monologue
夜明けに向けて
 




今日はわたしのロサンジェルス時代の親友、上田好久の命日。
かれは2008年(平成20年)8月8日、63才で亡くなった。
かれはオクラホマの大学からロサンジェルスのAssociated Technical Collegeに転校してきた。わたしはそこのCクラスで英語を学んでいたのだがかれはAクラスに転入してきて休み時間によくわたしのクラスにやってきた。わたしがヒット曲の歌詞をテープレコーダを聴きながら書きとっていると自分のクラスの先生を呼んできて一緒に書きとってくれたものだった。合掌…。
fumio

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最後の出場者のパフォーマンスが終わってから結果発表までずいぶん時間がかかった。
今回は、わたぼうし大賞と文部大臣賞の受賞者が2年後にシンガポールで開催される「第1回アジア太平洋わたぼうし音楽祭」の日本代表として出場することが決まっているから簡単には決定できずに審査が紛糾して揉めたようだ。出場作品それぞれに素晴らしい魅力があったが日本代表としてふさわしいかどうかとなるとむづかしいかも。
ステージ上で出場者のみんなと並んでどうなるのかと待っているとやっと用意ができて出場者みんなにそれぞれの賞が順番に発表された。わたしはそのうち作詞賞、作曲賞、NHK賞を与えられた。とはいえ今回の音楽祭の目玉であった文部大臣賞とわたぼうし大賞の発表はショーを盛り上げるために最後の最後という演出だった。
それからまず文部大臣賞の発表があった。そしてそれからライトが全出場者を次々に照らしてゆき、そして司会者は手渡された優勝曲を書いたコピー用紙を見て勿体をつけておもむろに一呼吸おいてから、「第15回わたぼうし大賞は「『わかりあえる日まで』!」と上に向かって張った声で大きく宣言した。生駒少年少女合唱団のメンバーたちがその瞬間はじけたように跳び上がって喜んで抱き合って泣き出した。わたしはうれしいのだけどそれをどう反応してどう表現したらいいのかわからずただオーライオーライとくりかえしていた。
fumio


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その年の8月半ば頃、わたしと妻と息子とmyukiの一行は本番のコンテストのために新幹線や近鉄などの交通機関を乗り継いで奈良へ向かった。わたしたちのバック演奏はバンドではなくカラオケ用カセットビデオテープ1本で楽器もないので荷物が少なく身軽だった。
全国から集まってくる多くのコンテスト出場者と家族やバンド関係者たちは駅で待ち受けていたわたぼうし音楽祭実行運営関係者に案内されて奈良市内のホテルに分散して振り分けられ、わたしたち一行はハナミズキという旅館に案内されて宿泊した。

本番当日、わたしたちは楽屋でまず声出し練習をした。歌う前にはいつもできるかぎり声を出しきって声帯の準備をする。声優など声を使う人は仕事前に基本練習の声出しをするが声が漏れて人の邪魔にならないように枕に口をつけて叫ぶスター俳優もいる。そうすれば浮ついて不安定だった声が安定して仕事に使用できる強靭な声になるのだ。
そして本番前リハーサルでコーラスのサポートに来てくれた生駒少年少女合唱団のメンバーと数回コーラス部分を練習していよいよ本番ステージに臨んだのだった。
fumio


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それから本番のコンテストでどのように演奏するかの打ち合わせがあった。
大宇宙から銀河、そして地球に降り注ぐ叡智を表現している導入部の雰囲気をステージでそのまま再現したいのでバンドではなくカラオケをバックに歌うと伝えた。
わたしはその頃のメデイアで一番音が良いと思っていたVHSカセットビデオの音声トラックにカラオケ演奏を録音して用意した。それでわたしたちの出番のために会場にVHSカセットレコーダーを準備しておいてもらうよう要請したのだった。
fumio

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1989年のある日、わたぼうし音楽祭事務局から茶色の封筒が届いた。
わたしがコンテストに応募した何曲かのうちわかりあえる日までという曲が8月に奈良で開催される「第15回わたぼうし音楽祭」の出場作品に選ばれたという報せだった。他の曲の方が自信があったのですこし意外な気がした。あらゆるものの違いが悪いものではなく大切なものという分断から統合へのコンセプトが受け入れられる時代に入ったのだろうかと思った。優勝すれば2年後の1991年にシンガポールで開催される予定の「第1回アジア太平洋わたぼうし音楽祭」の日本代表となるということだった。
fumio

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「ミッドナイトブルー」は途中の英語のサビやラテン語のセリフがmyukiには難関で気に入らなかったらしい。しかしながらこの曲は日本より海外で人気があるようで今も多くのアクセスを集めている。
そのようにしてスタートした「水面に書いた物語」プロジェクトの曲作りは順調に進んで数曲できた頃、毎日新聞に「第15回わたぼうし音楽祭」という音楽コンテストの募集が載った。それでmyukiがメインで歌い、息子とわたしがサポートしている歌を何曲か選んでカセットテープに録音して応募してみたのである。
fumio

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その頃、昔流行ったヒット曲がブームになりmyukiは「懐かしのヒットソング」や「なつかしのグループサウンズ」などのショーの司会の仕事をこなしていた。
そのうちにただ会場で司会をするだけでは不満になって自分も多くの聴衆の前で歌いたくなったと言い出した。
それでわたしのアルバム「カリフォルニアサンシャイン」を聴いたmyukiは自分にもなにか人前で歌える曲を作ってほしいという。それが「水面に書いた物語」プロジェクトの始まりだった。わたしは一曲目に自分でも歌えそうな曲「ミッドナイトブルー」を作って聴かせたがmyukiは気に入らないという。仕方がないので雰囲気を変えて次に若い女性の感性に合いそうな曲「軽々しく愛を口にしないで」を作って聴かせた。今度は気に入ったというのでバックバンドがなくても歌えるようにカラオケテープも作って渡した。それで次の司会の仕事の時にショー会場に持参したカラオケテープで歌ったのだった。だれも知らないただの司会者がプロの集まって演奏するショー会場でまだだれも知らないヒットもしていない歌を歌ったのは無茶で画期的なことだった。すごく受けたといって喜んでいた。あれで受けるのならそのままの路線でゆこうと「水面に書いた物語」プロジェクトの曲作りは軌道に乗ったのだった。
fumio

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今年半年間のわたしのサイトのアップロード曲100曲のストリーミング聴取ランキングの第2位ははるかなるメロデイだった。この歌は特にこの歌い手myukiの声質に合っているらしい。かの女は声優でもあったので感情表現がうまかった。

fumio

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