この部分は、イザナギがイザナミを追って「黄泉の国」を訪問する有名な場面で様々な象徴と暗号に満ちている。この暗号を解かねば真意がわからない。
『古事記』は、稗田阿禮が「誦習した『帝皇日継』と『先代旧辞』を太安萬侶が書き記し、編纂したもので阿禮の発していることばの音を写す安萬侶の文字の選び方がかなり重要だった。解読のために阿禮の発したことばから数字にできるものを以下に数字にしてみる。
「ここにその妹(いも)伊邪那美(七三)命を相見むと欲(おも)ひて、 黄泉國(四三のくに)に追ひ往きき。ここに殿(十の)の縢戸(三四十)より出で向かへし時、 伊邪那岐命、語らひ詔(の)りたまひしく、「愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命(みこと)、 吾(五)と汝(いまし)と作(さ)れる国、未だ作り竟(を)へず。 故(かれ)、還るべし。」とのりたまひき。ここに伊邪那美命答へ白(まを)ししく、 「悔しきかも、速く((八八九)来ずて。吾(五)は黄泉戸喫為(四三つ十ぐひ)しつ。 然れども愛しき我が汝夫(七せ)の命、入り来(き)せる事恐(かしこ)し。 故、還らむと欲ふを、且(しばら)く黄泉神(四三つがみ)と相論(あげつら)はむ。 我をな視(み)たまひそ。」とまをしき。 かく白してその殿の内に還り入りし間、甚(いと)久しくて待ち難(かね)たまひき。 故、左の御美豆良(三三づら)に刺せる湯津津間櫛(ゆつつま九四)の男柱一箇(ひとつ)取り闕(か)きて、 一つ火燭(びとも)して入り見たまひし時、蛆(うじ)たかれこころきて、 頭(かしら)には大雷(おほいかづち)居り、胸には火(ほの)雷居り、腹には黒雷居り、 陰(火十)には拆(さき)雷居り、左の手には若(わか)雷居り、右の手には土雷居り、 左の足には鳴(なり)雷居り、右の足には伏(ふし)雷居り、 并(あは)せて八はしらの雷神(いかづちがみ)成り居りき。
ここに伊邪那岐命、 見畏(かしこ)みて逃げ還る時、其の妹伊邪那美命、「吾に辱(はぢ)見せつ。」と言ひて、 即ち黄泉醜女(四三つ四五め)を遣(つか)はして追はしめき。 ここに伊邪那岐命、黒御鬘(かづら)を取りて投げ棄(う)つれば、 すなはち蒲子(えびかづらのみ)生(な)りき。こを擾(ひろ)ひ食(は)む間に、逃げ行くを、 なほ追ひしかば、またその右の御角髪(三三づら)に刺せる湯津津間櫛(ゆつつま九四) を引き闕(か)きて投げ棄(う)つれば、すなはち笋(たか六七)生りき。 こを抜き食む間に、逃げ行きき。 且後(またのち)には、その八はしらの雷神に、千五百(ちいほ)の黄泉軍(四三つ五九三)を 副(そ)へて追はしめき。ここに御佩(はか)せる十拳劒(とつかのつるぎ)を抜きて、 後手(しりへで)に振(ふ)きつつ逃げ来るを、なほ追ひて、 黄泉比良坂(四三つ平(一八十)の坂本(さかもと)に到りし時、 その坂本にある桃子(百の三)三箇(みつ)を取りて、待ち撃(う)てば、 悉(ことごと)に迯(に)げ返りき。ここに伊邪那岐命、その桃子に告(の)りたまひしく、 「汝(なれ)、吾(あれ)を助けしが如く、葦原中國(あしはらのなかつくに)に あらゆる現(うつ)しき青人草(あをひとくさ)の、苦しき瀬に落ちて患(うれ)ひ愡(七八)む時、助くべし。」 と告(の)りて、名を賜ひて意富加牟豆美(おほかむづみ)命と號(い)ひき。
最後(いやはて)に其の妹伊邪那美命、身自(みずか)ら追ひ来りき。 ここに千引(ちびき)の石(一八)をその黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、 その石を中に置きて、各對(おのおのむか)ひ立ちて、 事戸(九十)を度(わた)す時、伊邪那美命言ひしく、 「愛(うつく)しき我が汝夫(なせ)の命、かく為(せ)ば、 汝(いまし)の國の人草、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ。」といひき。 ここに伊邪那岐命詔(の)りたまひしく、 「愛しき我が汝妹(なにも)の命、汝然為(いまししかせ)ば、 吾一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てむ。」とのりたまひき。 ここをもちて一日に必ず千人(ちたり)死に、一日に必ず千五百人(ちいほたり)生まるるなり。 故、其の伊邪那美命を號(なづ)けて黄泉津(よもつ)大神と謂ふ。 また云はく、その追(お)ひししきしをもちて、道敷(みちしき)大神と號(なづ)くといふ。 またその黄泉の坂に塞(三八)りし石は、道反之(千がへしの)大神と號け、 また塞(三八)り坐す黄泉戸(四三十)大神とも謂ふ。 故、其の謂はゆる黄泉津比良坂は、今、出雲国の伊賦夜(一二八)坂と謂ふ。」
fumio
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