60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

母という病

2014年02月28日 08時47分52秒 | 読書
 本屋をのぞいていたら新書の棚に「母という病」という本が目に入った。人は幼児期の親とのかかわり、その後の環境、そして人生でのさまざまな体験や経験が折り重なって、その人の性格を形作っていくのだろうと思っている。本のタイトルから見て、幼児期の母親とのかかわり方で、その子の人生を「病」のよに不安定にしてしまうことがある。そんなことが書いてあるのだろうと推測される。
 私も人生の中で多くの人との関わりから、性格の多様さを知り、またその性癖の頑固さを見てきた。人の性格は持って生まれたものなのか、それとも、その後の環境により形作られるものか、どちらにしてもその基点は幼児期にあることは察しがつく。さて「母という病」とはいかなるものなのか、本を読んでみることにした。以下、本文からの抜粋である。

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 母という病は愛着と言う絆の病でもある。母という病を抱えた人は不安定な愛着に苦しんでいる。それは大抵、母親が子育てに手を抜いてしまったか、手をかけたつもりでも、子どもへの温もりのある愛情よりも、親としての支配や満足が優先してしまった結果だろう。一言で言えば、本当の意味での愛情が不足したものだ。愛着は、手をかけ、時間をかけ、かかわる中でしか築けない。要領よくなどという方法はありえないのだ。ごまかしがきかず、かかわった分がそのまま表れるのである。

 母という病を抱えた人は、親という存在にこだわりを持っている。幼い頃の不足ゆえに親の愛を求めるにしろ、重すぎる愛に押しつぶされそうになっているにしろ、親という十字架を引きずって生きている。その引きずり方もさまざまで、親に愛されたい、認められたいという思いが、過剰なまでの行動に表れる場合もあれば、それが裏返って、親を苦しめようと反発する場合もある。親に人形のように可愛がられ支配されて育ったために、自分一人では何もできず、親に頼っている一方で、心の中に怒りや不満をくすぶらせている人もいる。

 人によってさまざまな人生の軌跡を描いていくが、母という病を抱えた人に、いくつかの共通する兆候がある。・・・・その一つは、自己否定を抱えることである。人生の姿はある意味、この自己否定からどうやって逃れ、それを克服しようとしたかという軌跡である。・・・・その自己否定との戦いの中で、もっとも広く認められるのが「良い子」を演じるということである。相手の顔色を見て、気に入られようと振舞ってしまう。自分の利益や生活を損なってまで、相手の都合に合わせ、尽くそうとすることもある。・・・・・その思いは親から否定され続けた「悪い子」でも同じである。・・・・親を否定し、親の支配から離れることも痛みを伴うが、それができれば、まだ傷は小さいかもしれない。多くのケースは、親の呪縛から自由になりたいと思いつつも、親から離れることが不安であり、心理的に支配されたままの関係をずるずる続けていく。親を重荷に感じながらも、面と向かい合うと、親の機嫌をうかがい、その態度や反応に気分まで左右されている。

 もう一つの特徴は、完璧にこだわる傾向がある。自分が完璧な存在でなければ、すべてがダメになってしまうと思ってしまう。自分の義務や理想を完璧に実現しなければ、自分が無価値になってしまうと思ってしまう。完璧にこだわるのは、非の打ちどころがなく「良い子」であった時だけ、母親が認めてくれるくれるからである。・・・・・・・・ではどうすればいいのだろう。答えは百点ではなく五十点で満足するということである。百点を求めていたら、九十九点でも不幸になってしまう。百点が一番良いのではない。五十点くらいが、人間らしくて一番いいと、発想を切り替えることだ。五十点で満足できれば人生はずっと楽になる。

 安心感とは単に不安を感じるか感じないかと言うことではない。もっとも自分の存在の根底にかかわるものだ。その人の心の根底に備わった安心感は「基本的安心感」と呼ばれる。愛され、肯定されて育った人は、この安心感にしっかりと支えらている。だからどんな時も「自分は大丈夫だ」「どうにかなる」と思うことができる。

 安心感の乏しいひとは、ちょっと拒絶されたり、否定されたと思うだけで、もう自分が無価値な人間になってしまったように感じてしまう。・・・・自己評価が低くなると、人並み以上に容姿や能力に恵まれていても、自分は何のとりえもないと思い込んでしまう。本当は優れたところをたくさん持っているのに、欠点だらけだと思ってしまう。・・・・・安全や安心を得られず、自分が守られていないと感じていることは、もう一つの特徴にもつながるのだが、それは傷つきやすくネガティブな過剰反応を起こしやすいということである。・・・・・・

 基本的安心感はゼロ歳から一、二歳までの間の、まったく記憶にも残らない体験によって形づくられる。この二歳までの時期に、母親から全面的な関心と愛情を受けて育った人は幸運だと言える。しかし不幸にもそうでなかった場合、子どもは基本的安心感を育むことが出来ず、いつも居心地の悪さを感じ、自分に対しても違和感を覚えることになる。自分が自分であって自分ではないような不全感をもって育つことになりやすい。
 母親との絆は、いつでも育まれるものではない。生まれてから、一歳半までの限られた時間しかない。その限られた時間は、母子双方にとってかけがえのない時間なのだ。その時を過ぎてしまってから、いくら可愛がったところで、もう間に合わない。不可能ではないが、その時間を取り戻すことは容易ではない。

 抱っこやスキンシップは子どもの安心感を支えるということだ。母親の体にかじりつくことで、子どもは守られていると感じ、安心感を得ることができるという仕組みが備わっている。なぜなら、そうすることが外敵から身を守ることにつながるからである。・・・・母親との安定した関係が、後ろ盾になって、子どもは外の世界を探索することが出来る。つまり、母親との愛着には「安全地帯」としての働きがある。
 三つ子の魂百までというが、その人の対人関係のパターンや基本的安心感、基本的信頼感といったものは、愛着形成が行われる一歳から一歳半くらいまでの乳児期の間にほぼ形成される。


 母という病は、最初、自覚症状がない段階からはじまる。どんな母親であれ、子どもにとっては大切な存在であり、一人しかいない唯一絶対の存在である。・・・・・・母親の言葉や態度、考え方、行動の仕方が、まだ真っ白だった子どもの心に刻み込まれていく。それはすべて物心つく前から生じる無自覚なプロセスなのである。誰も知らないうちに、偏りやひずみが植えつけられている。その偏りを偏りと自覚することなく、その偏りがその子にとっては世界を見る軸となる。自分の暮らしてきた世界が特有の偏りやひずみを持っていることに気づくのは、ずっと後のことである。そしてその偏りやひずみが現実と齟齬(そご)をお越し始めるのが、多くの場合は思春期や青年期からである。

 もっとも母親にすべての責任があるわけではない。母親自身、自分の愛着スタイルの偏りを自覚していないし、その愛着スタイルも、またその親から授け継いだものなのだ。またその子の持っている生まれた特性も関係している。多動や情緒不安定を引き起こしやすい遺伝子を、たまたまその子が持っていて、その上に、好ましくない関わり方が重なったとき、問題もひどくなりやすい。

 思春期、青年期を迎える頃、表面的には良い子や優等生として振る舞うことができているのだが、心の中にはしっくりしないものが積もり始める。人と一緒にいても、心から安心して気楽に振る舞えなかったり、プライドと現実のギャップに自己嫌悪を感じたり、自分と言う存在の意味を確かなものとして感じられなくなる。生きることや自分がここにいること自体に、何か違和感を覚え、自信がもてず、その癖、傲慢に振る舞い、かと思うと、自分を賤しめるような道化を演じたりする。自分をもてあまし、生きることをもてあまし、何かを求めているのだが、何もかもがしっくりとこない。これが「母という病」の第二楽章である。

 では「母という病」を持つ人はどう克服していけば良いのか

 母という病を自覚したとき、すでにその人は、次の第三楽章に入ったともいえるだろう。母という病の自覚は、ある意味、新たな苦しみの始まりでもあるが、それは回復への第一歩なのだ。自分の抱えている偏りが、母の偏りや母親との関係に由来するということを悟ることが、母という病からの回復するためには、欠くべからざる段階なのである。

 子どもが大人になる段階で反抗期や親を批判する時期が必要なように、母という病を抱えた人が回復するためには、母親を批判し反抗する時期が必要である。子どもは自分を縛ったものを断ち切ろうと、決死の叫びを上げている。母親はそれを正面から受け止めて、子供の気持ちを汲み、それに応えてやることができれば、子どもは親の一言で、気持ちにケリがつけられるかも知れないのだ。たった一言でも親らしい言葉が返ってきたら、子どもはもう許していいとさえ思っているものだ。

 しかし、そのときありがちな母親の対応は守りに入ってしまい、子どもの言い分に耳を貸すよりも、自己弁護に汲々とし、それどころか逆切れしてしまうということだ。・・・・子どもにも意地があるが、親の意地の方がもっと強いということが多い。子どもは本当は変わりたい。だが親は変わる気がない。親が少し動いてくれるだけで、子どもはその何倍も動こうとしているのだ。・・・・・
 子どもの方がずっと親の事を思い、子どもの方が親よりも、大人になろうとしている。親が子を思うよりも、子の方が親の事を思っている。母という病を抱えた人では、親と子の関係がたいてい逆転している。

 母親が精神的に不安定で、本音が言えないという場合もあれば、体が弱く、母親の健康に障るようなことは、つい我慢するという場合もある。また何でも自分の考え通りでないと気がすまない母親の支配が続き、とても逆らえないという場合もある。・・・・しかし事情はどうあれ、母という病を克服するためには、母親に対して反抗の狼煙(のろし)を上げ、自分が抑えてきた思いを吐き出し、母親とぶつかるという段階が必要なのだ。

 親はそれを自分への裏切りと受け止めがちだが、中にはその子の成長として受け止めることもある。その場合はそれまでのわだかまりが、一挙に修復へと向かいやすい。 ・・・・・
 自分を振り返らない自己愛的で、未熟な親が相手の場合は、相変わらず子どものことを自分の一部のように支配し続けようとしたり、不安定な自分を支えるために、子どもを巻き込み続けたり、思い通りにならない子どもに、そっぽを向き、否定し続けるということが起こる。

 不安定な母親の場合も、支配が強すぎる母親の場合も、ネガティブなことしか言わない母親の場合も、近くにいすぎることは害悪をこうむり続けることになる。子どもの自立や可能性よりも、親の不安を紛らわすことの方が優先され、子どもの未来は邪魔され続ける。・・・・そして遅かれ早かれ、その生活は行き詰る。そうなる前に、早めに親から離れた方がいい。それは親子どちらにとっても必要なことなのだ。・・・・
 そもそも自立という関門は、ある意味、親に見切りをつけるプロセスだといえる。それはなかなかつらいことだ。後ろ髪をひかれる思いに駆られる。母親に愛されなかった人ほど未練が残るのである。

 傷ついた愛着を修復するという作業は、肝心の母親との間で行うのが一番いいのだが、それが一番難しいということになりがちだ。その場合は、むしろ最初はもっとも共感的で安定した、支えとなってくれる第三者との間で愛着を育み、愛着の傷を修復し、最終的なゴールとして母親との関係も安定したものにしていくということが、現実的なのだろう。・・・・
 まずは親から適度に距離をとって、中立的だが思いやりをもった第三者との関係において、自分の不安定な愛着を克服していく。信頼でき、関心や価値観をある程度共有し、何でも話すことができる存在に安全基地を見出し、受け止められることで、その作業を進めていくのだ。その相手は仲間であってもいいし、パートナーであってもいいし、師であってもいいのだが、思いやりとともに、いつも変わらない安定性をある程度備えていることが必要になる。医師やカウンセラーのような専門家についても同じことが言える。・・・・

・・・・・・・

 私は男4人兄弟の次男として生まれた。私が生まれた時は終戦の前年である。米軍の爆撃も激しく、母は乳飲み子の私を抱きかかえ、防空壕を逃げ惑っていたそうである。終戦後2人の弟が生まれる。そのため母の愛情は4人に分散し、子ども達にとっては適度なバランスの愛情に恵まれたのかもしれない。そして4人とも親元の下関を離れていった。我々兄弟にとっては、親離れも子離れもスムーズで、「母という病」に罹患することはなかったようである。従ってこの本の内容に関しては実体験がなく、コメントは控えたいと思う。

 詳しくは、ポプラ新書「母という病」岡田敬司著をお読みください。






大雪

2014年02月21日 09時06分31秒 | 散歩(3)
 2月8日の大雪は都内で27センチの積雪と、45年ぶりの記録と言う。そして14日からはまたもや大雪、関東以北の各地に甚大な被害をもたらした。思い返してみると60有余年の人生の中で、想い出に残っている大雪は3度ある。最初は50数年前の高校生の時だったろうか?、元々雪の少ない下関に珍しく20センチ以上も積もったことがある。その時は雪国に行った気分になって有頂天だった。早速家の周囲の真っ白な雪だけをかき集め、大きな白鳥の雪像に挑戦した。しかし雪がさらさらで白鳥の首が上手く座ってくれず、直ぐに落ちてしまう。今もその時の首のない白鳥にまたがり、ニコニコしているスナップ写真が残っている。

 2度目は今回の雪の基準になった45年前、私が東京に就職した最初の冬である。その日は朝から大粒の雪が降り続き、お昼ごろにはあたり一面は銀世界になった。そして午後からは電車が止まるのではないかという状況にまでになる。勤務していた店の店長は女子社員の帰宅を心配し、私に女子寮まで送り届けろと指示を出す。私は女子社員4人を引率して西武線の大泉学園駅から電車に乗った。しかし電車は途中の所沢駅で運休となってしまう。女子寮は2駅先の駅からさらに1kmの所にある。「さてどうする!駅で待つか?それとも歩くか?」、入社一年目の私は一刻も早く自分の役目を終えたくて、徒歩での帰寮を選んだ。30センチ近くの湿った雪に足を取られ、瞬く間に靴の中に雪が入り、足先が凍るように冷たくなってくる。その内女子社員の一人が、その辛さに泣き出してしまった。結局約5kmの道のりを2時間かけ女子寮に着いたのだが、夕刻には雪も止んで電車も動くようになった。果たしてあの決断は正しかったのか?

 3度目が30年ぐらい前の12月の年末だったろうか?、店舗応援で日曜日のその日は西武新宿線の小平駅そばの店にいた。やはり朝からの雪が降りやまず、西武線は3時ごろから運休になってしまった。家までは4駅で約10kmはあるだろう。この時も雪の中を歩いて帰った。当時は携帯もなく情報は食堂で見たTVの天気予報だけである。運転再開の見通しも分からない中では、最悪どこかで夜を明かすか、自分の足で帰るかの二者選択を迫られる。そして最終的に判断の基準になるは自分の体力との問題になってくる。

 雪は日常の生活と日常の風景を一変させてしまう。昔の物語に出てくる「雪の女王」は美しくはあるが、その所業は容赦なく冷たく残忍である。今回の2度の雪はいずれも土日が絡んでいたため、私にとっては直接の被害はない。そうなると今度は雪の美しさを楽しんで見たいと思うものである。天気の良くなった日曜日、カメラを持って出かけることにした。

2月8日(土曜日)

      
                    未明からの雪は間断なく降り続く

      
                           仏蔵院

      
                           仏蔵院
 
               


      


2月9日(日曜日)

      
                     日曜日は住民総出で雪かき

      
                        雪に覆われた茶畑

      
                          西武狭山線

      
                       西所沢駅付近の屋敷林

      
                     西武線元加治駅付近の入間川

      
                            入間川

      
                            入間川

      
                        入間川沿いの桜並木

      


2月14日(金曜日)

      
                      西武線西所沢駅 PM7:30

               


      


      


      


      
                       踏み切りそばのラーメン屋

               

               


      
                           自宅付近


2月16日(日曜日)

      
                           北野神社

      
                       西武線 稲荷山公園駅

      
                          稲荷山公園

      
                          小手指ヶ原

      


      
                          小手指ヶ原

      




報道姿勢

2014年02月14日 08時24分44秒 | Weblog
 先週末からHNKをはじめTV番組は冬季オリンピックで占有されるようになった。私は雪で家にいる機会が多かったが、しかしそれでも、オリンピックの番組をあまり見る気が起こらない。それは冬のスポーツに馴染みが薄いことに加えて、日本選手への応援を煽り立てるような番組のありように嫌気が差してきたからである。「金メダル確実」、「悲願のメダルを狙う」、「メダル10個以上目標」等々、多くのTV局のニュースや特番で競技者個人にスポットを当て、メダルを狙うのが使命のような雰囲気を作り出す。そして「狙うはメダル」、「金以外は要らない」などの言葉を引き出し、なにか選手が日の丸を背負って必勝を誓い、それを日本国民全体が応援しているかのような演出に、薄気味悪ささえ感じるのである。

 マスコミは民衆の耳目を引き付けるものを常に捜している。それがだんだんエスカレートして行くと、ストーリーを作り次第に脚色していく。そしてそれが行き過ぎてくるとヤラセにまでなってしまうのであろう。一方聴衆も安易にストーリーに乗っかって刺激や感動を得ようとしているように思われる。TVやインターネットで美味しい料理、珍しいスイーツ、旨いラーメン店など紹介されると、人は何時間でも行列して自分もそれを体験しようとする。世間で評判の物、話題の物は自分でも体験していないと話題についていけないといと思うのだろうか。マスコミが脚色し、タレントを使って演出をする。人はそれに操られ賛同し満足している。なにかそんな図式が多くなってきたようにも思うのである。

 そんな世俗の風潮の中で、最も象徴的だったものが、先日の佐村河内守のゴーストライター事件であろう。NHKスペシャルで「音を失った作曲家」として取り上げられ、一躍「日本のベートーベン」として時の人となった。そしてそれが切っ掛けで交響曲第1番 “HIROSHIMA”のCDが18万枚売れ、演奏会のスケジュールがビッシリと詰まっているとか、それが世間を欺むくニセ作曲家であった。本人の問題もさることながら、これはマスコミが加担して作り上げられた虚像なのである。

 記事を見る限り佐村河内という男は希代のペテン師のようである。彼の履歴には・・原爆被爆者の両親の元に生まれ、4歳で母親からのピアノの英才教育が始まる。10歳でベートーヴェンやバッハを弾きこなして、「もう教えることはない」と母から言われ、以後は作曲家を志望したとされる。中高生時代にして楽式論、和声法、対位法、楽器法、管弦楽法などを独学。17歳で原因不明の偏頭痛や聴覚障害を発症したとされ、高校卒業後は、現代音楽の作曲法を嫌って音楽大学には進まず、独学で作曲を学んだとある。

 またNHKの番組中では作品の構想が浮かばず苦悩する佐村河内の姿や、障害者や東北大震災の被災者と佐村河内の交流などが描かれて行く。薬の飲み過ぎで立つことすらできずに床を這いまわるシーン、あるいは東日本大震災の被災者名簿を見たあと深夜の公園で一人苦悩し、風速10m零下2℃の海辺に6時間あまり佇む。さらに2日間全く寝ずに闇の中からやっとつかみ取った旋律が「ピアノのためのレクイエム」になったなどと紹介されたようである。まさしく迫真の演技だったのであろう。

 ドキュメンタリーとは本来制作者の意図や主観を含まぬ事実を伝えるものであはずである。しかし今はそれが大幅に脚色と演出されたドキュメンタリー風ドラマとして視聴者に伝えられているのではないだろうか?、我々はマスコミの報道を鵜呑みにしやすい傾向にある(特に公共放送のNHKは)。そしてもう一つ、人はドラマ性に乗りやすく感情移入しやすい傾向がある。TVドラマはフィクションであるから当然面白くあるのは良いとして、報道番組やドキュメンタリー番組はあまり脚色を加えず、見る側が自分の中でストーリー展開できるよう、材料だけを提供してくれればいいように思うのである。何から何まで(美味しさや感じ方まで)押し付けで放送しているのではないだろうか。これでは人は考える力や感じる力を失ってしまう。

 TVだけでなく新聞各紙を比べてみても、その捉え方や書き方で全く違ったニューアンスになる。特に政治問題を取り上げた記事などは右から左まで千差万別である。では自分はどのスタンスに立つのか、マスコミの扇動に乗らず主体性を持ち続けることはなかなか難しいことである。できれば「物事の本質を見通す優れた判断力」を持っておきたいものである。そのためにはマスコミの言い分から、少し身を引いて客観視してみる、そして書き手や作り手の意図を探る。そんなスタンスも必要なのかもしれない。





風邪とストレス

2014年02月07日 08時58分15秒 | Weblog
 20数年ぶりに風邪をひいたようである。先週末、東京は最高気温16度と3月下旬の気温であった。私は天気予報に合わせて服装を変えるほど細やかでなく、普段通りの冬支度で出勤した。しかしやはり気温は上がり電車に乗ったり、街中を歩いていると汗ばんでしまう。そして汗が引き体が冷えてしまうと、肩や背中に寒気を感じてくる。これは小さい頃からの私の風邪をひく定型パターンである。案の定、翌日の土曜日になって少し咽が痛くなり鼻水が出てくるようになった。

 子供の頃はしょっちゅう扁桃腺を腫らし学校を休んでいた。「寒い!」と母に訴えると、母は私の額に手を当て熱を確認し、直ぐに布団に寝かせつける。翌朝、近所の友達の家に行って学校を休む旨の伝言を頼み、それから私を一番近くにある町医者に連れて行く。病院の待合室で、渡された体温計で熱を測りながら順番を待っていると、やがて名前を呼ばれ診察室に入る。母に状況を聞いた医者は、まず私の口を開けさせ咽の奥を見る。次に下まぶたをひっくり返して観察し、それから胸と背中に聴診器を当てる。最後に左手で私の体に触れ、右手でポンポンと打診して診察は終わりである。「扁桃腺が腫れて真っ赤だね。咽に薬を塗っておこう」。老医者はルゴール液を付けた綿棒でサッと咽の奥に薬を塗る。思わず吐き気を感じ「オエッ」となって涙が出てくる。診察が終わり、しばらく待合室で待っていると、右手に注射器を掲げて看護婦さんが現れる。母にズボンを脱がされ、衆人監視の中でお尻に注射をうたれるのである。これは子供の頃の年中行事で、何十回と繰り返されたように覚えている。

 この扁桃腺炎は大人になっても続き、年に2、3回は必ず会社を休んでいた。ある時医者に、「この体質、何とかならないでしょうか?」と相談したことがある。その時医者は、「扁桃腺に常在菌が巣作っているのでしょう。人は体力が落ちてくると免疫力も落ち、その菌が活発化して扁桃腺が炎症を起こしてしまのです。だからこの状態を変えるには、体力をつけるか、扁桃腺を切除するしかないでしょう。しかし扁桃腺はあなたの防御機能の最前線ですから、できれば取らない方が良いと思いますよ」、と言われたことがある。

 あんなに頻繁だった扁桃腺炎も四十半ばを過ぎたころからピタリと治まり、以来20数年、熱を出すことも会社を休むこともなくなった。振り返ってその要因を考えてみると、扁桃腺炎が治まった時期が以前勤めていた会社を辞めた時期とで符合するのである。では会社を変わったことで、病気の要因に何んらか変化があったかを考える。思いつく付くことは「ストレスの変化」である。

 サラリーマン時代と個人事業主では、同じストレスでもその質が違う。サラリーマンは人(会社)に使われることでのストレスが多いように思う。理不尽な扱い、人間関係の軋轢、いつも自分を押し殺さなければいけない状況、そんなことから発生するストレスである。当然個人で事業をやっていても多くのストレスは付いて回る。しかし、それは常に自分がリスクを負わなければいけないう自己責任の重さからのストレスである。その差は立場の違いにより、「人の判断でやらなければいけないか」、「自分の判断と責任でやるか」、という自由度の違いににあるように思うのである。

 ストレスが人の体に影響し、病気の大きな要因になっていることはよく言われていることである。不眠症、神経症に始まって腰痛、神経性胃炎、狭心症、ぜんそく、偏頭痛やリュウマチ、緑内障までありとあらゆる病気の要因の一つにストレスが関わってくる。「過度のストレスは免疫力を落とす」、これもよく言われていることである。私が頻繁に扁桃腺を腫らしていたのも、学校や職場でのストレスが主な原因だったのかもしれない。当時はまだストレスという概念が一般化していない時代で、精神的な苦痛や困難さをストレスとして認識はしてはいなかった。しかしそれは厳然としてあり、それが私の免疫力の低下に繋がり、頻繁に扁桃腺に現れていたのだろうと思うのである。

 今回の風邪は熱もなく、軽い咽の痛みと鼻水だけである。しかし万一インフルエンザだったらまずいと思い、今週月曜日に会社の近くの病院へ行ってきた。「扁桃腺が腫れていますね。扁桃腺から来る風邪の症状でしょう」ということで、風邪薬と鼻水を押さえる薬とを処方された。症状が出始めて今日で1週間になる。しかしまだ鼻声で少し咳き込むこともある。

 今回の扁桃腺炎、今まで抑えられていた扁桃腺に巣作る常在菌は、なぜ活発化したのだろう。多分それはストレスによる免疫力の低下が要因ではなく、年齢による体力の衰えが免疫力の低下に繋がっているように思うのである。なぜなら昔なら今回の症状なら3日で回復していたのに、回復が極端に遅くなっているからである。やはり年々歳々確実に体力は落ちていくのであろう。