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今月五月一ヶ月間のわたしのホームページようこそMONOLOGUEへ のページ別アクセス数 (2010年05月01日~2010年05月31日)
解析対象ヒット回数 6,235
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ページ名 回数
# [ページID無し] 873 (14.00%)
# 時空捜査局事件簿目次 682 (10.94%)
# ようこそmonologueへ 268 (4.30%)
# つきのみや 181 (2.90%)
# 伊雑宮事件 152 (2.44%)
# サナート・クマラ 118 (1.89%)
# 崇神と倭姫 107 (1.72%)
# 地球の歴史「十種神宝」の基礎知識 105 (1.68%)
# 大天使ルシファー 97 (1.56%)
# ケプラーの宇宙像 97 (1.56%)
# 毛長川 96 (1.54%)
# 調神社祭神 91 (1.46%)
# 炎で書いた物語目次 87 (1.40%)
# ミシャグジは白龍 87 (1.40%)
# 大國主の本名を探る 86 (1.38%)
# ニギハヤヒの容姿 78 (1.25%)
# 虹色の戦士達 78 (1.25%)
# 魔王尊の正体 77 (1.23%)
# 月読命をたずねて 68 (1.09%)
# クマラの使命 64 (1.03%)
# 偽書事件 63 (1.01%)
# 最終章8-26鎮魂祭の秘密 60 (0.96%)
# 「十種の神宝」継承式 59 (0.95%)
# 謎の名前「十月十九日」 54 (0.87%)
# 水無大神 53 (0.85%)
# 七つの子の謎 53 (0.85%)
# 最終章8-7「竹取物語 51 (0.82%)
# 大國主身上調査 51 (0.82%)
# ホウレンソウの女王 48 (0.77%)
# 广の封印 45 (0.72%)
# 稲羽の素兎 44 (0.71%)
# 伊勢人の正体 44 (0.71%)
# つぎの時代へ 44 (0.71%)
# 夫須美大神の正体 43 (0.69%)
# 亀甲かごめ 43 (0.69%)
# 御柱という結界 42 (0.67%)
# 子権現神社参拝 40 (0.64%)
# 赤い猪 38 (0.61%)
# 御手洗とはトイレなのか 37 (0.59%)
# 封印名「大己貴」 37 (0.59%)
# 葦原醜男は醜かったのか 36 (0.58%)
# 緋色の女救出作戦緋色の女 34 (0.55%)
# 横邑の札の謎 33 (0.53%)
# 天の龍は太洋を目指す 33 (0.53%)
# 五男三女の封印 31 (0.50%)
# 卑弥呼、その死 29 (0.47%)
# それって卑弥呼なの? 29 (0.47%)
# 大國主伝説を読み解く 28 (0.45%)
# オモチャの手錠 28 (0.45%)
# 富士山とは 27 (0.43%)
# 巫女と鬼道 27 (0.43%)
# 最終章8-29メソポタミア幻視行 27 (0.43%)
# 御井神の素顔を訪ねて 26 (0.42%)
# マジカル・ヒストリー・ツアー 26 (0.42%)
# 最終章8-30三輪山へ 26 (0.42%)
# 有りて有るもの 26 (0.42%)
# そして金縛り 24 (0.38%)
# おじいちゃんといっしょ 24 (0.38%)
# 最終章7-13隹(ふるとり) 23 (0.37%)
# 赤井の氷川社 23 (0.37%)
# 最終章8-15空き腹生徒 23 (0.37%)
# ピラミッドとはなにか 22 (0.35%)
# リモコンがこわれちゃった 22 (0.35%)
# 横邑の封印を解く 22 (0.35%)
# どうして横向いてるの? 22 (0.35%)
# 虚像から実像へ 22 (0.35%)
# 稚日女殺人事件 21 (0.34%)
# 深い江 21 (0.34%)
# 雨の日のデート 20 (0.32%)
# 最終章8-23手をかざしてごらん 20 (0.32%)
# 京都にて 20 (0.32%)
# 片目のジャック 片目の男 20 (0.32%)
# 黄金太陽 20 (0.32%)
# 女王台与の生涯 19 (0.30%)
# 鎮魂の旅 19 (0.30%)
# 『ヨブ記』梗概 19 (0.30%)
# 鏡餅の世界 19 (0.30%)
# サタンの爪 19 (0.30%)
# 仮面劇場「松尾大社」 18 (0.29%)
# 根の國訪問 18 (0.29%)
# スター誕生 17 (0.27%)
# トヨの本名 17 (0.27%)
# 消された神名 16 (0.26%)
# シカトされた女王 16 (0.26%)
# 譜面に書いた物語目次 16 (0.26%)
# 禮菠社 16 (0.26%)
# 政権委譲から自立へ 15 (0.24%)
# 闇夜の国から 15 (0.24%)
# 最終章8-18十三詣り 15 (0.24%)
# 最終章8-25ムーン 15 (0.24%)
# 最終章5-2須磨で 15 (0.24%)
# 最終章4-1一寸法師 14 (0.22%)
# 『ヨブ記』プロローグ 14 (0.22%)
# 主の問いかけ 12 (0.19%)
# サタン登場 12 (0.19%)
# 最終章8-8七福神巡り 12 (0.19%)
# 『ヨブ記』読解終了 12 (0.19%)
# 緋色の女完結編 12 (0.19%)
# ヨブの妻 12 (0.19%)
# こわれた夢 11 (0.18%)
# 「恐れ」 11 (0.18%)
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毎月、アクセス数によって人々の興味の推移をみていると「つきのみや」「 伊雑宮事件」 「サナート・クマラ」「 崇神と倭姫「地球の歴史「十種神宝」の基礎知識 」「大天使ルシファー」「 ケプラーの宇宙像」 などのページに対するアクセス数が多くてトップを争っているが今月は特に旧約聖書の『ヨブ記』関係に対するページに興味をもたれる方が多かったようだ。
fumio
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昭和49年10月20日(日)第9回京都滋賀職域団体将棋大会で優勝した松下電子工業Bチームは主催紙である京都新聞の将棋欄を担当する南口 繁一(みなみぐち しげかず)八段と角落ちの記念対局をして新聞に掲載されることになった。わたしたちのチームは一級が三人と高槻の中井捨吉先生の道場に通って初段になった一人で構成されていた。
角落ちということでみんなで定跡の研究して用意した。当日、記者の方がわたしたちの段位を訊かれるので一級が三人と初段が一人のチームであることを告げた。するとなんだか気落ちされたようで南口先生に「優勝されたのだから、全員に初段を認めるというわけにはゆきませんか」と問う。南口先生は首を縦にふらないままに対局が始まった。安東さんというメンバーが代表で指してわたしたちはむづかしい局面で相談して指し手を決めるという方式だった。研究してきた変化かすぐに外れ一気に悪くなった。いくら相談しても無駄だった。プロの強さをまざまざと見せられて負けてしまった。
対局が終わったあとで記者がまた「優勝メンバー全員に初段を認めるというわけにはゆきませんか」と何度も南口先生に打診した。ある程度の段位のメンバーがいないようなチームが優勝しては大会の権威が軽くなるのかもしれなかった。それでも南口先生はOKしなかった。わたしは残念なような清々しいような気がした。囲碁でも普及のために政治家や有名人に実力以上の高段を贈るということを耳にする。中井捨吉先生や南口繁一先生の時代の棋士は厳しくて素人に対しても真摯に接してくれたようである。
fumio
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わたしは高校卒業後、京都市内の紙関係の商事会社に就職し半年ほどして大阪高槻の松下電子工業に転職した。それはテレビのブラウン管を製造する仕事で毎日ただひたすら決められた数のブラウン管を作るだけであった。昼休みにはみんな広場でソフトボールやバトミントンなどさまざまに過ごした。そのうちに将棋をやっている人達がいてわたしも指してもらうとコロリと負けた。それでそのモクさんという人に毎日指してもらった。実力が違うので駒を落としてもらったが歯が立たなかった。毎日毎日ずーっと負け続けた。どうしたら勝てるのかわからなかった。それで将棋の本を買って夜家で駒落ち将棋の勉強をして会社で昼休みに指すと初めて飛車落ちで勝てた。それからやっと対等である平手で指してもらうことになった。わたしは平手の定跡も覚え仕事場に詰め将棋の本を持ってきてブラウン管を抱えながら頭の中で詰め将棋を解いていた。そしてわたしはモクさんに平手でも勝ち始め、それからモクさんはわたしを敬遠して指してくれなくなった。わたしの職場で指してくれる相手がいなくなった頃、他の部署から将棋を指そうと中尾という人がやって来た、指してみると強くて負けた。かれに会社の将棋部に入れと誘われて金曜の夜に将棋部に顔を出した。するとそこに顧問のプロ棋士中井捨吉七段がやって来て二枚(飛車角)落ちで指してくださった。そして「あんたは一級ぐらいでんな」と実力を判定された。中尾さんも一級なので同じぐらいの実力のようだった。
昭和49年10月20日(日)第9回京都滋賀職域団体将棋大会が開催され松下電子工業からもAとBのチームが初出場した。Aは段位者を集めBは級位者を集めたのだ。どういうわけかわたしを含めた級位者を集めたBチームが決勝に進み大日本印刷Aを破り優勝してしまったのだ。どのチームも三段四段クラスを揃えて強豪なのに優勝してしまってなにかおかしかった。素人が何段といってもべつにあまり関係ないらしかった。
中井捨吉七段は生前、将棋連盟に「八段を贈ります」といわれるたびに「わてはそんなもん。いりまへん。」と断り続けた。自分の七段という段位に誇りをもち自分の弟子の弟子のような人たちに八段を贈られることを良しとはしなかったのだろう。現在将棋連盟は亡くなった中井捨吉先生に八段を追贈して中井捨吉八段としているがはたして先生自身はどのように思っておられるだろうか。合掌。
fumio
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歌舞伎十八番の一 享保三年 二代目 市川団十郎
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拙者親方と申すは、お立ち会いの内にご存じのお方もござりましょうが、お江戸をたって、二十里上方、相州小田原、一色町をお過ぎなされて青物町を登りへおいでなさるれば、欄干橋虎屋籐右衛門、只今は剃髪致して、円斎と名のりまする。
元朝より大晦日までお手に入れまするこの薬は、昔、ちんの国の唐人外郎という人わが朝へ来たり、帝へ参内の折からこの薬を深くこめ置き、持ちゆる時は一粒ずつ、冠のすき間より取り出だす。依ってその名を帝より「透頂香」と賜る。即ち文字には、「透く頂き香」と書いて「とうちんこう」と申す。
只今は、この薬殊の外、世上に広まり、ほうぼうに偽看板を出だし、イヤ小田原の、灰俵の、さん俵の、炭俵のと色々に申せども、平仮名をもって「ういろう」と記せしは、親方円斎ばかり。
もしや、お立ち会いの中に、熱海か塔ノ沢へ湯治にお出でなさるるか、又は、伊勢参宮の折からは、必ず門違いなされまするな。お登りならば右の方、お下りなれば左側、八方が八棟、表が三棟玉堂造り破風には菊に桐のとうの御紋を御赦免あって、系図正しき薬でござる。
イヤ最前より家名の自慢ばかり申しても、ご存じない方には正身の胡椒の丸呑み、白河夜船、さらば一粒食べかけて、その気味合いをお目にかけましょう。
先ずこの薬をかように一粒舌の上にのせまして腹内へ納めますると、イヤどうも言えぬは、胃・心・肺・肝がすこやかになりて薫風喉より来たり、口中微涼を生ずるが如し。魚鳥・きのこ・めん類の食い合わせ、その外、万病即効あること神のごとし。さてこの薬、第一の奇妙には舌のまわることが銭独楽がはだしで逃げる。ひょっと舌がまわりだすと、矢も楯もたまらぬじゃ。
そりゃそりゃ、そらそりゃ、まわってきたは、まわってくるは、あわや喉、サタラナ舌に、カ牙サ歯音、ハマの二つは唇の軽重、開口さわやかに、アカサタナハマヤラハ、オコソトノホモヨロオ。ひとつへぎへぎに、へぎほしはじかみ。盆豆、盆米、盆ごぼう、つみ蓼、つみ豆、つみ山椒、書写山の写僧正、粉米のなまがみ、粉米のなまがみ、こん粉米のこなまがみ、繻子、緋繻子、繻子、繻珍、親も嘉兵衛、子も嘉兵衛、親かへい子かへい、子かへい親かへい、古栗の木の古切り口、雨がっぱか、番合羽か、貴様のきゃはんも皮脚絆、我等がきゃはんも皮脚絆、しっかわ袴のしっぽころびを三針ながにちょと縫うて、ぬうてちょとぶんだせ、かわら撫子、野石竹。
のら如来、のら如来、三のら如来に六のら如来、一寸先のお小仏に、おけつまずきゃるな。細溝にどじょにょろり。京の生鱈、奈良なま学鰹、ちょと四五貫目、お茶立ちょ、茶立ちょ、ちゃっと立ちょ茶立ちょ、青竹茶せんでお茶ちゃっと立ちゃ。
来るは来るは、なにがくる。高野の山のおこけら小僧、狸百匹、箸百膳、天目百杯、棒八百本。武具、馬具、武具馬具、三ぶぐばぐ、合わせて、武具馬具、六ぶぐばぐ。菊、栗、菊栗、三菊栗、合わせて菊栗、六菊栗。麦ごみ、麦ごみ、三麦ごみ合わせて麦ごみ、六麦ごみ。あの長押の、ながなぎなたは、誰が長薙刀ぞ。向こうのごまがらは、荏の胡麻がらか、真胡麻がらか、あれこそほんの真胡麻がら。がらぴいがらぴい風車、おきゃがれこぼし、おきゃがれこ法師、ゆんべもこぼして又こぼした。たあぷぽぽ、たあぷぽぽ。ちりから、ちりから、つったっぽ、たっぽたっぽ一丁だこ、落ちたら煮て食お、煮ても焼いても喰われぬものは、五徳、鉄きゅう、かな熊どうじに、石熊、石持ち、虎熊、虎きす、中にも、東寺の羅生門には茨木童子がうで栗五合、つかんでおむしゃる、かの頼光のひざ元去らず、鮒、きんかん椎茸、定めてごたんな、そば切り、そうめん、うどんか、愚鈍な小新発知、小棚の、小下の、小桶に、こ味噌が、こ有るぞ、こ杓子、こもって、こすくって、こよこせ。おっと合点だ、心得たんぼの、川崎、神奈川、程ヶ谷、戸塚は、走っていけば、やいとを擦りむく、三里ばかりか、藤沢、平塚、大磯がしや、小磯の宿を、七つおきして、早天早々、相州小田原とうちんこう、隠れござらぬ貴賎群衆の、花のお江戸の花ういろう、あれあの花を見て、お心を、おやわらぎやという、産子、這う子に至るまで、このういろうのご評判、ご存じないとは申されまいまいつぶり、角だせ、棒だせ、ぼうぼうまゆに、うす、杵、すりばち、ばちばちぐわらぐわらぐわらと、羽目をはずして今日お出でのいずれも様に、上げねばならぬ、売らねばならぬと、息せい引っぱり、東方世界の薬の元締、薬師如来も照覧あれと、ホホ敬って、ういろうは、いらっしゃりませぬか。
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最近、「クールジャパン、かっこいい日本」が叫ばれ歌舞伎など日本文化に人気が集まっているという。先祖帰りということだろう。時代の先端を行くように見えるテレビラジオ、映画演劇などのアナウンサー、キャスター、俳優らの基本練習には発声発音、滑舌音声表現のほとんどの要素が含まれている享保年間に活躍した二代目市川団十郎作の歌舞伎十八番の一つである「外郎売(ういろううり)」 が使用されているのである。
わたしがアメリカから帰国後入った原宿のタレント事務所では声優養成コースのクラスが実力に応じてABCに分かれていた。稽古をしているうちに機を見てテストを受けて上がってゆくことになっていてCクラスで入ったわたしはしばらくしてテストを受けてBに上がった。BからAクラスにもしばらく稽古した後テストを受けて上がった。その時点ではそこがトップのクラスということでかなりの期間をそこで過ごしていたがそのうちに特Aクラスという事務所で10人だけしか入れないプロのレベルのクラスを作ることになった。昔NHKのアナウンサーをやっていたという社長が審査するのである。わたしも特Aクラステストを受けてみたが厳しくて何度受けても通らなかった。Aクラスに前からいたトップの実力の人たちは何人か通った。それでわたしはこの業界のバイブルである「外郎売」を毎日毎日練習してテストに臨んだ。そして3ヶ月目くらいに社長の前で「外郎売」を演ってみせてついに受かったのである。かといって声優の道には進まなかったのだが…。それで「外郎売」はわたしにとって思い入れが深い歌舞伎演目なのである。こんな発声発音、滑舌のバイブルを創った二代目市川団十郎はえらいなあ、と感心する。
fumio
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金本位制の経済法則、グレシャムの法則「Bad money drives out good. 悪貨は良貨を駆逐する」は、今日ではあらゆる世界で使用されるようになった。政治の世界ではその国民のレベルに見合った政治家が選出されてその国を衰亡させ滅亡へと導く。 音楽の世界でも同じでわたしは10年間の米国生活から帰国後、日本の音楽シーンがずいぶん変わってしまったと感じた。コムロという天才が現れて同じような音楽が工場で大量生産された。そしてモームスと呼ばれる女の子たちがテレビに溢れるようになりわたしたちの世代はテレビで日本の音楽番組を辛くて見ることができなくなった。プロデューサーたちがそれで良しとしたのだろう。大衆がそれを支持しているのだからと。良貨は大衆の支持を得られないが存在する。良貨を見分ける力のないものが中枢に居座り今日の状況を導いたのである。あのビートルズさえも初め、デッカレコードその他のレコード会社に断られ続けた。いつか「Good money drives out bad. 良貨は悪貨を駆逐する」と本来あるべき姿へと帰る日は来るのだろうか。
fumio
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もう人々の記憶が薄れているかと思うが2006年9月25日埼玉県川口市で車の運転者が助手席のカセットプレーヤーを操作しながら時速50-55キロで走行し、公園に向かう園児らに突っ込み21人が死傷、結局園児4人が死亡した事故があった。事故後現在は市道には30キロの速度制限の標識が立てられ子供たちも一般の歩行者も安全になった。その保育園の理事長、関定夫氏は東川口の方の小鳩保育園は手放ししばらく落ち込んでいたが昨年、『園長先生の子育て講座』 という本を出版して友人であるわたしに送ってきた。その本が浦和の須原屋総本店にも置いてもらえることになったというハガキが昨日届いた。あの頃、試練 と口にしていたがその試練をひとつ乗り越えたようである。
fumio
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その頃、関西の三大ギタリストといえば大阪の上田正樹の「South to South」のクンチョーこと堤和美、京都の「ウエスト・ロード・ブルース・バンド」の塩次伸二 、大阪の「憂歌団」の内田勘太郎、という定説があった。クンチョーはファンク系、塩次伸二はブルース系、内田勘太郎はボトルネック奏法でそれぞれに世界を築いていた。その中で塩次伸二は人なつっこくてライヴのあとで会場の外に出てきて集まったファン兼ギターキッズたちとの交流を楽しんだ。わいわい、ブルースや音楽談義をして最後に「おまえらもがんばれよ!」とプロを目指す後輩たちにはげましの声をかけるのであった。わたしはステージ上でブルースギターを弾く姿とのギャップが大きいなと感じた。
その塩次は2008年10月19日、栃木県佐野市での公演のリハーサル後、心不全のため急逝した。仲の良かったギタリスト、ヤッチはその報せを聞いて京都のライブハウスの楽屋で号泣したという。あの熱かった時代を支えた人々がすこしずつ姿を消して行く。今はその残照もすこしずつ薄れ行き、やがては新たな 光が差すのだろう。合掌。
fumio
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龍谷大学の講堂でのライブのあとブルーマウンテン・ブルースバンドのドラムのノッチンのかの女、ツグミがやってきて、わたしがライブで歌った 「打ち上げ花火」を女性デュオで歌いたいというのでOKした。その頃はまだ二番までしかなかったがかの女たちの参加したコンサートでスリーフィンガー奏法で立派に演奏していた。男のわたしが歌うより詩情に溢れているような気がした。京都という土地柄、わたしの知らないうちにご当地フォークとしてかの女たちのまわりでヒットしていたようだった。
その 「打ち上げ花火」も渡米後わたしがアルバム「カリフォルニア・サンシャイン」 の一曲としてレコーディングする際には三番にアメリカ生活の歌詞を付け加えることにした。京都とアメリカのご当地フォークということかも…。なにごとも変わり行く。
fumio
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音楽喫茶「ジョイ&マリ」に集まるミュージシャンたちが龍谷大学の講堂でライブをやることになった。京都の有名大学のサークルの多くのバンドが参加してタワー・オブ・パワーのようなブラスセクションが入っていたりかなりハイレベルな演奏がくりひろげられて驚いた。わたしはその中で異分子のようにフォークギターを抱えて自作の曲を披露した。エンディングの一大セッションに各ギタリストが腕を競い合っていた。ブルーマウンテン・ブルースバンドのボーカル、ヒロアキは得意のハープ(ブルースハーモニカ)を吹きまくっていた。わたしも舞台に呼ばれると得意の指笛でリードをとり対抗した。その時一番目立っていたのはBB・キングの愛器「ルシール」のようなギブソンES335を抱えた「薫ちゃん」だった。ギブソンES335はガタイのでかい外国人には似合っても普通の日本人には少し不釣り合いなのだ。薫ちゃんは日本人の中でも小さい方なのでギターが身体を隠して見えた。それでもくり出すフレーズは素晴らしかった。かれは買ってきた新譜レコードのギターをすぐにすべてコピーしてしまうという噂だった。こんなすごいギタリストがいるのかと感心した。薫ちゃんはわたしの家にみんなで泊まりに来た時、キンクスの輸入盤アルバムを気に入って持って帰った。リバプールサウンドも好きなようだった。そしてしばらくするとその頃、京都のブルースシーンでウエストロード・ブルースバンドと双璧をなしていた「Blues House Blues Band」というバンドでボーカルをやっていた西村入道のバンドに参加した。スタジオでのそのバンドの稽古風景を見に行くと入道がスティヴィー・ワンダーの「マイ・シェリー・アモール」をやっていた。ブルースから脱皮したのかと思った。
「Blues House Blues Band」は近藤房之介が参加して「Break Down」になりそして近藤房之介はのちになんとアニメ「チビマル子」のテーマソングでブレークする。人は変わるもの。あの頃みんなに薫ちゃんと呼ばれた名ギタリスト藤原薫はどうしていることだろうか。もうありとあらゆる曲のギターをコピーしてはいないだろう。…と思うのである。
fumio
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その時代、京都にはわたしが出演できるようなライブハウスというものがあまりなかった。そんな場所を探しているうちに新京極に新しい軽食喫茶店ができた。そこにはまともなPAシステムとステージがあってライブ演奏ができるようになっていた。それでわたしは毎週日曜日に弾き語りを始めた。ほとんどオリジナル作品で少しリクエストのサイモン&ガーファンクルの「ボクサー」などを歌った。その頃、「川村 尚(かわむら ひさし)デデ」という名前で近畿放送=現KBS京都でPOPS IN PICTUREという洋楽テレビ番組をやっていた川村 龍一(かわむら りゅういち)がそこで収録したものだった。
そのうちわたしは音楽誌で伏見桃山にあるジョイ&マリという店でもライブをやっているという記事を見つけたので行ってみた。ところがそこは定期的にライブがあるわけではなかった。ミュージシャンのたまり場になっていて好きなレコードをマスターのジョイさんにかけもらってあれこれ話していたのだ。あるギタリストが音楽をやるなら「ジャズコード理論講座」という本で勉強した方がいいと奨める。それまで歌うには理論はいらないと思っていたが「十字屋」という音楽店に買いに行った。在庫がなくて困ったがケーゾウが基礎編を持っているというので借りて読んだ。ケーゾウは応用編を買って勉強した。ケーゾウは将来音楽で身を立てるつもりだったのである。わたしもやっと「十字屋」に入ってきた基本編と応用編を購入して集中して勉強した。ジョイ&マリという店はわたしにミュージシャンとしての知識を身に付けさせてくれたので感謝している。たまにそこでライブが企画されるとわたしが歌い多くの客兼ミュージシャンが楽器を担当して楽しんだのであった。
fumio
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ケーゾウの幼なじみで中学の同級生にヤッチという男がいた。ケーゾウは普通高校に受かりヤッチは定時制に進んだ。ふたりはそれぞれ剣道部に入りケーゾウは二段になりヤッチは大会で優勝するほどの実力で三段になる。一年上のヒロアキという先輩がバンドをやろうとヤッチを誘うのでギターを担当すると当時、京都でブームになってきたブルースを主に演奏することになりボーカルのヒロアキの苗字の青山とコーヒーの銘柄をかけてブルーマウンテン・ブルースバンドと名乗った。そして8月8日に決勝が万博広場で行われる88(ハチハチ)ロックデイというバンドコンテストに出場して万博広場での決勝に残り賞をもらったがヒロアキが一足先に卒業したので解散状態になっていた。
わたしがよく行った音楽喫茶「ジョイ&マリ」にかれらがやってきてバンドの話しをした時、わたしがボーカルをやることにしてヒロアキから桃山高校の軽音楽部の部室に置いたままのボーカルアンプを買い、渡米までバンドの練習を始めた。授業後の練習が終わるとよくヤッチの家に集まった。ヤッチはその頃、アフロヘアにしていたので近所の子供に、「あッ、コーヒービートのお兄ちゃんや、」と指さされていた。ヤッチの親は子供には全くかかわらず二階のヤッチの部屋には来なかった。そこでレコードをかけたり楽器を弾いたり天才肌のヤッチの早弾きギターをフィーチャーした16(シクステーン)ビートの曲を作ったりわたしの作った曲を教えたりして夜を明かしたものだった。
そして今ヤッチ はギタリストとして名を挙げ現在京都のライブスポットRAGなどでライブ活動している。昨年2009年7月16日(木)には『西野やすし & THE KANSAI』with『blue mountain blues band 35th Anniversary』と称してブルーマウンテン・ブルースバンドの35周年記念イベントを催していた。
fumio
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そして、わたしは1976年11月に渡米した。多くのバンド仲間が京都駅の新幹線ホームに見送りに来てくれたということだったがわたしと顔を合わせることがなかった。出発時間を間違えていてその時わたしはすでに出発したあとだったのである。手紙でそのことを知って悪いことをしたと思った。
ケーゾウはベーシストとしてナベプロに入って働いた。渡米後もかれとは手紙での交流が続いていてかれの好きなジャズのアーティストの新譜の評などで盛り上がった。
そのうちケーゾウからカリフォルニアで行われるジャズフェスティバルに出場する話題の超絶ベーシスト、ジャコ・パストリアスを見に来ると手紙が来て、なにか欲しい物があればアメリカまで運んでやるという。それでその頃発売されたばかりのヤマハのミュージックコンピューターを頼んだのである。
ひさしぶりに会ったケーゾウは口ヒゲを生やしていてずいぶん大人になっていた。ジャムセッションをするとチョッパーなど色々な奏法を採り入れ腕を上げていた。その頃わたしが取り組んでいた「サムライ達は今」 のベースを弾いてもらってレコーディングしたりした。
ジャズフェスティバルに出かけてジャコ・パストリアスを見たケーゾウはジャコのベースはすごい、すごい、と感心しまくっていた。かれは幸運だった。ジャコの生ける勇姿をその眼に焼き付けることができたのだから。ケーゾウをそれほど感動させたジャコ・パストリアスは「ミッドナイト・ボトルクラブ」という店で警備員リュック・ヘイヴァンに投げ飛ばされ脳挫傷による意識不明の植物状態となって親族の決定により人工呼吸器が外され、1987年9月21日、21時25分、35才の若さでこの世を去って伝説になってしまったのである。合掌…。
fumio
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