新聞に「家族という病」という本の広告があった。以前読んだ「母という病」、その後同じ著者が書いた「父という病」が出版され、その三番煎じの本だろうと思っていた。先日本屋に立ち寄ったらこの本が積まれていた。帯封の「家族ほど、しんどいものはない」という文言に引かれて本を取り上げて見る。以前の2冊と違って著者は下重暁子(あきこ)となっている。大昔NHKのアナウンサー時代にTVで見覚えがある。以前の2冊は精神科医が書いた新書である。今回はキャリアウーマン、その著者が家族について何を書くのだろう、そう思って読んでみることにした。以下著書の中の一部を抜粋してみた。
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振り込め詐欺の盲点は、家族からの頼みだと疑いもせず聞いてしまうことにある。家族を信頼していて家族の危機は自分の危機と考えて、救わなければと思ってしまうからなのだろう。欧米ではこうした犯罪は成立しにくいのではないだろうか。欧米と決定的に違うのは、個人主義と家族主義の違いであり、どちらが良いとは単純にいえないが、家族と言う甘い意識の空間にはいくらでも犯罪は入り込んでくるのではないだろうかと思っている。
よく家族間の事件(殺人事件)が新聞を賑やかす。そのとき私はいつも明日はわが身だと思う。家族といえど違う個人なのだ。個と個の間に摩擦が生じれば、なにが起きても不思議は無い。大事に至らなくても、親子間の確執や兄弟げんかなどは日常茶飯事である。誰かが我慢をするか、ごまかしてその場はなにもなかったかのようにやり過ごしているが、積もり積もれば大きなしこりになる。どんな家族の間にも同様の事件は起きる。身近な間柄だけに、一旦憎しみが湧くと人一倍憎悪は大きくなり、許すことが出来ずに、極端な形をとってしまう。自分の家族だけはそんなことは起こらないと信じることは大きな思い上がりであり、どの家にでも起こるという想像力を持つべきだ。
子供のいる友人知人に聞くと、女性はある年齢になると家を離れ、一人住まいをし、自分で仕事を見つけ、恋人を見つける。しかしダメなのはどちらかといえば男の方で、いくつになっても家を離れず親と一緒にいる。気楽で、家事もしてもらえるからなのだろう。成人したらよほどの事情がなければ、独立するのが自然である。動物だって子供に餌を与えて大切に育て外敵から保護するが、成長したらある日を境にもう面倒を見なくなり、子供は自分で餌を求めて違う縄張りで生きていかなければならない。獅子は成長した子を崖から突き落とすという。そうやって心を鬼にして親離れ子離れしていくのに、人間はそれをしなくなった。世の中が厳しいせいではない。お互いがもたれ合い、甘えあい独り立ちできない親や子が増えているのだ。原因は子供にあるのではなく、親にある場合が多い。子は親の姿を見て育つと言う。親の本心を見抜き、そこに甘えて何時までも独りだちできない。幼い頃はいくら愛情を注いでもいいが、ある年代になったら別人格を認める必要がある。家族は時間を共有したあとは離別して、遠くから見つめる存在になるべきであろう。
私は、子は親の価値観に反発することで成長すると信じている。親の権威や大人の価値観に支配されたまま、言いなりになっていることは、人として成長の無い証拠である。仲の良い家庭よりも、仲の悪い家庭の方が偽りがない。正直に向き合えば、いやでも親子は対立せざるをえない。どちらを選ぶかと聞かれれば、私は見栄でつくろった家族よりも、バラバラで仲の悪い家族を選ぶだろう。
失敗や挫折こそが人を強くする。人はそこで悩んだり考えたりと、自分で出口を模索するからだ。順風満帆できた人ほど、社会に出てきた後、組織の中で上手くいかない人を大勢知っている。両親がエリートの場合は始末が悪い。自分達と同じように成績が良いのが当たり前で、小さい時から塾だ家庭教師だと遊ぶ閑も無い。
親や家族の期待は子供をスポイルしている。だから親といえども自分以外の個に期待してはならない。他の個への期待は落胆や愚痴と裏腹なのだ。期待は自分にこそすべきなのだ。自分にならいくら期待してもかまわない。上手くいかなくても自分のせいであり、自分にもどってくる。だから次ぎは別の方法で挑む。挫折も落胆も次へのエネルギーになる。親が子に期待するから、子もまた親に期待する。一番顕著なのが親の遺産だ。親の財産は親一代で使い切るのが一番いい。子に余分な期待を持たせてはいけない。
人はつれ合った配偶者のことを本当に理解することはない。死という形で終止符が打たれて初めてそのことに気づき、もっと話をすればよかったとか、聞いておけばよかったと後悔する。家族は暮らしを共にするする他人と考えた方が気が楽である。
年をとると話題が限られてくる。病気や健康についての話、次が家族の話と相場が決まっている。家族の話のどこが問題かと言えば、自分の家族にしか目が向かないことである。それ以外のことには興味が無い、家族エゴ、自分達さえよければいい。事件が起こるとまっ先に、自分と関係があるかどうかを気にかける。どんな事故でもまず自分の家族にふりかかってこなければ安心だ。それ以外はよそ事なのだ。それぞれが家族と言う殻のなかに閉じこもって、小さな幸せを守ろうとする病にかかっているようだ。「他人の不幸は蜜の味」というけれど、他人の家族と自分の家族を比べて幸福度を測る。他人との比較は、諸悪の根源なのだ。自分なりの価値基準がないから、キョリョキョロ当たりを見渡し友人・知人と比較する。家族エゴはどうして起きるのか、家族が個人である前に家族の構成員としての役割を演じているからではなかろうか。
親子きょうだい仲良く平和でけんかすることもなく、お互いを理解し助け合って生きている。そんな家族がいたらそっちのほうが気持ち悪い。家族は近くにいるから常に気になる存在で、言い合ったり、けんかしたり、価値観も違うし性格も違う。衝突することも多いし、一度確執が生じたら解決することはなかなかむずかしい。そこでお互い譲り合って、許容できるかかが大事である。常に危うい橋を渡りながら、たいていの家族はかろうじて均衡を保っている。自分が孤独に耐えられなければ、家族を理解することは出来ない。独りを楽しむことが出来なければ、家族がいても、孤独を楽しむことは出来ないだろう。独りを知り、孤独感を味わうことで初めて相手の気持ちを推しはかることが出来る。家族に対しても、社会の人々に対しても同じだ。なぜなら家族は社会の縮図だからである。
著者は本の中で、「自立しなければいけない」ということを強調していた。それは著者の育ってきた環境に大きく影響しているように思う。著者の父親は陸軍の将校で、感情が激しく家族の中では絶対的な権威を示し、母親にも暴力を振るう人であった。そんな父親も終戦後の公職追放をうけてからは卑屈になっていき、ますます感情を露わにするようになる。著者はそんな父親を嫌悪し、部屋に閉じこもり、やがて家を出て行くことになる。一方母親は暴力的な父親に付き従い、娘である私を溺愛する。著者はそんな母親をもうっとうしく思い幻滅していくようになったという。そんな環境から自分を保つ為には、親子といえども距離を置くこと、そして自立していくことが著者には大きな課題であったのだろうと思う。読んで見て、そんな経験から書けることも多く、一方で自分の意思で子供を持たないなど、幼い頃のトラウマを引きずっているようにも思ってしまう。
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まだ私の母親が健在の頃、時々手紙をくれていた。その手紙で今でも覚えているものがある。それは実家の庭の樫の木にキジバトが巣を作った。最初は巣を取り払おうと思ったが、かわいそうに思いそのままにして観察する。やがてハトは卵を産み抱卵して雛がかえる。親バトは入れ替り立ち替り何度も何度も餌を持って帰り雛に与えてやる。やがて雛も成長して巣から離れて枝に止まり、羽を広げて羽ばたいてみせる。そしてある日、親バトは巣に帰ってこなかった。雛達は腹を空かせて叫び続ける。しかし親バトは遠くの屋根から見守るだけで帰ってこようとはしない。やがて雛は諦めたのか、意を決して一羽一羽飛び立っていった。屋根に残る親バトの姿の中に安堵と寂しさを感じた。自分の4人の息子達も皆巣立っていって今は老夫婦2人だけである。「これで良いのだ!」・・・・、そんなことが書いてあったように覚えている。
人も動物である。ある時点で親離れ子離れができればそれで良いのだろう。後どうするか、どうなるか、それは子供の問題である。親は心配でもそれを見つめているしかないのであろう。そこで過干渉してしまうと、それがアダになって病にまでなってしまうのかもしれない。