その年、近江(おうみ)国西浅井(にしあざい)の夏は暑かった。それは、いとの十五の夏だった。近郷で盆踊りがあると聞くと仲間と浮き浮き気分で浴衣姿で出かけた。みんなで屋台巡りを楽しんでいると、のど自慢の若者たちが櫓の上に設(しつらえ)られた舞台に上り次から次へと民謡を披露していた。いとは仲良しと櫓の周りを踊りながら廻った。祭りがたけなわに差し掛かる頃、孫吉という若者が舞台に上って三味線を弾きながら江州(ごうしゅう)音頭を歌い出した。それはそれまでの若者の歌声と全く違う圧倒的な歌声だった。いとはまるで自分のためにだけ歌ってくれているようで魂が震えるような気がして聴き惚れた。櫓を見上げると孫吉が手招きしている。いとはドキドキして自分のことを知っているのかと不審に思いながらもじもじしていると仲間が櫓に上れと押し出した。いとは押されるままに櫓に上っていった。舞台まで昇ると名前を訊かれて「いと」と応えた。孫吉は手を取り「やっと出会えたね、いとちゃん、」という。いとも、なんだかやっと会えたような気がて「うん」と応えた。「さ、その太鼓叩いてごらん」といわれて日頃仲間と遊びで稽古している太鼓のバチを持つと気持ちが落ち着いた。孫吉はいとの太鼓に合わせて三味線を弾きながら歌い始めた。「江州音頭」といっても主人公が旅する各地の民謡を採り入れてある。「大漁唄い込み」では、いとは「エンヤトット、エンヤトット」と掛け声の部分をまわりの人とともに歌った。盆踊りは佳境に入り仲間は楽しく踊り続けている。花笠音頭を歌った後、孫吉は「みんな、聞いてくれ、おれ、この娘(こ)と一緒になる。」と宣言した。仲間たちは跳び上がって喜んでいた。いとも突然のことにびっくりしたけれどうれしかった。「うち、これからこの人と一緒に生きてゆくのや、そうやったんや。」と口の中で呟いた。孫吉は若い頃、日本一の唄い手を目指して歌と三味線の修行に諸国を巡った。山ごもりして声出しの稽古したり瀧に向かって吠えて声を鍛えた。故郷西浅井(にしあざい)山門(やまかど)に帰った頃にはもう三十五になっていたので十五歳のいととは二十歳の開きがあった。ふらふらと腰の定まらない遊び人と見られていた孫吉がやっと落ち着く気になったかと家族は喜んだ。いとは長い間なにかが足らないような15年間を生きてきてこれでやっと探し続けた最後のピースがはまるような気がした。親兄妹親戚に反対する者もなく質素な婚礼が執り行われたが思えば出会いから結婚までなにもかも仕組まれていたようだった。ふたりは10人の子供を設け末っ子の山下幹雄を1923大正十二年三月二十一日に出産した。それは孫吉53歳、いと33歳の時でいわゆる恥かきっ子であった。
そしていとが37歳の年、孫吉は1927年(昭和二年)九月三十日五十七才の秋祭りの日、乞われて上った櫓の上の舞台で踊りながら歌い上げているうちに気分が高揚して足を踏み外し櫓から落下して首の骨が折れて亡くなってしまった。もったいなかった。合掌…。孫吉様いと様、彼岸の祷りを捧げます。
ふみお
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