monologue
夜明けに向けて
 



第1回アジア太平洋わたぼうし音楽祭日本代表としてシンガポールでライヴを行った後、わたしたちは日本帰国後、飛騨高山、奈良、新宿副都心、など、あちこちのフェスティバルコンサートにゲストとして喚ばれ楽しい忙しい日々を過ごしたのだった。
fumio


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わたしは1989年に奈良で開催された「第15回わたぼうし音楽祭」で応募曲「わかりあえる日まで」が優勝して作詞賞作曲賞を受けたので2年後の1991年8月にシンガポール国立劇場「カランシアター」で開催された第1回アジア太平洋わたぼうし音楽祭というフェスティバル」に日本代表として出場したのだった。

シンガポールは英語圏なので英訳して英語の歌詞でも歌ったのだった。
By the day we see eye to eye.
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<By the day we see eye to eye.> by fmio yamashita


“There is a tiny planet in the spacious universe from the long time before.
We all live on it that shines blue to the core.
Wish we’d be going together forevermore.”

Eyes are different,skins are different,faces arer diffrent.
Words are different,dreams are different,nations are diffrent.

lai- la la la la, lai- la la la la, lai- la la la la la,

lai- la la la la, lai- la la la la lai- la la la la la

 Come to me here by my side, when you need someone to love.
And you feel all alone in the end of this world.

 Talk to me how you cried,talk to me how you tried.
Hold my hand see my eyes.
I’m gonna comfort you,my friend.with this song.

 Sing across the ages, jump across the places,
Sing across the races,by the day we  see eye to eye.

 Every time we share sad tears, our pains melt like the ice,
We become full of joy for living life in this world.

 Can’t you see how we survived? can’t see how we revived?
Take my word see my way.
I’m gonna take you to my soul with this song.

 Sing across the centuries, jump across the countries,
Sing across the histries,by the day we  touch heart to heart.

 Winds no difference,  clouds no difference, lights no difference,
Skies no difference, seas no difference, lands no difference

lai- la la la la, lai- la la la la, lai- la la la la la,

lai- la la la la, lai- la la la la lai- la la la la la


 Sing across the fires, jump across the wires ,
Sing across the desires,by the day we  walk hand in hand.


 Sing across the whole earth, jump across the voyagers,
Sing across the universe.by the day we  see eye to eye.
By the day we  smile heart to heart.

 Brothers with you, sisters with you, my friends with you.
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fumio

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1989年の8月に奈良文化会館で開催された「第15回わたぼうし音楽祭」にわたしは出場して
「わかりあえる日まで」のパフォーマンスで優勝したのである。
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      わかりあえる日まで                  
「この広い宇宙の片隅に ポツンとひとつ星がある。
    青く輝くその星に 命に輝くその星に
    ぼくらはみんな住んでいる。 ひしめきあって生きている」

   1.膚が違う 顔が違う 瞳が違う 国が違う 夢が違う 言葉が違う
     ライララララ ライララララ ライララララ
     ライララララ ライララララ ライララララ

      もしも世界の 果てに住もうと
      人を愛する 心は変わらない

      もしもあなたに いつか会えたら
      こんな気持ちで 包んで歌おうか この歌
     
      世代を超えて 人種を超えて すべてを超えて
      わかりあえる日まで


   2.わかち合うたび 溶ける悲しみ
     生きる喜び 心に甦る

     人と人との 熱いつながり
     確かめあうため 命のあるかぎり 歌おう
     
     時代を超えて 文化を超えて 歴史を超えて
     わかりあえる日まで

     風は同じ 雲は同じ 光は同じ 空は同じ 海は同じ 大地は同じ
     ライララララ ライララララ ライララララ
     ライララララ ライララララ ライララララ

     戦さを超えて 砦をこえて はざまを超えて
     わかりあえる日まで 

     地球を超えて 銀河を超えて 宇宙を 超えて
     わかりあえる日まで 愛しあえる日まで

     あなたと あなたと あなたと 
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1989年のある日、毎日新聞に「わたぼうし音楽祭」という音楽コンテストが奈良で開催されるという記事が掲載された。それでわたしはその頃、劇団のスター、MIYUKIがリードヴォーカルをとるシリーズとして作っていた曲を数曲選んでカセットに入れて応募してみた。すると、わたぼうし音楽祭事務局から茶色の封筒が届いた。
わたしが応募した何曲かのうち「わかりあえる日まで」という曲が8月に奈良で開催される「第15回わたぼうし音楽祭」の出場作品に選ばれたという報せだった。他の曲の方が自信があったのですこし意外な気がしたが「わかりあえる日まで」は次の時代の合言葉となるダイバーシティ(多様性)をテーマとしていたのでそのコンセプトが受けて一次審査を通過して本番のコンテストで演奏される候補作品10曲のうちの一曲に選ばれたのだった。
あらゆるものの違いが悪いものではなく大切なものという分断から統合へのコンセプトが受け入れられる時代に入ったのだろうかと思った。優勝すれば2年後の1991年にシンガポールで開催される予定の「第1回アジア太平洋わたぼうし音楽祭」の日本代表となるということだった。
fumio


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2005年10月25日のブログスタートの記事を以下にコピー
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今日から記事を書いて行こう。
ホームページにビデオを載せてみた。
シンガポールでの音楽祭のヒトコマ。
あまり人の目にすることのない楽屋からステージへの映像だ。
考え考え、ひっかかりもっかかりしながら伝えようとした内容は
「われわれはアジアの住民であるばかりではなく全宇宙の民である」
ということだった。地球意識から進んで宇宙意識に目覚める時代に入ったのだから

ビデオを見る
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nifutyのサーヴィスが3月に終了したのでリンクしていたビデオを昨日ユーチューブにアップして視聴が可能になる。
fumio


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わたしは2005年10月25日にブログを始めて
「初めてブログに記事を書いてホームページのビデオをリンクしてみた。」という最初の記事を書いたのだが
そのホームページのドメイン@nifty(アット・ニフティ)が
「ドメイン@nifty」は、2024年3月31日(日)11時をもって終了いたしました。
長い間、サービスをご愛顧いただきまして誠にありがとうございました。」ということで終わってしまったので
ユーチューブにそのビデオをステージとしてアップした。
fumio

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TEST  


TEST

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ギターについては高校を出た頃、京都のワタナベ輸入楽器店でイタリア製のEKOのアコースティックギターを購入した。これはサイドギターとしてリズムを刻むとドライヴ感がでた。そしてローリングストーンズが「レデイ・ジェーン」や「アンジー」でアルペジオに使用しているのが「ギブソン・ハミングバード」だったのでワタナベ輸入楽器店に出向いて頼んで買った。20万円(当時の給料は1万6千円)だったので弟と半分ずつ出し合った。それで渡米後、NBCの看板テレビ番組「ゴングショー」でこの「ギブソン・ハミングバード」を弾きながら「ジョージア・オン・マイ・マインド」を歌ったのだった。その後ベースを弾くために中古フェンダー・プレシジョンモデルを中古楽器の良品があると雑誌に採り上げられていたロサンジェルスの質店(ポーンショップ)で買った。これはさすがフェンダー、重くてしっかりとした音がした。そして弾き語り用に黒人背年から中古のギブソン・レスポール・ナチュラル・モデルを買った。これは甘く繊細ないい音がした。ロックバンド、ボストンのギターのように様々なエフェクターをかませるとシンセのような音がした。帰国直前まで愛用したものだった。
fumio


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1965年のブリティシュ・インヴェィジョンの頃、Moody Bluesという英国のバンドのGo Now という曲がヒットした。おきまりのリズム&ブルースを基調にしたロックバンドだと思っていたのだがのちにポ-ル・マッカートニーに誘われてウイングスに参加するギターのデニー・レインが脱退してから採り上げる曲想が Tuesday Afternoon のようにがらりと変わってしまった。それからかれらの音楽はプログレッシヴロックと呼ばれるようになった。ヒットを目指すのではなく独特の思想性や内省的な世界観を表現しているようだった。
わたしたちがプログレッシヴロックアルバム「プロセス」でミックスダウンを行ったインディゴランチ・スタジオはそのムーディブルースが始めたスタジオでマリブの丘の上にあった。ニール・ダイアモンド、ヴァン・モリソン、ビーチボーイズ、ニール・ヤングといったミュージシャンたちがレコーディングに使用し、オリヴィア・ニュートン・ジョンはアルバム 「Totally Hot」 を78年にそこでミックスダウンしている名スタジオだった。
fumio

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モニターリングに使うヘッドフォンは良さそうなものを数個、見かけだけで購入してみたが重低音はよく再現できなかった。それで高音から低音まで幅広く再生できるモニターとして黒いJBLスピーカーを導入した。部屋に設置する時、ずいぶん重いなと感じた。低音をガタガタしないで安定的に支えるために重くするのだろう。
そして、1980年11月4日、プログレッシヴロックバンドSFプロジェクトでアルバム「プロセス」のすべての録音を完了してできあがったレコーデイング済みテープのミックスダウンに使用したインディゴランチ・24トラッスタジオ(INDIGO RANCH STUDIO)ではなんと壁にJBLスピーカーが埋め込み式になっていたのである。それで重低音も楽に再生できるのだった。
fumio



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わたしはレコーデイングに関して知らないことだらけで勝新太郎が多重録音機にレコーデイングしておいた三味線のパフォーマンスに合わせてベースを弾く時、録音する時はヘッドフォンをしなければいけないということを初めて知ったのだった。モニタースピーカーもうまく使えなかった。
fumio

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そして、そのl頃最先端の楽器として、シンセサイザーが台頭してきたのでわたしもプロフェット5、ヤマハDX7などの最新シンセサイザーにMXRドラムマシンにスネアドラム、そしてエフェクター類、ノイマン・マイクなどの録音機材をスタジオと呼べるほど一通り買い揃えたのである。
fumio


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わたしは宮下フミオのように自宅スタジオを作ろうと思って宮下がレコーデイングで使用していた多重録音機ティアック8トラック・レコーダーを購入しにロサンジェルスの近郊パサデナのレコーディング機材店に行った。すると後継機、タスカム8トラック・レコーダーとコンソール(調整卓)が出ていたのであまり考えずすぐ購入したのである。
高校時代に「パサデナのおばあちゃん」という曲がヒットしていたのでなにかパサデナという土地には好印象を感じる。
fumio

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わたしは宮下フミオの自宅スタジオで多重録音機ティアック8トラック・レコーダーに勝新太郎が録音していた三味線のトラックのバックにベースをレコーディングして初めてレコーディングの仕方を知った。ビートルズが4トラックレコーディングしてレコード制作して話題になっていたので8トラックならその倍である。それから時代は進んで24トラックでのレコード制作が当たり前になってきたのである。

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夢を抱いて海外に出る若者たちはまだ英語も話せなくてわけがわからないのに居住する場が必要になって困る。そんな時、宮下フミオの家のようにだれでも受け入れて居候させてくれる場があればどんなに助かるか。ジョー山中も自分の家を見つける前しばらくミヤシタ家に居候していた。わたしは日本にいた頃東京キッドブラザース公演を京都会館で見た時、ジョー山中の歌を聴いてこんなに歌がうまいソウルロック歌手がいるのかと驚いたことがあった。最後のシーンで歌い上げて終わったかと思うとそこからまだ半音上げてラストシーンを盛り上げたのだった。わたしはすごいものを見たと茫然として帰宅した。やはり黒人とのハーフで声帯が違うのかもしれなかった。
fumio


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