monologue
夜明けに向けて
 



 これまで連載してきた資料の読み込み考察によって夫婦岩の意味は自ずと明らかになった。
夫婦岩は真のアマテラスを世に出さないために天の岩門の役目を果たしていたのである。
そのために注連縄で出口を封じているのだ。真のアマテラスはシャクジという名前で岩屋で待ち谷潜(たにくぐ)というヒキガエルに擬してまだ世の表面から潜りつづけていらっしゃる。
それがわかった今、わたしたちに課せられたことは三重に守られた聖柩の封印を解くことである。
それは地と血とチによって解かれるというのだからまず「地」について検討する。
二見浦の所在地は三重県伊勢志摩である。三重は三が重なっているので日向族に関わりがある名前。
伊勢は、瀬が多いので『五十瀬』の意で、五十、磯、石などから転じた。
志摩は風の神、級長津彦(しなつひこ)あるいは志那都彦神のシナからきているという説があるが島が多いからでもある。これらを合わせると日向族がシナから「志摩」と転訛する風の神、あるいは五十(磯、石)の神すなわちニギハヤヒが入っておられる聖柩の封印を解かせないように守っている。
血によって解かれるということはその神の血を継ぐものたちの血であろう。
カタカナの「チ」によって解かれるのが一番の鍵になる。ひらがなの「ち」では残念ながら鍵の目が合わないのだ。なぜなら平仮名の「ち」は「知」の草体で、片仮名の「チ」は「千」の全画の転形であるから。
平仮名の「ち」を鍵穴に差し込んで回しても岩戸は開かない。
次回は「千」を鍵穴に入れて回してみよう。果たして岩戸は開くのだろうか。
fumio



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 さてさて、答案を作成するにあたってなにから手をつければよいかと迷う。
まず手始めに「二見興玉神社参拝のしをり」から謎解きに関係がありそうな記述を抜き書きしてゆく。(引用部分は太字)

「當神社々頭海中の雙巌(さうがん)を称して立石と云ふ、
古くは天の岩門(いはど)とも称せしが、近世双巌の別種なるを
神人(しんじん)の異性に擬して、伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)二尊の
夫婦岩と敬称するに至れり 。
二見浦(ふたみのうら)は又二見潟(ふたみがた)とも云ひ、
雙鑑浦(さうかんほ)とも書(しる)し、一に清渚(きよきなぎさ)とも称す。
世上夫婦岩(めうごいは)の所在地なる立石崎(たていしざき)をのみ
二見浦(ふたみのうら)と称するやう思へれども、
元来、二見(ふたみ)の浦の名称は、今一色(いまいつしき)の
高代濱(たかしろはま)より東、打越濱(うちこしはま)、
御鹽殿浦(みしほでんうら)、立石崎(たていしざき)を経て、
松下(まつした)の神崎(かうざき)に至る沿海一帯の総称なり。
當神社域内に一岩窟あり、土俗之(どぞくこれ)を天の岩屋と称す、
古き参詣記に、又この飛石(とびいし)を踰(こ)ゆる邊(あたり)に
シャクジの祠と云ふあり、白畫(はくちう)に灯(ともしび)を點(てん)じ
云々とある如く、元三宮神社ありし遺蹟(ゐせき)なるが、
何時の頃よりか天の岩戸、又天の岩屋と称するに至りぬ。
これ古き俗謡(ぞくえう)に、「いせのいの字に見ゆる岩門」
とある岩門(いはかど)を夫婦岩に擬し、岩窟を岩屋に擬称せしものにて、
皇大神御遷幸の節此の立石崎に御船を寄せさせ給ひし太古を聨想(れんさう)し、
日の神の拝所なるより高天原の神宮に聨想(れんさう)して、遂に天の岩屋の名を
宣伝せらるるに至りしならむ。」


 なんと夫婦岩は古くは天の岩門(いはど)とも称したのだ。
そして二見浦(ふたみのうら)は雙鑑浦(さうかんほ)とも書(しる)されていた。
天の岩屋はシャクジの祠と呼ばれていた。これらのことを頭に置いてつぎに参拝のしおりから「大注連縄並に蛙奉献の事」の項全体を以下に引用してみよう。
注連縄は太古所謂日御綱(ひのみつな)にして、
中古に在りては尻空米縄(しりくめなは)、或は尻籠縄(しりごめなは)と云ひ
「日本書記」にも端出之縄と書し、藁の尻即ち端を断たずして籠め置き、
穂殻(ほがら)を残せし儘(まま)左綯(ひだりなひ)になすを古法(こはふ)とし、
其の起源は、神代の昔、天照皇大神の再び岩屋に入り給はざるやう、
天児屋根命(あめのこやねのみこと)が太縄(ふとなは)引延(ひきは)え給ひしを
はじめとす。
立石に牽き延えたる大注連縄もこの古式に據りて精製したるものにて、
縄の総長百二尺を要し、岩頭に結び懸くるに大岩は長四十八尺、小岩は長二十七尺、中間長二十七尺と法とす。
此の大注連縄奉献の趣意は一切の不浄を解除して災禍(わざはい)の来るのを防ぎ止むる為にして、
毎年一月五日、注連縄張神事を執行して崇敬者の大祈祷を修するを例とせり。
小注連縄は大注連縄奉献の代用にして、同じく此の霊地に禊斎する者の社頭に奉納する古式なり。
安政年間の海嘯(つなみ)以前までは、大岩中腹に螺旋状に岩柱凸起(いははしらごつき)し居りしかば、参詣者の小注連縄を丸めて此の岩柱に嵌(は)めかけて奉献せしが、岩柱損失以来輪注連縄の形に改めたるもの、
即ち今用うる所にして、奉献者此の小注連縄を以て身を祓ひし上、神前に奉献すれば、翌朝奉献者の為めに家内安全、家業繁昌の祈祷を修し、毎年六月、十二月の晦日に注連縄焚神事を執行す。

蛙(かはづ)の奉献は元来此の地が御日(おんひ)の神の拝所なるを以て、皇大神を御日(おんひ)の神と崇(あが)めたる時代に在りて、彼の祝詞式に、所謂、谷蟆々(たにくぐ)の狭渡(さわた)る極みなどあるに依り、日の神に谷蟆々(たにくぐ)を献じたるものなりと伝説あり、
或は佛説に、皇大神此の浦に於て金色(こんじき)の霊蛇(れいだ)と化して本地(ほんち)の御姿(おんすがた)を現はし給ひしより、蛙(かはづ)を献するに至りしとの伝説をも存せるが、社伝によれば、往昔海中の興玉神石(おきだましんせき)の露出したる時代に於て参宮者が旅行安全に、或は航海安穏に、無事立ちかへるの
願意を以て奉献するに至りしと云ふ。
而して此蛙は、小児(せうに)の痣(あざ)、腫物(しゅもつ)等を撫でて祈願すれば、必ず平癒すと信でられ、遂に身代(みがわり)蛙(かはづ)の名さへ附せられて授與(じゅよ)を請ふもの頗る多し。

 以上、夫婦岩をつなぐ注連縄の総長は百二尺、大岩は四十八尺、小岩は長二十七尺、中間長二十七尺。
カエルの奉献については三つの説を述べて、まず祝詞式に谷蟆々(たにくぐ)の狭渡(さわた)る極みなどあるに」とあるから谷蟆々(たにくぐ)を奉献したという説を紹介しているのでこの中で彼の祝詞式と呼んでいる延喜式祝詞を以下に引用して確認しておく。
「延喜式祝詞
生嶋(いくしま)の御巫(みかむなぎ)の辭竟(ことを)へ奉(まつ)る皇神(すめがみ)等(たち)の前(まへ)に白(まを)さく 生國(いくくに)・足國(たるくに)と御名(みな)は白(まを)して辭竟(ことを)へ奉(まつ)らくは 皇神(すめがみ)の敷(し)き坐(ま)す嶋(しま)の八十(やそ)嶋(しま)は 谷蟆(たにくぐ)の狭度(さわた)る極(きはみ) 鹽沫(しほなわ)の留(とどま)る限(かぎり) 狭(さ)き國(くに)は廣(ひろ)く 峻(さが)しき國(くに)は平(たひら)けく 嶋(しま)の八十(やそ)嶋(しま)堕(お)つる事(こと)無(な)く 皇神(すめがみ)等(たち)の依(よ)さし奉(まつ)るが故(ゆゑ)に 皇御孫(すめみまの)命(みこと)の宇豆(うづ)の幣帛(みてぐら)を 稱辭竟(たたへごとを)へ奉(まつ)らくと宣(のたま)ふ」

 確かに「八十(やそ)嶋(しま)は 谷蟆(たにくぐ)の狭度(さわた)る極(きはみ)」という一節がある。
そして第二の説として佛説をもちだして、皇大神がこの浦で金色霊蛇(れいだ)と化して本来の姿を現したので蛙(かはづ)を献することになったという説を述べ、
最後に社伝では、昔海中の興玉神石の露出した時代に参宮者が旅行安全、航海安穏に無事カエルの願いや
小児の痣(あざ)、腫物平癒の身代(みがわり)蛙(かはづ)の名がついた、ということを第三の説としている。
谷蟆々(たにくぐ)ということばは現代では使用しないので意味不明だが蟆だけでもヒキガエルのことなのである。
高杉晋作が幕府からの追求を逃れるために使用したのが「谷潜蔵」という偽名だったのでかれの墓には「谷潜蔵 源 春風号東行、慶応三年丁卯四月十四日病没赤間関、享年二十九」と銘記されている。かれは谷潜(たにくぐ)として世の表面から潜行していたのだ。ということで谷蟆々(たにくぐ)は谷潜とも書かれたのである。
「皇大神此の浦に於て金色(こんじき)の霊蛇(れいだ)と化して本地(ほんち)の御姿(おんすがた)を現はし給ひしより、蛙(かはづ)を献するに至りし」という一節は皇大神が金色霊蛇(れいだ)であると述べているのだ。
わたしはホームページで色々な封印解きに携わってきたのだがまだその存在する場所もわからないままの封印が残っていた。それは三重に守られた聖柩の封印で、地と血とチによって解かれることになっているのである。
ここに金色(こんじき)の霊蛇(れいだ)が出てきたことによってその封印がこの三重県の聖柩に貼られたものを指すことがついにわかった。ニギハヤヒはその封印のありかを報せようとしてこの謎を出題したのであった。
いつものようにニギハヤヒのオヤジギャグが始まった。インディ・ジョーンズ・シリーズの第一話「霊蛇(レイダ)ーズ・オブ・ザ・ロスト・聖柩(アーク)」という英語まじりの洒落らしい。
仕掛けてあるギャグ攻撃を顔面に受けて耐えながら進まねばならない。
夫婦岩の謎を解くことでこの封印が解けて岩戸が開くのだろう。
幸い進む方向は間違っていないようだ。
fumio








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 「二見興玉神社」に関する記述を再録する。
神社本庁昭和37年発行の神社名鑑「二見興玉神社」の項
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二見興玉神社 旧村社
度会郡二見町江 参宮線 二見浦駅より一キロ
祭神 御食津神 猿田彦大神
例祭 七月 十五日
本殿 神明造 一坪半
由緒沿革 往昔水荒神、三狐神社とも称され、
興玉と三宮社を合祀しもの。
天平年中僧行基が此の地に勧請すと云う。
古来参宮の前にこの浜で沐潮し、これを浜参宮と称す。
明治四十一年二見興玉神社と単称した。
***********************

元々は僧行基が天平年間に創建した大江寺(たいこうじ)の鎮守社として、興玉社(祭神:猿田彦命)が創設され、後に現在の二見が浦へと遷座、明治42年に旧三宮社(祭神:宇迦御霊之神)が合祀され二見興玉神社と改称して現在に至る。そしてこの二見興玉神社境内に宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)を祀った三宮神社の遺跡として天の岩屋(あまのいわや)という岩窟がある。
****************************
 こうしてみると三狐神社の祭神、御食津神が天の岩屋(あまのいわや)という岩窟の旧三宮社(祭神:宇迦御霊之神)であるとわかる。宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)とは難しい神名だが普通お稲荷さんと呼んでいる。この宇迦御魂大神という名前も音霊逆転法を修得したわたしたちにはなじみ深い名前に思えてくる。かれは「千と千尋の神隠し」で大活躍していた。といえば驚かれるだろうか。そう、かれニギハヤヒはあの映画では「ハク」と呼ばれていた。
もうおわかりだろうがハク(HAKU)を逆転すれば宇迦(UKAH)なのだ。宇迦御魂大神は蛇神で龍。
ハク(HAKU)すなわち饒速水琥珀主は川の神で白龍であった。かれはまだ天の岩屋(あまのいわや)に囚われている。わたしたちが天岩戸を開きお出ましいただかねば…。
これまで色々と調査して掲載してきた資料を読み解けばそろそろ夫婦岩の謎も解けそうである。次回明後日には正解かどうかは別にしてなんとかこの難問に対する答えを出してみたい。そろそろ卒業試験終了のチャイムが鳴りそうだ。
fumio

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やっとニギハヤヒがその姿を現したとなるとかれがこの「夫婦岩」の謎の出題者であることは明白になった。あのご神体興玉石に依りついて卒業試験の終了を待っていらっしゃるらしい。
歳神であるかれがどうして石神でもあるのか。
もうみなさんは音霊逆転法を修得されているから実際に試していただきたい。
自分でやってみることではじめて本当に納得できて自分のものになる。
他人が流す情報を鵜呑みにせず自立して対処すれば偽メールなどに惑わされることもない。

 ということでやってみた方はもうおわかりになったことと思うが確認の意味で答え合わせしておく。
ニギハヤヒの名は歳(とし)なのでアルファベットにすればTOSI、それを逆転すればISOTとなる。
歳(とし)と呼べばそれは天ではイソと呼んでいることになる。
これを数では五十鈴川の五十にしたり文字では磯や大和三社の石上(いそのかみ)神宮の石としたのだ。
この石神を御石神(ミシャクジ)と読んだりどんどん変化させてゆくものだから最後には元がなにかわからなくなってしまうのである。ややこしい神名も元はといえば歳から発したり布留から発している。
艮(うしとら)の金神という恐ろしそうな名前も実はニギハヤヒからきているのだ。
これも音霊逆転法を実際に試していただけばわかるのだがニギハヤヒをまな板に乗せるとNIGIHAYAHI→IHAYAHIGIN。
これをそれらしい漢字に変換すると射速日銀ぐらい。この内この名前で最も大切な部分は初めのニギなので
その部分だけを取り出せば銀。その「銀」を今度は艮と金に分けて艮(うしとら)の金神ができあがった。
かれはこの名前を使用して大本の出口ナオの前に現れたのだ。こうして今その名前の作成過程を知ってみればなんとそれは「わたしはニギハヤヒである」と宣言したようなものだったのである。
fumio


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この難解な謎解きに藁にもすがるつもりでウェブで手がかりを求めて調査していると
***********
2005年5月21日(土)
藻刈り神事 伊勢市  
霊蹟・興玉神石にて無垢塩草の霊草を刈り取る神事
開催場所 二見興玉神社
開催時間 10:00~
料金など 無料
**************
という宣伝があった。
これはあの興玉神石のあたりの海で藻鹽草を採取する神事なのだ。
そしてその二見浦の地図をじっくり見て答えを探していると答志島という島があった。
やはりそうだった。ニギハヤヒはこんなところに隠れていた。さぞ待ちくたびれたことだろう。
。何度もいうがかれは歳(とし)神というように青年期、トシと呼ばれた。
ここではかれは答志というかわった書き換え文字の中で忍び笑いを押し殺して見つかるのを待っていたのだ。
そしてなにを報せようというのか。まず目に付くのはこの島には桃取という地名があること、
そして平手崎という地名などである。
どうぞじっくり上の地図をご覧いただきたい。
ニギハヤヒの意図したなにかが見えるかも。
fumio

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 今回だれも謎と思わなかったことに取り組ませ、まったくヒントを与えないのは自立のための卒業試験のつもりなのかもしれない。ホームページなら何ヶ月もかけて出てきた結果をじっくり考証しながら発表してゆけばいいのだがブログはテストの実況中継のようである。謎解きは遅々として進まないがはたしてわたしたちはこの難しいテストに受かるのか。
 二見興玉神社の創建者、行基は、天智天皇7年(668年)和泉国大鳥郡蜂田郷(大阪府堺市)で、百済系渡来人王仁(わに)の後裔西文(かわちのふみ)氏から別れた高志(こし)氏の出身の父高志才智(さいち)と蜂田首虎身(はちだのおびととらみ)の娘古爾比売(こじひめ)を母として誕生している。
百済系渡来人の末裔である行基がなぜ興玉神社を創建したのか。なにか関わりがあるのか。
父、高志才智の名前は歳智と書くのだろう。この歳はニギハヤヒの青年期の名前。そして母蜂田古爾比売という名前の古はニギハヤヒの幼名布留である。
行基はニギハヤヒの名前をそれぞれがもった両親から生まれているのだ。
かれは貧民救済や治水、架橋などの社会事業活動に加えて造寺運動にも力を注いでいる。
 ニギハヤヒを主君として仕え奉っていた長髄彦の旧跡、奈良県生駒市上町に建てられた真弓町長弓寺の創建譚にも行基の名前が残っている。聖武天皇が鷹狩をしていた時に現れた鳥を射落すと黄金の鷹と化し、佛法守護を誓ったので、行基に十一面観音を祀らせ、長弓寺を創建したという。ここではニギハヤヒは黄金の鷹から十一面観音に転生しているのだ。そのとき行基は関与していた。この長弓寺は元は登弥神社であり饒速日命とその妻、御炊屋姫を祀っていた。『先代舊事本紀』に天羽羽矢を白庭山に納め饒速日命の墓としたとある「天羽羽弓」を納めた真弓塚が東側にある。この寺の名、長弓寺は蛇神信仰の長髄彦のナーガー(竜)とニギハヤヒの弓(キュウ)を合わせた命名である。
 また行基が聖武天皇神亀5年(728)九州諫早の地を訪れ、雲仙を遙拝して石祠を作り、四面宮と呼んだことが諫早神社の創建という。行基は佛教者であるはずだが寺ばかりではなく神社まで建てているのだ。
行基は普通の僧ではなく人に見えないものが見える力があったらしい。どうやら二見興玉神社もかれの両親の名前に潜む影が創建させたようだ。やはりあの夫婦岩にもニギハヤヒの影が濃くかかっていることを感じる。
fumio

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二見興玉神社の公式HPによると
「古来より、人々は当二見浦に詣で、夫婦岩の間から差し昇る「日の大神」と、夫婦岩の沖合700mの海中に鎮まる猿田彦大神縁りの霊石と伝えられる「興玉神石(おきたましんせき)」 を拝してまいりました。この伊勢の海清き渚より富士の山影を望み、その背から輝き昇る朝日、取り分け夏至の朝日を拝する神厳さは筆舌に尽し難い感動を覚えます。世界を照らし治め、日の大神と称えられる天照大神様の御神威を拝み、また猿田彦大神様の御神力のお陰を戴き、神人一体の極致を体感されますことをお祈り申し上げます。」
とある。夫婦岩の説明札には
「夫婦岩は、沖合660mの海中に鎮まる興玉神石の
鳥居と見なされており、日の出の遙拝所として古くから
知られています。」とあった。
沖合700mと沖合660mで本当はどちらなんだろうと思う。
そこで
昭和十四年一月十五日 発行の
「参拝のしおり」から「興玉神石の事」を以下に引用する。
****************************
立石を距ること六町なる東北海中に霊岩あり、興玉石(おきたまいし)、
又御膳岩(ごぜんいは)と称す大(おほき)さ東西二町、南北一町
周回八町、高二丈三尺を有する楕円形の平岩にして、其の内三ヶ所に岩柱立てり。
往古此の神石(しんせき)露出せしも、数回の海嘯(つなみ)ありし以来水面に現はれず
今は暗礁となりて海中に没し、大干潮時に之を拝するを得ることさへ稀なるに至れり。
然して伊勢湾内航海の舟人(ふなんど)は澳霊(おきたま)と崇敬して深く畏信(ゐしん)し、
又伊勢海二見浦の守護神座(しょうごしんざ)として弘く世の崇拝する所となれり。
************************
以上であるが、この立石から六町という距離をメートル法に換算して
1町は109.09mなので6×109.09m=654.54mということになる。
これを四捨五入して700mにしたり660mと表記したのであった。
興玉石の大きさ、
東西二町は2×約109mで約218mと
南北一町は1×約109mの 約109m、
周囲八町は8×約109mで 約872m
高二丈三尺は一丈が3.03m で1尺は30.3cm なので計算すると
2.3×3.03m=6.969mということだ。
それは全体で縦218m横109m高さ約7mで周囲872mという大きさの楕円形の平石であったのだ。
陸上競技のトラックが一周400mだからその大きさは想像を絶する。
この石の運搬はピラミッド建設に匹敵する事業であったようだ。いやそれ以上かもしれない。
本当にこんな巨大な石が沈められたのだろうか。ただの法螺話しのように大げさに記載しただけなのか。
謎は解けるどころかますます深まるばかり。
だれかが後ろで忍び笑いしているようだ。
fumio


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「夫婦岩」に秘められた謎を解くためになんとか手がかりを求めて試行錯誤をつづける。
せっかく謎を仕掛けて置いてもだれもその謎に気づかなければ仕掛けた方は永遠のくたびれもうけである。
それでこのブログに採り上げさせるのだろう。エジプトのピラミッドもそうだがあんなモニュメントを造るのはただの観光客目当てではないはずだ。
その意味を簡単に教えて貰って鵜呑みにするのではなく わたしたち自身で解くことが人類の自立につながることになる。
 二見浦の由来は倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神(あまてらすおおかみ)の御鎮座の地を求めてこの地を訪れた時あまりの美しさに二度も振り返ったとことからその名がつけられたという。
なんだかこの伝説は少しこじつけの匂いがしないか。
三輪山そのものを御神体とする奈良県の大神神社と同様、二見興玉神社も拝殿のみで本殿をもたない。
手を比羅部貝に挟まれて海に引きずり込まれて沈んだ猿田彦命の化身とされる「興玉神石」が御神体なので二見浦の海全体が本殿とされる。
昔は「沐潮」「浜参宮」といって伊勢神宮にお参りする人々が、二見浦の「清き渚」で身を清めて内宮、外宮へ向かった。地図を見ると確かに神宮からこの海へ五十鈴川や宮川が流れ込んでいる。神宮を流れる水のエネルギーがこの海を満たしているのだ。
猿田彦命は天孫降臨の際に高天原と豊葦原の中つ国の間の道案内を勤めたことから「道開きの神」といわれている。かれの使いは「カエル」とされて、「無事カエル」 「若がえる」「貸した物がかえる」など縁起物としてカエルをモチーフにした二見蛙(ふたみかえる)の置物であふれている。
そしてこの二見興玉神社境内に宇迦御魂大神(うがのみたまのおおかみ)を祀った三宮神社の遺跡として天の岩屋(あまのいわや)という岩窟がある。
元々は僧行基が天平年間に創建した大江寺(たいこうじ)の鎮守社として、興玉社(祭神:猿田彦命)が創設され、後に現在の二見が浦へと遷座、明治42年に旧三宮社(祭神:宇迦御霊之神)が合祀され二見興玉神社と改称して現在に至る。
創設者、僧行基についての情報も以下に記しておく。なにかが見えるだろうか。
大僧正行基(ぎょうき・ぎょうぎ)、天智天皇7年(668年)和泉国大鳥郡蜂田郷(大阪府堺市)で、百済系渡来人王仁(わに)の後裔西文(かわちのふみ)氏から別れた高志(こし)氏の出身の父高志才智(さいち)と蜂田首虎身(はちだのおびととらみ)の娘古爾比売(こじひめ)を母として誕生。681年十五才で出家して薬師寺入り、道昭に瑜伽唯識(ゆか・ゆいしき)を学び、竜門寺の義渕に法相(ほっそう)を学ぶ。704年に堺市の家原寺に住居を構える。関西地方を中心に貧民救済や治水、架橋などの社会事業活動に専念。そのころ社会事業は僧尼令に違反するので五度にわたって中止を命ぜられるが民衆救済のために続けた。後には公認され、天平十七年(745年)東大寺建立協力によって聖武天皇に我が国最初の大僧正の位を授けられ、四百人の出家を弟子として与えられた。天平21年(749年)2月2日80歳で入滅。
fumio


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神社本庁昭和37年発行の神社名鑑から
「二見興玉神社」 の項を以下に引用する。
********************
二見興玉神社 旧村社
度会郡二見町江 参宮線 二見浦駅より一キロ
祭神 御食津神 猿田彦大神
例祭 七月 十五日
本殿 神明造 一坪半
由緒沿革 往昔水荒神、三狐神社とも称され、
興玉と三宮社を合祀しもの。
天平年中僧行基が此の地に勧請すと云う。
古来参宮の前にこの浜で沐潮し、これを浜参宮と称す。
明治四十一年二見興玉神社と単称した。
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祭神は猿田彦大神だけではなく 御食津神 猿田彦大神となっている。
三狐神社の三狐(ミケツ)ならそれは御食津(ミケツ)神を祀る稲荷のことである。
もちろんこれはいうまでもなくニギハヤヒ。
猿田彦とはニギハヤヒの出雲時代の長子。かれには塞(サイ)の神、道祖神の別称もある。
近くに幸の神(サイのカミ)社という神社もあって祭神が猿田彦神となっている。
このあたりはかれが治めているらしい。
二見興玉神社にはかれら親子で祀られていることになる。
しかし、これだけの情報量ではここに夫婦岩というかわったモニュメントが必要な理由がわからない。
見るからに絶景で神秘的だから造ってあるだけではいけないのだろうか。
だれか過去にこんなことを真剣に考えた人があるのだろうか。
もしかしたら僧行基がその秘密を知ったから此の地に興玉を勧請したのだろうか。
「だろうか」ばかりでもどかしいがなかなかこれと思える手がかりが姿を現さない。
この夫婦岩に秘められた意味を解くには少し、時間がかりそうだ。
fumio

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 第一回ワールドベースボールクラシック(WBC)決勝で、日本が10-6で常勝軍団キューバを下し世界の頂点に立った。
 この大会は第一回ということでヤンキースの松井秀喜選手やシカゴ・ホワイトソックス の井口 資仁(いぐちただひと)選手のように出場辞退者が続出するなど注目度、運営など多くの点で不安視されていたが
イチロー選手の盛り上げるためのヒール(悪役)発言とボブ・デイビッドソン審判の故意のような誤審によって大成功に終わった。
イチロー選手は開幕前2月21日の公式会見で「対戦相手が向こう30年は日本には手は出せないな、という感じで勝ちたいと思う」と発言したことで、韓国が妄言としてとらえ燃えに燃えた。
そしてあまり野球に興味がなかった人までがボブ・デイビッドソン審判の疑惑の判定がメディアに採り上げられることによってこの大会に注目するようになった。
ドラマは途中苦しければ苦しいほど山場が盛り上がる。
死に体だった日本が思いがけなく準決勝に出場できて甦り連敗していた韓国に勝ち最後に国際試合の盟主キューバにまで勝利したのはまさにだれかが書いたシナリオのようだ。
 明治の俳人正岡子規は1890年(明治23年)幼名が「升(のぼる)」だったので「野球(のぼーる)」という雅号を用いた。かれの時代の人々がこの国にベースボールの種を蒔いて育てたのだ。
それから116年後、日本がその野球世界一になるなどと想像しえただろうか。
彼岸の中日の今日、ハラハラして戦況を見守っていたことだろう。
fumo


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 夫婦岩ってなんだろう。
またまた心の中でだれかが謎をしかける。
今度はこの謎を解かなければいけないらしい。
そんなこといってもわたしは小学生の修学旅行で伊勢志摩に行ったとき、
一度見たことがあるだけである。憶えてもいないしなんの手がかりもない。
ウェブを検索すると夫婦岩の説明札があった。
***********************
夫婦岩
Meotoiwa
夫婦岩は、沖合660mの海中に鎮まる興玉神石の
鳥居と見なされており、日の出の遙拝所として古くから
知られています。
 男岩と女岩を結ぶ大注連縄は、「結界の縄」と称され
大注連縄の向うを常世神が太平洋の彼方から寄りつく
聖なる場所、そして手前を俗世という悟りを持ち張られています。
 この大注連縄は、およそ650年前(文保年間)、既に
張られており、現在も氏子により大注連縄の神事が
年3回、5月5日・9月5日と12月の第3日曜日に行な
われています。
 夫婦岩の大きさは、男岩高さ9m女岩高さ4mで
二つの岩を結ぶ大注連縄は長さ35m、男岩に16m、
女岩に10mが巻かれ、その間9mあります。
夫婦岩からの日の出は、5月から7月頃が見ごろ
で、その絶景は深い感動を与えています。
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と説明してあるのだがこれだけではいけないのだろうか。
ここには二見興玉(ふたみおきたま)神社があって猿田彦大神を祭り、猿田彦のお使いとしてのカエルの置物で有名という。
よくわからないけれどなにか意味がありそうではある。
それではまた次回。fumio

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米国カリフォルニア州サンディェゴのペトコ・パークで行われたワールドベースボールクラシック(WBC)準決勝で、日本が6-0と韓国を下した。優勝候補ドミニカ共和国を下したキューバと21日、11時に決勝戦で対戦する。
この大会はメジャーリーガーとして活躍する選手の人数でチーム力が決まるような見方がされていたが
メジャーリーガーばかりのアメリカの意外なもろさが露呈され次にメジャーリーガーの有名選手の多いドミニカは守備のミスを打力で補って勝ち残ってきたが試合巧者キューバには届かなかった。
韓国日本のようなアジア勢は固い守備力で失点を防いで勝ち残ってきた。
 サンディェゴはロサンジェルスとメキシコとの間の町でわたしは昔サンディェゴの日本商社のパーティでバンドの演奏をしたことがあるので日本人も多いと思っていたのだが韓国側の声援「大韓民国(テーハミングック)」の合唱がすごくイチローが出てくるとブーイングの嵐だった。カリフォルニア州への韓国からの移民の多さがわかった。
準決勝が奇しくもカリブ地区同士、アジア地区同士だったのでカリブ野球代表とアジア野球代表の対決となって興味深い。どちらの野球が今年の世界の野球の頂点に立つのだろうか。野球もアメリカが世界一ではない時代が来たようだ。
fumio


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最近、「ニギハヤミコハクヌシ」という検索ワードでわたしのサイトを訪れる方が多い。
この名前について少し説明しておく。
「千と千尋の神隠し」のハクのモデルとなったニギハヤヒはこの映画ではニギハヤミコハクヌシという名前だった。
 ニギハヤミコハクヌシという名前を漢字にすれば饒速水琥珀主となる。それを縮めて「珀(ハク)」だけにすれば白の王で「皇(スメラ)」を示している。
 さらにいえばニギハヤヒの本性はキトラ古墳に描かれているような四神相応図の北の玄武(亀に蛇が絡んだ神)で東では青龍となり、西では白虎となる。
 ハクが龍であったこと、そして名前が琥珀ということは「琥珀」の文字から偏の「王」を除けば白虎が残る仕組みになっている。すなわち、四神から南の朱雀だけをひいた存在ということを示唆している。
まさかこんなこみ入った仕組みの名前とは映画を作る側も見る方たちも気づかないだろうがかれは自分にかかわることについては素知らぬ顔で裏からそんな謎をしかけているのである。
fumio



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  ルシファーはなぜサタンとして下天したのだろうか。
 ルシファーは最初に創造された天使で天使の9階級の最高位熾天使(Seraphimセラフィム) の天使長であった。セラフィムとは「愛の精霊」で愛の炎と共鳴して純粋な光で神と直接に交わり六枚の翼と四つの頭の天使の姿。
旧約新約両聖書によると。
 ルシファーは神に対して無垢で謙虚であったがしだいに驕り、嫉妬、傲慢によって、自分は他の者に服従するべき者ではない、神の支配を受けない自分たちの国をつくろうと思い、天使を全体の3分の1集めて自らが神であると宣言して神に宣戦布告をする。天界で大天使ミカエルの率いる神の軍勢とルシファー軍の戦闘が起こる。そして強大な竜、年老いた蛇、悪魔、サタンと呼ばれている者、全人類を惑わす者、明けの明星、曙の子は稲妻のように地に投げ落とされた。かれは地獄ではルシファーという称号を剥奪されサタンと呼ばれて、堕天使たちの長として地獄の君主となる。堕天使たちは霊質を失い、物質化した肉体を持った。
ルシファーの叛乱の原因として神が人間を創り人間に天使以上の地位を与えたこととイエスに最高の栄誉を与えられたことに対する嫉妬ということが数えられている。
 実はサタンとはおどろおどろしい悪魔という意味ではなく語源は動詞で「反対する、抵抗する。」などの意味であった。そこからadversary, one who withstands「反対者、抵抗勢力」などの意味の名詞になり神に反する者としての魔王をサタンと呼ぶことになった。英語でも魔王をThe Adversaryと表記する。すなわち、サタンというのは純然たる固有名詞ではなく「反対者」という普通名詞に近い存在である。天の邪鬼(アマノジャク)というところ。
 ところがこのルシファーの堕天も秘められた計画を進めるために必要な神の経綸であった。
その計画とは人類の肉体的精神的自立であった、
かれルシファーは天使長の位を捨て神の反対者という立場で堕天し不名誉を甘受し貶められながらも人類の自立のために働きつづけているのだ。
地上に降りたときの名前が金星の王子サナート(SANAT)クマラであったのでアナグラムしてSATANと呼ばれたのであった。ヒルコの肉体的自立には遺伝子治療を行い、今またわたしたち人類の精神的自立を見守っている。
fumio



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 今朝の毎日新聞一面に「ゲンジボタル:発光の仕組みを解明 理研チーム」と題する記事が載った。
記事を要約すると
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 ホタル、クラゲ、ホタルイカなどの発光生物は「ルシフェリン」という発光物質を体内に持っていてそのルシフェリンに「ルシフェラーゼ」という酵素が加わって反応が起き、発光する。
ルシフェラーゼは反応の瞬間、発光物質「ルシフェリン」を強く握り締めるように取り囲みこの「握り方」が強いとゲンジボタルのような黄緑色となり、弱めると光は黄緑色からだいだい色、そして赤色へと変化。ルシフェラーゼの働きを変えることでさまざまな色の「蛍の光」ができる。用途としては人工光の発光効率を高めることや、がん細胞を発光物質で光らせ、転移を画像診断する研究など医療にも利用できる可能性がある。ということである。
 この記事中の発光物質「ルシフェリン」や「ルシフェラーゼ」という酵素の名前に興味を惹かれた。ルシがラテン語で光のことなのでこのように名付けられたのだろう。わたしのサイトに単語検索で訪れる方のベスト10にルシフが入っている。ルシファーを採り上げたページにヒットするのだろう。
「ルシフェラーゼ」にはルシフェル(ルシファー)がそのまま使用されていることがわかる。
 よく知られているようにルシファーとはサタンの元の名前なのだがラテン語で「ルシは光でファーは運ぶもの、すなわち「光を運ぶもの」の意である。
かれは鏡割の「鏡」の字を割ったとき「「金」と「竟」に割れ、その旁の「竟」に隠れていた。
「竟」は立と日とヒトアシの組み合わせだが「日とヒトアシ」はコウと読んで「光」と同じ字なのだ。
「光」は火を掲げて走る図なのだが、かれ(ルシファー)は日をかざして走るものなのでこの文字に隠れているのである。かれは神社の神体である鏡に依りつき長い間出番を待っていた。
わたしたちもそろそろかれの存在に気づいてともに働くときが…。
上の文字を見つめていると今にも走り出しそうに見えないだろうか。
fumio





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