60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

結婚

2011年05月27日 08時13分01秒 | Weblog
3月12日に予定されていた結婚式が、前日の東日本大震災のために延期になってしまった話しは
3月25日のブログに「震災と花嫁」として記載した。「その後の花嫁の心境はどうだったのだろう?」
そんな心配もあって、その後に花嫁を呼び出し、話しをしてみた。

彼女がこの1年、全精力を傾けて準備してきた結婚式である。式場選定とその予約から始まって、
招待客リストの作成や予算と規模、料理メニュー、式の演出やBGMの選定、花嫁衣装やブーケ、
結婚指輪、招待状の発送、引き出物の準備、新婚旅行の企画、それに加えて新生活への準備と
引っ越し等、それをほとんど彼女が主体でやって来たわけであるから、その気苦労は大変である。
女性の7割以上が結婚式の準備の大変さと比例して、マリッジブルーになると言われるようだが、
彼女の場合、明日が結婚式という最後のエステが終わった時に今回の震災が起ったわけである。
そのショックと落胆は尋常なものではなかったようだ。数日は余震におびえ、自分の悲運を嘆き、
涙が絶えなかったそうである。そして何をやる気力も起こらず、ただただ漫然と時を過ごしていた。
そんな中でも、式で事前準備された式場側の損失(生花等)の交渉、延期の日の確定や打合せ、
新婚旅行の再手続き、招待者への再度の連絡など、否応なしに動かざるを得なくなって行った。
「一回結婚式を挙げ今回は2度目のような気分になって、なかなか気持ちが乗ってこないのです」
そんな風に当時の心境を語っていた。

「結婚」それは女性にとって大きな起点になるのであろう。ある意味で「自分の人生を託す」という
気持ちが強いだけ、女性の結婚式に対する意識は、真の人生スタートに伴う最大のセレモニーに
なるのかもしれない。それに比べ男性の場合はどちらかと言えば仕事に対しての意識が強いから
だろう、結婚式は「私も一人前の大人の仲間入をします」という親族や会社への「伴侶」の紹介の
意味合いが強いように思う。したがって、女性の方が圧倒的に結婚式への思い入れが強く、その
段取りから演出まで、ほとんどを花嫁にゆだねられのが一般的である。だから結婚式を見れば
お嫁さんのセンスが判ってくるものである。豪華絢爛で派手なものから、明るく和やかなものまで
今まで出席させてもらった式も千差万別であった。

彼女に「何が決め手で結婚を決めたのか?」と聞いてみた。彼とは学生時代に友人の紹介で知り
合った同い年である。初めは「とっぽい男」という印象で好みのタイプではなかったが誘われるまま
に会っていた。就職難の中で彼は大学院に残り、自分はある衣料品販売会社に就職したが、その
会社で自分の最も苦手な販売職に配属されてしまう。その部署は女性中心の職場で上手く集団の
中に入り込めず、いじめにも等しい環境に置かれたという。「最初の会社だから、簡単に辞めては
いけない」そう思って頑張ったが、人間関係の不調は如何ともしがたかった。そんなストレスが積
もってか、やがて脱毛が激しく髪の毛が半分近く減ったという。一時はアデランスの使用まで考え
たが、ドクターストップがかかってその会社を辞めることになった。その間、彼は逃げることなく自分
の愚痴を聞いてくれ、懸命に励ましてくれた。それから2人の仲は深くなっていく。

彼は運転できないから、旅行は何時も電車とバスである。ある時、伊豆に遊びに行ったことがある。
川端康成の小説「伊豆の踊り子」にでてくる旧天城トンネルを見る予定で宿を出発したが、あいにく
バスの乗り継ぎが悪く、山道を長時間歩かねばならないと判った。どうしてもあきらめられず彼に
無理を言って行くことにする。山道をあえぎあえぎ登って行く、自分の重い荷物も一緒に持ってくれ、
文句も言わずについて来てくれた。「多分この時でしょう。この人、と決めたのは」ということである。

結婚は男性がプロポーズして、女性がOKする否かが基本形なのである。そのときの決め手になる
のが男性の「誠意」にあるのだろうか?私の場合は見合い結婚であるから、基本的にははじめから
結婚が前提であった。したがって、双方に特に異存が無ければ、なし崩し的に決ってしまう。
彼女の話を聞いていると恋愛から結婚へ、思い出深い一つのストーリーがある。そういうことがある
と2人の結びつきも強くなるだろうと思うと、自分の結婚に比べ何となく、うらやましく感じてしまう。

                               *

結婚式の数日前に彼女に呼び出され、もう一度会うことになった。「式が近づくに従って、不安感が
強くなり、誰かと会って話をしていないと、不安でたまらないのです」、そんな心境のようである。
最初の1ケ月は緊張感はなかった。しかし式が1日1日と近づいてくるにつれて「また地震があるの
ではないか」という恐怖が湧きあがってくる。余震の度にその思いは強くなり、緊張感が増してくる。
回りは「大丈夫、大丈夫」というもののそんな言葉はなんの慰めにもならない。夜中に「ハッ」として
起きると寝付けなくなる。そしてそれが習慣になってしまい3時間程度寝ると目が覚めてしまうように
なった。しかし寝不足でも頭は冴え、昼間でも眠気は全く無いという。

今回の仕切り直しの結婚式、日にちだけが変わっただけで、曜日も式の時間も会場も全て前回と
同じに設定してある。「たまたま地震で後にづれ込んだだけで、自分達の結婚記念日はあくまでも
3月12日なのです」と言う。それは自分達の大切な日を地震なんぞで、壊されたくないという強い
思いがあるからであろう。結婚式前日のエステも、前回と同じ店で同じ時間に、同じ人で予約した。
「また地震で結婚式がダメになるのではないか」その恐怖感が今も自分に付きまとってはなれない。
だから、この恐怖感と闘ってクリアーしていかなければ、自分達の一歩が崩れてしまいそうになる。
「これは私の勝負なのですよ!」と言う。形は違うが彼女も今回の地震による被災者の一人であろう。
そして、今そのダメージから必死に立ち直ろうとしているように思われる。

地震などの自然災害によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)というのがある。恐ろしい出来事の
体験がトラウマになって、その出来事が何度も思い出され、恐怖におびえ続けるようになることを
言うらしい。そのことで、常に緊張しているため眠れなくなる、イライラする、突然悲しみに襲われて
情緒が不安定になるなどの症状がみられるらしいが、彼女もこれに近いものがあるのかもしれない。
何かの記事に書いてあったが、対処法は、トラウマ体験を無かったこととして意識に上らないように
抑えつけるのではなく、実際に起きてしまったこととして受け入れ、自分からその話ができるように
なることが回復への大きな一歩になるのだとあった。そういうことからすれば、彼女の追体験をして
いくような仕切り直しの結婚式は、地震のダメージを克服するためには正しいのであろう。

                              *

当日式場で礼服に着かえて、控室で待つていると、やがてチャペルへ集まるようにと案内がある。
全員がそろい、バージンロードの先に神父が待つ中、父親にエスコートされた花嫁が真っ赤な絨毯
の階段を上から一歩一歩と降りてきた。目の前を通り過ぎ、私と目が会った時、にっこりとほほ笑ん
でくれた。私は心の中で「勝負に勝ったね。これで安心だね、おめでとう」、そう話しかけていた。
披露宴も彼女のきめ細やかな演出とおもてなしで和やかに進行していった。それぞれのテーブルを
巡りロウソクに火をともしていく花嫁、正面テーブルに座り終始笑みをたたえる花嫁、その温和で
優しく晴れやかな笑み、決して演技や作った表情でなく、心からの幸せ感が出ているように見える。
その笑みに出席者が引き込まれたように笑顔になる。一人の花嫁の放つ笑顔のオーラが全員を
巻きみ暖かく晴れやかにしてくれる。

女性にとって「不安定さは最大の敵」と言うそうだが、だから反対に「安定に近づく時が一番の幸せ」
なのかもしれない。この人、と決めた花婿のそのそばで、美しく着飾っている花嫁、至福の時だろう。
そして今週月曜日から新婚旅行で、絶対に行きたかったというメキシコのカンクンへ旅立っていった。
さて結婚式を終えてからはどんな心境だろう。落ち着いたらまた呼び出して聞いて見たくなってきた。

               

被災地

2011年05月20日 07時59分14秒 | Weblog
実家が仙台にあり、地元の大学を卒業し昨年入社した男性社員が親会社にいる。今回の震災で
彼の実家の周辺も被害を受け、電気や水道のインフラが止まり一時は学校へ避難したそうである。
東京にいて郷里の惨状を聞くにつれ、一刻も早く帰りたいと思っていたそうだが、親は息子に対し
「幸いこちらの被害も少なかった。帰ってくる必要はないから、お前は東京でしっかり仕事をしろ」
と言われていた。それでもやはり心配は募り、自分で確認しておきたかったのだろう、ゴールデン
ウイークを待っていたかのように郷里へ帰って行った。

連休明けに東京に帰ってきた本人から現地の様子を聞いて見た。
実家は一戸建てなのだが、あちらこちらにひびが入り、雨がひどい時は雨漏りがするそうである。
いずれは修理をしなけらばならないが、今は重度の被災地の工事で手一杯で、軽症の自宅までは
手が回らない。自宅付近のあちらこちらに、地震による地割れや段差ができて、自転車で夜道は
危なくて走れない状況で、それは今も解消されていないというと言う。

彼の大学時代の友人は全員無事だった。しかしその中に石巻の友人が2人いて、一人の友人の
家は石巻の市街地にあり、家は津波で流されて交差点の真ん中にその残骸を晒していたという。
表から見ると2階部はしっかり残っているように見えるが、裏に回るとそれは壁が残っているだけ、
まるで映画のセットを裏から見るようで、木造建築のもろさと津波の強大な力をまざまざと感じる。
もう一人の友人の家は高台にあり津波の被害からは免れたが、道路を含めインフラが全て遮断し
一時は避難生活を余儀なくされていた。しかし今は何とか生活ができるまでには復旧している。
彼は連休の後半を利用し、高台にある友人の家に寝泊まりさせてもらいながら、もう一人の友人
の応援ボランティアに行ってきたそうである。

現地に入って、まず感じたことは、テレビで見ていた情景と実際に目の前に展開する情景との違い
である。テレビの映像は瓦礫が何処までも続く殺伐とした風景であるが、実際には外国の軍隊が
入り、外人のボランティアも入り、役所関係の人が行き交い、そこに展開されている情景は映画の
セットのような情景のようだったと言う。それは今まであっただろう東北のさびれた漁港のイメージと
かけ離れ現実味のない風景が展開されていた。そしてそう思った時に改めて「これは大変なことが
起こってしまったのだ」と実感したそうである。テレビで見ると道路の瓦礫は片づけられ、車が行き
来しているが、実際はそれはメイン通りだけで一歩中に入るには瓦礫を乗り越えて歩くようである。
何がどう壊れたのか、その原形が想像だにできないものが散乱し、どこからどう流されて来たのか
墓石だけがポツンと横たわっている光景もあった。

彼は友人の被災した家の周りの瓦礫を台車に乗せて捨て場まで運ぶのを手伝った。瓦礫の中に
泥だらけの靴が散乱していたり、雑誌だったのか本だったのか、汚れた紙片が瓦礫に乾燥して
こびりついている。ここに人が住んでいたのかと思うものの、その情景は一向に思い浮かばない。
そんな中で黙々と片づけを手伝っていく。やがて、ある面積が広々として物がなくなってきたとき、
自分の労力が現実の形として見えてくる。そのことでやっと一つの達成感を感じてくるそうである。

彼の出身の大学は震災からゴールデンウイークまでは休みで、多くの学生がボランティアに参加
しているそうである。そんな中に、今はまだ大学院にいる友人もいて、その連中がボランティアの
実情を話してくれた。ボランティアに参加する人も様々で、頭が下がるほど献身的な人もいる反面、
中には就活のためのアピールが目的の学生もいる。そんな連中ほど寝る場所が狭いとか、飯が
まずいとか不平が多いそうである。そして受ける側の被災者も様々で「やってもらって当たり前」
という人もいて、ボランティアに対し不平不満をぶつける人もいるらしい。

家や家族を失った人々にとってその怒りを何処にぶつけようもない時、その矛先がボランティアに
向かうのかもしれないと言っていたそうである。しかし大半の人は「ありがとう」の感謝の気持ちを
伝えてくれる。その言葉を聞くと初めて報われた感じを得、また頑張ろうといる気になるそうである。
ボランティアは原則1週間で区切って一旦引き揚げ、リフレッシュしてからまた現場に向うようだ。
それはボランティアする側も、受ける側も長ければ長くなるほどストレスが溜まり不満が出てくる。
それを避ける為であり、これは阪神大震災の経験からか出たボランティアのルールだそうである。

このゴールデンウイークには多くの物見遊山の観光客も入ってきたようである。瓦礫をバックに
記念撮影をする。にっこり笑ってピースのサインで写真に納まる。こんな光景を数多く見かけると、
真面目にボランティアに取り組んでいる人にとって、「被災者へ何の感情も湧かないのか!」と
怒りを覚えてくるそうである。ACのTV広告ではないが「気持ちは行いになって初めて見える」、
反対に「行いによって人の気持ちが見えてくる」、「何と心ない人の多いことか」、これも現実の
姿のようである。

仙台から帰ってきた彼が言っていたが、仙台と東京では震災の捕え方には大きな温度差がある。
家族を失い家や職場を失った人々、被災はしたが比較的ダメージの少ない人々、東京などにいて
多少間接的な影響を受けた人々、関西以西でほとんど影響を受けなかった人々、その影響度に
より温度差があるのは当然かもしれない。しかし口先だけで慰みを言い、ヘラヘラしながら地震の
ことを面白おかしく話しているのを見ると、分かっているのだが、やはり無性に腹が立つという。

彼は実際に仙台に帰る前まで、「地元で皆が苦労しているのに、自分は東京でのうのうと暮らして
いて良いのだろうか?」と、いつも自分を責めていたそうである。できれば自分も現地の人と同じ
ように被災し、同じ苦労をしていた方が精神的には楽だったろう。そんな風にも語ってくれた。
連休明けに帰ってきた彼は少し明るさが戻ってきたように思う。それは現地に行って現実を自分の
目で確認し、汗を流したことで今回の震災をある程度受け入れることができたのであろう。24歳の
若者が経験した震災、これからの彼の人生にとって必ずやプラスに働くことがあるのだろうと思う。


散歩(塩船観音)

2011年05月13日 09時04分29秒 | 散歩(1)
                           パノラマ写真

青梅にある塩船観音に行くのはもう5度目だろうか。塩船観音の近くに昔からの友人が住んでいて、
彼を知る数人とJR青梅線の河辺駅で待ち合わせ彼の自宅へ向かう。そこで一服させてもらってから
塩船観音を一周し、そのあと彼の案内で青梅や多摩川沿いを歩くことが、毎年の恒例になっている。
毎年ゴールデンウイークの後半がその日になっているが、ツツジも天候に影響されるのであろか、
その時々で見頃は少し速かったり、遅かったりするようである。今年は前日の土曜が雨だった所為か
花や葉に勢いがあり、今までで一番鮮やかな印象であった。

若い頃は春のさくら以外はほとんど花に関心はなかった。それが歳とともになのか、四季折々に咲く
花に関心が向くようになってくる。つばき、梅、菜の花、さくら、フジ、ぼたん、ツツジ、バラ、紫陽花、
コスモス、曼珠沙華、きく等々、特に10年前から散歩するようになってからは、道々に咲く花に目が
止まるようになり、カメラの被写体にもなっていった。そして今では花に合わせて散歩のコースを組み
立てるまでになってきたのである。

若い頃は日々の仕事に追われ、生活に追われ、それ以外のものに関心を向ける余裕がなかった。
仕事のノルマや職場の人間関係にストレスを溜め、くたくたになって休みはひたすら寝ていたかった。
そんな時代から少しは自分を客観的にみれるようになり、コントロールも効くようになってくると、他に
目が向くようになって来たのだろう。しかしその時は既に50歳も半ばを過ぎている。子供達は親の
庇護を離れ自分の道を歩むようになる。女房とはそりが合わなくなると、必然として関心事は自分の
健康や老後の生きがいへと向いてくる。そして自分の人生が残り少ないことを知ることになる。

そんな時、毎年同じ時期に誰に見せる為でもなく、精一杯の花をつける草木に目が向くのである。
その中に自然の摂理を思い、不思議さを感じるのである。そして自分もまた自然の摂理に組み込ま
れた一員であることを知り、草木にも同胞としての慈しみを感じるのであろう。自分が「死」に向うに
当たっての納得を得ようとしているかのようにである。


駅からの散歩

No.316         青梅市塩船観音      5月8日 

塩船観音は大化年間(645年~)に八百比丘尼によって開山された古刹である。「塩船」の名は、
天平年間(729年~)に行基がこの地を訪れ、周囲が小丘に囲まれ船の形に似ているところから、
仏が衆生を救おうとする大きな願いの船である「弘誓の舟」になぞらえて、名付けられたものと伝え
られている。境内には茅葺きの仁王門や本堂等の国指定の重要文化財もある。4月中旬から
5月中旬に境内を取り囲むようにして約2万本のツツジが次々と咲き、近年TVなどで取り上げられ
ることも多くなって有名になりつつある。


                              
                              仁王門

       
                               本堂

               
                               本堂

               

      

      

      

               

               

               

                       
                            平和観音像

      



      


      
                              宗泉寺

               
                               霞川

               
                            勝沼公会堂

      
                         青梅市街を抜けて多摩川へ

                   
                        「夏への扉」という喫茶店

      
                           多摩川釜の淵公園

               
                              多摩川

      
                        釜の淵公園新緑フェスティバル

               
                             フラダンス

      
                          越中おわら「風の盆」流し

        
                      
                 本場の越中おわら「風の盆」の選抜基準は
              27歳以下でほっそりとした女性でないと踊れないとか??

      

   再び市街地へ 
  青梅は昭和レトロで売り込んでいる。街中に古い映画の看板などで演出している。

      

      
                    昭和レトロ商品博物館&茶房となりのレトロ

              
                          昭和レトロ商品博物館

              


              
                         昭和レトロ商品博物館

      
                             バス停

              
                            床屋の看板

              
                         写真屋のショウウインドウ

      
                         「たばこ屋」という喫茶店
             
              
                          店内は全て喫煙席

散歩(西荻窪)

2011年05月06日 09時27分10秒 | 散歩(1)
JRの中央線沿線に引っ越した友人が、「西荻窪には、まだ昭和が残っている」と言っていたので、
ゴールデンウイークの1日、西荻窪を散歩してみることにした。西荻窪の駅前にあった本屋によって
この近辺のマップを探す。「散歩の達人、中央線案内」を見つけ、大体の見当を付けて歩き始めた。
駅の南口にはレトロな商店街や昔ながらの酒場通りがある。周辺には高いビルはなく、一方通行の
道が多く、昔ながらの街がそのまま取り残されたような雰囲気である。右手にカメラを持って、昭和を
探してぶらぶらと歩き回ってみた。杉並区西荻窪、こんな都心にまだ昭和の時代が息づいている。


駅からの散歩  

No.314     JR中央線 西荻窪      5月4日

人目や流行なんてどこ吹く風と言う感じで「気ままに我が道を行く」そんな店が目抜き通りから路地
まで点在し、ほのぼのという時間が流れている。店主の趣味でやってみて、それで商売が成り立てば
それで良し。そんな店が引きつけ合ったように、この界隈に集まってきたのだろう。だから競争とは
縁遠い新旧の店が混在している。そんな街が西荻窪なのである。
              
      

              西荻窪駅南口を出るとすぐにこんなレトロな商店街がある。

      

                       駅前にある飲み屋街

      

              西荻窪界隈は大きな道路が少なく一方通行が多い。

     

                      昔ながらの製造販売の店

               

   
      

              街のいたるところにカフェがあり、カフェランチが楽しめる。

                      

                 世界一になりたいから店の名は「ちょろらんま」

                    


     

               まだこんな都心に昔ながらの雑貨店が残っている。              

     

     
                              金魚や

                

                
                     オタマジャクシ 5匹150円
                     カエルになったらどうするのだろう?

                

                 

                       猫は青果店から隣の古本屋へ、 
         
     

                     CDショップ 「雨と休日」
  ジャンルで縛らず、「穏やかな音楽」をコンセプトに店主が選んだ定番作品や季節ごとの
   お勧め作品がならぶ。

               
                 古い店に混じって、若者の店も多くある

     

                         惣菜のショップ

     
      
               ボックスアートーギャラリー雑貨店「ニヒル牛(ぎゅう)」
      小学生から年寄りまで自分の個性を発揮した作品が箱一つづつの中に展示されている

               


     

                    民家の中にぽつんとある喫茶室

               

                        シャボン玉で遊ぶ子

                  

                         一休みする老人

     

                          松庵稲荷神社

               

                        油あげが供えてあった。

                 


                 


                 


     

                     カードを取り合っているよう

     


     
          坂の上のけやき公園、「トトロの樹」と呼ばれるこの樹は西荻のシンボル
  
               

     

                   昔懐かしいアパート、名前も「弥生荘」

                


     


     

                        「えんツコ堂製パン」
      店は細い路地を入ったところにある。店を営むのは勇正久さん、玲奈さんご夫妻。
      表参道のアペティートで17年間、サンドイッチを作ったりパンを焼いたりして修行、
      昨年12月に開業。ソムリエで、サックス奏者でもあるパン職人とか。

                   

                        表通りにある小さな看板

     

                  「一草」 野草や陶磁器を販売している

     

     
                       カフェ「物豆奇(ものずき)」
             国立市の名門喫茶「邪宗門」に教えを乞い、35年前に開店
     店内には無数のランプがつるされ、針の止まった古いボンボン時計がかけられている。

                


     

                          アンティークショップ

               

               
          
                      無相創(ぶあいそう)
               オリジナル照明具・家具や革製品などの店

                  

   「ぶあいそう」とは聞き覚えのある屋号、町田市にある白洲次郎 · 白洲正子が住んでいた
   旧白洲邸が武相荘(ぶあいそう)という名であった。
   この無相創(ぶあいそう)は無限に形を創るという意味があるようである。

    
      喫茶 「どんぐり舎」 どんぐりじいとして長年親しまれた先代。次男が店を継ぎ、
      親族一同でのんびりとした店の雰囲気も引き継いでいる、自家焙煎の珈琲店

                 

                   店内には漫画や雑誌が多数置かれている。