monologue
夜明けに向けて
 

合掌  


2003/02/25にリンダから2月3日に送った宮下フミオへの印税計算書のレスとして
メールが届いた。
---------------------------
Hello Fumio, I hope your family is well. You may have heard that Fumio died of lung cancer on Feb. 6 this month.
He tried to fight it very bravely but he finally lost his last battle. I talked to Shige and Lance on the phone.
We miss Fumio very much. No one knows what will happen in our life. Please say hello to your wife for me.
Linda Miyashita
--------------------------
ミヤシタフミオが肺癌によって2月6日に亡くなったということだった。ただ、合掌…。
fumio


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今日は母方祖父命日山下安次郎の命日
1956年昭和三十一年十二月十二日に 七十三才で世を去った。
いつも刻みたばこをキセルでのんでいた。煙草というものの味をみさせてもらったこともある。
子どもにとってはべつにおいしくはなかった。
おじいちゃん冥界で楽しくおすごしください。
今日は赤飯を炊いて供えますから一緒に食べましょうね。合掌…。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


命日  


山下安次郎明治16年1883年生
1956年昭和三十一年十二月十二日 七十三才没
母方祖父命日合掌…。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





今日9月30日は父方の祖父、山下孫吉の命日。
孫吉は1927年(昭和2年)9月30日に57歳で逝去した。
夕食に赤飯を炊いて供えて一緒に食べます。合掌…。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




成本東進 「釈成満信士」
1986年昭和六十一年十一月十六日 六十七才没

○成本末子
1982年昭和五十七年二月十八日 二十四才没
成本南順「釋尼順了」
2006年平成十八年一月十九日木曜 八十才没
みなさま、どうぞ 冥界でやすらかに、 合掌…。
富美雄


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





父上 山下幹雄「釋浄真」様
1997年平成九年六月十七日午後三時十分 七十四才没
山下房子「釋尼慈晄」母上様
2001年平成十二年四月二日 七十四才没
いつも霊界でお見守りくださってありがとうございます。
ふみお


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ロサンジェルス時代の親友、上田好久さん、冥界でいつも見守ってくださってありがとう。
かれはオクラホマの大学からロサンジェルスのAssociated Technical Collegeに転校してきた。わたしはそこのCクラスで英語を学んでいたのだがかれはAクラスに転入してきて休み時間によくわたしのクラスにやってきた。わたしがヒット曲の歌詞をテープレコーダを聴きながら書きとっていると自分のクラスの先生を呼んできて一緒に書きとってくれたものだった。おかげで最新ヒット曲を練習できた。
かれは2008年(平成20年)8月8日、63才で亡くなった。合掌…。サンクス!
fumio



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





関西に「ザ・リンド&リンダーズ」というグループサウンズがあった。
ヴォーカルは加賀テツヤ。かれは当時活躍してギター子守唄
燃えろサーキット
売られたギター
銀の鎖(と次々にヒット曲を連発していた。その加賀テツヤは1979年に渡米してロサンジェルスで自動車の整備工として働いていた。中島茂男とわたしと加賀の3人でギターのセッションをしたこともあった。そしてわたしたちSFのコンサートの時に色々と手伝ってくれたものだった。そして、加賀テツヤは1994年に日本に帰国して帰国後音楽活動を再開してしばらく活動しているうち持病の肺病が悪化して2007年(平成19年)12月30日に61才で逝去している。サンキュー、テツヤ、合掌…。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


感謝  


その頃、京都の繁華街、新京極にライヴ喫茶ができるのでオーデションで出演者を募集して選んだ。
天下一エンターテイナー選考会ということで京都中のバンドや歌手たちが集まって競い合った。わたしも出演者に選ばれて日曜の昼一時間担当することになった。「日々の夕べに」リアルリアル・ラヴそして何が残った打ち上げ花火などオリジナルを中心にギターを弾き語りした。
その店で、イギリスから帰国した川村尚(ひさし)さんがラジオの生放送をしたこともあった。
川村さんは「POPS IN PICTURE」という洋楽ヴィデオ番組を始めた。当時はヴィデオ機器が高価で洋楽ヴィデオ自体がほとんどなかった。わたしたち洋楽ファンはそれまで「ミュージックライフ」などの音楽雑誌やラジオで情報を得るだけでライヴを見に行く以外にはアーティストの演奏する姿を見る機会がなかったのだ。入手困難な多くの海外のアーティストの映像を川村さんが見せてくれたことでその後の日本のミュージシャンの感性が育った。その川村さんは2012年に亡くなった。洋楽の種蒔き人、川村尚(ひさし)さん、ニックネーム、デデさん、ありがとう…、いつも感謝しています。合掌…。
fumio



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


彼岸  



その年、近江(おうみ)国西浅井(にしあざい)の夏は暑かった。それは、いとの十五の夏だった。近郷で盆踊りがあると聞くと仲間と浮き浮き気分で浴衣姿で出かけた。みんなで屋台巡りを楽しんでいると、のど自慢の若者たちが櫓の上に設(しつらえ)られた舞台に上り次から次へと民謡を披露していた。いとは仲良しと櫓の周りを踊りながら廻った。祭りがたけなわに差し掛かる頃、孫吉という若者が舞台に上って三味線を弾きながら江州(ごうしゅう)音頭を歌い出した。それはそれまでの若者の歌声と全く違う圧倒的な歌声だった。いとはまるで自分のためにだけ歌ってくれているようで魂が震えるような気がして聴き惚れた。櫓を見上げると孫吉が手招きしている。いとはドキドキして自分のことを知っているのかと不審に思いながらもじもじしていると仲間が櫓に上れと押し出した。いとは押されるままに櫓に上っていった。舞台まで昇ると名前を訊かれて「いと」と応えた。孫吉は手を取り「やっと出会えたね、いとちゃん、」という。いとも、なんだかやっと会えたような気がて「うん」と応えた。「さ、その太鼓叩いてごらん」といわれて日頃仲間と遊びで稽古している太鼓のバチを持つと気持ちが落ち着いた。孫吉はいとの太鼓に合わせて三味線を弾きながら歌い始めた。「江州音頭」といっても主人公が旅する各地の民謡を採り入れてある。「大漁唄い込み」では、いとは「エンヤトット、エンヤトット」と掛け声の部分をまわりの人とともに歌った。盆踊りは佳境に入り仲間は楽しく踊り続けている。花笠音頭を歌った後、孫吉は「みんな、聞いてくれ、おれ、この娘(こ)と一緒になる。」と宣言した。仲間たちは跳び上がって喜んでいた。いとも突然のことにびっくりしたけれどうれしかった。「うち、これからこの人と一緒に生きてゆくのや、そうやったんや。」と口の中で呟いた。孫吉は若い頃、日本一の唄い手を目指して歌と三味線の修行に諸国を巡った。山ごもりして声出しの稽古したり瀧に向かって吠えて声を鍛えた。故郷西浅井(にしあざい)山門(やまかど)に帰った頃にはもう三十五になっていたので十五歳のいととは二十歳の開きがあった。ふらふらと腰の定まらない遊び人と見られていた孫吉がやっと落ち着く気になったかと家族は喜んだ。いとは長い間なにかが足らないような15年間を生きてきてこれでやっと探し続けた最後のピースがはまるような気がした。親兄妹親戚に反対する者もなく質素な婚礼が執り行われたが思えば出会いから結婚までなにもかも仕組まれていたようだった。ふたりは10人の子供を設け末っ子の山下幹雄を1923大正十二年三月二十一日に出産した。それは孫吉53歳、いと33歳の時でいわゆる恥かきっ子であった。
そしていとが37歳の年、孫吉は1927年(昭和二年)九月三十日五十七才の秋祭りの日、乞われて上った櫓の上の舞台で踊りながら歌い上げているうちに気分が高揚して足を踏み外し櫓から落下して首の骨が折れて亡くなってしまった。もったいなかった。合掌…。孫吉様いと様、彼岸の祷りを捧げます。
ふみお



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





今日はゴーマン美智子(Miki Suwa Gorman 、旧名:諏訪美智子)さんの命日である。
2016年9月19日に80歳でカナダで亡くなった。ボストンマラソン、ニューヨークシティマラソンで2回ずつ優勝してその活躍が「走れ、ミキ」という本やドラマになって現在の女性アスリートブームの草分けになった。わたしはかの女がロサンジェルスの羅府第二学園という日本語学校で先生をしている時に息子がお世話になっていたのでお会いした。ゴーマンさんが脚本を書いてわたしが音楽を担当した一寸法師という劇を息子が一寸法師を演じて公演して回ったことがあった。合掌…。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


yoda  


「スターウオーズ」シリーズのジェダイ・マスター、「ヨーダ」のモデルとされる脚本家、依田義賢はUCLAの映画学科で講義していたのでジョージ・ルーカス監督やフランシス・コッポラ監督スティーヴン・スピルバーグ監督なども学生時代、聴講しにきていた。それで名作上映館で字幕付きの黒澤作品や依田 義賢脚本、溝口健二監督の名作の数々に触れて成長したのだった。わたしも名作上映館で「スターウオーズ」の発想の基になった「隠し砦の三悪人」などを見た記憶がある。依田さん、冥界で安らかに。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


依田  


依田家の皆様方、
依田茂、富子様、
スターウオーズのヨーダのモデルの脚本家依田 義賢様、お盆の御挨拶を申し上げます。
どうぞ冥界で楽しくお見守りください。
fumio


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ロサンジェルスで交流した亡くなったアーティストたちにお盆の御挨拶。
ロサンジェルスには日本から多くの芸能人がやってきてわたしたちと交わった。
「」走れ、コータロー」の山本コータローはわたしたちの出演していたハリウッドのクラブを訪れて「アメリカあげます」という本を書いて送ってきてくれた。
サンキュー!
「ギタ-子守歌」が日本でヒットしたザ・リンドのボーカル、加賀テツヤはわたしたちのロックバンドの「処女航海」でのライブの手伝いをしてくれた。
懐かしくも楽しい日々をともに過ごせてありがとう。
みんな、ありがとう!
fumio


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ロサンジェルスで交流したアーティスト吉田等、ミュージシャン宮下フミオにお盆の御挨拶を申し上げます。
楽しい日々をともに過ごせてありがとう。
吉田等はトニーヨシダとしてロサンジェルスのストリートアートを推進していた。
宮下フミオは勝新太郎など日本から来る多くの芸能人を居候、ホームステイさせていた。
fumio


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ