60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

家族という病

2015年05月29日 09時03分12秒 | 読書
 
 新聞に「家族という病」という本の広告があった。以前読んだ「母という病」、その後同じ著者が書いた「父という病」が出版され、その三番煎じの本だろうと思っていた。先日本屋に立ち寄ったらこの本が積まれていた。帯封の「家族ほど、しんどいものはない」という文言に引かれて本を取り上げて見る。以前の2冊と違って著者は下重暁子(あきこ)となっている。大昔NHKのアナウンサー時代にTVで見覚えがある。以前の2冊は精神科医が書いた新書である。今回はキャリアウーマン、その著者が家族について何を書くのだろう、そう思って読んでみることにした。以下著書の中の一部を抜粋してみた。
 
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 振り込め詐欺の盲点は、家族からの頼みだと疑いもせず聞いてしまうことにある。家族を信頼していて家族の危機は自分の危機と考えて、救わなければと思ってしまうからなのだろう。欧米ではこうした犯罪は成立しにくいのではないだろうか。欧米と決定的に違うのは、個人主義と家族主義の違いであり、どちらが良いとは単純にいえないが、家族と言う甘い意識の空間にはいくらでも犯罪は入り込んでくるのではないだろうかと思っている。
 
 よく家族間の事件(殺人事件)が新聞を賑やかす。そのとき私はいつも明日はわが身だと思う。家族といえど違う個人なのだ。個と個の間に摩擦が生じれば、なにが起きても不思議は無い。大事に至らなくても、親子間の確執や兄弟げんかなどは日常茶飯事である。誰かが我慢をするか、ごまかしてその場はなにもなかったかのようにやり過ごしているが、積もり積もれば大きなしこりになる。どんな家族の間にも同様の事件は起きる。身近な間柄だけに、一旦憎しみが湧くと人一倍憎悪は大きくなり、許すことが出来ずに、極端な形をとってしまう。自分の家族だけはそんなことは起こらないと信じることは大きな思い上がりであり、どの家にでも起こるという想像力を持つべきだ。
 
 子供のいる友人知人に聞くと、女性はある年齢になると家を離れ、一人住まいをし、自分で仕事を見つけ、恋人を見つける。しかしダメなのはどちらかといえば男の方で、いくつになっても家を離れず親と一緒にいる。気楽で、家事もしてもらえるからなのだろう。成人したらよほどの事情がなければ、独立するのが自然である。動物だって子供に餌を与えて大切に育て外敵から保護するが、成長したらある日を境にもう面倒を見なくなり、子供は自分で餌を求めて違う縄張りで生きていかなければならない。獅子は成長した子を崖から突き落とすという。そうやって心を鬼にして親離れ子離れしていくのに、人間はそれをしなくなった。世の中が厳しいせいではない。お互いがもたれ合い、甘えあい独り立ちできない親や子が増えているのだ。原因は子供にあるのではなく、親にある場合が多い。子は親の姿を見て育つと言う。親の本心を見抜き、そこに甘えて何時までも独りだちできない。幼い頃はいくら愛情を注いでもいいが、ある年代になったら別人格を認める必要がある。家族は時間を共有したあとは離別して、遠くから見つめる存在になるべきであろう。
 
 私は、子は親の価値観に反発することで成長すると信じている。親の権威や大人の価値観に支配されたまま、言いなりになっていることは、人として成長の無い証拠である。仲の良い家庭よりも、仲の悪い家庭の方が偽りがない。正直に向き合えば、いやでも親子は対立せざるをえない。どちらを選ぶかと聞かれれば、私は見栄でつくろった家族よりも、バラバラで仲の悪い家族を選ぶだろう。
 
 失敗や挫折こそが人を強くする。人はそこで悩んだり考えたりと、自分で出口を模索するからだ。順風満帆できた人ほど、社会に出てきた後、組織の中で上手くいかない人を大勢知っている。両親がエリートの場合は始末が悪い。自分達と同じように成績が良いのが当たり前で、小さい時から塾だ家庭教師だと遊ぶ閑も無い。
 親や家族の期待は子供をスポイルしている。だから親といえども自分以外の個に期待してはならない。他の個への期待は落胆や愚痴と裏腹なのだ。期待は自分にこそすべきなのだ。自分にならいくら期待してもかまわない。上手くいかなくても自分のせいであり、自分にもどってくる。だから次ぎは別の方法で挑む。挫折も落胆も次へのエネルギーになる。親が子に期待するから、子もまた親に期待する。一番顕著なのが親の遺産だ。親の財産は親一代で使い切るのが一番いい。子に余分な期待を持たせてはいけない。
 
 人はつれ合った配偶者のことを本当に理解することはない。死という形で終止符が打たれて初めてそのことに気づき、もっと話をすればよかったとか、聞いておけばよかったと後悔する。家族は暮らしを共にするする他人と考えた方が気が楽である。
 
 年をとると話題が限られてくる。病気や健康についての話、次が家族の話と相場が決まっている。家族の話のどこが問題かと言えば、自分の家族にしか目が向かないことである。それ以外のことには興味が無い、家族エゴ、自分達さえよければいい。事件が起こるとまっ先に、自分と関係があるかどうかを気にかける。どんな事故でもまず自分の家族にふりかかってこなければ安心だ。それ以外はよそ事なのだ。それぞれが家族と言う殻のなかに閉じこもって、小さな幸せを守ろうとする病にかかっているようだ。「他人の不幸は蜜の味」というけれど、他人の家族と自分の家族を比べて幸福度を測る。他人との比較は、諸悪の根源なのだ。自分なりの価値基準がないから、キョリョキョロ当たりを見渡し友人・知人と比較する。家族エゴはどうして起きるのか、家族が個人である前に家族の構成員としての役割を演じているからではなかろうか。
 
 親子きょうだい仲良く平和でけんかすることもなく、お互いを理解し助け合って生きている。そんな家族がいたらそっちのほうが気持ち悪い。家族は近くにいるから常に気になる存在で、言い合ったり、けんかしたり、価値観も違うし性格も違う。衝突することも多いし、一度確執が生じたら解決することはなかなかむずかしい。そこでお互い譲り合って、許容できるかかが大事である。常に危うい橋を渡りながら、たいていの家族はかろうじて均衡を保っている。自分が孤独に耐えられなければ、家族を理解することは出来ない。独りを楽しむことが出来なければ、家族がいても、孤独を楽しむことは出来ないだろう。独りを知り、孤独感を味わうことで初めて相手の気持ちを推しはかることが出来る。家族に対しても、社会の人々に対しても同じだ。なぜなら家族は社会の縮図だからである。
 
 
 著者は本の中で、「自立しなければいけない」ということを強調していた。それは著者の育ってきた環境に大きく影響しているように思う。著者の父親は陸軍の将校で、感情が激しく家族の中では絶対的な権威を示し、母親にも暴力を振るう人であった。そんな父親も終戦後の公職追放をうけてからは卑屈になっていき、ますます感情を露わにするようになる。著者はそんな父親を嫌悪し、部屋に閉じこもり、やがて家を出て行くことになる。一方母親は暴力的な父親に付き従い、娘である私を溺愛する。著者はそんな母親をもうっとうしく思い幻滅していくようになったという。そんな環境から自分を保つ為には、親子といえども距離を置くこと、そして自立していくことが著者には大きな課題であったのだろうと思う。読んで見て、そんな経験から書けることも多く、一方で自分の意思で子供を持たないなど、幼い頃のトラウマを引きずっているようにも思ってしまう。
  
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 まだ私の母親が健在の頃、時々手紙をくれていた。その手紙で今でも覚えているものがある。それは実家の庭の樫の木にキジバトが巣を作った。最初は巣を取り払おうと思ったが、かわいそうに思いそのままにして観察する。やがてハトは卵を産み抱卵して雛がかえる。親バトは入れ替り立ち替り何度も何度も餌を持って帰り雛に与えてやる。やがて雛も成長して巣から離れて枝に止まり、羽を広げて羽ばたいてみせる。そしてある日、親バトは巣に帰ってこなかった。雛達は腹を空かせて叫び続ける。しかし親バトは遠くの屋根から見守るだけで帰ってこようとはしない。やがて雛は諦めたのか、意を決して一羽一羽飛び立っていった。屋根に残る親バトの姿の中に安堵と寂しさを感じた。自分の4人の息子達も皆巣立っていって今は老夫婦2人だけである。「これで良いのだ!」・・・・、そんなことが書いてあったように覚えている。
 
 人も動物である。ある時点で親離れ子離れができればそれで良いのだろう。後どうするか、どうなるか、それは子供の問題である。親は心配でもそれを見つめているしかないのであろう。そこで過干渉してしまうと、それがアダになって病にまでなってしまうのかもしれない。
 



 

知らぬが仏

2015年05月22日 08時28分58秒 | 日記
 以前の会社の同僚からメールが来た。
 
 元気にお過ごしの事と思います。ご心配かけてすみません。
私は、吹奏楽団やバンド仲間との演奏活動や、晩酌も今までと変わらず過しています。時には仙台時代の仲間等と旅行や飲み会もやっています。
 只、昨年の10月の人間ドックの結果、毎年の結果と変調があった為、自治医科大学病院で約2ヶ月かけて検査をしました。その結果、腹部に「悪性リンパ腫」が複数あり、骨髄液の検査結果でリンパガンが骨髄にまで浸潤していることがわかりました。
 悪性リンパ腫という病気は完治できない病気のようで、治療は身体への負担が大きいため現在は「無治療」ということで、月一度の検査で病気の状態を観察しています。冒頭に書きましたとおり、自覚症状は少なく、今までと同様の生活が出来るので、今まで以上に充実した毎日を過ごすよう勤めています。・・・・・・
 
 彼の親しい友人から、彼にガンが見つかったようだという話は聞いていた。しかし正確な病状はこのメールで初めて知ったわけである。彼とは東京で就職し、最初に寮に入ったときに同室になった。しかし私は食品、彼は雑貨と担当が違ったため、寮を出てからはほとんど会うことは無かった。しかし私が子会社に転籍し、会社を辞めるまでの2年間は同じ部署に所属し、一緒に出張をしたことも何度もあった。したがって親友と言う間柄ではないが、気心の知れた同僚という関係である。今は年に2~3回、10人程度の懇親会で顔をあわせている。彼は明るくポジティブな性格である。学生時代からサックスを吹き、老若取り混ぜた小さな吹奏楽団に所属し、演奏活動をしながらリタイヤ後の生活を楽しんでいた。
 
 お互い70才を超える年代になれば、いつ何が起こってもおかしくはない。しかし彼は健康には気を使い、特に持病もなかっただけに青天の霹靂であろう。6月に懇親会が予定されているから、たぶん彼と会うことになるだろう。今後病気とどう向き合うのか、自分の気持ちをどうコントロールしていくのか、それを考えると彼に何んと話しかけたら良いのか分からなくなる。そして自分が同じようにガンを宣告されたときどう対処するのか、他人事ではなく自分にも差し迫っている問題でもあるのである。
 
 私は一昨年の夏から健康診断を受けるのを止めている。それは雑誌に載っていたある医師の言葉からである。・・・・人間ドックでどこかにガンが見つかったとしよう。その時人はそれをそのままにしておくことはできない。必ず自分の心配の種を排除しようと、医者に頼ることになる。医者は当然ガンを取り除くことが仕事であるから、ほとんどの患者はガンと戦うということになってしまう。40代50代で、まだ家族に対して責任があれば戦うこともやむおえないかもしれない。しかし70代になって体力も衰えているときに、治療の手順通りに手術や放射線や抗がん剤で治療していくと、反対に体力気力を奪われ、結果的には寿命を縮めてしまうことになる。だからと言ってほって置けば、余命何ヶ月(何年)と知らされ、日々増大するがん細胞を意識すれば、治療する以上にストレスがかかる。だから「知らぬが仏」、あえてガンは見つけ出さないほうが良い。・・・そういう内容であった。
 
 私は40代中ばに胃の痛みが長期間続いたことがある。今思えばストレスからの胃痛であろうが、当時は「ひょっとするとガンではないだろうか?」という思いが持ち上がった。そしてそれが増幅し頭の中で最悪のシナリオになっていく。それは自分の「死」に関わるだけに、そのストレスは尋常ではなかったように記憶している。そのストレスは検査結果が出て霧散してしまったのだが、そんなことから「知らぬが仏」は私には理解できるのである。
 
 私の母は大腸がんで79才の時に手術をした。しかしガンは肝臓にも転移していて、医者の方針でその後抗がん剤を使用した。しかしそれで母は急速に体力を奪われ、半年後に亡くなってしまった。今思えば手術だけで抗がん剤を使わなければ、もう少し楽な余命だったと思っている。私の知り合い(72才)に尿道ガンが見つかった。医者の方針は抗がん剤でガンを小さくしてから手術するということであった。病院に通い抗がん剤を投与し続けたが、次第に体力を奪われトイレで倒れて、打ち所が悪くて亡くなってしまった。これはほんの一例で、私は高齢になってガンと戦って打ち勝った人を知らない。たとえガンを克服しても、その間の苦闘に見合うだけの寿命を延ばせるだろうか、そう考えると高齢でのガン治療には懐疑的である。
 
 私は健康診断を受けないからといって健康を疎かにした生活をするわけではない。反対に自分の数値のバロメーターが無いのだから健康にはより気を使うようになる。食事はコントロールし、適度に運動をし、ストレスは溜めないように心がける。自分の体全体に神経を張って異変を察知しようとする。そして自分に経験のない異変を感じたら、その時は直ぐに医者に行き原因は確かめる。万が一それがガンだったとしても、せいぜい放射線治療で(抗がん剤は使わない)生活に支障がない程度の治療に留め、ガンと徹底的に戦おうとはしないだろう。
 今まで70年生きてきたわけである。これからは検査やデーターに依存せず、自分の経験や知識や感覚に賭けてみる。そう考える方が自分の生活に緊張感があり、気持ちに張りが持てるように思うのである。
 
                            







箱根駅伝を歩く(8)

2015年05月15日 08時50分58秒 | 散歩(6)
                    箱根駅伝を歩く(8)

 国府津~風祭

 国府津駅は海の傍にあり反対側は山が迫っている。の間には西湘バイパス、国道1号線、JR東海道線が走り人家がまばらである。国府津から東京駅までは東海道線で約1時間20分、この当たりが都心に通う通勤地の西端のように思える。1号線を西に向かって歩くと松林が残り、沿道には多くの神社やお寺があって、昔の東海道の名残を感じる。酒匂川を超え小田原市街に入っていくと、蒲鉾店を筆頭にお土産の店多くなり、やがて小田原城が見えてくる。この小田原は戦国時代の北条氏から続く歴史ある町、人口20万のこの町は都心近郊の町と違って独立した地方都市の雰囲気を持っている

   
 
                          国府津駅

    
  
                             1号線
                   昔の名残で所々に松の大木が残っている

            

                  1号線の海側は西湘バイパスが走っている

    
 
                   バイパスの下をくぐると湘南の海が広がる
 
            


    


            
 
             1号線を歩いていたら「寺カフェ」という看板が目に止まった

            
 
                     一休みと思い中に入ってみた
                 寺カフェだからか入り口に仏像が置かれている

    
  
                     開店したばかりでお客は私一人
         経営はお寺の住職で72歳だそうだが、お坊さんにも多才な人がいるものである

             
           
             一番奥にピアノが置かれていて、時々はライブも開催されると言う

    
      
   
    
 
            


    
 
                 沿道に映画の舞台に使えそうな素敵な家
   
    
 
                歴史がある町だからかこの当たりは大木が多い

    
 
                  酒匂川(さかわがわ)、海側に西湘バイパス

    

    酒匂川の左右は開けているので山側に富士山が見えると聞いたが今日は雲っていて見えない


    
     
                     〈星月夜の社〉 山王神社
    寛永元年朱子学者林羅山が星月夜の詩を詠んだことから「星月夜の社」ともいうと書いてあった

    今読んでいる宮本輝の「田園発港行き自転車」という小説に、ゴッホの「星月夜」の絵に似た
        富山県の風景がテーマになっている。そんな偶然から神社に立ち寄ってみた

                                 

               

     

              小田原市内に入って1号線は左に曲がる。正面は市民会館

            
 
                 市民会館の右手に小田原城の天守閣が見えた

    

                     1号線は今度は右に曲がる

    
 
                           小田原城

    
  
                          小田原城

    
             
           お城は鉄筋コンクリートだが、木造建築に立て替える計画があるようである。

             
 
                        記念撮影用にボランティア?

    


    
   
                     国道1号線に沿って流れる早川

    
 
                           早川

    
 
                 小田原の市街地を抜けると人家がなくなってくる

    
 
                         箱根登山鉄道

             
 
                     今大涌谷は噴火警戒レベル2

        
 
                           鈴広蒲鉾の販売店
                   昔は往路復路の中継点、今は復路の中継だけ
 
      
 
                         箱根登山鉄道の風祭駅
 
                 今日はここまで、いよいよ次回からは箱根の山登り







箱根駅伝を歩く(7)

2015年05月14日 11時04分44秒 | 散歩(6)
                                      箱根駅伝を歩く(7)

 大磯~国府津

 今日は大磯駅からである。大磯からの1号線は海岸沿いを走る西湘バイパスがあるために車は減って、地元の生活道路となっている。大磯は温暖な気候により明治中期から昭和初期にかけて、要人の避暑・避寒地として伊藤博文、山県有朋や西園寺公望大隈重信、陸奥宗光、岩崎弥之助、安田善次郎、吉田茂といった政財界要人の別荘が多く建てられた。1907年(明治40年)頃の大磯には150戸以上の別荘があったといわれる。そして今も企業の保養施設が沢山あるようで、町全体が落ち着いた雰囲気である。

    
 
                            大磯駅前
          
      
 
                               国道1号線

     

             大磯町の道路のところどころに網の籠が設置してあり缶が入れてある

            

              東京であればホームレスの人が奪うように持っていくが
                大磯にはホームレスの人がいないのであろう   
 
    
 
                通り抜ける車も少なく地元の生活道路としての1号線

   

                     鴫立庵(しぎたつあん)俳諧道場
         京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場の一つとされる。
 
            
  
                          鴫立庵
 
   

                          鴫立庵

             
 
                       旧島崎藤村邸
 
   
 
                戦時中の藤村の疎開先で終焉の地でもある 
 
   
 
                    1号線 東海道松並木 
 
   

 
            
 
                   西湘バイパスの下をくぐって海岸へ 

    
  
                           大磯海岸
 
           



           


    
 
                           旧吉田邸
        吉田茂が昭和19年頃から、その生涯を閉じる昭和42年までを過ごした邸宅
 
                            



    
  
                        旧吉田邸の庭
       平成21年3月、本邸が火災で焼失しまった。今大磯町が町有施として再建の意向

           
 
                   吉田邸の庭の高台からは大磯の海が見える

              

                            六所神社

    
 
                          六所神社 

    
 
                          二宮の海岸

    


          


    

 
           
 
 
                          国府津の海岸
 
    
  
   
      
  
            地魚の鰺の開き定食とあったので注文したら、あまりにも小さな鰺でガッカリ

    
 
                      先の信号を右に曲がると国府津駅
  
           
 
                   「国府津」と書いて「こうづ」と読む

    
   
                         ひっそりとした国府津駅










青梅散策

2015年05月07日 17時49分26秒 | 散歩(6)
 毎年ゴールデンウイークの1日、青梅の塩船観音のツツジを見に行くことが年中行事の一つになっている。塩船観音の近くに友人宅があり、そこに集まってから塩船観音のツツジを見て、その後地元の友人の案内で青梅市内を散策するのが恒例である。今年でもう8回目であろうか、昔の仲間が順次リタイアして孤立化する中、何か口実を付けて集まることが目的になった。それぞれの近況を聞き、それぞれのネットワークの中での情報を交換し合う。誰と誰が亡くなった、誰が癌で手術をした、誰の息子がまだ独身だ、誰は離婚したようだ等々、主婦の噂話のような話題で盛り上がる。仕事から離れ社会から遠ざかっていくと、自分の回りの情報が限定されてくる。そんな中で身近な変化を感じることが出来るのは、昔の同僚の消息なのかもしれない。そしてそれを聞いて自分と比較し安堵するのだろうか。
 
    
 
                          塩船観音へ

    
 
                          火渡り荒行

    


    


    

                     竹の棒で道を付けていく
 
    
 
                山伏が焚いた護摩の上を刀を持って歩いていく

    

              渡り初めと終わりに塩の山があり、これで足を清める
    
 
                        塩船観音全景

    
 
    
   
                    今年は開花が早く見ごろは過ぎていた       
 
            
 
            


    
 
                     一般客の火渡り、素足で渡る

        
 
                    青梅慶友病院内にある遊歩公園
 
           
            
 
            
 
            
 
            
 
 
    
           

     
           
                             かすみ川
 
          
 
                         山に大きな藤の木

    
 
    
         
 
            
 
                        
 
                         紅花トチの木

             
 
                         さくらんぼ
 
    
 
                      さくらんぼをついばむヒヨドリ

    

                           かすみ川


    
    
                          塩釜神社
                   年を取ると神仏に対して敬謙になる
 
    
 
                     彼は何をお願いしているのだろう
 
    
 
                       青梅新町の大井戸
          青梅は武蔵野台地の中央にあり水流に遠いため深い井戸が必要であった。
          大井戸がいつ作られたかははっきりしないが、江戸時代以前と言われている
 
    
 
                        旧吉野屋住宅
 
    
           
                            築160年








箱根駅伝を歩く(6)

2015年05月01日 10時17分00秒 | 散歩(6)
                              箱根駅伝を歩く(6)
 
辻堂~大磯
 
 4月26日JRの辻堂駅まで行き、バスで浜見山交差点まで行く。そこから先週に引き続き30号線を南に向かって歩き始めた。やがて30号線は134号線に交わって終わりになる。交差点の陸橋に上がり134号を横切ると、そこに湘南の海が広がっている。左右にどこまでも広がる砂浜、左手の遠くに江ノ島が見える。サーフィンに興じる人たちが大きな波を一列に並んで待っている。今回の行程で唯一自然に触れたように思った。
 
 しばらく砂浜で休んで再び30号線を歩く。この国道の両側は松林で囲まれ、何処までも海岸線に平行している。国道を歩きながらも時々松林に開けられた道を通って海岸に出る。海岸線は砂浜に沿って遊歩道が整備されていて、歩く人、走る人、砂遊びをする人、それぞれが思い思いに休日を過ごしている。30号線は相模川を渡る湘南大橋で茅ヶ崎市から平塚市に変わる。平塚でも同じように海岸に沿って道は続くが、やがて134号線は大磯駅の手前で旧国道1号線に交わった。今度はこの旧1号線を小田原方面に向かうのだが、又JRから離れるので今日は大磯までにした。これで日本橋から65Km以上、行程の2/3は歩いたことになる。

    

                        辻堂からバスで浜見山下車

    
 
                 歩いてきた30号線は134号線と交わって終わる

    
 
                    両側の松林に囲まれて小田原方面に向かう

    

                                 松林

    

                       海岸に出ると湘南の海が広がる


                             茅ヶ崎の海岸

               

    

    

                          遠くに見えるのは江ノ島

    

                      国道134号は快適に西へ伸びている

    

                   ものすごいスピードで私を追い抜いていった
                来年の駅伝でこのコースを目指しているのだろうか           

    

                      所々に国道と海岸を結ぶ道がある

    

    

    

    

                    海岸線に沿って遊歩道が整備されている

              
 
                      こいのぼりを引っ張って飛んでいる

    

                           相模川を渡る湘南大橋

    

                                 相模川河口

    

                         海を見つめる孫とおばあちゃん

    

                                   平塚砂丘

                

                                                  浜朝顔

    

                      大磯駅の手前で1号線にぶつかる

    

                            古い駅舎の大磯駅








箱根駅伝を歩く(5)

2015年05月01日 10時00分26秒 | 散歩(6)
                               箱根駅伝を歩く(5)
 
JRの戸塚駅~辻堂
 
 箱根駅伝のコースを歩くのも中盤である。4月18日は前回の戸塚駅からのスタートして国道1号線に戻った。しかし国道1号線は人が歩く道路ではななり、途中で完全に歩道が無くなってしまった。仕方なくグーグルの地図を見ながら戸塚警察署当たりでまで大きく迂回し再び1号線に戻る。
 やがて1号線から30号線へ入ったのだが、やはり幹線道路で町並みは風情に乏しく、ただひたすら歩くだけであった。国道は藤沢当たりで次第にJRから離れてしまうので、途中の浜見山交差点で路線バスに乗り、JRの辻堂駅まで帰った。

    

                               戸塚駅西口

               

                    国道1号線(藤沢バイパス)へ上がる

    

                            国道1号線
              車が途絶えることが無く、歩道は申し訳程度に付いている

             

                       歩道が無くなってしまった

             

                          再び国道1号線へ

    

                      国道1号線から右手の国道30号線へ

    

                    国道30号線にあった旧東海道松並木の碑

    

                今年の始めに歩いた遊行寺の坂、今回は下り

    

                                     遊行寺           

    

                        浜見山バス停からJR辻堂駅へ


                              辻堂駅西口