60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

3D映画

2012年03月09日 09時55分51秒 | 映画
  アカデミー賞「アーチスト」の対抗馬になっていた「ヒューゴの不思議な発明」を観に行った。この映画の舞台は1930年代のフランスのパリである。時計職人だった父を火事で失い、孤児となって駅の時計台に隠れ住むヒューゴという少年の「愛と冒険の物語?」である。ハラハラドキドキで最後はハッピーエンドで終わるストーリーに新味はなく、「なぜ、これがアカデミー賞候補なのだろう?」と思ってしまったほどである。作品賞の「アーティスト」は日本ではまだ上映されていないから比較のしようもないが、物語性としては期待に反してガッカリした気分である。しかしこの映画の価値は3Dと言う立体映像を使って、映画のエンターテイメント性をとことん追求しているところにあるのだろうと思う。

 3年前「アバター」という初の本格的な3D映画が話題を集めた(興行収歴代1位で約2000億円)。これを見た時は「映画もここまで来たのか」という驚きがあった。主人公が森を歩くと、足下の草がサラサラと自分の足を撫でるように感じ、空を飛ぶシーンは如何にも自分が空中を浮遊しているような臨場感があった。映画の歴史はサイレントからトーキーへ、モノクロからカラーへ、そしてついに立体へと変わって行った。「アバター」はそのエポックメイキングな作品だったように思う。しかしそれ以降の3D映画にはお手軽な作品が多く、見ている内に、「これ、3Dなの?」と思いなおすような作品も多かった。所々に3Dを使ったような手抜きの映像、何時も暗く見難い画面、平坦な画像を何層か重ねたような画面は、学芸会の背景の衝立のようで薄っぺらい。「これで割増料金を取るのか」、そう思う作品も多かったように思う。

 「ヒューゴの不思議な発明」は80年も前のフランスのパリが舞台である。荘厳な石積みの建造物、石畳の街並み、遠くにエフェル塔が見える。蒸気機関車が走り、駅の時計塔は大きな歯車が回るアナログの世界である。映画が始まるとすぐにクラシックなパリへタイムスリップした気分になる。場面はほとんどが夜で、これが3Dの持つ宿命なのか、全体に暗くなってしまう。それでも映像の構成の面白さ、画面も綺麗で立体感もしっかり出ていた。画面の美しさや面白さにこだわり、クリアで奥行きがある映像は昔のパリを彷彿させファンタジーな映画に仕上がっていたように思う。アカデミー賞の作品賞、監督賞は逃したものの撮影賞、美術賞、視覚効果賞、録音賞、音響効果賞と5つの技術賞を総ナメしたのは納得のいくところである。

 3Dの映画を見る時は何時もメガネをかけることになる。今まで何館かで3D映画を観たが、よく行く映画館はメガネを100円で買い、次回からはそのメガネを持参するようになっている。他の映画館ではその都度回収する映画館もある。調べてみると3D方式には何パターンかあるようで、それによってメガネも違う。何時も行っている映画館はRealD(リアルディー)方式というもので、左右の映像を毎秒144回切り換え、それに同調した偏光フィルターをかけて上映し、フィルターがある眼鏡をかけて観る方式である。他に国内で主流なのは干渉フィルター方式といい、多重コートフィルタを使って6つの色チャンネルを左右に振り分ける事で立体感を出すようである。この方式はフィルター眼鏡が高価なために、使用ごとに回収して洗浄の必要があるようである。 さらに最近出てきたのがIMAXデジタル3Dという方式、左右の映像を二台のプロジェクターで上映するために映像が明るい。一度観たことがあるが、湾曲したスクリーンが上下左右に大きく広がり、視野全体が画面の中にある感じで迫力や臨場感は圧倒的である。しかし設備が大がかりになるためなのか、3D料金よりさらに高い料金設定になっていた。

 3年前まで無かった3D映画、今ではシネコンには必ずワンスクリーンはある。私がよく行く映画館はツースクリーンが3Dである。3D映画の上映本数もしたいに増えて行き、今は何時行っても見られるほどになった。TVが出現して映画の斜陽が言われて久しいが、TVでは堪能できない美しい映像やファンタスティックな映画が多くなれば、しだいに映画館に行く回数も多くなるのではないだろうか。今回のアカデミー賞で作品賞は「アーチスト」というモノクロのサイレント映画だそうである。はからずも「ヒューゴ」と同じ時代設定である。トーキーの登場でサイレント映画の時代が終わり、没落する男優と躍進する女優を描いた作品だそうである。今度上映されればこの映画も見に行ってみようと思っている。

      

      

      

佐々部 清

2011年10月14日 09時15分06秒 | 映画
以前インターネットで私の出身高校のウィキペディア(Wikipedia)を見いたら、著名な出身者欄に
映画監督佐々部 清(ささべ きよし)を見つけた。映画は好きだから、佐々部清をクリックしてみる。
そこに紹介されていた経歴に、2002年に『陽はまた昇る』《西田敏行》、(日刊スポーツ映画大賞
石原裕次郎賞受賞、日本アカデミー賞 優秀作品賞受賞)で監督デビューする。以降2003年には
『チルソクの夏』《上野樹里》(日本映画監督協会 新人賞受賞、新藤兼人賞受賞)、2004年には
『半落ち』《寺尾聰》(日本アカデミー賞 最優秀作品賞受賞、日刊スポーツ映画大賞 石原裕次郎
賞受賞)、などと書かれていた。

来歴を見る限り、前途有望な監督のように思える。映画はどれも見たことがない。どんな映画を作る
のだろう?興味があるので、下関がロケ地という「チルソクの夏」をアマゾンの通販で購入してみた。
映画は下関と姉妹都市である韓国釜山との間で、年1回夏に開らかれていた「関釜陸上競技大会」
に参加した下関の女子高校生と、釜山の男子生徒との間に芽生えた、淡い恋を描いた作品である。
チルソクとは韓国語で七夕という意味、次に逢うまでは1年を待たなくてはならない、日韓の海峡を
越えた恋をなぞらえた題名とあった。見るうちに、見る方が恥ずかしくなるようなミーハー(死語?)な
映画である。内容が透けて見えるような、深みも味も感激もない映画というのが私の評価であった。
しかし、ロケ地が下関だけに自分の知っている所が方々に出てきた。映画にはあんな場所が選ばれ
るのか、あの場所をこんな角度で撮ると意外と絵になるものだ。映画の内容よりも、その組み立てに
興味を持って見ていたように思う。

その後も「カーテンコール」《伊藤歩・藤井隆》、「四日間の奇蹟」《吉岡秀隆》と、下関を舞台にした
作品を発表した。それらはいずれも映画館に見に行った。しかしやはり興味は映画の内容ではなく
懐かしいわが故郷の下関に向いてしまう。そしてその次が瀬戸内海を舞台にした「出口のない海」
《市川海老蔵》である。どの作品を見ても私の評価は「それなりの作品」として、☆3つ止まりである。
何が不足なのだろうと思ってみた。俳優陣もそれなりの役者が出ている。映像も丁寧に撮ってある。
しかしなぜか心に響かず、感情移入できずに冷めて観ていたように思う。それ以降、佐々部監督の
追っかけは止めてしまった。

先週、何か興味を引く映画は無いだろうかと、インターネットで上映スケジュールをチェックしていた。
そこに、『ツレがうつになりまして』《宮崎あおい・堺雅人》、と言うのが目にとまった。題名の面白さと
その中に「うつ」という言葉が入っていたからである。そして監督が佐々部清とあった。その名には
同郷の出身で、しかも同じ高校という親しみと懐かしさとを感じるものである。封切の最初の土曜日、
早速映画館に行ってみた。

映画は「うつ病」を患った夫との生活を描き、30万部を超えるベストセラーとなった細川貂々の同名
エッセー漫画を映画化したものである。売れない漫画家(晴子)に宮崎あおい、生真面目で気弱な
夫(幹夫)に堺雅人という配役である。夫はパソコン購入者からの苦情や問合せ専門の部署で働く
サラリーマンである。ストレスフルな職場環境で、とうとう会社に行けなくなってしまう。病院で診て
もらうと、うつ病(心因性うつ病)と診断された。それを聞いた晴子は、なんとかしなければと「うつ」に
ついて詳しく勉強し、夫に会社を辞めさせてしまう。そして夫に家事をまかせ、自分が漫画で生計を
立てようと決意する。しかし晴子は売れない漫画家、生活はたちまち窮してしまう。それでも明るく
振る舞い、2人の生活を大切にしていく。そんな映画である。

配役から想像は出来たが、「うつ」という重いテーマを取り上げている割には、全体にほのぼのとし
とて暖かな雰囲気を醸し出している。夫が自殺を図る場面もあるが、それでも、ストーリーは淡々と
流れて行く。映画は、2人の生活が主体になるが、そこにペットとして、イグアナやカメが出てくる。
爬虫類独特の無表情さが、映画の内容の深刻さを、和らげてくれる効果を持たせているのだろう。
ストーリーのテンポや流れ、カメラアングルの面白さ確かさ、しらずしらずに観客を映画に引き入れ、
2時間が「あっ」と言う間に感じるほどであった。見終わった後の違和感もない。口はばったい言い
方だが、「佐々部清、腕を上げたな!」そんな感じである。

5年前「出口のない海」以降、「夕凪の街 桜の国」、「結婚しようよ」、「三本木農業高校馬術部」
「日輪の輪」と発表していたようだが、どれも見てはいない。多分、単館の映画で、宣伝も少なく、
目に止まら無かったのであろう。来歴を見ると助監督になって18年、監督になって10年である。
映画一筋30年、その間にいろんな体験をし、決して順調な道のりだけではなく、苦労もあり辛酸も
なめたのかもしれない。デビュー当初の作品には、気負いがあり、わざとらしさがあり、あざとさが
あったように思う。しかし今回の作品、感情移入がスムーズで、自然に共鳴できたように思った。
それは宮崎あおい堺雅人などの演技力もあるのであろうが、やはり監督の演出力というか「力」に
負うところが多いのだろう。同郷同窓の映画監督、今後が楽しみである。

追記
「うつ」、私が接した人達でも「えっ、あの人も」と、思うぐらい多いのである。心の問題で外傷がある
わけで無く、本人は平常を装うことが多いから、なかなかそれと気づかない。分ったとしても自分に
経験がないから、相手の苦しさ辛さを理解することが難しい。下手をすると、「なぜ、もう少ししっかり
出来ないのか!」と、相手に苛立ちさえ感じることがある。今回の映画、実話に基づいての話であり、
漫画が原作だからか、コミカルな描き方になっている。だから一般の人にも理解しやすいのであろう。
体験者からすると異論もあるのだろうが、一般的な「うつ」という病気への心構えにもなるように思う。

「鬱は心の風邪」などと言われるようだが、私の認識は「風邪」というほど安易な感じには思えない。
わずかな症状が出始めた時、それと気付いて対処すれば良いのであろうが、往々にして軽く考えて
こじらせてしまう。それでも我慢してしまうと、やがてある一線を越してしまい、深いうつ症状になって
しまうように思う。うつになるには、環境に原因があるはずである。その人にとってはあらゆる事情が
絡んで抜け出し辛いのも理解できる。しかし一旦こじらせてしまえば、さらに辛くなる。これが原因だ
と分れば、頑張らず、我慢せず、一線を超す前に、休むか、その場から退却することが、最良の療法
なのであろう。

                


                    


ローマの休日

2011年08月19日 08時55分14秒 | 映画
自宅のパーソナルTVを地デジに買い変えたのを機に、ブルーレイ・プレーヤーを付けることにした。
今まではDVDでほとんど映画を見たこともなかったが、やはり付けたからには試してみたくなる。
先週ツタヤに行ってみた。店のレンタルコナーはDVD、CD、コミック、ゲームとあり、その種類の
豊富さに圧倒されるほどである。メインに新作コーナーがあり、ワンタイトル30枚程度のカセットが
並んでいるが、大半は貸し出されている。これを見ると映画館で見る映画の減少傾向が解る気が
する。本でいえば映画館で見るのが1800円のハードカバー、レンタルDVDが410円の文庫本の
ようなものだろう。

60歳を超えてから映画もシニア料金(1000円)になったので、最近は見たい映画は映画館で
見ているから、DVDで見たい新作映画が見当たらない。店内を歩いていると棚の何列かが7泊8日
5本で1000円というコーナーになっていた。7泊8日あれば5本は見れるだろうと思い、ここから
選ぶことにした。私は映画を選ぶ時は映画館で予告編を見るか、雑誌や新聞の映画評を読んで
行くから、カセットのカバーに記載されたタイトルと俳優だけでは内容がイメージできず選び辛い。
それでも5本1000円の気やすさで、とりあえず選んでいく。ふと見ると、隅っこに「ローマに休日」
のタイトルを見つけた。この映画、大昔にテレビで見たことがあるように思う。懐かしさもあり、他に
選ぶものがないから、5本目に入れた。

「ローマの休日」、多分テレビで見たのも20年も30年も昔だったように思う。その時の印象が
強かったのか、だいたいのストーリーは覚えていた。ヨーロッパのどこかの国の王女がヨーロッパ
各国を表敬訪問し、イタリアのローマに来る。王女は自由のない王室の生活の不満から密かに
宿舎を抜け出し、ローマの街へ迷い出て行く。そこで通りかかった新聞記者と偶然に遭遇した。
彼女の素性に気づいた記者は、大スクープをモノにしようと、友人のカメラマンと一緒に王女を
ローマ観光に連れ出す。王女は永遠の都・ローマで自由と休日を活き活きと満喫する。やがて
王女と記者の距離は次第に近づいていき恋に落ちる。しかし身分の違いは如何ともしがたい。
そして二人に切ない別れが訪れる。そんな内容である。

映画を見終わって感じることがある。まずは「この映画白黒だったのだ」ということである。60年も
昔の映画だから当然であるが、反対に白黒の方がしっとりと落ち着いた雰囲気で新鮮さを感じた。
次にオードリーヘップバーンの清楚な美しさである。華奢な体つきで、如何にも王室のお姫さまの
物腰と物言いは、映画にファンタジックな雰囲気を醸し出している。そして次が舞台であるローマの
街の魅力である。当時のローマは、歴史豊かな建物の並ぶ石畳の道をクラシックな電車やバスが
走り、自動車やスクーターが行き交う。道のあちらこちらに屋台があり、開放的なカフェテラスがある。
石像で囲まれた噴水で子供達が水遊びをている。スペイン広場、パンテオン、コロッセオなど遺跡や
ローマの美しい風景も日常の中に融け込んでいた。

映画の演出は余分なセリフやアクションは使わず、二人の表情や仕草だけですべてを語っている。
主人公の二人は、最後の最後まで告白めいたことは口に出さなず相手を思いやる。それが別れる
時の身を切るような切なさにつながって行く。オープニングの舞踏会の場面での、オードリーヘップ
バーンの清楚な美しさが、クライマックスとなる記者会見の場では、彼女の表情は凛とした大人の
女のオーラがあふれていた。王女の内面の微妙な変化、デビュー早々の女優とは思えない魅力と
演技力を供えている。 すでにストーリーとしては解っているのに、ぐいぐいと映画の中に引き込まれ
ていく。やはり名画の一つなのだと改めて思った。

最近の映画はどんどん演出がどぎつくなっている。アクション映画にしても、よりスリリングな絵を
撮るためにCGを駆使し、現実にはあり得ない場面になって行く。そんな中を主人公は危機一髪で
生き残り、最後には勝利する。ドラマにしても、ここで泣かせてやるんだという意図が透けて見える。
これでもか、これでもか、と言う感じで刺激的な演出をした作品、TVドラマに少し手を加えたような
お手軽るな作品の何と多いことかと思ってしまう。次から次へ送りだされてくるこの手の娯楽映画、
もうそろそろ食傷気味である。一方、文学的な作品はやたらに暗くて重い。最近のアカデミー賞の
ハートロッカー、スラムドックミリオネア、ノーカントリー、ミリオンダラーベイビー等、2度目は見たく
ないと思うほど重い作品ばかりである。

歳を取るに従って映画への趣向も変化してくるのであろう。最近はアクションや笑いや涙ではなく、
映画に、しっとりとした落ち着き、安らぎ、情感、ユーモアなどを味わいたいと思うようになってきた。
わざとらしい壮大なストーリーや派手でスリリングなアクション、取ってつけたようなお笑いではなく、
何気ない日常の中にもいろんなドラマがある。日々の中で起こってくる不安や安らぎ、そんな変哲
もない日常を視点を変えて見つめ直して見る。なぜかそんな映画に引かれるのである。最近見た
映画では「阪急電車」というのが印象に残った。

               

英国王のスピーチ

2011年03月04日 08時38分24秒 | 映画
今年のアカデミー賞は「ソーシャル・ネットワーク」か「英国王のスピーチ」か、との下馬評だったので、
先週その「英国王のスピーチ」を見に行って来た。結局作品賞は「英国王のスピーチ」に決まったの
だが、私としてもソーシャル・ネットワークと比較すると、「まあ順当な受賞だろう」そんな感想である。
「ソーシャル・ネットワーク」は現在のアメリカ社会の変革をインターネットのソーシャルネットワークの
フェイスブックの成功を題材にして人間模様を描いた映画である。一方「英国王のスピーチ」は英国
の実在したジョージ6世の重度の吃音(きつおん)《どもり》の苦悩と克服までを描いた作品である。
アメリカの猥雑(わいざつ)な若者社会と、気品とユーモアに満ちて格調高く描かれている英国王室
の世界と、好対照である。どちらの作品も難解なストーリー展開はなく、見始めて30分もすると先が
読めるようなオーソドックスな映画である。今回のアカデミー賞は他に独創的な作品がなかったため
なのか、どちらかと言えばエンターテイメントとしてバランスが良かった方に軍配が上った感じである。

この「英国王のスピーチ」という映画、主人公のジョージ6世は英国王ジョージ5世の次男という華々
しい生い立ちでありながら、幼い頃から吃音(きつおん)《どもり》というコンプレックスを抱えていた。
そのためか、人前に出ることを嫌う内気な性格となり、いつも自分に自信が持てないでいた。
厳格な父親はそんな息子を許さず、様々な式典のスピーチを容赦なく命じ、その都度ジョージ6世は
大きな失敗を続けることになる。そんな夫のために妻のエリザベスは、何人もの言語聴覚士を薦め、
試して見るのだが、一向に改善することはなかった。

ある日エリザベスはスピーチ矯正の専門家と言われるライオネルという人物の所に夫を連れていく。
そのライオネルの方針は例え王室の人と言えど診察室ではお互い平等だとし、王子を友達のように
ジョージと愛称で呼び、ヘビースモーカーのジョージに禁煙させる。その後にいろいろな葛藤や行き
違いはあるのだが、彼の指導のもとでユニークな矯正レッスンを進めていくことになる。
彼の吃音(きつおん)治療の考え方は、ただ単なる喋り方の矯正では解決することはできないとし、
王子が抱える内面的な問題の解明にあると考える。そして王子の生い立ちからの内面的な歪みを
聞きだしていき、やがて幼い頃から抱えていた王子のコンプレックスの根源を探り当てる。そして、
頑な王子の心を開かせ本音をぶちまけさせ、誇り高き王子に屈辱的ともいえる荒療治に挑んでいく。

映画の中で主人公のジョージ6世を演じたのはコリン・ファースである。彼は主演男優賞を受賞した。
彼は吃音症という役を見事に演じている。家族やお付きの人と話す時は、たどたどしい喋りながらも
どもることなく喋ることができる。しかし、一転して初対面の人や大勢の人の前に立つと、どもり始め、
やがて言葉が出てこなくなって、立ちすくんでしまうのである。

映画の中のそんなシーンを見ているうちに、私の高校時代からの赤面症を思い出した。何時から
そうなったのかのはっきりした記憶はないのだが、初対面の人や女性と話しはじめると顔が赤らみ、
しだいに体から汗が出てくる。「何とかしなければ」そう思えば思うほど顔は火照ってくるのである。
やがて、汗が額に流れ始め、背中に汗をかいて肌着がグッショリになるほどである。そんな経験を
繰り返すうちに自分がそうなるであろうスチュエーションが予想でき、そしてそんな場は極力回避
しようとする。そして人との接触を嫌い、次第に陰気で内気な性格になっていったように思う。

基本的には自身のコンプレックスからくる対人恐怖症のようなものだと思う。それが幼児期のもの
なのか、それともそれ以降に何か障害にあったのかは定かでないが、自分の中で思い当たること
があるすれば、中学時代の成績の降下と高校受験の失敗による挫折にあるのではないかと思う。
※詳しくは 2009年9月18日のブログに記載
その後大学に入学し、学生寮に入ってからは、なかば強制的にコミュニケーションせざるを得ない
環境の中で暮らすようになる。やがて日々の学生生活に楽しさを憶え、自分が気がつかない間に
その赤面症は消えていった。たぶん仲間と接触しているうち、自分は他の人と比べてもそんなに
そん色はないんだという、自分に対しての自信のようなものができたのだろう、と今は思う。

映画の中で、ジョージ6世にイヤホーンを付けさせて、大きな音で音楽を聞かせながら本を朗読さ
せて、その声をレコードに録音するという場面がある。そうすると、今までどもっていた王子が全く、
つっかえることなく正常に朗読できるのである。自分の意識が音楽に向かい、喋らなければという
自意識が外れたときに、どもりは治るのである。これはよく言わる「緊張するからどもるのではなく、
どもるから緊張する」ということの実証なのだろう。ある言葉でつまずくと、それが引き金になって
益々どもりが強くなる。一つのどもりの切っ掛けになる言葉を乗り越えることで、負のスパイラル
から正のスパイラルに変換させて行く、映画の治療はそんな風であった。

たぶん赤面症も同じようなものであろう。一旦赤面し始めると、その意識は益々「赤面してしまう」
ということに集中していき、赤面のスパイラルから脱することができなくなるのであろう。
それは「明日のために、今は寝なければいけない」と意識すればするほど寝られなくなり、結局は
不眠症になって行くのと同じような仕組みではないだろうかと思うのである。
今回の「英国王のスピーチ」は、そんなことを思い出すきっかけになって面白く見ることができた。

              

ノルウェイの森

2010年12月28日 16時56分38秒 | 映画
12月になって映画を見に行こうと思ったが、「これはぜひ観てみたい」と言う映画が見当たらない。
あえて言えば,、村上春樹原作の小説を映画化した「ノルウエイの森」だろうか?

10年程前に、村上春樹の小説を読み始めた。その時最初に読んだのが「ノルウエイの森」である。
この作品、それ以降に読んだ「羊をめぐる冒険」や「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」
「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」「1Q84」などとは少し傾向が異っていたような印象がある。
話しは、主人公の大学生(ワタナベ)の高校生時代、最も親しい友人(キズキ)が自殺してしまう。
失意から昔の誰とも接するのを避けて、郷里を離れ東京の大学へ入学した。そんなある日キスギの
恋人だった直子と偶然に再開する。やがて2人は関係を深めていくが、直子の精神的な病が発症し
てしまう。2人はお互いを気遣い苦悩し恋愛は泥沼に入ったような状態になる。そして直子が突然に
自殺を図ってしまった。そんなストーリーの恋愛小説であったよう記憶していた。

この映画を見ようと思った時、一つの小説をどんな風にとらえ、どのように映像化していくのだろうか、
自分が小説を読んで感じたこと、映画から感じることにどんな差異があるのだろうか?そんなことに
興味がでてきた。そのためには、もう一度小説を読み直してから観た方が面白いと思い、文庫本を
買って読み始める。読んでみると、記憶にある10年前の印象とは違い、そこに描かれているのは
人間の持つ「不可解さ」 「コントロール不能な精神」「一様ではない人の思考」「心の迷宮」そんな
人間の性(さが)のようなものを読みとることが出来た。読み終わって池袋の映画館に行ってみる。
客層はほとんどが若いカップルや女性同士の連れである。シルバー料金で入場しているのは私ぐ
らいで居心地の悪さを感じるほどである。やはり村上春樹は若い人に人気のある作家なのだろう。

この映画、監督はベトナム系フランス人のトラン・アン・ユンという外国人である。主人公のワタナベ
役に松山ケンイチ、直子が菊地凛子、大学生になってからの奔放な性格の恋人役に女優初挑戦の
水原希子というキャストである。映画が進むうちに何となく違和感を感じ始める。それは小説を読んだ
時に感じたそれぞれの登場人物に対するイメージと、映画のキャスティングとが合わないことに起因
するのであろう。私のイメージは主人公のワタナベは少しとぼけた味があり、しかも内面の弱々しさを
感させるイメージである。だから私の少ない俳優のレパートリーの中から人選するであれば、それは
「瑛太」なのではないだろうかと思う。今回の松山ケンイチでは、そのとぼけた味も内面の弱々しさも
表現しずらいように思ってしまう。相手役の直子は、自殺してしまうほどだから、心に闇を抱えやはり
ひ弱でネガティブな影を色濃くだす必要がある。そんなことからすれば「蒼井優」の方が合っている。

そして大学の同級生で、ワタナベを好きになり、積極的にアプローチしてくる新たな恋人のミドリ役、
そこに監督の好みなのであろうが、水原希子という新人俳優を起用している。彼女はどちらかと言え
ばベトナム人かと思うほど東南アジア系の顔立ちである。しかも新人であるためか、演技が唐突で
たどたどしい。私にとって、この配役が最も違和感があった。彼女は直子との対極としてポジティブな
性格の恋人であり、結果としてはワタナベが彼女に引かれ、直子の自殺のダメージから抜け出すこと
ができる存在でもある。だからネガティブに対してのポジティブな性格の2人の女性で際立たせたい。
私であれば「宮 あおい」のかわいらしさと、奔放さのような性格を当ててみたいと思ってみた。

映画の流れは小説のストーリーに忠実に従っている。しかし2時間と言う限られた中で作られるので
小説の中にある様々なエピソードは大幅に省略され、その根幹部分に関わるものをピックアップした
ようである。小説の中では主人公のワタナベと関る様々な性格の人物が登場してくる。その人物との
エピソードは物語を構成していく上での一つ一つの布石であり、小説全体の奥行きや厚みを増す為
には必要な条件のように思ってしまう。そんの要素を省略して行くから、主体がワタナベと直子2人の
恋愛の葛藤に終始してしまったように思うのである。

小説を映像化してしまうと、見る方はその映像に縛られてしまい、小説の持つ自由なイメージの構築
の妨げになってしまうように思う。私が2度目に読んだ「ノルウエイの森」は、人に光と闇と言うのか、
ポジティブな面とネガティブな面が混在している。ネガティブな闇が勝てば、人はその闇に押しつぶ
され、時に自殺という引き金を引いてしまう。しかし回りの人にはその暗さゆえに、詳細は判らない。
そのため人の行動が唐突で突然に感じてしまうのであろう。直子の自殺で主人公のワタナベも闇の
世界にひっぱられ、その淵をさまよう。そんな時のワタナベの心の中を書いた箇所がある。

《ぼくはまるで海の底を歩いているような奇妙な日々をおくった。誰かが僕に話しかけても、僕には
うまく聞こえなかったし、僕が誰かに何かを話しかけても彼らはそれが聞きとれなかった。まるで自分
の回りにぴたりとした膜が張ってしまったような感じだ。その膜のせいで僕はうまく外界と接触でき
ないのだ。しかしそれと同時に彼らもまた僕の肌に触れることは出来ないのだ。僕自身は無力だが
こういうふうにしている限り、彼らもまた僕に対して無力なのだ。》
こういう人の内面については映像でなかなか表現することは困難であろう。やはり小説は小説で読む
ほうが良い。映画は映画の為に書かれた脚本の方が適していると思ってしまう。

小説の中では直子の自殺後、彼女の介護役である女性(レイコ)がワタナベに忠告する手紙がある。
《正常な人と正常ならざる人とひっくるめて、私達は不完全な世界に住んでいる不完全な人間です。
定規で長さを測ったり分度器で角度を測ったりして、銀行貯金みたいにコチコチと生きているわけ
ではないのです。ミドリさんという女性に心を魅かれ、そして直子に同時に心を魅かれるということは
罪でも、なんでもありません。このだだっ広い世界にはよくあることです。天気の良い日に美しい湖に
ボートを浮かべて、空もきれいだし湖も美しいというのと同じです。そんな風に悩むのはやめなさい。
ほっておいても物事は流れるべき方向に流れるし、どれだけベストを尽くしても人は傷つく時は傷つく
ものです。人生とはそいうものなのです。あなたは時々人生を自分のやりたい方向に、ひっぱっり
こもうとしすぎます。精神病院に入りたくなかったら、もう少し心を開いて人生の流れに身をゆだね
なさい。結局のところ何が良かったなんて、誰に判るのでもないのです。だからあたたは誰に遠慮
なんかしないで幸せになれると思ったらその機会をつかまえるべきです。そういう機会は人生に
ニ回か三回しかないし、それを逃がすと一生恨みますよ》

村上春樹は小説の中で、こんなことが言いたかったのではないのだろうか。

           
  左から監督(トラン・アン・ユン) ワタナベ(松山ケンイチ) 直子(菊地凛子)  ミドリ(水原希子)



牛の鈴音

2009年12月25日 09時09分29秒 | 映画
インターネットの映画紹介で、☆印が4つ半ついていた韓国映画「牛の鈴音」が気になった。
解説を読んでみると、こう書いてある。
「牛の鈴音」はイ・チュンニョル監督の第1作目となるドキュメンタリー映画である。3年余りの
月日をかけて完成させたこの映画が韓国映画界に奇跡をおこした。今年1月にアート作品
専門の7館で封切られると、口コミによってまたたく間に全国150館に拡大していった。
その後、数々のメディアに取り上げられ、累計300万人動員というドキュメンタリーとしては
驚異的な記録を達成した。何事も速いスピードで過ぎていく現代社会にあって、この映画の
ヒットは人々が安らぎを求めているという世相を反映しているのではないだろうか、とあった。
この時期はお正月映画が目白押しの中、都内では3館のみの上映である。19日の初日
早速銀座シネパトスという映画館に出かけて行くことにした。

映画は韓国の一農村。農業を営む79歳のチェじいさんと76歳のイばあさんは60年以上を
連れ添ってきた.。夫婦は9人の子供を立派に育てたが、子どもは皆都会に出て暮らしている。
子供たちは親の体を気遣い仕事をやめるように言う。しかし頑固で昔かたぎのチェじいさんは、
耕作機を使う時代に、牛とともに昔ながらのやり方で働き続けている。牛の寿命は長くて25年
と言われているが、この老牛は40歳になった今でも、夜明けから毎日チェじいさんに連れられ
畑仕事に出かけて行く。
チェじいさんは小児まひの後遺症なのか、細く頼りない右足でまともには歩けない。それでも
重い荷を担ぎ、牛を操って田んぼを耕し、四つん這いになって草を取る。イばあさんも共に
働くが、しかしこの家に嫁に来た自分の不幸を嘆き、いつもぶつぶつと愚痴をこぼしている。
この映画にはナレーションはない。大きな事件もおこらない。政治的メッセージもない。
描かれているのは韓国の美しい四季を通して、静かな時の流れの中で、腰の曲がった2人の
老人と寿命をはるかに超えた40歳の老牛の日常を追ったドキュメンタリー映画である。

インターネットのホームページを見ると、監督の後日談が書いてあった。
映画の舞台となる農村で、この牛とチェじいさんに出会った。だが老人は読み書きができず、
耳も遠いためインタビューができない。「カメラを向けるとスチール写真だと思って動きを止め、
表情も変になってしまう。ありのままを記録するのがドキュメンタリーの原則だが、イばあさんも
お化粧したり何回も着替えたりして撮り辛かった」、苦肉の策として無線マイクを彼らにつけ、
遠くから望遠での撮影を続けたという。
だからこの映画では老人2人のほとんど素のままの様子が撮られている、音が生きている。
虫の音、おばあさんの愚痴、おじいさんのうなり声、そして牛の首に付けられた鈴の音、牛が
動くたびにその鈴が鳴り続ける。病気で伏せっているチェじいさんがこの牛の鈴音を聞いて
「ビクッ」として起き上がるシーンがある。チェじいさんは鈴音で牛の様子が分かるのであろう。
牛には市販の飼料は与えず、草を刈ってきて与える。牛が食べる草に農薬が着くのを嫌い、
畑にも農薬は使わない。農作業もすべて人力で行い耕作機械は使わない。道端で牛が
草を食べ始めたら止まり、動くまでじっと待つ。そんなスローペースなリズムが刻まれている。

老牛と頑固なチェじいさん、映画はその日常を追い続けて行く。言って見ればただそれだけの
ドキュメンタリーである。そこに製作者の「こんなことを訴えたい。こんな風に感じて貰いたい」
という明確な意図はあまり反映されていない。映画を見ていると、韓国の田舎の中に自分が
居て、その空気感にひたり、そのおじいさんや老牛とシンクロしていくような感覚になる。
そんな中で観客はそこに何を感じるか、何を思うかはそれぞれである。その労働条件を過酷と
考えればそうかもしれない。しかしチェじいさんはそんな風には思ってなく、すべて受け入れ、
作物に対して、牛に対して、愛情を注ぎ淡々と生きているように思える。そこに気負いもなく、
使命感もなく、損得も効率も関係なく、自分の人生の定めのようなものに従って、ひたすら
歩み続けているようにも思えるのである。

監督自身が農家の生まれ、父親は牛と共に働いて、4人の子供を育て上げた。ある時自分
勝手な人生を送っていたことに気づかされる。そして苦労して大学まで出してくれた父に、申し
訳ないと思うようになった。それで父親を慰労するような物語を撮りたいと思い、この作品を
考えたそうである。「誰も無から生まれたわけではなく、自分を生み出してくれた過去がある」
そんなことを感じてもらえばこの映画は成功である、・・・と、そんな風に語っている。

観客のほとんどが50歳以上の年配の人達である。映画の入れ替えをロビーで待っていたら、
隣の人の読んでいる本はハングル文字の本であった。観客の中には韓国の人達も多数いた
のかもしれない。映画が終わって明るくなるまで誰一人席を立たない、話し声もしない。
うっすら涙を溜め手で拭ういる人もいる。映画が与えた感動は人によってまちまちであろう。
私はこの映画のチェじいさんに、人の「生きざま」を感じる。農業をやる人々の並はずれた
覚悟や性根を感じる。受け継いだ田畑をひたすら耕し、自分を信じ、分相応な生き方に
徹し、愚痴を言うわけでもなく、人をうらやむわけでもない。自暴自棄になるわけでもなく、
天から与えられた運命を受け入れひたすら働き続ける。
チェじいさんの子供時代は日本に統治された時期であり、その後第二次世界大戦があり、
朝鮮戦争では国は南北に分断され、混迷の中をかいくぐって生き抜いてきたのであろう。
今、牛とともに農業ができる、傍から見ると苦労に思えるが、本人にとっては充実して幸せを
感じているのかも知れないと思った。

人にとって何が幸せなことか、何も都会の華やかな生活が幸せなのではないのであろう。
自分にやるべき仕事が有って、その仕事に損得や効率を度外視するほど打ち込めれば、
充実した人生を実感できるのではないかと思う。私の父も大正生まれ、このチェじいさんと
同じ時代を生き抜いてきたわけである。そして2人に共通していることがあるとすれば、
それは「楽を考えない、手を抜かない、必死に生きてきた」ということであろう。この映画に
涙するのはそういう父親たちの生き方に、あこがれと共感を感じるからではないだろうか。

死ぬまでにしたい10のこと

2009年11月27日 09時07分42秒 | 映画
先週、同じ大学の1年先輩で、以前同じ会社にいた66歳になるY.Hさんと会った。
5年ぶりぐらいである。この年齢になると、やはり話題は退職後の過ごし方の話になる。
彼は退職2年前(58歳の時)「退職後の生活」というテーマで、会社の研修会に夫婦
2人で参加したそうだ。研修の中で月間、週間、1日の白紙のスケジュール表を渡され、
離職後に考えられる予定を記入するように言われた。その時自分には全く書くことがない
ことに愕然としたそうである。そして初めて退職後の時間を実感するようになったという。
それ以来、退職後何をするかを考え続けた。俳句教室で勉強をし俳句を作り始める。
毛筆を習い、般若心経の写経を始める。ハワイマラソンを目指しジョギングを始める。
思いつくことで自分が出来そうなものを、次から次へ始めていったという。
しかし実際に定年退職してからは「何のために??」という思いが強くなり、ほとんどが
長く続かず、反対にノイローゼ気味になって、憂鬱な日々が続いたという。

何年か経過するうち発想を変えることにしたそうである。(本からの啓示だろうと思うが)
「どう生きるか」ということから、「死ぬまでに自分は何をしたいか」という切り替えである。
自分が死ぬ日を90歳の誕生日に設定する。あと25年間、この間に何をしたいか?
こう考えると、いくつかやりたいことが出てきて、前向きなスタンスになり始めたという。
そんな中から、自分の考えを整理し書き出してみたそうだ。

A、今までやり残してきたと思えるもので、死ぬまでにやっておきたいこと、
  ① おしゃれをする。
  ② 韓国、中国、インドの3ケ国に行く。
  ③ 女房孝行する。
  ④ 今まで買いためた司馬遼太郎と塩野七生の本を読破する。
  ⑤ 般若心経の「空」について勉強する。
  ⑥ 若い女性と接触を保つ(変な意味ではなく話し相手ということ)
B、死ぬまでにやっておかなければいけないこと、
  ① 社会との接点を保っておくためとボケを防ぐために、何か物を作っていく、
    できれば日本の伝統的な手内職的なもので何かを作って行きたい。
  ② 遺言を書く、
  ③ 自分の身辺整理(捨てるものはすべて捨てておく) 
C、家族に迷惑をかけず、自分も苦痛なく死ぬためにやっておくこと、
  ① 1年1回の健康診断と不調の時は億劫がらず直ぐ病院に行く。
  ② 食事の管理(お酒を控え、バランスのある食事をする)
  ③ 運動をする。(今は週に3回は10kmは歩くようにしている)

酒の席で、聞き逃したところはあるが、だいたいこのようなことを言っていたと思う。
これを実行するには年金だけではなかなか難しい。今は千葉市内の大きな駐車場で
パートタイムで働いている。時給900円で週3回、1回12時間、月約12万である。
当面70歳までは働けるということで、これを資金に活動して行くそうである

視点を変えたことで、見方が変わる。例えばA①の「おしゃれうをする」、
サラリーマン時代はお金もなく、背広が主で普段着もオシャレなものは持っていない。
やはり年相応のオシャレがしてみたい。そう考えると、日々すれ違う人の服装が気になり、
雑誌を見たり、百貨店へ行った時も丹念に見て回るようになる。1足良い靴を買ったし
良いコートも買った。今日は西武で目につけておいたお洒落なバックを思い切って買った。
視点を変えると、なにか世の中の見方が変わり、楽しくなって前向きになってくるという。


そんな話を聞いているうちに、5~6年前に観たある映画を思い出した。その映画は
「死ぬまでにした10のこと」というもの、私には結構インパクトがあって今でも覚えている。
映画はカナダのバンクーバーが舞台、幼い娘2人と失業中の夫と共に暮らす若いアン、
彼女はある日腹痛のために倒れ、病院に運ばれ検査を受ける。その診断結果は
「余命2、3ヶ月」という残酷なものであった。若さのせいで癌の進行が早くもう手遅れだと
言われ言葉をなくし絶望する。 病院から戻ったアンは家族には「だたの貧血」と嘘をつく。
悩んだ末、この事実を誰にも言わないと決めたアンは、「死ぬまでにしたい10のこと」を
ノートに書き出し、一つずつ実行してゆき死を迎える。そんな映画であった。

彼女が書き出した10のことが下のようなものである。

1.娘たちに毎日「愛してる」と言う。
2.娘たちの気に入る新しいママを見つける。
3.娘たちが18歳になるまで毎年贈る誕生日のメッセージを録音する。 
4.家族でビーチに行く。
5.好きなだけお酒とタバコを楽しむ。
6.思っていることを話す。
7.夫以外の人とつきあってみる。
8.誰かが私と恋に落ちるよう誘惑する。
9.刑務所にいるパパに会いに行く。(長い間会っていない)
10.爪とヘアスタイルを変える。

「死ぬまでにどう生きるか?」を考えるより、「死ぬまでに何をしたいか?」を考える方が
実行性があり、わずか3ケ月の中で彼女は最後の力を振り絞って精一杯生きていく。
10の中にあった⑦夫以外の人とつきあってみる。⑧誰かが私と恋に落ちるよう誘惑する。
これも実践し、夫以外の男性と恋に落ち、最後は切ない別れになっていく。

映画の主人公のように3ケ月という短い余命ではないものの、1年先輩の彼にしても、
私にしても余命はどんなに長く見ても1/3を切っており、何時どうなってもおかしくない。
そんな時に前途洋々の若者のように「いかに生きるか?」ということを考えても、なかなか
納得いく答えは見いだせないのであろう。だから「何をやり残したか?」「何をしたいか?」
という具体的なものを列記した方が分かりやすくなり、明快な目標ができるように思う。

と、言うことで、私の「死ぬまでにしたい10のこと」を書き出してみた。

① 自分史を書いて3人の子供に渡す。
② この世に残していく小説を1編でいいから書いてみる。
③ スケッチブックを持ち歩き、鉛筆画でうまく写生できるようになる。
④ タクラマカン砂漠へ行き、360度の砂漠の中に自分の身を置いてみる。
⑤ 四国八十八ケ所を徒歩で回る。
⑥ 身の回りや服装は何時までも身ぎれいにしておく(おしゃれはセンスがないから無理)
⑦ 住宅ローンの完済、お墓の購入 自分の気に入った遺影写真を用意しておく。
⑧ 死ぬまでには数着の洋服と肌着、パソコンと携帯電話以外はすべて処理しておく。
⑨ 死期を感じた時、故郷の下関を数日かけてゆっくりと歩いてまわる。
  (昔の実家、学校、親戚の家、遊んでいた場所、家族との旅行先、等々)
⑩ 死ぬまで一緒にいるかどうか別にして、最後には女房に「ありがとう」を言って別れる。

思いつくことを列記してみた。まだ離職するまでに数年の時間はあるだろう。その間に見直し、
それを自分の「死ぬまでにしたい○○のこと」として実行してみようと思うようになった。

剣岳

2009年06月26日 09時01分10秒 | 映画
剣岳(点の記)、これは新田次郎の小説である。この小説を映画化したものを今回見に行った。
明治40年、陸軍の陸地測量部の測量手・柴崎(浅野忠信)は、日本地図最後の空白地点を
埋めるため、その険しさから「針の山」と呼ばれた剣岳の初登頂と測量を命ぜられる。
一度は登頂の手がかりすら掴めずに下山する柴崎。だが彼は案内人の宇治(香川照之)と測夫ら
総勢7人の測量隊を結成し初登頂に挑む。絶壁、雪崩、暴風雨など、困難が行く手を阻むが、
ついに頂上に立ち三角点(点の記)を建てた。しかし頂上には奈良時代の行者が残したと思われる
錫杖(しゃくじょう)が置かれていた。人跡未踏と思われたこの山はすでに1000年前に踏破されて
いたのである。主人公柴崎の登頂実績は陸軍からは評価されない。だが、・・・・・・・
そんな映画である。

もう30年も前に、この小説を読んだことがある。そしてこの小説を読んだ後に、剣岳に登った。
映し出される剣岳の威容、室堂や剣沢などの風景、見憶えのある景色がそこここに出てきて、
山登りの時の空気感が懐かしく、30年前を昨日のことのように思い出させてくれた映画であった。

当時友人と3人で車で長野県の大町まで行き、大町温泉に泊まる。翌朝、黒部の入口の扇沢の
駐車場に車を置きそこからトロリーバスに乗って黒部ダムまであがった。黒部ダムを見てさらに奥へ。
黒部からはケーブルとロープウエーを乗り継いで大観峰へ、ここからやっと歩きである。
テントを入れたリュックは24kgあった。振り返っても30代のこの時代の体力、持久力は生涯で一番
充実していたであろう。室堂、雷鳥沢を経て別山乗越を越え、その日のテント場である剣沢に着く。
早速テントを張り、飯ごうでご飯を炊き、カンズメを開けて食事をする。夜の気温は急速に落ちてきて、
冬を思わせるほど寒くなる。夜空には気持ちが悪く感じるほどの満点の星があった。

翌朝、テントをその場に置いて、昼食と水と少しのおやつと雨具だけの軽装で剣岳の往復を目指す。
道は登り一本になり、何処までもガレ場が続き、そこを喘ぎながらただひたすら登り続ける。
そしてやっと頂きに立つ、そこが一服剣(いっぷくつるぎ)眼前の遠くに剣岳の威容が立ちはだかり、
目の前の谷は底が見えないほどに落ち込んでいる。またこれを降りて行き、登りなおすのか、
そう思うと疲れがどっと出てきて気持ちがなえる。気持ちを立て直し、再び下り、再び登る。
とうとう頂きに着いたと思ったら、そこは前剣(まえつるぎ)という手前の山、精根尽きはててはいるが、
引き返すわけにもいかず、又谷を下り、また頂上を目指して登る。
切り立った山肌、今度の登りは両手で岩をつかみ、足場を確認しながら這うようにしての歩行になる。
岩にペンキで書かれた矢印、それを伝って一人がやっと登れる岩場を、前の人のお尻を見ながら
一歩また一歩と高度を上げていく。そして遂に頂上に立った。
わずかなスペースの頂上、さわやかな風が汗で濡れた衣服を乾かし、額の汗を飛ばしてくれる。
カラカラの喉を生ぬるい水がうるおしてくれる。大きく手をあげて深呼吸をする。「やったぞ~!」
記念撮影をして、また同じ道を剣沢まで引き返した。

私が本格的な登山を始めたのはこの剣岳に登った時からである。
それ以来20年間近く、毎年夏になると八ヶ岳、北アルプス、南アルプスの山々を登っていった。
山の魅力とは何か、当時なぜ登り続けたのだろうか、映画を見終わってそんなことを思い返してみる。

山登りは日常の仕事や家庭を離れ、自然に触れ美しい景色と出会う非日常の世界を体験できる。
もう一方、荷物の重さにあえぎ、汗をかき、息があがり、それでも一歩一歩頂上を目指し登り続ける。
苦しければ苦しいほど、その一歩は記憶に残り、周りの情景は脳裏に刻み込まれ焼きついていく。
地図に記入された細く頼りない登山道。それを見失って外れてしまえば困惑と恐怖のパニックになる。
そんな危険と隣り合わの自然の中を、重い荷物を背負って、一歩一歩ただ黙々と頂上を目指す。
自分の足と気力と体力で勝ち得た達成感と満足感、そんなものが登山の醍醐味かもしれない。
山を降りてからも山の情景は何時までも脳裏から消えない。登り始めてから降りるまで、その情景を
ビデオカメラのように思いだすことができる。

今から30年前、そのころは結婚し長男が生まれて、その長男が幼稚園に通い始めた頃だったろう。
当時、女房が近所の友達から勧誘されて「ものみの塔」という宗教団体に出入りするようになった。
最初は静観していたが、輸血はダメ,、偶像は認めない、神仏に手を合わせない、選挙は行かない、
など言い始める。冊子が家の中に積まれ「エホバの証人」「千年王国」など文字が目に付き始めて、
私の宗教感と合わず、夫婦関係もしだいに深刻になってきた。このままでは結婚生活を継続する
ことは難しい。毎日女房との言い争いが続き、修復不可能までになって行った。さあ、どうする?
一時は、息子を自分が引き取り、離婚することも考えていた。
ちょうどその頃から登山を始めたように思う。重い荷物を背負って山道を登る、その中に自分を
没頭させることで、現実逃避していたのかもしれない。

そんな頃に読んだ本の中に目にとまった、ある記述があった。
現状の苦しさから脱出する方法として、もう一人の自分を想定する。そしてそのもう一人の自分が、
苦しんでいる自分をじっと見つめる。そうすることで自分を客観的に見ることができ、ひいてはそれが、
本人の悲しみや苦悩から、抜けだし癒やしてくれるようになる。そんな内容だったように記憶している。
家庭や会社のトラブルや苦悩、それは日々変化しあまり具体性を持っているようには思えなかった。
しかし、山での苦しさはわかりやすく、実感しやすい。その苦しさを和らげ脱却できるようにすることで、
引いては精神的な苦しみを軽減させてくれる手段にはならないだろうか、そう考えたことがあった。

重いリックを背負い首にタオルを巻き、額から汗を垂らし、喘ぎながらも、ひたすら歩いている自分。
そんな自分を斜め上から見つめているもう一人の自分を想像する。そうすると頭の中に薄らと2重に
なった自分が立ち上がってくる。そして、苦しい自分から、それを見ている自分に意識を移して行く。
無意識で歩いている自分を、はっきり意識したもう一人の自分がコントロールしているイメージである。
何度も何度も繰り返し試みてみる。しかし意識は思うように移行せず、苦しいさから脱し切れない。
登っている間中これを繰り返してみる。また次の山登りの時にこれを試してみた。
今考えれば無理なことのように思う。しかし当時は何とか自分をコントロールしたかったのだろう。

30年前、まだ未熟で悩みも多く、日々感情を乱し、苦悩から脱したいともがいた時代でもあった。
今は60歳を過ぎ、体力気力も衰え、いかにも達観した風を装い、日々を淡々として暮らしている。
どちらも同じ自分である。その30年間の積み重ねが良くも悪くもこの自分を作ってきたのであろう。
人生を山登りに例えて、目指した山はこれで良かったのか、歩んだ道は間違っていなかったのか、
そう思って振り返ってみても、目指した山も、歩んできた道も、今以外のものは何も思い浮かばない。
私には別の選択肢はなかったのか、いやそうではないだろう、日々の一歩一歩が選択の連続だった。
自分の前には既成の道はなかった。だから振り返っても、私にはこの道以外になかったと感じてしまう
のではないだろうか。

映画に登場する測量手の柴崎が未踏峰と思いこんで登った剣岳のように、私の登っているこの山も、
私にとっては私だけの道をつけながら登っている未踏峰の山である。しかしいずれ頂きに到達する。
そして、頂上を見渡せば以前に誰かが登った足跡を見い出すかもしれない。その頂上は雲に覆われ、
周りは何も見えずに混沌としているのか、それとも晴れ渡り、涼風が吹き、眺望の利くすがすがしい
頂きなのか、出来れば30年前、最初に登った剣岳のように、頂上に立った時の満足感、達成感を
味わって見たいものである。さあもう少しである。少し山歩きを楽しみながら残りの道を登ってみよう。

アカデミー賞

2009年04月28日 08時39分21秒 | 映画
今年のアカデミー賞8部門を受賞した。『スラムドッグ$ミリオネア』を見てきた。
全米ではわずか10館から公開がスタートしたものの、口コミで評判を呼び、ついにはアカデミー賞
最多8部門を制覇するまでに至った映画だそうだ。 

荒筋はこうだ。日本のテレビで放送されていたクイズ番組に『クイズ$ミリオネア』という番組がある。
司会のみのもんたの出題する4択のクイズに挑戦し勝ち進んでいく番組、不正解だとその場でアウト。
番組内で使われる「ファイナルアンサー!?」が流行語になり社会現象にもなった。あの番組である。
もともとのオリジナルはイギリスで、今は同種の番組は世界中にあようである。
インドにもこの番組はあり、いくつも出題される難問に全て正解すれば億万長者になれる。
まさに夢のクイズ番組である。

その番組に出場したスラム街出身の少年ジャマールが、周囲の予想に反して正解を連発し、
勝ち進んでいく。しかしあと1問を残したところで放送の時間が切れ、番組は翌日回しなる。
しかし彼がスラム街で育った孤児であり、貧乏であり、無教養であるが為に番組の司会者に
不正を疑われ警察に突き出される。彼は警察に拘束され、不正を白状させるために拷問を受ける。
映画はクイズ番組の収録、警察による尋問、彼の少年時代の過酷な生い立ち、という3つの
時間軸を交錯させることで、社会の底辺から這い上がってきた彼の壮絶な人生を浮かび上がらせ、
なぜ彼がクイズの答えを知っていたのかを明らかにしていく。そんな展開の映画である。

母親を殺され孤児になった少年、子供を集め物乞いさせる組織に捕えられ、金を稼せがされる。
何人かの子供はその方が物乞いには有利だからとの理由で目をつぶされ盲目にさせられてしまう。
インドのスラム街の貧しさ、その中で生きていかねばいけない子供たち、それを利用する犯罪組織。
映画はこれでもかこれでもかというぐらい、その悲惨さを見せつけていく。見ているこちらが目を覆い
たくなるシーンの連続である。電車の乗客から金を盗み、人をだまして小銭を稼ぐ少年時代、
犯罪に手を染めることでしか生きる術がなかった彼の人生もやがて青年へと成長し、恋もする。

映画の主人公はどんな厳しい状況においても知恵を絞り、したたかに、たくましく生き抜いていく。
格差社会という言葉を吹き飛ばしてしまうぐらいに力強く、生への執念とパワーがほとばしっている。
社会の中で虐げられ続けてきた少年がクイズに勝ち上り、億万長者にチャレンジしていくストーリー
はまさしく「ドリーム」である。「アメリカンドリーム」の変形版と言っていいのかもしれない。
底辺に暮らす人々の人生に希望をもたらし、観る者に夢を与えていく、そんな意図が見えてくる。

この映画の魅力は、計算されつくしたエンターテイメント性にあるのではないだろうかと思う。
インドのスラム出身の青年が、過酷な人生を駆け抜けていく様をクイズ$ミリオネアの答えと
連動しながら描いている巧みな構成。切なくて辛い若き日を描きながらも、前向きに生き
ようとする主人公ジャマールにみなぎるインドという国を体現したようなパワー。
そして、ジャマールが困難に立ち向かいながら初恋をどこまでも貫こうとする強い想い。
この全てが“クイズ$ミリオネア”の翌日挑戦する最後に出題される問題へと連動していく結末へ。
計算されつくした完璧に演出された映画なのであろう。そういう意味では作品賞の他に監督賞、
脚色賞、撮影賞、編集賞、作曲賞、歌曲賞、録音賞の8冠を獲得したのも納得がいく。

しかし見終わって「良く出来ている作品だなぁ」という感想ではあるが、感動する作品ではなかった。
2時間の上映時間の間、感情移入出来ず、映画との距離を感じながら眺めていた気がする。
それはインドという異文化の地が舞台だったからだろうか、それともあまりに作られ過ぎた演出だった
からだろうか、日本人の持つ情緒、情感のようなものがなく、ただただストーリーを追わせていく作品
だったからだろう。そのあたりがやはり文化の違いなのであろうと思う。

追記
もう一本、クリント・イーストウッド監督・主演作品「グラン・トリノ」も見てきた。
朝鮮戦争従軍経験を持つ気難しい主人公が、近所に引っ越してきたアジア系移民一家との交流
を通して、自身の偏見に直面し葛藤(かっとう)する姿を描く映画。イーストウッド演じる主人公と
アメリカに暮らす少数民族を温かなまなざしで見つめた物語である。
長い人生、辛いこともあれば、楽しいこともある。それを身をもって体験してきた大人だからこそ味わえ
人間ドラマ、己の正義を貫く主人公の強い意志と男の美学ともいえる人生哲学がくっきりと浮かび
上がってくる。この作品を最後に「俳優業の引退」を宣言したイーストウッドの名演がひかる。

私はこの2作品を比べたら「グラン・トリノ」に軍配を上げたい。スラムの孤児から幸運にもミリオネアに
なるという夢を見るより、人生の終焉を迎える時、何を考え何をすべきかに葛藤する「グラン・トリノ」
の主人公の方に共感できるからであろう。
今、自分は小説でも映画でも、はたまた音楽でも絵画でも、自分がその中に何かを発見するのでは
なく、出来れば深く共感出来る作品に出会いたい、そう思って、いろいろとあさっているように思う。
それは歳とってきて次第に孤立するときの慰めになるのかもしれないと思うからであろうか。

おくりびと

2009年02月27日 09時20分33秒 | 映画
今週は映画「おくりびと」がアカデミー賞外国語賞受賞のニュースが大きな話題になっていた。
話題になる映画は大体に見ている私である、この映画も昨年(9月)に観ている。

映画は
所属するオーケストラが解散し、職を失ったチェロ奏者の大悟が演奏家を続けることを諦め、
妻を連れて故郷の山形に戻ってくる。早速、求人広告で見つけた会社に面接に行きその場で
採用されるが、それは遺体を棺に納める納棺師という仕事であった。
戸惑いながらも社長に指導を受け、新人納棺師として働き始める。
初めて目にする遺体に、最初は戸惑うばかり、しかし新人の納棺師としてさまざまな人々の
別れに立ち会ううちに、しだいに納棺師の意義や自らの生き方にも目覚めていく。
納棺師の仕事は単に死体の処理ではなく、亡き人を送り出す、日本の伝統に乗っ取った儀式。
納棺師の所作に職人芸を感じ、「死」というテーマを扱いながら品格の高さを感じた。
山形の自然を遠景に遭遇していくさまざまな人の死、その死者の尊厳をどう守るかというテーマを
ユーモアも交え妥協なく描いている作品であろうか。

配役は主人公の大悟に本木雅弘、妻の美香に広末涼子、仕事先の社長に山崎努らである。
私は、妻役は広末涼子よりは宮沢りえ、山崎努よりは緒方拳の方が適役な気がする。
広末は自分が目立とう目立とうとし、大悟役の本木雅弘とはバランスが悪い感じがする。
山崎努はあまりにも「あく」が強すぎ、死者を送り出す納棺師にはそぐわないイメージを持つ、
納棺師のなんたるかを教える役割としては孤独で淡々とした演技をする俳優の方が良いように思う。

「死」、誰でもが避けては通れないこと、周りの人の死、家族の死、自分の死。
自分の死はまだ現実的ではないが、家族の死ということになると、死というものが現実のものになる。
祖母の死、弟の死、母の死、父の死、何人もの家族の死を見てきて、死に対しての思いがある。
それは「納得」ということ。死と向き合うとき人の気持ちの前提になっているように思うのである。

弟は交通事故で突然に亡くなった。27歳とという若さで、世の中に出てこれからという時期に。
当時、弟の無念さを自分のことのように感じ、悔しくて悔しくて、葬儀の時は涙が止まらなかった。
弟の死は自分の中で、受け入れがたいことであって、とうてい納得いくものではなかったのである。
母は大腸がんが見つかったときはすでに肝臓に転移しいて、手の施しようがなかった。
9ヶ月の闘病の後に亡くなったが、その間、何度も新潟へ見舞いに行き、母とは沢山の話をした。
危篤の知らせを受けた時、あえて死に目に逢いたいとは思わないほど死を受け入れていたと思う。

父は94歳で肺がんで亡くなった。入院してから3週間、その間2度しか話すことができなかった。
3度目に見舞いに行って、私がベットの傍についていた時、容態は急変し危篤となり死を迎えた。
誰にも頼らずひたすら自己研鑽を続けて生きてきた父、私の生き方の目標であり尊敬に値する。
母が死んで6年、94歳という年でもあり、「良く生きていてくれた」という納得の死でもあった。

結局、人の死とは残された者、送る側の気持ちの問題であろうと思う。
どんな形にせよ近親者が死を迎えた時、その別れを納得いくものにしたい、それが人なのであろう。
体を拭き、装束を整え、髪をすき、化粧を施し口紅を入れ、綺麗にして冥土の道に旅立たせる。
焼き場にいけば全てが灰に消え、三途の川を渡れば脱衣婆に、身ぐるみ剥がされて裸にされる。
そんなことはわかっていても、送りだす者は死者を綺麗に整えてやりたい。これが納得だろうと思う。
国や文化により様々なやり方がある。チベットの鳥葬などは自然に返すことで納得するのであろう。
世界の人々の普遍的なテーマである「死」、日本人がどうとらえているか、わかりやすく伝えた映画。
死者との別れ、日本の納棺師による儀式がある種のすがすがしさを世界に伝えたのかもしれない。

映画の後半で、ある日、大悟の自宅に電報が届く。
それは父の死を知らせるものであった。父は子供の時に女を作って母と自分を捨てて出て行った。
その後父は女とも別れ漁港の片隅で、ひっそりと暮らし誰にもみとられずに死んでいったようである。
数年前に母親を亡くしていた大悟は父に対する思慕と憎悪の相反する気持ちを持ち続けていた。
しかし父の遺体を前にし、体を洗い髭をそり衣服を整え納棺師としての仕事を淡々とこなしていく。
そんな所作を経ることで気持は落ち着き、父への存念が消え、さわやかに死者を送り出していく。
人が人であるということの温かさと、清らかさのようなものを素直に感じることができた映画であった。