§出会い、今の共有=存在の共有
人は人と出会い、各々の『今』を共有する。そこに愛の相互照射が行われ、お互いの自己確認行動が行われる。ここに仮に2本の針金があるとしよう。Aさんという人とBさんという人が居て出会うことにしよう。この針金を、それぞれAさんとBさんに当て嵌めて考えることにする。AさんとBさんとの出会いは針金の一番端に定める。3cm毎順番に、1、2、3…と印をつけておく。この針金が真っすぐで平行の場合にはAさんとBさんの付き合いは成立しない。針金を絡み合わせることでAさんとBさんとの付き合いが成立する。AさんとBさんとの出会った地点を1と定める。2本の針金の両方に同じ力を加えた時には綺麗な弧を描いて絡み合うが、どちらかの針金に力を余計に加えたり、反対に力を加えなかったりすると綺麗な弧は描けない。両方の針金に同じ様な力が加わった場合に、先だって付けた番号も同じ番号の所で双方が接触してゆくのが分かるだろう。力が不均衡な場合には接触場所の番号もズレてゆくだろう。
『今』の共有もこの針金と同じことで、AさんBさんの両方が『今』を共有しようと望み努力している場合には、一致点で愛が満たされ爽やかな喜びや透明感を感じることができる。どちらかが一方的に望んだり努力している場合やどちらかが自分のやり方を貫き通そうとしていて、相手のやり方を認めることが出来ない場合には一致点に間隙が生じる為に愛が満たされず、何となく不満足感や不透明感が残る。例えばAさんの努力がBさんの努力を上回る時、Aさんの成長進行速度とBさんの成長進行速度とにズレが生じてきて、その分共有時間の『今』の番号にもズレが生じる。針金で考えれば簡単だと思う。AさんがBさんと『今』を共有しようと努力しているのに、Bさんは努力をしない。つまりAの針金が曲がってゆこうとしているのに、Bの針金は真っすぐ伸びたままであるということは3cm刻みでつけた番号の位置も変わってくるということなのだ。
例えばAの5番目の『今』とBの5番目の今とが重なると非常にしっくりした時間を共有できるが、Aの10番目の『今』とBの8番目の『今』とが重なると2個分のズレがあるために少し不満が残るだろう。共有時間の番号は最初は少し違うだけかも知れないが少しずつ少しずつ間隙が大きくなり、最後には『今』を共有することは全く不可能になってしまう。
成長進行速度は人それぞれに異なるが、互いに相手を成長させよう、つまり『生かそう』という努力が、『今』の共有をなるべく同じレベルで続け少しのズレで抑えて続けてゆくことができる。
§存在を愛することについて
存在するというのは、心が状態を認め識ること、つまり心が『今在る状態』を認識することだ。人間は実体を持っている。その実体の状態を曇りなく見詰め、心・魂がその状態をハッキリ認識する時に、存在していることの意味性や理由などのずっと以前に『在る』ことそのものを識るだろう。『今』というのは、その認識した状態の連続する部分そしてそれら部分と部分との間の作っているエネルギー場である。理解の為に少し簡略化して言うと、『今』とは意識と意識の間の部分を含めた連続するエネルギー場である。
『今』
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│意識│間│意識│間│意識│間│意識│間│意識│
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意識の部分にも間の部分にも実在することが『今』を形作ると言える。意識と間とは、間/意識/間というぐあいに1セットになっているのが普通で、まず『間』の部分で何かの対象を心・魂で感じ取り、それらを実体の大脳神経に伝える。この伝える部分が『意識』の部分だ。実体(大脳)に認識されたものを再び心・魂の部分に映すことで『今』の第1の部分が成立する。そしてこの連続が『今』なのだ。そしてこの連続を認識することが『存在』なのだ。
存在を愛するということは、自分或いは自分以外の生命体の実体の場と心・魂の場の連続性を認め受け入れることだ。存在を愛することは『今』を大切にすることにつながる。何故ならば何度も述べた様に、存在とは『今』の連続に外ならないからだ。『今』を大切にできない人は、存在を大切にする方法が分からない。存在することを大切に出来ない人は、結局『無』の方向へとつながるエネルギー場に立つことになる。存在の対極にあるものが『無』だからだ。存在を丸ごと認めることの出来ない人は分断された『今』の破片と付き合うことになるだろう。存在を丸ごと認めない、愛せないということは自分或いは自分以外の生命体の『今』の連続性をも無視しかねないことなのだ。この存在の連続が『生命』であることから考えると、自分或いは自分以外の生命体の存在自体を愛せないということは積極的では無いにしても、自分や自分以外の生命体を『無のエネルギー場』へと送り込む行為につながるだろう。そして、この行為は宇宙生命潮流からの逸脱を意味している。
どんな生命体でも愛せる-もし愛せないと言う人が居るなら、その人は大切な事を誤解しているに違いない。愛は『無』から作るものではない。愛は元々、全ての生きとし生けるものの中にある定理なのだから。生かす、生きて行くというエネルギーの力として、愛がそこに在る。生命、愛の定理は大自然・大宇宙に偏在する生成エネルギーの法則なのだから『在る』わけなのだ。人は人と出会い、その人の中に光る愛を見付けるだけなのだ。
生命体の個体差によって、見付け易い場合と見付けにくい場合とがあるが、決して『無い』わけではない。この点をよく覚えておいて欲しい。
15 JUL 1989
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