60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

肩関節周辺炎

2014年10月03日 08時15分15秒 | Weblog
 1ヶ月半ほど前から右の二の腕の上部が痛い。いつも右肩にカバンを掛けるから、その習慣で何らかの障害がでたのだろうか?、右肩を下にして寝るから寝違えたのか?、それとも最近何か重いものを持っただろうか?、振り返って考えても「これ!」と思える原因が見当たらない。時々右肩を回すような動作をすると激痛が走ることがある。筋肉に亀裂が入ったかと思える痛みで、しばらくは身動きが取れないほどである。大きく動かさないかぎり、生活に差しさわりがあるわけでもないからそのままほって置いた。しかし1ヶ月を過ぎても痛みが取れない。薬局でサロンパスを買ってきて貼ってみたが、特段の効果も無いようである。
 
 1ヶ月半を過ぎると、さすがにこのままほっといて治るのだろうかと心配が出てくる。やはり何が原因でこうなるのか、自分自身で把握しておかなければと思い、会社の近くにある整形外科へ行ってみた。受付を済ませ、診察室の前で待つこと5分、名前を呼ばれて診察室に入る。「どうされましたか?」、医者の質問に対して今までの経過を話す。医者は私の右ひじを持ち、前後左右に持ち上げ、どういう位置の時、痛みが出るのか確認していく。一通りの検診が終わると、「我々の病名で言うと〈肩関節周辺炎〉と言いますが、いわゆる五十肩です。骨に異常があるといけないですから、一応レントゲンを撮っておきましょう」。そういってレントゲン室に連れて行かれ、角度を違えて2枚のレントゲン写真を撮られた。現像が出来上がってから再び診断室に呼ばれる。
 
 レントゲンフィルムを見ながら医師は「まあ骨には異常は無いようですから、やはり五十肩でしょう」、「70になって五十肩ですか??」と私、「50歳前後でなる人が多いので五十肩なのでしょうが、これは年齢に関係なく起こります」、「何が原因なのでしょう?」。「原因ははっきりしません。これは関節炎と違って、関節の外周にある腱板などに炎症が起こるためです」、そういって肩の模型図が書いてあるパネルを指して説明してくれた。「どうすれば良いでしょうか?」、「痛みで眠れないようであれば、痛み止めの注射をしますが、その必要は無いでしょう。しかし痛いからといって動かさないと固まってしまいますから、あまり痛みが出ない範囲で動かしてください。夜寝るときは右肩を下にしない方が良いでしょう」。診断が終わり湿布薬をもらって病院を出た。
 
 「五十肩」、今まで経験したような気もするがはっきりした記憶が無い。自分の体調の異変について、だいたいの記憶は残っているから、たぶん「五十肩」があったとしても、大した症状にはならなかったのであろう。会社に帰ってネットで調べてみると、「・・・炎症が最も多く起こる場所が「腱板」、腱板は線維組織からできているため、加齢とともにもろくなりやすいのです。しかも、もともと血管が少ない部位で、いったん傷つくと修復されにくい性質があります。50歳代は老化が進みやすい年代ですから、ちょっとした力が加わるだけで傷ついて、炎症を引き起こしやすくなることが考えられます。・・・」と書いてある。「おっ、また加齢や老化という言葉が出てきたか、まあ50歳からの老化の症状が70歳で出たのだから良しとしよう」
 
 私は何でもかでも医者に行くわけでは無いが、自分にとっては未知であり、不可解に思ったときは、思い悩むより先ずは専門家に聞いて見る。そして自分の症状と医者の言うことが合致していればそれで納得をする。医者に頼るのか、自分で治すのか、後は自分の判断である。私はそういう風に考えるが、しかし周りを見渡すと、病気と病院との考え方は人によって千差万別のようである。
 これはどちらかといえば高齢の女性に多いのだが、「医者は病気を治す責任がある」という考え方である。だから医者に通って、自分の思いどうりに快方しないと、「あの先生は何もしてくれない。不親切だ!」、と医者の個人攻撃になり、病院を転々とする。腰痛や膝痛や生活習慣病、どちらかといえば自分の生活習慣に問題があるのに、それは棚に上げて被害者意識が強い人が多い。二つ目が医者嫌いである。「俺の体は俺が一番良く知っている。あいつら(医者)は金儲けしか考えていないから、俺は医者には行かない」、そう言って胃潰瘍で血を吐いても病院に行かない人がいた。また、「俺はもう何時どうなってもかまわない。だから医者に行って、ああだこうだといわれたくない」と言う人もいる。これらの人は老年の男性に多い。
 
 三つ目が自己逃避型である。「咳がもう何ヶ月も続いているのに医者には行かない」、「健康診断で要検査の指摘が有ったのに医者に行かない」、これらの人は行けば、酒、タバコ、食事など、自分の生活習慣を変えるように指摘されることが分かっている。「そんな話は聞きたくない」だから医者を敬遠する。それは自分の生活習慣を変えるのがわずらわしいから、逃避し続けるのであろう。私の身近に居た人で、親が肝臓の病気で若くして死亡し、本人もある時期肝臓の数値の異常を指摘された人がいた。彼はそれ以来健康診断にも行かなくなり、サプリメントや民間療法に頼った。しかし結局は62歳で肝臓ガンで亡くなってしまう。医者に行き何らかの治療をしていれば、もう少し長く生きただろうと思うのだが、真実を知ることが怖く、目を瞑ってしまった。
 
 「酒とタバコをやめないのであれば、私は貴方の手術はしません」、医者にそう言い渡された喉頭がんの人がいた。「俺は太く短く生きるんだ!だから酒もタバコも絶対やめる気はない」そう言っていた彼も、やはり酒もタバコも辞めることになった。人は命と引き換えだとやはり命の方を選ぶものである。しかしそれが差し迫ったものにならない限り、なかなか動けないものでもある。自分の中に異変を感じたら、先ずは何が起きているのか調べて、自分で知っておくことであろう。今はネット等で、症状や療法と治癒の可能性は大体把握できるものである。その上でどうするかは自分で決める。それが責任ある老後のスタンスのように思うのである。





同期会

2014年09月12日 08時15分39秒 | Weblog
 先週大学の同期会に出席してきた。今回は我々の所属学科(44名中22名出席)に加え、教養課程で一緒だった別の学科(27名中14名出席)と、初めて合同で開催された。従って新たに加わったメンバーとは実に47年ぶりの再会である。場所は岐阜県の長良川温泉、夕刻より屋形船で長良川の鵜飼を見ながら宴会して一泊、翌日は金華山(稲葉山)にある岐阜城(斉藤道三や織田信長が居城)を見学して解散というスケジュールである。
 
 岐阜駅からバスで長良橋で下車、5分程度歩いてホテルに着いたのは集合時間の午後4時少し前であった。入り口で幹事に到着の挨拶をし、会費を払ってからロビーに入った。すでに大勢が集まっていて、数人ずつに分かれて談笑している。見覚えのある顔もあるが、知らない顔も多い(本当は知っているはず)。周りを見回して歩いている時、突然、ソファーに座っていた2人から名前を呼ばれ手招きをされた。近づいてみたものの誰だったのか、全く思い出せない。脳の海馬に記憶されているだろうデーターを懸命に検索しても、探り出すことができないようである。やがて相手がそれぞれに自分の名を名乗る。「あっ、この2人は寮で同室だった仲間だ」、そう思っても、目の前の2人の容貌と47年前の2人の面影とが結びつかない。

  髪は白く薄くなり、顔はどす黒くシワも目立つ。浦島太郎が玉手箱を開けて一気に白髪になり周りも一変したように、そのギャップを埋めることができないようなものだろう。ぎこちなく会話を合わせる間にも、47年前の彼らの様子と、いま目の前に見る顔とを必死に繋げようと、脳内で激しくデーターのやり取りしているのが自分でも分かる。やがてその2つの情報がつながリ始め、まぎれもなくあの時の2人だと確信がもてるまでになってきた。すると不思議なもので、今までギクシャクしていた会話は一気に47年前と同様に親しいものになってくるのである。
 
 30数人が集まっても、やはり群れるのは学生時代の親しさが基準になる。私が懐かしく感じる人達は、入学1年目の学生寮で同室だったメンバー、2年間通った柔道部の同期生、一緒にギターを習いに行った仲間、4年次にマンボ楽団に勧誘してくれた友人(欠員が多くマラカスを担当させられた)等々、やはり学生時代に親しく打ち解け、何でも語らった相手である。そんな相手であればどんなに時間が経過していても、それを飛び越えて昔の関係に戻れるものである。話はお互いの昔話の付き合せ、それとその後の出来事である。がんで胃を全摘して今は体重が42kgまでになった仲間、肺がんで肺の1/4を取った友人、3年前に奥さんを亡くし、今は再婚を考えている者、やはり昨年奥さんを亡くし、「寂しいものだよ」と心境を語ってくれる友などさまざまである。卒業して47年、それぞれの人にそれぞれの人生があったことを改めて思うのである。
 
 鵜飼見物が終わり、宿に帰ってから一番大きな部屋に集まって2次会である。酒が入るほどに、それぞれの素が露わになってくる。そして酒席での立ち振舞いは学生時代の個々の性格がそのまま延長されてきたようである。「三つ子の魂百まで」、やはり半世紀近く経過しても人の性格は変わらないのだろう。しかし学生時代と変わったところもある。押しなべて酒量が減ったこと、(耳が遠くなったからか)声が大きくなったこと、滑舌が悪く、だみ声が多くなったこと、「あれ、あれだよ」と単語が思い出せない場面が頻繁になったこと、朝起きるのが早くなったこと(ほとんどのメンバーが6時前に起きて朝風呂に行く)、金華山に登る坂道で喘ぐ人が多くなったことなど、精神的には20代に舞い戻っても、体の方はやはり70歳である。参加者が集まってから一晩が経過すると、昔話は少なくなりそれぞれの近況の話になってくる。やがて昔の面影は記憶の中に戻っていき、今のその姿が現実世界の仲間であると認識するようになる。これからは過去と現在の二つが繋がり、セットになって海馬の中に整理されるのかもしれない。
 
 2つの学科の同期生約70人の内、物故者はすでに8人いるそうである。それらの人の名前を聞いても、今度は名前は思い出せても、顔が思い浮かばない。「去るもの日々に疎し」ではないが、記憶はどこかで引っ張り出して虫干ししてやらないと、そのまま埋もれて消えていくのであろう。さて今度は何年後に会えるか分からないが、それまで修正された記憶が維持できていれば良いと思うのだが。

  
    

    

    

    

    
                          金華山(稲葉山)
                        頂上に岐阜城がある

    
                          金華山ロープウェー

    
                               岐阜城  

    

    
                         天守閣からの眺め

    

    
                                     解散式
 
 
 
 

面接

2014年08月08日 09時52分16秒 | Weblog
 以前このブログで書いたことがあるが、親会社で事務社員の退社から2ケ月が経過した。その人員補充でやっとオーナーが動き、昔の従業員から紹介された女性と面接をし、9月からの入社を決めたようである。先日辞めた事務社員もオーナーが面接して決めた男性である。しかし彼は入社3年目になっても、言われたことしかやらない、言われたことも満足にできないと、戦力にならず結局は会社になじめずに辞めてしまったのである。「社長は人を見る目がない」と、社員から言われるほど自己中心で人が読めない人。そんな社長が面接して決めた社員である。さてどんな人が入ってくるのか楽しみでもある。
 
 「面接」、中小零細企業はほとんど履歴書と面接だけで人を採用する。一方大手企業も書類選考、ペーパーテストを経て、最後は責任者が面接して採用を決めている。だから面接は応募者にとって最大の関門なわけである。しかしわずか何十分の面接で人を評価できるのか?、応募する側は何をアピールすれば良いのか?、今日はそんな面接をテーマに書いてみることにした。
 
 私の息子も10数年前に就職活動で5~6社の会社にエントリーしたはずである。そんな中で、ある会社の面接の様子を聞いたことがある。その会社では最終の役員面接の前に、人事部面接というのがあったそうである(ペーパーテストなどで残った50人から人事部が20人まで絞って役員面接に送る。後は役員が10人程度を採用する)。その面接の時に人事部長が、「あなた自身を物に例えるとすると、何に例えますか?」という質問をした。息子としては想定外の質問に面食らったようだが、とっさに面接官の前にあった水の入ったコップを見て、「コップです」と応えたそうである。当然「それはなぜですか?」という質問が飛んでくる。それに対して息子がどう応えたのか聞いたが、今は思い出せない。たぶん面接官としては、想定問答で覚えてきたような答えを聞いても意味がないと思ったのであろう。この質問には模範解答があるわけでも無いし、立派な答えを期待したわけでもないのだろう。不意をつくことで受験者の鎧を外し、その人の素を見たかったのだと思う。息子の就活は他にも採用通知が来たようだが、結局息子はその会社に就職することになった。入社後その人事部長に会った時、「私の面接の基準は、《こいつと一緒に働いて見たい!》、そう思えるかどうかで決めています」、と言っていたそうである。
 
 数年前、大手菓子メーカーの営業の何人かと、工場見学に行ったことがある。見学が終わって、夕方なので直帰することになった。その折、帰りの方向が一緒だからとそのメーカーの新入社員と一緒に帰ることにした。帰りの電車の中で彼と話すうちに、私の興味は、この就職氷河期に彼が一流企業に採用されたポイントはどこにあるのだろうと考えた。しかしそれは話すうちに直ぐに分かったよううな気がした。それは会話の中でこんな話を聞いたからである。
 彼は大学2年の夏休み、家から北海道に自転車(ママチャリ)を送り、そこから1人で鹿児島まで走破したそうである。途中2台自転車を乗りつぶし、安い自転車に買い換えた。当然学生だから貧乏旅行である。夜は基本的には駐車場やお寺に野宿する。どうしてもゆっくり休みたい時やお風呂に入りたい時だけ安宿に泊まる。北海道から鹿児島までの所要日数は37日間、その間に、苦労したこと、面白かったこと、旅先で出会った人々とのふれあい、そんなことを楽しそうに私に語ってくれた。彼は就職時の面接でこの話もしたそうである。
 
 もう一つ、私の就職時の面接の話である。今から45年前、当時も就職難の時代であった。その頃は学生が勝手にエントリーするのではなく、学校に来た企業からの募集に対して、学校側が推薦する形で応募し試験に臨んでいた。従って学業優秀な生徒から順番に良い企業に紹介してくれる。私は成績があまり芳しくなかったから、なかなか順番が回ってこなかった。そしてやっと照会されたのが4年生の秋口、しかも学校の専門とは関係の無い、当時新興の流通業であった。その会社の大卒の採用予定は100人、しかも応募人数も2000人と多く、高い倍率であった。1次試験は大阪と東京と2ケ所で筆記試験、合格すれば東京で面接である。なんとか大阪でのペーパーテストをクリアーして、東京に面接を受けに行った。
 
 決められた時間に会場に入り、受付を済ませて順番を待つ、やがて名前が呼ばれ面接会場に入った。そこには面接官7~8人が長いテーブルに並び、応募者は5人づつ離れた椅子に座り面接官と向かい合う。一人の面接官が質問をすると、最初は右端から順番に受験者が応えていき、次の人の質問には今度は左端からというとふうに入れ替わる。確か私は左から2番目に座ったと思う。その時それぞれの面接官からどんな質問があり、どういう風に応えたかはほとんど覚えてはいない。しかし唯一覚えている質問と回答がある。それはある面接官が、「あなたは悩みがあるとき、どのようにな方法で解決をしますか?」という質問である。その時は右端の人から応えていった。最初の人は「親に相談して・・・・」、2番目の人は「友達に相談して・・・・・」、3番目の人は「公園など静かな場所に行って一人で悶々と考える。・・・・・」、そして私の番になった。
 
 3人が答えている間に少しの間があったのに、自分の順番が来ても、どう応えるか決まっていなかった。だから一瞬、前の人達と同じように、友達に相談するとか、父親に相談すると応えようとも思った。しかしそんな経験はほとんど記憶に無い。こんな場で嘘を言っても仕方ない、「え~い、ままよ!」と思い、「今までそんなに思い悩むこともなかったので、自分の中で特別な対処法は持っていません」と応えていた。それに対して一人の面接官が、「ほ~う、あなたは幸せな人ですね。なぜ悩まないのでしょう?」とたたみ掛けて質問してきた。しばらく考えてから、「自分のことは自分で決めたいと思っています。何かを決めなければいけない時は、その時点までの自分の知識と経験が全です。だから自分の判断はその時点では最善と思っているから、あまり思い悩むことは無いのでしょう。後は結果が良いか悪いかは運に任せるしかないと思っています」、たぶんそのような内容のことを応えたように覚えている。その答えを面接官がどう受け止めたのかはわからない。しかしほかの人とは違った答えだったのは確かである。数日後採用通知が来たのだから、結果的には良かったのであろう。
 
 年配者でそれなりの経験者が、まだ若い人達を面接するわけである。正確ではないが、ある程度の性格は読み取れるものである。だからあまり飾らず、自分を素直に出して、明るく、はきはきとし、前向きで、嘘が無く、ユニークであることが一番なのではないだろうか。最初に書いた人事部長が言ったように、「こいつと一緒に働いてみたい」そう思わせるのが一番の対策なのであろう。






昭和の営業と平成の営業

2014年07月25日 08時21分35秒 | Weblog

  親会社に来る営業で、毎週火曜日AM10:00頃に来社する人がいる。事前にアポイントを取って来るわけでもなく、オーナーが居れば会って話をし、不在の時は出された珈琲を飲んで帰っていく。彼はあるフィルムメーカーを定年退職後、地方のフィルム加工会社の東京の営業責任者として再就職した。親会社のオーナーとは何十年来の付き合いである。今は彼の会社との取引もあるが、毎週来て商談するほどの取引ではない。彼らが話す内容は業界の状況や市況、自社の状況、他社の噂話、あとはもっぱら世間話とオーナーの自慢話を聞いてあげることである。昔はこういう営業スタイルも当たり前にあった。「営業とは会ってなんぼ・・・」そんなことから、特に用事もないのに、「近くまで来たので、寄ってみました」と言い、出向いてくるのがよく使われる営業手法であった。しかし今はアポイントなしでの訪問は、反対に迷惑な行為になってきたようである。虚礼廃止で年末年始の挨拶回りも少なくなるなど、昭和と平成でその営業スタイルも変化してきている。そして商談相手との人間関係のあり方も違っている。

 10年前、ある地方の水産練り製品メーカーの東京の責任者(副社長)と話した時の話である。そのメーカーは某大手量販店に商品を入れていた。しかし量販店側の政策もあってか、商品が徐々にカットされ、ほとんど無くなってしまった。その後は若手の営業マン(30代)が担当して細々と継続していた。彼はそれでも足しげく通って、ある時期に新製品が何品か採用される可能性ができた。その報告を受けた責任者は、「ここ一番、俺の出番だろう!」と思い、若手の営業に同行する。彼は典型的な昭和の営業マンである。商談は業界情報や他社の噂話や悪口、そしてゴルフや麻雀、飲食の接待で相手に取り入るのが得意技である。当然今回の商談の折りにも、「今度一度ゴルフに行きませんか?」、「新宿に私の地元料理を食べさせる店があるんです、一度行って見ませんか?」などと誘ったそうである。その時、相手のバイヤー(30代)は胡散臭いものでも見るような目でこちらを見ていたと言う。後日若い営業マンの報告で、商談は不成立で新規の商品導入はならなかったそうである。「自分が原因かどうかは分からない。しかしあそこは最後まで彼に任すべきだった。心底彼には悪いことをしたと思っている」、という話を私にしてくれた。

  そんな話からその責任者と「昭和と平成の営業スタイルの違い」という話になった。その時2人で話し合った内容は以下のようなものである。

 昭和の時代は右肩上がり、大手量販店も出店ラッシュで、メーカーも量販店にくっ付いていれば連れて売り上げも伸びていく。したがって営業の重要なポイントは買い手側に取り入って、取引を維持していくことにあった。だから営業マンは買い手に対して頭を低くし、おべっかを使い、相手のプライベートまで立ち入り、盆暮れの贈答を欠かさず、飲食やゴルフの接待も頻繁であった。そのため営業マンには多くの接待交際費が認められていて、それをたっぷり使っても、それに勝る売り上げを上げる営業マンが優秀な営業と言われていたのである。

 しかし平成の時代は様相が変わってくる。買い手もコンビニや通販やインターネット販売と多岐に渡り、量販店の売り上げも徐々に落ちていく。従って限られた販売先に依存しているとリスクも高くなり、年々条件交渉もきつく儲からなくなってくる。しかも得意先からは品質管理や商品開発力、システム化や企業の透明性、臨機応変な対応力などが求められてくる。そんな中で営業に求めたれるものも以前とは違ったものになってきた。条件改定、スピード、商品知識やトラブル時の対応力などである。へたな会社や鈍い営業マン相手では、自分自身の社内評価も上がらない。だから必然的に情実の入り込む余地も少なくなってくるのである。


 時代背景が変わっても、そこは商売である。売り手と買い手の人間関係も、質は変わっても重要なファクターであることに変りはない。今の若い人達は昭和の人間関係のように濃密な関係を嫌う。仕事は仕事、プライベートはプライベートとして分けて考えたい。従って仕事ベッタリな会社人間はどちらかといえば鬱陶しい。仕事があり家庭があり、尚且つ自分の世界(趣味)を持っている、そんな人が理想である。

 例えばシュノーケリングで各地の海を潜って楽しんでいる。例えば山登りが趣味で、休みになればあちらこちらの山に登っている。例えば神社仏閣に興味を持ち、時間が許せば訪ねてその歴史について勉強する。例えば天文学にやたら詳しく、自分でも望遠鏡をもって天体観察をしているなど、今流行の○○ガールではないが、その世界を語らせれば2時間でも3時間でも楽しく語れるほどの趣味を持ってる人である。人はそんな人に魅力を感じ、そんな相手には一目置くのである。商談相手がそんな世界を持っている人であれば、その世界が違っていても互いに尊重しあい認め合うようになる。その時は得意先と仕入先の関係ではなく、一対一の対等な人間関係が成立することになる。

 昭和の営業と平成の営業、その境界線はバブルの崩壊を境に変わっていったように思う。得意先の仕入れ担当者が30代の若い人であれば、昭和の営業手法では通用しないことを実感するはずである。それはどんなに媚びへつらっても、相手にとっては胡散臭く、反対に距離をおきたくなる存在になるからである。だからといってスタイルを変えようとしても、長年培ってきた自分を変えるのも難しい。それは仕事一途で、自分の世界(趣味)を持ってこなかったからである。








物価は上がるもの

2014年06月13日 08時43分42秒 | Weblog
 先日の新聞に、ユニクロが夏からほぼ全ての商品を5%値上げすると言う記事があった。また無印良品も高価格商品を増やして平均販売単価を前年比8%引き上げるという方針だという。昨年末からの円安で小麦粉やパン、チーズやハムなどが値上がっている。原油価格が上がり、フィルム関係の包装資材等が値上がりをした。ガソリン価格が上がって物流費が上がる。円安で軒並み輸入原材料が上っているから、値上がりの機運が高まっている。4月から消費税が5%から8%に変わった事で、今まで押さえられていた商品の価格はジワジワと値上がり始めている。

 昔を振り返って見ると、45年前の私の初任給は3万円台だっと記憶している。それが毎年のベースアップと昇給で数年すると10万円を超し、結婚する頃には20万円台になっていたのではないだろうか。月給も毎年万単位で上がっていた時期もあったように思う。そんな状況にあると、次ぎはああしよう次ぎはこうしようと期待が膨らみ、働き甲斐もあったように思う。そして、値上がりが激しいから借金してでも家を買っておいた方が良いだろう、という気になってくる。仕事の方は商品の仕入れを担当していたから、毎年のように値上げが行われ、価格交渉が日常茶飯事のことになっていた。しかもその値上げの大きな要因は人件費の高騰にあったように思う。毎年の賃上でメーカーも商品価格に転嫁せざるを得ないのが実情だったのだろう。しかし物価が上がっても、給料も上がっているから消費は衰えない。また製品が上がっても、品質面で優位だから海外競争力もあったようである。そんな好循環で世の中は活況を呈し、高度経済成長をひた走っていた。しかしその右肩上がりの経済はバブルの崩壊でピタリと止まってしまったのである。

 「失われた20年」、1991年2月から約20年以上にわたり低迷した期間である。その間給料は定期昇給はあってもベースアップはなく、生活にも余裕がなくなり無駄使いはしなくなる。そんな需要の低迷から小売業は安売り競争になり、デフレ状態になっていった。上がると見込んでいた給料が上がらず、住宅ローンの返済が大きな負担になってくる。しかも不動産価格の下落で、売っても借金の額には足りず、身動きできなくなった仲間を何人も知っている。それでも50代以降の人達は夢を見ただけでも良しとすべきなのかもしれない。それに比べて今の20代30代の若者は低迷期の真っ只中で就活をし、仕事をしても思うように給料はあがらず、閉塞感が漂う状況の中の生活を強いられているのである。

 安倍政権が打ち出した「アベノミクス」(安倍とエコノミクスを会わせた造語)、この停滞して動かなくなった経済の歯車を何とか動かそうと打った手である。金融緩和で市場にお金を出し、経済活動にカンフル注射を打った。結果円安になり、輸出はしやすくなったが輸入品は上がる。株価は上がったて一部の投資家は儲かったが庶民に恩恵はない。大手はベースアップがあり給料は上がったが、中小はまだその状況にはない。20年間止まっていた歯車、全てが一斉に動くはずもないのだが、それでも歯車は軋(きし)みながらでも少しずつ動き始めたような気もする。

 バブル期、日本人の観光客がヨーロッパのブランドショップで、商品を買いあさっていると批判されていたことがある。今は中国人の観光客が世界中で同じように買いあさっている。中国も経済発展が遅れた分だけ、今は急速な経済発展の恩恵であろう。しかしやがて日本のバブルの崩壊と同じようなことになるのではないかと言われている。世界はグローバルな経済環境になってきたが、しかし全ての国が一斉に良くなるとは思えない、どこかが良くなればどこかが悪い、入れ替わり立ち代わりが今からの世の中なのであろう。「失われた20年」、そろそろ日本も閉塞感から脱しないと息が詰まってしまう。昔のようなバブルは問題も多いが、やはり緩やかな右肩上がりが望ましい。物価が上がれば我々年金生活者は苦しくなってくる。しかし今の若い人達に夢を持ってもらうには、それも不可避なのだろうと思うことにした。強引で傲慢だと色々と批判も多い安倍政権だが、いまだに人気が衰えないのは、国民の閉塞感からの脱却の期待が大きいからなのであろう。






うつからの脱出

2014年06月06日 08時55分50秒 | Weblog
                          仙台 定禅寺通り

 (私の良く知る)ある会社の若手社員が「適応障害と抑うつ症状」ということで、昨年の10月末から会社を休み、その後会社に復帰してきたまでは、このブログに書いたことがある〔10月25日「うつの前兆」と11月8日「うつの前兆(2)」〕。先週その彼から「新しい会社から内定を貰ったので、今の会社を辞めることにしました」という報告をもらった。

 医者からは「このまま今の会社にいれば再発の可能性が高いから、できれば環境を変えた方が良いでしょう」と言われていた。彼自身も東京での生活は難しいと感じていて、できれば地元の仙台に帰って働きたいという希望を持っている。今年になって新宿の職安に行き、仙台の会社を紹介してもらいって何度か仙台に帰ったようである。しかし書類審査はパスしても、うつの症状がある中での面接は上手くいくはずもなく、結局は失敗に終わったようである。

 彼は病院で処方された抗うつ薬を飲んでいたが、この4月に医者から「もう薬を飲まなくても大丈夫でしょう」と言われ、半年ぶりにウツから開放される。その診断の時に医師が、「貴方の場合、早く病院に来たからよかったのです。一般的には我慢してどうしようもなくなって来るから、重症になりやすいのです」と言われたそうである。よく本に書いてあることだが、伸びきったゴムを長期間放って置くと元に戻らなくなるのと同じで、速やかに緊張を解いてやることが最良の方法なのであろう。ゴールデンウイークには友達と京都に遊びに行くなど、すっかり回復していたようである。しかしそのことは会社には言わず、相変わらずの不調を装って、なるべく対人関係を避けていたようでもある。

 5月になって仙台にいる大学時代の友人が、知り合いの会社を紹介してくれた。たまたまその会社は人を募集しようとしていてタイミングが良く、2度の面接で採用が決まったようである。採用された会社からは、今の会社での引継ぎや引越しもあるだろうからと、7月15日からの出勤を提案されたと言う。彼からその話を聞いた時、私は「今の会社は貴方が辞めることで、新しい人を採用し、その人に仕事を引き継がなければいけないだろう。円満に退社するには、できれば2ヶ月は必要だと思う。だから転職先の会社に1ヶ月延ばしてもらい、8月15日からで交渉してみたらどうだろう」とアドバイスしてみた。悩んだ彼は親と相談したようだが、結局は予定通り、6月末の退社を社長に申し出たのである。

 退社理由は、「父方の祖父がガンで余命半年の状態にある。世話になった祖父なので、近くにいてやりたい」と言うことにし、再就職先が決まったていることは伏せたようである。取って付けたような退職理由、しかし1ヶ月前でもあり、家族の問題での自己都合だから、社長としては受け入れざるを得ない。しかし一方で、彼の周りにいる女性社員にしてみれば、それは許せない行為であった。彼の休んでいた間は余分な負担を強いられ残業が続き、復帰してからも対人関係を嫌う彼をホローし続けてきたわけである。それを充分な引継ぎの時間も設けず、あっさり退社してしまう。彼女達にとっては裏切られたような気持ちになったのであろう。

 彼は常に受身で自分を主張をすることはなかった。言われた事はやるが、言われない事までやることはない。人に受けた好意に対しても感謝の言葉を発することもほとんどなかったようである。そんな彼の性格は「ゆとり世代」の特異的なものという理解がされていたようである。しかし今回の退職騒ぎで、彼に対する不満が噴出したのである。・・・「結局、彼には何も伝わらなかった」、「何も自分では考えられない男、いつまでも新人でいられるより、さっさとやめてもらったほうが良い」、「自分さえよければそれで良い、彼にはそれしかないのだろう」、「こんなに振り回されて、こんな仕打ちを受けるとは思わなかった」・・・・。たぶん彼女達の彼に対する違和感や不満そのものが、彼の抱える病なのであろう。「適応障害」「対人障害」「コミュニュケーション障害」、今回医者に診断された要素を彼は潜在的に抱えていて、会社でのストレスが高じて、病気として発現してしまったのである。

 仙台での会社は組合組織で、彼の職務は各組合員から上がってくる保険等の申請書類に不備がないかどうかのチェックする仕事のようである。話を聞くかぎり対人関係とコミュニケーションはそれほど重要ではないようだし、あとは仕事内容に対する適正があるかにかかっている。彼は仙台に帰ったらアパートを探し実家では暮らさないという。どちらにしても、生まれ育った場所であり、東京に比べれば友達も多く、人間関係も緩やであろう。そんな環境の中での再出発である。彼が自信を取り戻し、職場に適応してくれれば良いのだが、さてどうなるのであろうか?。人間観察が趣味の私は、その後も彼を追って見るかもしれない。





老後対策

2014年05月09日 08時22分33秒 | Weblog
 5月3日、青梅線の河辺駅に集まり、迎えに来てくれた友人の車で彼の自宅に行く。そこで一服し、塩船観音のツツジを見てから青梅を散策する。これは毎年の行事になっていて、もう6年も続いている。最初は青梅に住んでいる友人の誘いで、何人かで塩船観音のツツジを見に行った。その時のツツジの見事さに皆が感動し、「又来年も」ということから始まったのである。メンバーは年によって入れ替わるが、いずれも60歳を過ぎた元の会社の同僚である。なぜ何年も続くようになったか?それにはそれなりの理由がある。

 メンバーの一人が、60歳の退職を前にして、「退職後の心構え」という内容のセミナーを聞きに行った。セミナーでは退職後の生活設計などについてアドバイスを受けたが、その中で彼がもっともショックを受けたことがある。それはその席で週間、月間、年間の白紙のスケジュール表を配られ、これに退職後を想定して自分の予定を記入するように言われたそうである。その時に書いたのは、週間では毎朝7時から1時間散歩、それから朝食、ゆっくり朝刊を読み、後は昼飯と夕飯と風呂、月間は毎週の何曜日かを決めて週一のゴルフ練習、年間は正月の初詣以外は書くことが思い浮かばなかったそうである。「俺から仕事を抜いたら、何も予定が立たない」、そのことを見せ付けられて愕然としたという。彼はそのことを何人かの仲間に話して聞かせた。仲間も当時はまだ嘱託などで働いていてはいたが、やはり退職後の過ごし方に大きな不安を持っていた。そんなことからゴールデンウイークのどこか1日、塩船観音のツツジを見るために集まる。それは強引に誘いあわせなくても自然と定着するようになったのである。

 以前勤めていた会社のOB会(10名程度)がある。原則年2回であるが、前回の会が終わった時に、次回は8月21日(木)PM5:30からと半年先の予定が全員一致で決まった。この時あるOBが、「俺の手帳はスカスカだが、これで一つ予定が入ったよ」と笑っていた。これは仕事をしている時には考えられないことである。働いている時は年間の2/3は仕事で埋まってくる。プライベートな時間は1/3で、それも若い時には家族と共有する時間が大半であった。しかしリタイヤする頃には子どもは独立して行き、女房とはそりが合わずに、いつの間にか邪魔者になっている。そして今までなんとなく詰まっていた予定はなくなり、自分のスケジュールは自分のプライベートな用事で埋めなければいけない。それは仕事を辞めた途端、現実になるのである。

 私も仲間からそのセミナーの話を聞いて、老後対策を意識するようになった。2年半前から水彩画教室に通うようになったのもその一つである。水彩画教室が月2回で年24回、麻雀の集いが月1回で年12回、OB会が年2回、塩船観音が1回、随時誘い合って昔からの友人と会う機会を月2回程度設けるとして、これで年間60日は対外的な予定は埋まるはずである。後は日常の生活で何をするかである。庭に畑を作って家庭菜園をする、スケッチに出歩く、ギターを覚える、俳句を勉強する、読書、散歩、時には一人旅、今考え付くことはこんなところである。しかし実際にその段になったら、考えていたようにはいかないようである。結局は自分の興味や意欲や資金がどこまで続くかにかかっているのだろう。

      
                         塩船観音のツツジ



      
                        塩船観音寺は真言宗

      

               

      

      

               
                         古来より伝わる紫灯護摩

               

      
                     境内に積まれた杉の葉に火がつけられる

      
                           高く火柱が上がる

      
                            火渡りの荒行

      

      
                           一般信徒も渡れる
      




ガンの告知

2014年05月02日 08時25分38秒 | Weblog
  フェイスブックで、ある人の記事に友達がコメントをつけていた。そのことで私もその人の記事を読むことができる。記事にはこう書いてあった。

 《 私事、また病のことで恐縮です。最近ふと喉に違和感を感じたので、耳鼻咽喉科に行きました。かかりつけの病院なので、こちらの体調も良く心得てくれていて、診てもらうと、そのドクターは開口一番、「ここより設備の整った病院に行って診てもらってください。紹介状を書きます」ということで、その足で市民病院に行きました。とりあえず診察後造影剤を注射して、CTを撮りました。その後、喉に麻酔して喉の組織を取りました。あれよあれよといううちに血液検査などもして、その結果をドクターから伝えられました。「喉頭癌の疑いあります」、一瞬にして頭の中が真っ白になりました。「まだ、組織の病理検査が終わらないとわからないけれども、最悪な状況もあり得ますから、僕はそれを伝えます」というドクターの言葉は、なまじ隠しだてされるよりはまだましだと思いました。最悪の場合喉頭部の摘出が余儀なくされて、声を失う。でも、人口声帯で話はできる。とのことです。

 病院からの帰り道、もう葉桜になったサクラを見ながら考えました。「声が出なかったら授業できないな」、誰かと話せなくなるとか考えないで、「授業」の心配をしてる........自分。日頃アンチ教師である自分がそんなことを考えている。そんな自分がおかしくて少し笑いました。そして気がついたら頬に涙が伝ってました。病理検査がわかるのが28日。よりによって連休の始まりの日だそうです。どういう結果が出ようとも、運命だと思って受け止めようと思ってます。あんまり美声ではなかったけど、大学時代の私の声。覚えていてくださいね。》

 私にとっては見ず知らずの人である。しかし、こんな記事を読むと身につませれるものである。文章から推測すれば彼は学校の先生であろう。また知人の年齢から推測すると40代後半である。今週の月曜日には病理検査の結果が判明しているはずである。どちらにしてもその人にとっては人生最大の試練であることは確かである。記事の中にあった、「どういう結果が出ようとも、運命だと思って受け止めよう」と思っても、これがいかに大変なことであるかは、今まで色んな人の体験に接してみて感じていることである。そして思うことは、自分がガンの告知を受けた時どんな気持ちでいられるのか、それをどう聞き、どう受け止めるのか、やはり私にとっても最大の試練なのである。それもそんなに遠くはないうちに、

 先週、知人のお通夜に参列した。故人とはここ7~8年のお付き合いであるが、馬が合うのかよく飲みにいった仲である。彼は71歳、サラリーマン時代は部下に対して厳しい人であったようだが、しかし私の知る彼は気遣いの人であり、誰に対しても優しいく穏やかな人であった。昨年の3月、尿道ガンが見つかったと彼から連絡がある。治療としては入院はせず通院で抗がん剤でガンを叩き、小さくしてから手術するということであった。そして予定通り、昨年8月に手術をしたようである。術後は順調ということなので、久々に浅草で会うことになった。話し振りも以前と変わった様子はなく、いたって元気そうである。病状についても楽観的な口ぶりで、「今は医者に酒は止められているが、来年には又一杯やりましょう」ということで別れたのである。しかしそれから3ヶ月もしないうちに、ガンが(全身に)転移しているという連絡を貰う。この時も淡々とした話し振りで、やはり入院はせず自宅で闘病生活をするということであった。その後は連絡することも憚られ、彼の様子はわからないままであった。そして先週突然の訃報である。病気が判って1年あまり、人の命とは果敢ないものである。

 お通夜で聞いた話では、今年の3月頃から足が浮腫んで歩行もままならなくなり、外出時は車椅子を使うようになったそうである。たまたま一人でトイレに行った時に倒れてしまい、頭を強打して意識を失ってしまった。直ぐに救急車で病院に運んだが、翌日の早朝に帰らぬ人となったしまったという。家族の話では最後の最後まで、にこやかに穏やかに淡々と病気と向き合ったてしていたそうである。お通夜には彼の付き合いの広さと人柄からか、100人を越す弔問客があった。そんな中、誰に聞いても、彼は周りの人に対してはいつもにこやかに穏やかに有り続けたようである。しかし当然、彼の心の中では大きな動揺と葛藤が有り続けたはずである。それを彼はどう克服していたのであろうか? 遺影のにこやかに笑う彼の顔をみると、尊敬の念と、又一人得がたい友人を失ってしまった喪失感が、こみ上げてくるのである。

 今やガンによる死亡率は3人に1人といわれている。我が家系では父も母も、祖母や叔父もガンで死亡していて圧倒的にガン家系である。私の場合も体質的に心症患や脳血管症患より、ガンによる最期を迎える確率の方が高いであろう。ガンの場合は臨終を迎えるまでに家族と過ごす時間があるから良いだろうという話もあるが、私は長く生きるというより、苦しみたくないという希望の方が強い。人は何時かは最期を迎えるわけで、それがどんな形になるかは誰もわからない。しかしどんな形にせよ彼のように、自分を乱すことなく穏やかに逝きたいたいと思うのである。





ゆれる基準

2014年04月18日 08時40分43秒 | Weblog
先週の新聞に『健康と判定される人が増える?』というタイトルで、健康診断の基準の変更の記事が載っていた。
 [日本人間ドック学会と健康保険組合連合会が、人間ドック受診者約150万人を対象とした調査により、健康といえる基準値を公表した。同学会などは、2011年に200カ所の医療機関で人間ドックを受けた約150万人から、持病がなく、たばこを吸わないなどの条件に合う約34万人を選別。このうち、極めて健康な状態とされた約1万~1万5000人について、27項目の検査結果を解析し、正常とされる基準範囲を算出した。その結果、血圧は男女とも、上(収縮期血圧)が147以下、下(拡張期血圧)が94以下となり、現在の同学会の基準より高めとなった。これまでは前者で129以下、後者で84以下を「異常なし」としていた。男女差や年齢差のある項目もあり、中性脂肪では、女性は32〜134と学会基準(30〜149)より若干厳しくなったが、男性は39〜198となり、上限が大幅に緩和された。悪玉とされるLDLコレステロールは男女とも学会基準(60〜119)より高めとなった。高齢の女性で特に高い傾向があり、65〜80歳では190でも正常値とされた〕

 私の昨年の健康診断の結果は、血圧は131/92で「C」評価、LDLコレステロールは131で「B」評価であった。唯一この2項目が引っかかる程度で後は「A」である。新基準でいけば2項目とも悠々セーフである。では今までの基準は何だったのだろうかと思う。例えば血圧の基準は元々は160/95であった。それが2000年に降圧薬治療開始基準が140/90に引き下げられる(健康基準は130/85)。この2000年の基準値の改定で、あらたに2500万人が『高血圧』の患者となり、降圧剤の売り上げは3倍以上〈約1兆円)になるだろうと言われている。これはノバルティスファーマの不正事件ではないが、医療者と製薬会社のもたれ合い体質が根底にあるとも言われている。

 医者にしても製薬会社にしても健康関連のメーカーにしても、人の病気を治し、健康をサポートすることで商売が成り立っている。しかし一方では健康な人が多くなれば、自分達の商売は縮小していく。そこで考えつくことが、健康の基準値を狭めることである。これにより不健康な人が増え、健康関連の企業は潤うことになる。しかしその結果、国の医療費は増え続けていく。2011年度に全国の医療機関に支払われた医療費の総額(国民医療費)が、前年度比1兆1648億円増(3.1%増)の38兆5850億円だったと言う。国民1人当たりでは30万1900円で5年連続で過去最高を更新したようである。これが続けば国家予算が破綻をきたすことになる。

 以前にも書いたことがあるが、メガネ屋と眼科医は人の視力が良くなることは望まない。だから必ず「焦点のあった正しいメガネを掛けないと益々目が悪くなりますよ」と言う。しかし近視は生活習慣病である。近くや暗がりで物を見る習慣を改めず、正しいメガネを作っても、また近視の度は進んでいくことになる。これではメガネ屋の思う壺である。血圧にしても同じである。医者は血圧が140を超えると、「血圧はきちっとコントロールしておいた方がいいでしょう」、そういって血圧降下剤を積極的に処方する。しかしある説によると、歳を取るほど血管の弾力は衰えるから、末端の血管まで血液を運ぶためには血圧が上がるのは自然だという。昔、血圧の目安といわれていたのは、自分の年齢プラス90であった。そういうことからすれば新基準の方が我々には適合しているように思うのである。

 今TV番組は健康番組が花盛りである。従って昔に比べればはるかに健康に対する知識も意識も高まっている。しかし反対に、なまじの知識があるために健康に対して臆病になり、病気に関するけん伝に左右されすぎているようにも思われる。少し自分の体に変調があれば、医者に行って薬を処方してもらう。そしてそれを飲むことで安心感を得ているのではないだろうか。医療活動も基本的にはビジネスである。だから飛び込んできた患者はなるべく検査漬け薬漬けにし、医療点数を増やし儲けに走ることになる。医者を悪く言うつもりはないのだが、日本の医療が国民皆保険制度の上に成り立っている以上、その中でいかに稼ぐかを考えざるを得ない。そして医療を受ける側も医療費の自己負担が3割〈70以上2割)と少ないから、自分の健康を医者任せにしているように思うのである。

 健康は大切である。しかし何もかも医者任せでは、自分の体をオートメーションのコンベアの上に乗せているようなものである。自分の健康は自分で管理し、自分が改善していくのが原則であろう。まずは自分の体調は常に神経を研ぎ澄まし、日常と異なる異変を感じたら速やかに医者に行き検査してもらう。そこで何らかの異常が見つかった場合は、その原因と対処法をしっかりと聞くことである。そこでの説明に納得がいけば医者の指示に従うが、納得がいかなければインターネットやセカンドオピニオンで徹底的に調べ、その上で自分で決める。我々の病気の多くは生活習慣病であるから、なるべく薬に頼らず、生活習慣を改めることで対処する。専門医の見解は素直に聞くが、どう治療するか、どう改善するかは自分で決めたいものである。

      





それぞれの花見

2014年04月11日 08時20分40秒 | Weblog
 先週の水彩画教室では季節がら桜を描くことにした。私の描いている絵を見て、先生と生徒たちが、それぞれの花見のベスト・シチュエーション、ワースト・シチュエーションを語リ始めた。その中でワーストとして上がったのが、大勢の人が集まるところでブルーシートを敷いて宴会をしているところ、企業名や個人名を書いたピンクの提灯がずらりとぶら下がっているところ、痛々しいほど枝が切られた老木が多いところ、などがあった。上の写真は上野公園である。大勢の人が集まって弁当を広げ、宴会が始まっている。その脇を人がぞろぞろと歩いて、雑踏の中の花見である。都内の桜の名所は大勢の人が楽しみむ場所である。だからそんな場所での宴会は禁止にすべきだと思う。酒盛りがしたければ、企業であれば私有地の桜、仲間や家族であれば、近隣にある神社仏閣や公園の桜のある場所でやればいい。彼らにとっては桜などどうでもよく、花見を理由に酒を飲みたいだけなのだから。

 教室の生徒さんの一人は埼玉県の飯能市に住んでいる。彼女の家の前は入間川(名栗川)が流れていて、20年以上前に住宅地が整備され、その時に川の土手に桜が植えられたそうである。始めは桜の間隔も間延びしてサマにならなかったが、今ではすっかり樹も大きくなって立派な桜並木になっている。しかし市内には桜で有名なところもあり、この桜並木は近隣の人が通るだけで、全く注目されていない。しかし彼女にとっては、そんな静かな桜並木を、自分の2階の部屋からぼんやりと眺めている。そんな時間が至福の時なのだそうである。

 私もどちらかといえば、桜と静かに向き合いたい方である。だから人が大勢いると気が散って邪魔である。私の好きな花見のベスト・シチュエーションは、春うららの中、桜並木をゆっくりと散歩するとき、自在に枝を伸ばした大きな老木の桜を見上げるとき、池や川や空などに桜のピンク色が映えた景色を見るとき、こんな花見が好きである。春を感じ、温かさを感じ、華やかさを感じ、落ち着きを感じ、そんな空間を見つけて、いつまでも浸っていたいと思うのである。

 生徒さんの一人が言っていた飯能の桜、我が家から飯能までは電車で20分なので、先週の土曜日に行ってみた。飯能駅から歩いて20分ほどのところに、それと思われる桜並木があった(下の写真)。広い川原にも並木の歩道にも、ほとんど人が見当たらない。上野公園の花見風景と比べれば雲泥の差である。空は広く伸びやかで、桜の木々が春のこの一瞬を謳歌し、咲き誇っているようである。この桜並木から入間川沿いに歩いて元加治駅へ、そこから電車で私のお気に入りの桜のスポットの高麗に行った。今年の花見はこの1日だけだったが、人が少なかっただけ、桜を堪能したように思える。


      
                    飯能市 入間川沿いの桜並木

      
                  歩道にも花見をする人はほとんどいない

               
              やっと一組の夫婦、仲良くみたらし団子を食べていた

      
                     元加治駅付近の入間川

      


      
    今の桜は、子供の頃より白くなったように思う。たまたま歩いていて1本の桜の樹で
    枝によって花びらの色が違うものを見つけた。先祖帰りしたのだろうか? 奥の花の
    色に比べ手前の花の方が僅かに濃い。手前の色が昔見た桜の色のように思える。

          
                          高麗駅

      
               高麗の巾着田の桜 私のお気に入りのスポット
              歩きながら森山直太郎の「さくら」を口ずさみたくなる

      
                   巾着田の桜 人が少ないのが良い

          


      


      


      


      
                    我が家の近くにある弁天池

※先週の水彩画教室で描いた桜