溜まって、やがて処分するのに大きなエネルギーが必要になる。その捨てられない代表的なものが、衣類、書籍、食器、そして子供が使っていた教科書や作品、人によってはビデオやCDなどであろう。捨てるのが億劫という気持ちに加え、「もったいない」と「思い出、思い入れ」が加算され、物は益々溜まっていくことになる。
昔、私の最大の持ち物は書籍であった。ハードカバー、文庫本、新書等、1週1冊として年間50冊、10年で500冊、20年で1000冊も溜まってしまう。ある時期まで本棚2台にぎっしり並べても並びきれず、床に山積になっていた。しかし狭い部屋で、さすがにこれではまずいと思うようになる。そこで冷静に考える。「果たしてこの中でもう一度読み直す本が何冊あるだろうか?」と。今まで読み直した本はもう一度読む可能性はある。しかしそれ以外は多分読み直さないだろう。万一読みたいと思えば、その時はまた買えば良い。その額は年間数千円になるか否か。そのために大量の本を後生大事に抱えておく方がバカらしい。そう無理やり結論付け、自分としての名著20冊程度を残して全て捨てることにした。今は読み終えた本は欲しいと言う人にあげるか、定期的にブックオフに持っていく。
結局捨てるか捨てないかは、感情と理性(気持ちと効率)のせめぎ合いなのであろう。残しておく物と捨てる物、それを判断することが億劫なのである。こうなったら残すものだけ決め、後は全て捨てるという発想の方が良いように思う。戦後物の不足していた時代に育った我々世代は、どちらかと言えば物に対して執着があるのかも知れない。そして沢山の物に囲まれていれば、それだけで安心感があるのだろう。しかし今はデジタルの時代である。音楽も書籍も電子化され、思い出の写真もSDカード1枚に納まる。しかもそれを所有せず他者のサーバーを借りてのクラウドコンピューティングの時代である。もはや何事も所有しないで活用の時代なのである。もう我々も発想を変え、思い切って物は捨ててしまい、身軽になってみたいものである。そうすれば庭が明るくなったように、自分の見える景色も気分も変わってくるのかもしれない。
ある老齢の女流作家が書いていたエッセイに、「死ぬときまでに、最低必要なだけの肌着とお気に入りの着物を数枚、後は数冊の本と貯金通帳くらいで、自分のものは柳行李1つで死んでいきたい」、そんなことを書いていたように思う。これを自分流に言い変えれば、「必要最小限の肌着と寒さをしのげるだけの洋服を少し、後はスマホとタブレット、そしてデジカメとスケッチブックとキャッシュカード、大き目のトランク一つで死んでいきたい」
①
② ③
樹を切り終わった庭は広々として明るくなった③。自分の気持ちの中で懸案だったことが消え、精神的に楽になったようにも思う。明るくなった庭を見ると、リタイアしたら庭の一部を耕して花でも植えてみようと思ってみる。長めに残した切り株の上に餌台を置いて、野鳥を呼んでみようかとも考える。たった1本の木を切ったことで、今まで停滞していた自分の思考が少し変化し、前向きになってくるものである。
人は歳を取るほどに何事も億劫になるものである。そして「今度やろう」と先延ばしにし、時間だけがどんどん経過していく。やがて「やらなければいけない」と思うものの、それに伴う労力を考えてさらに延びてしまう。しかし何時かは踏ん切りをつけなければならない。そんな時の動機になるのが、経済的な価値を考え、比較することなのかもしれない。今回の伐採は業者に任せたときの費用ということが背中を押してくれた。友人が言うように、これ以上ほっておけば伐採するために、クレーン車を持ち込み道路を封鎖し、何人もの人数でやることになるだろう。そうなれば当然費用はかさむ。木は年々伸びていき、反対に私の運動神経は年々衰えていく。自分でやるとすれば「今だろう!」、そう思って一大決心をしたわけである。
放置して置くとどうしようもなくなるものに持ち物がある。我が家にしても兄弟の家にしても友人の家を見ても、夫婦2人なのに家の中は物であるれている。当人にとっては思い入れがあり捨てられない物でも、他人にとっては何の価値も無いガラクタがほとんどである。冷静に考えれば今後もほとんど使うことも無いのに、捨てられないものである。そして物は庭木が伸びるようにドンドン溜まって、やがて処分するのに大きなエネルギーが必要になる。その捨てられない代表的なものが、衣類、書籍、食器、そして子供が使っていた教科書や作品、人によってはビデオやCDなどであろう。捨てるのが億劫という気持ちに加え、「もったいない」と「思い出、思い入れ」が加算され、物は益々溜まっていくことになる。
昔、私の最大の持ち物は書籍であった。ハードカバー、文庫本、新書等、1週1冊として年間50冊、10年で500冊、20年で1000冊も溜まってしまう。ある時期まで本棚2台にぎっしり並べても並びきれず、床に山積になっていた。しかし狭い部屋で、さすがにこれではまずいと思うようになる。そこで冷静に考える。「果たしてこの中でもう一度読み直す本が何冊あるだろうか?」と。今まで読み直した本はもう一度読む可能性はある。しかしそれ以外は多分読み直さないだろう。万一読みたいと思えば、その時はまた買えば良い。その額は年間数千円になるか否か。そのために大量の本を後生大事に抱えておく方がバカらしい。そう無理やり結論付け、自分としての名著20冊程度を残して全て捨てることにした。今は読み終えた本は欲しいと言う人にあげるか、定期的にブックオフに持っていく。
結局捨てるか捨てないかは、感情と理性(気持ちと効率)のせめぎ合いなのであろう。残しておく物と捨てる物、それを判断することが億劫なのである。こうなったら残すものだけ決め、後は全て捨てるという発想の方が良いように思う。戦後物の不足していた時代に育った我々世代は、どちらかと言えば物に対して執着があるのかも知れない。そして沢山の物に囲まれていれば、それだけで安心感があるのだろう。しかし今はデジタルの時代である。音楽も書籍も電子化され、思い出の写真もSDカード1枚に納まる。しかもそれを所有せず他者のサーバーを借りてのクラウドコンピューティングの時代である。もはや何事も所有しないで活用の時代なのである。もう我々も発想を変え、思い切って物は捨ててしまい、身軽になってみたいものである。そうすれば庭が明るくなったように、自分の見える景色も気分も変わってくるのかもしれない。
ある老齢の女流作家が書いていたエッセイに、「死ぬときまでに、最低必要なだけの肌着とお気に入りの着物を数枚、後は数冊の本と貯金通帳くらいで、自分のものは柳行李1つで死んでいきたい」、そんなことを書いていたように思う。これを自分流に言い変えれば、「必要最小限の肌着と寒さをしのげるだけの洋服を少し、後はスマホとタブレット、そしてデジカメとスケッチブックとキャッシュカード、大き目のトランク一つで死んでいきたい」