monologue
夜明けに向けて
 



 これまで17インチ液晶モニターを見ながらデスクの前に座って作業していたが
今回、32型液晶テレビをコンピューターのモニターにしてソファでホームページやブログの更新を行えるようにマウスもワイヤレスに換えた。その接続や設定のために時間をとられてしばらくこのブログの更新ができなかった。
慣れてくればことさらにデスクの前に座らなくてもソファでも普通に作業できそうだ。

今年の前半も今日で終わるので
わたしのホームページの検索語句ベスト10を載せておこう。
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全ヒット回数35,203中
解析対象ヒット回数 10,376
検索語句 回数

 第1位ニギハヤヒ 167

 第2位ケサラ 166

 第3位 ダイアモンド デビアス 150

 #第4位十種神宝 143

 第5位 ルシファー 127

 第6位 ピラミッドとは 121

 #第7位富士山とは 114

 第8位 わらべうた とおりゃんせ 104

 第9位 毛長川 97

 10位 伊雑宮
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大体予想通りの結果だった。

fumio



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炎と水、そして風=「水(ミ)」→「火(カ)」→「タタラ・アタタラ」
和銅五年(712年)の古事記成立以来、千数百年つづいた富登(ホト)の封印も解けてみれば「コロンブスの卵」であった。封印はどんなにむづかしくても気づかれればいつかははがされる。見えてはいても気づれなければ永遠にはがされることはない。以下にその封印に使われた「丹塗矢」伝説の原文を掲げておく。漢字ばかりで一見読みにくそうだがわたしたちはその意味をすでに知っているのでそれほどむつかしくはない。

三嶋湟咋之女、名勢夜陀多良比賣。其容姿麗美。故、美和之大物主神見感而、其美人爲大便之時、化丹塗矢、自其爲大便之溝流下、突其美人之富登(此二字以音。下效此)爾其美人驚而、立走伊須須岐伎。(此五字以音)乃將來其矢、置於床邊、忽成麗壯夫、即娶其美人、生子、名謂富登多多良伊須須岐比賣命。亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣。(是者、惡其富登云事後改名也。)故、是以謂神御子也。


三嶋湟咋(みしまのみぞくい)は大阪、摂津三島の族長であった長髄彦(ながすねひこ)のことであるが
2003年、大阪府三島郡(みしまぐん)は人口29,403人、面積16.78 km²となっている。
三嶋湟咋の名を遺していた溝咋村は1889年4月1日成立して1935年2月11日に他の村と合併して玉島村に編入されたので今は溝咋村という地名はみられない。
 それはさておき問題は「富登(此二字以音。)」という封印であった。音で読むにしても辞書には「富」の読みは「 フ、フウ、とむ、とみ」とあるだけである。音で読んでも「フト」なのだ。
「コロンブスの卵」のように簡単にそのまま読めば解ける封印だった。それでもだれもが前後の文脈の関係で「ホト」と読んで「富登多多良伊須須岐比賣」の真の意味を封じられてきた。実にうまい封印だった。
富登が「太」であれば「富登多多良」は太田田良」と書ける。
なんだかこれは見たことがある気がする。そう、あの三輪山の祭主「太田田根子」とあまりにもそっくりの名前ではないか。富登多多良伊須氣余理比賣すなわち「御歳(みとし)」はやはり三輪山のタタラの祭主であり、「太田田根子」は崇神天皇の時代にその名前を継いだタタラの祭主であったのだ。意富多多泥古(オホタタネコ)という文字を見てもそのことが自ずと浮かび上がる。「フトタタラ」が今また甦りの時を迎えた。
その祭主は自立した日本(ひのもと)の民なのである。
fumio


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富登  


炎と水、そして風=「水(ミ)」→「火(カ)」→「タタラ・アタタラ」

さて、母、御炊屋姫から「御」父、大歳(ニギハヤヒ)からは「歳」を受け継いだ「御歳」にかけられた封印を解こう。伝承によればかの女は生まれた時は「富登多多良伊須須岐比賣命(ほとたたらいすすきひめ)」であったがホトというのをはばかって比売多多良伊須気余理比賣(ひめたたらいすけよりひめ)と改名したことになっている。一応首肯できそうだがどうも腑に落ちない 。改名するにしても比賣を前にもつけて比賣多多良伊須気余理比賣とするのはいかにも不自然である。なんらかの事情があって富登という文字を隠したかったようだ。
ニギハヤヒがつけた「富登多多良伊須須岐比賣命」という素晴らしい名前を(ホトたたらいすすきひめ)と悪意をもって読むことがおかしいのだ。自分の大切な娘の名前に女陰(ホト)とつける親はいない。だれでもホトから生まれるがだからといってそんなことをいちいち名前につけるはずがない。もちろん「富登」は「ホト」と読むのではない。当たり前だが普通は「フト」と読むはずである。そのとおり、ニギハヤヒは「ふとたたらいすすきひめ」と継承者である末娘を名付けたのである。
「富登(ふと)」は宇宙の回転法則「フトマニ」のフトであり、サルタヒコの「太田」の「太」であり一族の始祖「フツ」のことでもある。
「富」を分析すれば「宇宙」ということばを一字にまとめた文字で下の「田」は十が回転している図。
「富登多多良」とは「たたら」の法を授けられた司式(マスター・オブ・セレモニー)継承者を意味する名前であった。その反対勢力であった古事記編纂者はその名の機能を封じるために無理にホトと読みヒメを前につけてかの女の力を秘め封じてしまったのである。
それでも「御歳」は母、勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)から受け継いだタタラの秘法によって神武(イワレヒコ)とともに日本建国を成し遂げたのだ。
fumio

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炎と水、そして風=「水(ミ)」→「火(カ)」→「タタラ・アタタラ」

ニギハヤヒの愛妻、御炊屋姫も勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)として「たたら」を名前にもっていたので凡人ではないはずである。ニギハヤヒとともに大和を築き物部族の母として一族を率いたのだから。
その名前を考察してみよう。辞書によると
炊屋(かしきや)は炊殿(かしきどの)とも呼ばれ、 寝殿造で、炊飯の場所。
 神社で神饌(しんせん)をかしぐ所という。
すなわち、煮炊きして炊事する場所のことである。
この名前は古代には立派な名前であった。
その証拠にわが国最初の天皇号を名乗ったことで日本の初代天皇説がある女性、推古天皇(すいこてんのう)の和風謚号 は『古事記』では豊御食炊屋比売(とよみけかしきぎやひめ)命、
『日本書紀』では、豊御食炊屋姫(とよみけかしきひめ)尊と記載されている。
御炊屋姫の名前を継いだとしか思えない。古事記編纂者がいくら勢夜に変えて本名を隠しても偉い人の名前は継承されて残る。

 炊屋(かしきや)が火を使って炊事する場所であれば御炊屋は上の式そのままの名前に思える。
。かの女はただの炊屋(かしきや)姫ではなく御炊屋(ミカしきや)姫であった。すなわち、「水(ミ)」→「火(カ)」式屋姫ということである。
上の式の通りに「水(ミ)」→「火(カ)」→「タタラ・アタタラ」の順に式を執り行う「タタラ」の司祭であった。
炎と水は交わり蒸気を発生して風が起こる。「水(ミ)」→「火(カ)」とエネルギーは昇華して「田田螺」は「オオラ・オオラ」と回転する。
古事記の頃よりセクシャルハラスメント的解釈にさらされてきた勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)という名前は実は「タタラ」の司祭であった御炊屋姫の真の姿を低俗な表現で目をくらませ隠そうとした苦心の仮名であった。これまでおとなしく黙っていたわが民族の祖霊が新たな時代の始まりにその存在を主張しだしたようだ。
fumio


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炎と水、そして風=「水(ミ)」→「火(カ)」→「タタラ・アタタラ」

なぜニギハヤヒがこれほどわたしたちを「たたら」で足踏みさせているのかやっとわかった。
それはこれまでかれのかわいい末娘、初代皇后「御歳(みとし)」のことをこのブログで採り上げたことがなかったからである。わたしのホームページの 時空捜査局では採り上げたことはあるがそれでは不十分だったらしい。
神武についてはだれでも知っているがその皇后「御歳」については知る人が少ない。それは日本(ひのもと)の民としては恥ずかしいことなのだ。神武と御歳の結婚、すなわち即位式は、辛酉の年元旦、西暦二四一年二月十一日(紀元節、建国記念の日)、奈良県桜井市三輪の地で執り行われた。
 しかしかの女の存在は前回紹介した古事記の丹塗矢(にぬりや)の話によって故意に貶められ封じられていた。
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 大物主神(ニギハヤヒ)は三島溝咋(みぞくい)の娘、
勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)を見添め、
丹塗矢となって用便用の溝を流れ下り、彼女が川を跨ぐと陰部(ほと)を突いた。
その矢を床の辺に置くと美しい大物主が現れ、
二人の間に富登多多良伊須須岐比賣命(ほとたたらいすすきひめ)が生まれたが
ホトというのをはばかって比売多多良伊須気余理比賣(ひめたたらいすけよりひめ)と改名する。

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この逸話はわが国の初代皇后の出生譚にしてはあまりに下品すぎてこれでは子供や一般に喧伝できない。
そんな封印がほどこされていたのだ。もうこの封印を解いて初代皇后の復権をはかりたい。

 饒速日(ニギハヤヒ)は日本国建設のため九州から大和へ入る旅の途中、河内地方の族長、長髄彦(ながすねひこ)の娘、御炊屋比売(みかしきやひめ)と結婚している。
ということはこの説話の三島溝咋(みぞくい)とは長髄彦で勢夜陀多良比売は御炊屋比売である。
饒速日と御炊屋の間には多くの子供が生まれたがその末子が御歳であった。
御歳(みとし)は伊須気依姫、あるいは高照姫と呼ばれ、『記紀』では比売多多良伊須気余理比賣(ひめたたらいすけよりひめ)、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)、などと表記され、末子相続の時代なので父、大歳(ニギハヤヒ)から歳という文字とタタラという娘らしくない金属溶解に使うフイゴのことの名前も継いだのであった。


  古事記編纂者が伊須気依姫の母の御炊屋姫につけた「勢夜陀多良比売」という仮名は岩波文庫の注によると勢夜(セヤ)のセはソと交替する音でソヤは金属の矢尻の矢ということでセヤタタラで「矢を立てられ」となるという。勢夜は御炊屋の言い換えで御炊屋を意図的に「サスヤ」と読み、それを「セヤ」と短く読んだのだ。「陀多良」は「立てられ」などではなく金山彦と呼ばれるほど「たたら」と関わりの深かったニギハヤヒとの関係を示す語であった。
族長、長髄彦を三島溝咋(みぞくい)なぞという、溝は女性器を示唆し咋(くい)は男性器を象徴する名前にして嗤い、伊須気余理比賣の「いすすき」の意味も岩波文庫の注では、あわてふためいたとか、ぶるぶるふるえた、という。洋の東西を問わずバカにするときはセックスや下ネタということになる。意図的にセックスをからめ蔑み貶めているのだ。ところが、伊須気依姫の真の意味は五十須気依姫で素晴らしい須の気が依りつく姫という意味で古代の名前に「依り」がつくのは後継者の印なのであった。スサノオの後継者は本名「久女」(継承者名須世理姫)、ヒミコの後継者は第五子、市杵島姫(継承者名サヨリ)でみんなヨリがついていた。スが依りついたりサが依りついたりする神の依り代ということである。一般に知られているかの女の名前に対するセクハラ解釈には情けなくなる。
大和との大同団結をよく思わなかった日向族の古事記編纂者たちは初代皇后「御歳」の出生譚をこんな形で伝承してその存在を貶め封じていたのである。
fumio




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炎と水、そして風=「水(ミ)」→「火(カ)」→「タタラ・アタタラ」
太田の神、ニギハヤヒの長男「サルタヒコ」は漢字にすれば「太田申田彦」ということになるのだろう。
大物主(ニギハヤヒ)の娘で祭主であった「太田田根子」。並べるとニギハヤヒの子供はどちらも十字の回転を示す文字ばかり。ニギハヤヒはよほどこれらの文字に示唆される「田田螺」に深い思いを抱いているらしい。
かれの子孫で「たたら」と名付けられた人をみると

 『古事記』に雷神の表徴、丹塗矢(にぬりや)説話が載っている。

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 大物主神(ニギハヤヒ)は三島溝咋(みぞくい)の娘、
勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)を見添め、
丹塗矢となって用便用の溝を流れ下り、彼女が川を跨ぐと陰部(ほと)を突いた。
その矢を床の辺に置くと美しい大物主が現れ、
二人の間に富登多多良伊須須岐比賣命(ほとたたらいすすきひめ)が生まれたが
ホトというのをはばかって比売多多良伊須気余理比賣(ひめたたらいすけよりひめ)と改名する。


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 この姫の名の勢夜セヤとはヤジリのことでタタラは(立たれ)でホトに
 丹塗りの矢を立てられたという名前である。
 そのとき、イススキキ(ぶるぶるふるえた)ので
 生まれた子が富登多多良伊須須岐比賣(ほとたたらいすすきひめ)命で
 ホトというのを嫌って比賣多多良伊須氣余理比賣(ひめたたらいすけよりひめ)と改めたという。

陀多良や多多良としてニギハヤヒに関わりのある女性は名前に「たたら」をもっている。
伊須氣余理比賣はのちに神武天皇と結婚して初代皇后となった。
ということはわたしたちの国日本の初代皇后は「オオラ」とも読める「多多良たたら」を受け継いでいたのだ。
これにはニギハヤヒの秘めた意図が託されていたにちがいない。
fumio


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このたび、ニフテイのホームページのディスク容量が大幅増量されたので
これまで大きすぎて置くことができなかった音楽ファイルも置けるようになった。
それでわたしのサイトようこそmonologueへ のトップページの一番下にアルバム「プロセス」全曲をアップロードした。
これは宇宙の始源からさまざまな過程(プロセス)を経て「まほろば」へ回帰する人類を描いたコンセプトアルバム。全曲通して聴けば血のモノリスが発現するかも。
fumio

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炎と水、そして風=「水(ミ)」→「火(カ)」→「タタラ・アタタラ」
「タタラ・アタタラ」は難解でかなりの時間を経過しているがなかなか決定的といえる解答にたどり着かない。
此岸では「水(ミ)」→「火(カ)」となっている矢印は彼岸では逆になっているはずで
「火(カ)」→「水(ミ)」となるはず。
そうであれば「タタラ・アタタラ」も逆転 しなければならない。いつものように音霊を逆転してみよう。
するとTATARA・ATATARAはARATATA・ARATAT で続けると
ARATATA・ARATAT ARATATA・ARATAT ARATATA・ARATATがつながって
永遠に回転する。
わたしの住所は藤兵衛新田といって近くには久左衛門新田があって新田のつく地名が多い。
これは藤兵衛さんや久左衛門さんが開墾した新たな田圃ということだけではないのか。
川口市には「たたら荘」という施設も多い。
全国には新田がつく地名は多いはずだ。それは新しい田というなんの不思議もないことばにARATATA・ARATAT の意味を隠してあるのだろうか。

 そういえば崇神天皇の時代に災厄を治めるために天皇が斎戒沐浴して祈った夜の夢に大物主(ニギハヤヒ)が現れて「わが子、太田田根子(おおたたねこ)に祭らせよ、そうすれば治まって海外の国も伏する」
というのでそれから、太田田根子に御諸山で大三輪の大神(大物主)を祭らせることになったという話があった。
この祭主、大物主(ニギハヤヒ)の娘「太田田根子」の名前が気になる。
オオムの主でありオオラの主であるニギハヤヒのマツリゴトを執り行う斎主は神にそれにふさわしい名前を付けられたのだろう。この名前は田田螺にもオオラらも関わりがありそうである。太田の神といえばやはりニギハヤヒの長男「サルタヒコ」であることだし、なにかありそうだ。
fumio





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炎と水、そして風=「水(ミ)」→「火(カ)」→「タタラ・アタタラ」
「タタラ・アタタラ」が「多ラ・ア多ラ」で「オオラ・アオオラ」となって、ラがハングルの「己(リウル)」に換えられるのなら思い出す神名「大己貴」がある。それはオオクニヌシのこととされニギハヤヒを祀る神社でニギハヤヒの名前を出さないためにすり替えられる祭神名なのである。
 ヒミコの名、大日霎貴(オオヒミコムチ)の大と貴は美称と敬称であるから除いた部分が本名ヒミコだった。大己貴の場合も名前の核は「己」である。大己貴で大きな土地(ナ)の主という意味になるから大国主ということになる。
 一般には命や尊が使用される敬称に「貴」が使用されているのはヒミコの「大日霎貴」とオオクニヌシの「大己貴」だけでたまに宗像三女神にも使用されることはあるが本来はキやタットブと読む「貴」をムチと読ませるのは風土記などに「大穴六道」と表記されることもあるようにこの「貴」はムチと読ませることで「六」の意味をもち出雲の八にナベブタをかぶせるために使われた封印なのであった。
すなわち、「大己貴」から封印「貴」を解き放ち本来の「主」に戻せば「大己主」となる。そしてそれは「オオラ主」と読めるのである。ニギハヤヒは「オオラ・アオオラ」と回転する「たたら」の神であった。
「己(竜)」のエネルギーとしてかれは黄金太陽宇宙を止めることなく回転させ続ける。
「たたら」の秘法によって…。
fumio

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「タタラ・アタタラ」が「オオラ・アオオラ」でそのラがハングルの「己(リウル)」を示すというのは強引なこじつけと思う方も多いだろう。
ハングルとは李朝(李氏朝鮮)第四代王世宗(セジョン)が漢字に替わる韓国語表記法の研究開発を命じて世宗25年(西暦1443年)に完成させて1446年、「訓民正音」の名で公布したもの。
そのとき、文字開発といっても短期間になにもないところから新たに文字が創れるわけではないのでその下敷きにされたのが韓国に最も近い日本の対馬の占部阿比留(うらべあびる)家に伝わる阿比留文字であった。それはニギハヤヒが創った神代文字「日文」を占部阿比留(うらべあびる)家が伝承していた文字なのである。
ところが現在の広辞苑などの辞書には「日文」は
「対馬国の卜部阿比留氏の秘伝というヒフミヨイムナヤコトモチロなどの四七音をあらわす表音文字。実は朝鮮のハングルに模して偽作したもの。」と記されている。
情けないことだがいつもながら真実は闇に隠される。
fumio



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