60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

散歩(国分寺・お鷹の道)

2013年09月27日 08時11分39秒 | 散歩(3)
                            お鷹の道
駅からの散歩

国分寺(お鷹の道)      9月22日(日曜日)

 やっと秋になった。夏場は熱中症も考え少し歩くことは控えていた。先日息子のマンション(JR東小金井)に行く途中、国分寺で降りて久々に歩いてみる。国分寺駅のそばに、三菱財閥の岩崎彦弥太が昔別荘として使っていた「殿ヶ谷戸庭園」(都立庭園)がある。そこを散策してから遊歩道の「お鷹の道」を通って国分寺跡までのコースを歩いた。この当たりは国分寺崖線(がいせん)といわれる武蔵野台地を多摩川が浸食してできた段丘で、崖から流れ出した湧き水を水源として小川がたくさん流れている。江戸時代はこの付近は尾張徳川家の鷹狩の場所だったため、小川に沿って作られたこの遊歩道を「お鷹の道」と名づけたそうである。川の水は澄んでサラサラと流れる。子供達がザリガニを取り、夏にはホタルが舞うそうである。昔の武蔵野の面影を残すというこの一帯、私のお気に入りの散歩コースの一つである。

      
                           殿ヶ谷戸庭園

                 

      
                    殿ヶ谷戸庭園 紅葉の時期は絶景

               
                             ききょう

               
                             なでしこ

               
                             ふじばかま

               
                             おみなえし

               
                             こむらさき

               
                             さんざし
     
      
                             ひがんばな


      
                             お鷹の道

      

      

               
                            クロイトトンボ

      

      

      

               

      

      

      

      
                            武蔵国分寺

      

               

               
 お寺の中に万棄植物園として、万葉の時代に歌に詠まれた植物が約160種が植えられている。

               

               
                          いちし(彼岸花の和名)

               

      
                        武蔵国分寺跡(国分寺緑地)
     奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、武蔵国国分寺・
     国分尼寺の寺院跡にあたる。推定されるかつての寺域は僧寺金堂を中心に東西1,500m、
     南北1,000mに範囲におよぶとみられる。  





成熟とは何か

2013年09月20日 09時40分11秒 | 読書
 本屋に寄ったら、曽野綾子著「人間にとって成熟とはなにか」という新書が目に止まった。以前にも彼女の「老いの才覚」という本を読んだことがある。その本で老いに対してのある種の覚悟のようなものを学んだように思う。それは著者はすでに80歳を超えてなお生き生きと活躍されていること、著者がクリスチャンと言うことから宗教に裏打ちされた思考が、私には新鮮に思えたからであろう。今回のテーマは『成熟』、人は歳を重ねるほどに成熟していかなければいけない。では「成熟とは何か?」ということが書いてある。著書の中から自分が共感できる幾つかを抜き出してみる。
 
 成熟ということは、傷のない人格になることではない。やはり熟すことによる芳香を指す言葉のように思う。ある人の背景にその人を育てる時間の質が大切だ。子供は、いつも健康な意味で自分中心である。しかし大人はそうであってはならない。大人になる、成熟するということは、自分がこの地球上の、どの地理的地点と、時間的地点に置いて認識しているかにかかっている。世界を意識した地理的、時間的空間の中に自分を置き、それ以上でもそれ以下でもない小さな自分を正当に認識することが、実は本当の成熟した大人の反応なのだと思う。
 年を取るにしたがって、次第によく思ってもらおうとする元気がなくなってくるのは本当である。世間からどう思われてもいい、人間は確実に他人を正しく評価などできないのだから、と思えることが、多分成熟の証なのである。それは自分の中に、人間の生き方に関する好みが確立してきたということだ。大きな家に住んでいる人が金持ちだとか、肩書きの偉そうな人がほんとうに偉い人だとかを信じなくなることだ。そのついでに、相手に自分をほんとうに理解してもらおうとする欲望もいささか薄くなることであろう。

 私はやはりある人が品がいいと感じる時には、間違いなくその人が成熟した人格であることも確認している。品はまず流行を追わない。写真を撮られるときに無意識にピースサインをだしたり、成人式に皆が羽織る制服のような白いショールなど身につけない。あれほど無駄で個性のない衣服はない。それくらいなら、お母さんか叔母さんのショールを借りて身に着けた方がずっと個性的でいい。有名人に会いたがったり、サインをもらいたがったりすることもしない。そんなものは自分の教養とは全く無縁である。 
 品は群れようとする心境を自分に許さない。自分の尊敬する人、会って楽しい人を選んで付き合うのが原則だが、それはお互いの人生で独自の好みを持つ人々と理解しあった上で付き合うのだ。単に知り合いだというのは格好いいとか、その人と一緒だと得なことがあるとかいうことで付き合うものではない。
 品と言うものは、多分に勉強によって身につく。本を読み、謙虚に他人の言動から学び、感謝を忘れず、利己的にならないことだ。受けるだけでなく与えることは光栄だと考えていると、それだけでその人には気品が感じられるようになるものである。「健康を志向し、美容に心がける」、たいていの人がこの2点については比較的熱心にやっている。しかし教養をつけ、心を鍛える、という内面の管理についてはあまり熱心ではない。
 品を保つということは、一人で人生を戦うことなのだろう。それは別にお高く止まる態度をとるということではない。自分を失わずに、誰とでも穏やかに心を開いて会話ができ、相手と同感するところと、拒否すべき点を明確に見極め、その中にあって決して流されないことである。この姿勢を保つには、その人自身が、川の流れの中に立つ杭のようでなければならない。その比喩は決して素敵な光景ではないのだが、私は川の中の杭という存在に深い尊敬を持っているのである。世の中の災難、不運、病気、経済的変化、戦争、内乱、全てがボロ切れかゴミのようになって杭に引っかかるのだが、それでも杭はそれを引き受け、朽ちていなければ倒れることもなく、端然と川の中に立ち続ける。それが本当の自由というものの姿なのだと思う。この自立の精神がない人はつまり自由人ではない。

 偉い人だからといって、その前に出ると萎縮して自由に喋れなくなるということもなく、乞食の前だからといって急に相手を見下すような無礼な態度をとらず、同じように礼儀正しく、人間として誠実に暖かい心で接するようにできるようにしたい。
 威張るということは、一見、威張る理由をもっているように見える。地位が上だとか、年を取っているとか、その道の専門家だとか、それなりに理由はあるのだろう。しかし本当に力のある人は決して威張らない。地位は現世での仮のものだからである。年寄りだって弱い年寄りほど椅子に座って偉そうにしている。つまり威張るという人は弱い人なのである。

 
 人間を長くやっていると、それだけ熟達していくものである。心理学の本に書いてあったことだが、人間にはいろいろな欲求があって、食欲・性欲など生存に関するものから、大金持ちになりたい、賞賛を得たい、一つの道を極めたいなどなど、欲求に基づいて行動をしていると言うマズローの欲求階層説というのがあった。人は年を重ねるほどに、「生理的欲求」からはじまって、「安全欲求」、「愛情欲求」、「尊敬欲求」、「自己実現欲求」と階層を上がり、「自己超越階層」が頂点のように書いてあった。この説には異論もあり必ずしもモデルにはなりえないのだろうが、やはり人間は年とともに段階を踏んで成熟して行くのであろう。
 人は社会的な動物だから、当然多くの人と接して生きていかなければならない。生まれてからは親に学び、学校で学び、社会に出ては多くの人に接することで実践で学んでいく。そしてその目指す方向は、どうすればこの社会の中で、「納得いく生き方」ができるだろうかということだろうと思う。そのためには人との争いや軋轢はなるべく避け、周りに流されず、自分を見失わず、教養をつけ、心を鍛え、自分の生き方の好みにより、相手との距離を自在にコントロールして行く力をつける。そんなことが大切なのだろうと思うのである。




オリンピック開催に思う

2013年09月13日 08時35分49秒 | Weblog
 8日(日曜)の早朝、アルゼンチン・ブエノスアイレスから東京オリンピック開催の決定がもたらされた。日曜なのに新聞は号外を配り、TVではオリンピックの特番が目立っていた。政府も日銀も何とか日本の景気を持ち上げようとしているとき、日本での開催は絶好のカンフル注射の役割を果たしてくれるのかもしれない。

 今から49年前(1964年)の東京オリンピック、そのとき私はまだ学生であった。当時は田舎の農家の8畳一間に下宿していた。新聞も購読せず部屋にはテレビもなかったから、ラジオで競技の結果を聞くくらいであった。オリンピックは遠く離れた東京での出来事、自分の中では世間で言われたほど、盛り上がった気分ではなかったように思う。このオリンピックで唯一記憶に残っているのは、市川崑監督で制作された「東京オリンピック」の映画を見たことである。映画の最初に、東京のあちこちで行われていた競技場や高速道路の工事シーンがあった。大きな鉄球のハンマーが古い建物を打ち壊していく。古い家やビルが消え新しい東京に生まれ変わる。工事現場の騒音と舞い上がるホコリから殺伐とした印象を受けことを思いだす。もう一つは、マラソンで優勝したアベベの姿である。極端にアップされた横顔、それをカメラは執拗に追っていく。彼の褐色の肌から流れ落ちる汗、スローモーションで写したアベベの表情と重ねて、荒い息づかいの音が印象に残っている。この映画で時の担当大臣(河野一郎)が、「記録性をまったく無視したひどい映画だ」と発言したことで物議を醸し出した。オリンピック映画は芸術作品で良いのか、記録映画であるべきなのかで喧々諤々の議論になり、後にフィルムを編集し直して記録映画判も作られたという記憶がある。

 東京オリンピック開催まで7年である。その間に全ての準備を整えなくてはいけない。考えてみるとこの7年と言う時間、オリンピックと言う大イベントを準備するのに絶妙な期間のように思えてくる。10年となると少し遠くて現実味が乏しくなる。しかし3年や5年では長期的な視点に立って事を行うには少し短い気がする。7年という期間は何か物事を変化させるのに最適な時間なのではないだろうか。そして人もまたそうなのではないだろうかと思ってみる。養命酒のコマーシャルに、「東洋医学の文献に、女は7の倍数、男は8の倍数で体調に変わり目が訪れる」というのがある。今会社(親会社)にいる若者は25歳、彼は7年後に32歳で、ひょっとすれば結婚して子供がいるかもしれない。35歳の女子社員は42歳で中年真っ只中である。50歳の男性社員は57歳で退職が間近に迫っている。果たして彼らは今の環境のままでいることができるのだろうか?、やはり何らか変化は起こらざるを得ないだろうと思う。7年間と言う月日はその人の様相をガラリと変えてしまうに充分な時間でもあるのだろう。

 さて7年後、この私はすでに後期高齢者である。今やっている個人会社を畳んで自宅で孤独な生活を送っているだろう。果たして健康を保っているだろうか?、女房はどうだろう?子供達はどこに住んでいるだろうか?孫は何人いるだろうか?、7年と言うスパンで見ると私の周りの環境も、私自身も大きく変わっている時間なのかもしれない。天災や事故など想定外のことが起こるかもしれない。今の延長線上で考えられること、そして努力すれば変わりうることもあるだろう。先を見つめれば見つめるほど不確かになる自分の人生だが、しかし7年後は確実に東京でオリンピックが開催されている。深い海に白い板を沈めて透明度を測るように、今回のオリンピック開催は我が人生の時間軸の目安になってくれるように思う。

 さてオリンピックが開催されている2020年、私はどんな状況が好ましいかと考えてみる。まず健康だけは維持しておきたい。4つ、5つぐらいの趣味は持っておきたい。そして、サークル、OB会、同窓会などの集まり、SMSやメール、年賀状などコミュニケーションは億劫がらず、ネットワークはできるだけ維持しておきたい。生活のリズムは崩さず、弱気にならず、品格は保ち、かくしゃくとしていたいものである。そのためにはオリンピックの準備と同じように、日々の積算を欠かすことはできないのであろう。

                










不整脈

2013年09月06日 09時44分29秒 | Weblog
 先月末、一番下の娘(別居)が心房頻拍(しんぼうひんぱく)のカテーテル治療を行うため、2泊3日の手術入院をした。娘から手術前に聞いた病気の状況や手術方法の説明も、私はスムーズには理解できなかった。それは今までに馴染みがない病名と言うこともあるが、もう一つは娘とのコミュケーション不足から、小さいときからの娘の体調や悩み事を把握していなかった、親としての戸惑いがあったからである。

 娘は子供の時から、時々不整脈で動悸が激しくなり、息苦しさを感じていたようである。しかしある程度の時間を耐えればその不整脈も治まった。そんなことから一時的なこととして捕らえ、そのことを本人も親としても深刻なこととは考えていなかった。娘自身が医療系の学校に入り、医学を学ぶようになってから、自身の不整脈についての知識を得たのであろう。不整脈がなぜ起こるのか?、どんな治療方法があるのか?、自分なりに知識として持ち合わせていたはずである。しかし日々の仕事に追われ、落ち着いて治療のことを考える余裕はなかったようである。

 娘は今年の4月から職場と職種が変わり、仕事も少し楽になってきた。その間にも不整脈は続くのであるが、この7月に病院で勤務している間にその発作が起こった。その時たまたま娘の上司が居合わせ、娘の症状を聞いて病院内の設備で心電図の手配してくれたそうである。一般的には心電図記録計を携帯し、24時間の心電図を持続的に記録する必要があるようだが、娘は幸運にも発作時の記録を取ることができたわけである。データーがそろえば次はどう治療するかの問題になる。担当した医者は直ぐに大学病院を紹介してくれた。大学病院に診察に行くと、当然治療するものとして扱われ、本人の覚悟が決まらないうちに、あれよあれよという間に手術日が決まったようである。

 心房頻拍(しんぼうひんぱく)とは、、心臓の筋肉の動きをつかさどる司令塔は脳ではなく心臓の中にある。この司令塔から毎分50~100回程度、規則的に電気的興奮が心臓の筋肉に伝えられて心臓が動く。その興奮を伝える電線のような神経が存在し、正常な人では心房から心室に興奮を伝える経路は一カ所しかない。娘の場合はここに別の経路があり、これが時に異常な興奮を起こし不整脈を起こすようである。治療方法としては大きく分けて薬物療法と、高周波カテーテルで余分な回路を焼灼する2つの方向がある。薬物療法は対処療法で根本的な治療にはならないようだが、しかし焼灼の方は心臓部の神経を切断することから、それなりのリスクが伴うということである。娘は治療するなら根本的な治療を希望し、自分の判断でカテーテル治療の方を選んだ。

 私は手術中には行けなかったが、会社が終わってから娘の様子を見にいった。病室に入ると娘は何本かの管に繋がれて、疲れた様子でベットに横たわっていた。しかし術後3時間以上経過していたから、少しは落ち着いたようで会話には差し支えはない。娘の説明だと、手術は右の足の付け根と右の胸部の2ヶ所から血管内にカテーテルを入れる。血液に造影剤を入れてモニターで確認しながらカテーテルを心臓部まで通す。片方のカテーテルの電気ショックで人為的に不整脈を起こし、原因の場所を特定していく。そしてもう一方のカテーテルでその余分な回路を焼き切ってしまうそうだ。部分麻酔で手術中も意識はハッキリしているから、自分の置かれている状況は理解できる。娘の話だと大学病院だから手術室には多くの研修医がいて、教授の指導でその研修医が手術に携わっていたようだと言う。

 手術中の電気ショックによる連続した不整脈で動悸は激しくなり、麻酔していない部分は激痛が走り一時は失神しそうになったようだ。止めどもなく涙が流れ、それを看護士が拭ってくれる。「大丈夫ですか?」と看護士が声をかけてくれるが、答えを返す気力もなかったと言う。不安と痛みと動悸が続く中での3時間にも及ぶ手術、娘は生きた心地がしなかった時間であっただろう。「ちゃんと切断できたと思います。これで今後不整脈は起きないと思いますよ」、術後担当医はそう説明したそうである。

 「ホッとしただろう」、これが娘の顔を見たとき、私が掛けた言葉である。それは娘の気持ちだけではなく、父親としての気持ちでもある。娘の不整脈は多分先天性のものだと思っている。だから娘には何の落ち度もない。五体満足に生まれたと思っていた娘が、小さいときから不整脈で悩んでいた。そのことに父親として気づきもせづ、何の手も打たなかったことに申し訳なさを感じるのである。今回の手術でその障害が取り除かれた。ホッとしたのはむしろ私の方が大きいのかもしれない。

 あとは今までの娘とのコミュニケーション不足への自責の念である。3番目の末っ子として育った娘、長男長女に比べ父親としての接触の濃さは明らかに違ってきたように思うのである。40代で仕事が忙しくなり、気力的にも体力的にも子供の動きについて行けなかったと思っている。「なおざりになってしまったのではないか」、その自覚があるだけに、娘には悪いと思うのである。
 以前娘が免許証を取得したとき、高速道路の運転に付き合う約束をしていた。今回の件で延び延びになっていた娘とのその約束を実行しようと思い、10月の初めに新潟までのドライブの約束を取り付けた。関越高速で新潟まで行き、船で佐渡ヶ島まで渡って1泊して帰ってくる。2日間を娘と二人だけで旅をしようと思う。この間に娘とどこまで話ができるか疑問だが、「何時もお前の味方だから、」そんなことだけでも伝えられれば良いのかもしれないと思っている。