さてさて、答案を作成するにあたってなにから手をつければよいかと迷う。
まず手始めに「二見興玉神社参拝のしをり」から謎解きに関係がありそうな記述を抜き書きしてゆく。(引用部分は太字)
「當神社々頭海中の雙巌(さうがん)を称して立石と云ふ、
古くは天の岩門(いはど)とも称せしが、近世双巌の別種なるを
神人(しんじん)の異性に擬して、伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)二尊の
夫婦岩と敬称するに至れり 。
二見浦(ふたみのうら)は又二見潟(ふたみがた)とも云ひ、
雙鑑浦(さうかんほ)とも書(しる)し、一に清渚(きよきなぎさ)とも称す。
世上夫婦岩(めうごいは)の所在地なる立石崎(たていしざき)をのみ
二見浦(ふたみのうら)と称するやう思へれども、
元来、二見(ふたみ)の浦の名称は、今一色(いまいつしき)の
高代濱(たかしろはま)より東、打越濱(うちこしはま)、
御鹽殿浦(みしほでんうら)、立石崎(たていしざき)を経て、
松下(まつした)の神崎(かうざき)に至る沿海一帯の総称なり。
當神社域内に一岩窟あり、土俗之(どぞくこれ)を天の岩屋と称す、
古き参詣記に、又この飛石(とびいし)を踰(こ)ゆる邊(あたり)に
シャクジの祠と云ふあり、白畫(はくちう)に灯(ともしび)を點(てん)じ
云々とある如く、元三宮神社ありし遺蹟(ゐせき)なるが、
何時の頃よりか天の岩戸、又天の岩屋と称するに至りぬ。
これ古き俗謡(ぞくえう)に、「いせのいの字に見ゆる岩門」
とある岩門(いはかど)を夫婦岩に擬し、岩窟を岩屋に擬称せしものにて、
皇大神御遷幸の節此の立石崎に御船を寄せさせ給ひし太古を聨想(れんさう)し、
日の神の拝所なるより高天原の神宮に聨想(れんさう)して、遂に天の岩屋の名を
宣伝せらるるに至りしならむ。」
なんと夫婦岩は古くは天の岩門(いはど)とも称したのだ。
そして二見浦(ふたみのうら)は雙鑑浦(さうかんほ)とも書(しる)されていた。
天の岩屋はシャクジの祠と呼ばれていた。これらのことを頭に置いてつぎに参拝のしおりから「大注連縄並に蛙奉献の事」の項全体を以下に引用してみよう。
注連縄は太古所謂日御綱(ひのみつな)にして、
中古に在りては尻空米縄(しりくめなは)、或は尻籠縄(しりごめなは)と云ひ
「日本書記」にも端出之縄と書し、藁の尻即ち端を断たずして籠め置き、
穂殻(ほがら)を残せし儘(まま)左綯(ひだりなひ)になすを古法(こはふ)とし、
其の起源は、神代の昔、天照皇大神の再び岩屋に入り給はざるやう、
天児屋根命(あめのこやねのみこと)が太縄(ふとなは)引延(ひきは)え給ひしを
はじめとす。
立石に牽き延えたる大注連縄もこの古式に據りて精製したるものにて、
縄の総長百二尺を要し、岩頭に結び懸くるに大岩は長四十八尺、小岩は長二十七尺、中間長二十七尺と法とす。
此の大注連縄奉献の趣意は一切の不浄を解除して災禍(わざはい)の来るのを防ぎ止むる為にして、
毎年一月五日、注連縄張神事を執行して崇敬者の大祈祷を修するを例とせり。
小注連縄は大注連縄奉献の代用にして、同じく此の霊地に禊斎する者の社頭に奉納する古式なり。
安政年間の海嘯(つなみ)以前までは、大岩中腹に螺旋状に岩柱凸起(いははしらごつき)し居りしかば、参詣者の小注連縄を丸めて此の岩柱に嵌(は)めかけて奉献せしが、岩柱損失以来輪注連縄の形に改めたるもの、
即ち今用うる所にして、奉献者此の小注連縄を以て身を祓ひし上、神前に奉献すれば、翌朝奉献者の為めに家内安全、家業繁昌の祈祷を修し、毎年六月、十二月の晦日に注連縄焚神事を執行す。
蛙(かはづ)の奉献は元来此の地が御日(おんひ)の神の拝所なるを以て、皇大神を御日(おんひ)の神と崇(あが)めたる時代に在りて、彼の祝詞式に、所謂、谷蟆々(たにくぐ)の狭渡(さわた)る極みなどあるに依り、日の神に谷蟆々(たにくぐ)を献じたるものなりと伝説あり、
或は佛説に、皇大神此の浦に於て金色(こんじき)の霊蛇(れいだ)と化して本地(ほんち)の御姿(おんすがた)を現はし給ひしより、蛙(かはづ)を献するに至りしとの伝説をも存せるが、社伝によれば、往昔海中の興玉神石(おきだましんせき)の露出したる時代に於て参宮者が旅行安全に、或は航海安穏に、無事立ちかへるの
願意を以て奉献するに至りしと云ふ。
而して此蛙は、小児(せうに)の痣(あざ)、腫物(しゅもつ)等を撫でて祈願すれば、必ず平癒すと信でられ、遂に身代(みがわり)蛙(かはづ)の名さへ附せられて授與(じゅよ)を請ふもの頗る多し。
以上、夫婦岩をつなぐ注連縄の総長は百二尺、大岩は四十八尺、小岩は長二十七尺、中間長二十七尺。
カエルの奉献については三つの説を述べて、まず祝詞式に谷蟆々(たにくぐ)の狭渡(さわた)る極みなどあるに」とあるから谷蟆々(たにくぐ)を奉献したという説を紹介しているのでこの中で彼の祝詞式と呼んでいる延喜式祝詞を以下に引用して確認しておく。
「延喜式祝詞
生嶋(いくしま)の御巫(みかむなぎ)の辭竟(ことを)へ奉(まつ)る皇神(すめがみ)等(たち)の前(まへ)に白(まを)さく 生國(いくくに)・足國(たるくに)と御名(みな)は白(まを)して辭竟(ことを)へ奉(まつ)らくは 皇神(すめがみ)の敷(し)き坐(ま)す嶋(しま)の八十(やそ)嶋(しま)は 谷蟆(たにくぐ)の狭度(さわた)る極(きはみ) 鹽沫(しほなわ)の留(とどま)る限(かぎり) 狭(さ)き國(くに)は廣(ひろ)く 峻(さが)しき國(くに)は平(たひら)けく 嶋(しま)の八十(やそ)嶋(しま)堕(お)つる事(こと)無(な)く 皇神(すめがみ)等(たち)の依(よ)さし奉(まつ)るが故(ゆゑ)に 皇御孫(すめみまの)命(みこと)の宇豆(うづ)の幣帛(みてぐら)を 稱辭竟(たたへごとを)へ奉(まつ)らくと宣(のたま)ふ」
確かに「八十(やそ)嶋(しま)は 谷蟆(たにくぐ)の狭度(さわた)る極(きはみ)」という一節がある。
そして第二の説として佛説をもちだして、皇大神がこの浦で金色霊蛇(れいだ)と化して本来の姿を現したので蛙(かはづ)を献することになったという説を述べ、
最後に社伝では、昔海中の興玉神石の露出した時代に参宮者が旅行安全、航海安穏に無事カエルの願いや
小児の痣(あざ)、腫物平癒の身代(みがわり)蛙(かはづ)の名がついた、ということを第三の説としている。
谷蟆々(たにくぐ)ということばは現代では使用しないので意味不明だが蟆だけでもヒキガエルのことなのである。
高杉晋作が幕府からの追求を逃れるために使用したのが「谷潜蔵」という偽名だったのでかれの墓には「谷潜蔵 源 春風号東行、慶応三年丁卯四月十四日病没赤間関、享年二十九」と銘記されている。かれは谷潜(たにくぐ)として世の表面から潜行していたのだ。ということで谷蟆々(たにくぐ)は谷潜とも書かれたのである。
「皇大神此の浦に於て金色(こんじき)の霊蛇(れいだ)と化して本地(ほんち)の御姿(おんすがた)を現はし給ひしより、蛙(かはづ)を献するに至りし」という一節は皇大神が金色霊蛇(れいだ)であると述べているのだ。
わたしはホームページで色々な封印解きに携わってきたのだがまだその存在する場所もわからないままの封印が残っていた。それは三重に守られた聖柩の封印で、地と血とチによって解かれることになっているのである。
ここに金色(こんじき)の霊蛇(れいだ)が出てきたことによってその封印がこの三重県の聖柩に貼られたものを指すことがついにわかった。ニギハヤヒはその封印のありかを報せようとしてこの謎を出題したのであった。
いつものようにニギハヤヒのオヤジギャグが始まった。インディ・ジョーンズ・シリーズの第一話「霊蛇(レイダ)ーズ・オブ・ザ・ロスト・聖柩(アーク)」という英語まじりの洒落らしい。
仕掛けてあるギャグ攻撃を顔面に受けて耐えながら進まねばならない。
夫婦岩の謎を解くことでこの封印が解けて岩戸が開くのだろう。
幸い進む方向は間違っていないようだ。
fumio
| Trackback ( 0 )
|