monologue
夜明けに向けて
 




<17>

矢追(ヤオ)い 其麻(ソマ)の里(音で辿れ)
井戸の柱 井桁
行く道を見よ
「光の黙示録」より

******************
「光の黙示録」発表以来これまで全く意味不明でだれも採り上げることのできなかった「其麻(ソマ)の里」は三輪山 伝説を記した「古事記 中つ巻 崇神天皇条」からきていたことを矢(八)を追っているうちに発見した。

原文
此謂意富多多泥古人、所以知子者、上所云活玉依毘賣、其容姿端正。於是有壯夫、其形姿威儀、於時無比、夜半之時、倏忽到來。故、相感、共婚共住之間、未經幾時、其美人妊身。爾父母怪其妊身之事、問其女曰、汝者自妊。无夫何由妊身乎。答曰、有麗美壯夫、不知其姓名、毎夕到來、共住之間、自然懷妊。是以其父母、欲知其人、誨其女曰、以赤土散床前、以閇蘇此二字以音。紡麻貫針、刺其衣襴。故、如而旦時見者、所著針麻者、自戸之鉤穴控通而出、唯遺麻者三勾耳。爾即知自鉤穴出之状而、從糸尋行者至美和山而留社。故、知其子。故、因其麻之三勾遺而、名其地謂美和也。此意富多多泥古命者、君、鴨君之祖。


内容は「意富多多泥古(おおたたねこ)が、の子とわかった所以は、活玉依毘賣(いくたまよりひめ)が懷妊したのでその相手を知るために赤土を床の前に散らし、卷子紡麻を針に貫いて、その衣の襴(すそつき)に刺して見れば、針をつけた麻は、戸の鉤穴から通り出て、遺る麻は三勾(三巻きのこと)だけだった。鉤穴から出た糸に從って尋ね行くと、美和山に至って社に留まった。それで、そのの子とわかり、その麻が三勾(みわ)遺ったことで、その地を名づけて美和というようになった。この意富多多泥古(おおたたねこ)命が、君、鴨君の祖である。」という伝説である。「其麻(ソマ)の里」は「其麻之三勾」から名付けられたニギハヤヒの里、奈良三輪山を示唆していることが原文で初めてわかった。すなわち「矢追(ヤオ)い 其麻(ソマ)の里」とは「矢追(ヤオ)い三輪の里」でもあった。預言はいつか解読されることになっているのだがその日が今日であったのだ。

 それでは「井戸の柱 井桁」とはなんだろうか。その意味ももう解けるのだろう。わたしたちは矢(八)を追い、其麻(ソマ)の里をついに見つけた。そして杖としての「ひふみ図」も与えられ手にしているたのだから…。
fumio

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ククリ神はなぜ菊理媛というハンドルネームを選んだのだろうか。白山(はくさん)の白山姫(しらやまひめ)」は白が九十九を指すから意味がわかるがキクリと発するのではちょっと苦しい気がする。やはり文字に秘密があるらしい。媛はもちろん性別を示すのではなく「秘め」ということで、これは「菊理」を秘めているという名である。よくみれば「菊」には米が隠されている。「米」とは「八十八」の合わせ字で十字の中心から八方に爆発的に拡がる宇宙生成図。
 イザナミの神産みの最後に軻遇突智(かぐつち)を産んでイザナミが死んで怒ったイザナギは十拳剣「アメノオハバリ(天尾羽張)」で軻遇突智(かぐつち)を三段(みまた)に斬る。これはイザナミの提供した原料を前にしてイザナギがバイオ・テクノロジーに腕を揮ったという話しであった。CAGU(かぐ)の血、すなわち四つの塩基、C(cytosine)シトシン、A(adenine)アデニン、G(guanine)グアニン 、U(uracil)ウラシル、、を三つずつの単位(トリプレット)にきったということである。
こうしてできた遺伝暗号の一つの配列(コドン)を神とみなして斬った刀の血から八神が化成(な)る、と表現し、そして、斬られた軻遇突智の体からもう八神がなった、と八で括って表現する。八かける八で塩基配列の総数、六十四種類のことを示唆している。ありとあらゆる生物はこの暗号の組み合わせによってできあがる。十拳剣の別名「アメノオハバ(八八)り」にも八八を隠してある。
 そしてイザナギが追いかけてきた黄泉國で見たイザナミの姿は「於頭者大雷居、於胸者火雷居、於腹者黒雷居、於陰者拆雷居、於左手者若雷居、於右手者土雷居、於左足者鳴雷居、於右足者伏雷居、并八雷神成居。」となっていてやはりあわせて八の数の雷神(電子)とともにあった。
元素を原子価順にならべると八つごとに似た性質が現れることから周期表が作成されたように八が元素のひとまとまりとなる。イザナミはそこでも元素のひとまとまりから世界を構築しようとしていたのである。

 現世に戻ったイザナギの鼻から生まれたスサノオは日本最古の和歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」と詠った。これもまた八を積み重ねる国造りの歌であった。元素も生物も国も八の積み重ねでできあがったのだ。

 菊理の「理」はコトワリで九十終わり。菊の「八十八」でどんどん拡がり生成された宇宙が九十で終わり括られる。それが菊理媛という名前のもつ文字霊の意味であった。
fumio



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私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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6月20日(金)~6月27日(金)
ヒット数:1,473件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 

第1位(1)<3>水面に書いた物語
第2位(2)<2>女優(スター)
第3位(3)<4>あやかしのまち
第5位(5)<1>ごめんなさい
第7位(7)<6>軽々しく愛を口にしないで
第4位(4)<5>オーロラの町から
第9位(9)<6>ラスト・ランデヴー
第6位(6)<7>はるかなるメロディ
第10位(10)<11>ときめきFALL IN LOVE
第8位(8)<8>それってⅨじゃない
第11位(11)<14>マイ・スィート・ライフ
第13位(13)<10>Stay with me
第12位(12)<12>素顔のマスカレード
第18位(18)<16>わかりあえる日まで
第14位(14)<**>まことのひかり
第15位(15)<15>恋すれば魔女
第16位(16)<13>Sentimentallady”M”
第17位(17)<18>NEVER GIVE UP!
第19位(19)<17>しあわせになれる


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全体的に順位の変動は少ないがこのアルバムのよそもののはずの「まことのひかり」が今週も第14位に居座っている。自分自身の「まことのひかり」に気づく時代に入ったのだろうか。ご愛聴感謝。
fumio





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日本書紀一書第十原文

 及其与妹相闘於泉平坂也、伊奘諾尊曰、始為族悲、及思哀者、是吾之怯矣。
 時泉守道者白云、有言矣。曰、吾与汝已生国矣。奈何更求生乎。吾則当留此国、
不可共去。
 是時、菊理媛神亦有白事。伊奘諾尊聞而善之。乃散去矣。


*****************

これは記紀において括りの神がたった一度登場する場面である。

 イザナミと泉平坂(よもつひらさか)で相争うとき、イザナギは
「始め悲しみ哀れんだのは、わたしが怯えたから」という。
 このとき泉守道者(よもつもりびと)がいうには「わたしはあなたにすでに国を生んであげたのになぜこの上、生むことを求めるのですか。わたしはこの国に留まります。共に去れません」。 このとき菊理媛神(くくりひめのかみ)が、また申し上げることがあった。イザナギはこれを聞き、ほめた。そして、去った、と一般的に解釈されてきた。
 ところが、菊理媛という神の素性が不明で『古事記』には記されないで、『書紀』のこの一書だけに現れて、何かを言ったとあってもその内容が記されていないので謎の神となっている。平田篤胤は『日本書紀通釈』において「菊理媛のククリは聞入の意か」と述べている。そして現在は菊理媛は白山(はくさん)の主祭神とされ白山姫(しらやまひめ)」と考えられている。
さて「菊理媛神」はこの場面で一体なにをしたのか。わけがわからない。仲直りさせたので縁結びの神ということになっているのだが…。
原文「菊理媛神亦有白事。」を「菊理媛神」がククリ神であるという前提で分析すると、
ククリ神が事(九十コト)を白(九十九)括った。「平坂」は平逆だから音霊逆転法でみれば「平(HIRA)」が「有(ARIH)」となる。つまり、菊理媛神が平坂を事(九十コト)で括ったからイザナギはそれをほめて安心して散去したのであった。
いつもながらニギハヤヒはあちこちに面白い仕掛けをちりばめて人を煙に巻いている。
fumio

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「○九十の誠」。○は九であり零。九で括りすべて零にかえる九理宇宙図。
九九理(括り)の神であり日月(ひふみ)神である天照国照彦天火明奇甕玉饒速日尊(ニギハヤヒ)の「ひふみ図」。
fumio

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「神示では012345678910と示し、その裏に109876543210があるぞ、
○九十の誠であるぞ、合わせて二十二、富士(普字・不二)であるぞ。
神示の始めに示してあろう。二二(富士)は晴れたり日本晴ぞ。」



「神示の始めに示してあろう」という「日月神示」の有名な日月神示冒頭の原文は「二二八八九十ニホんハれ」。それが「二二八八∂十二ほん八れ◎の九二のま九十の◎のちからをあら八す四十七れる」となり、「富士は晴れたり日本晴れ 神の国のまことの神の力をあらわす世となれる」と読まれる。
「二二八八九十ニホんハれ」と「二二八八∂十二ほん八れ」を並べると九が∂の渦巻きになって「れ」と読まれている。つまり、九は零でもある。それはこれまでに何度も述べてきた九理の秘法「○九十の誠」。九理が済めばクリスマスとなってつぎの次元が始まる。
fumio

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「神示では012345678910と示し、その裏に109876543210があるぞ、
○九十の誠であるぞ、合わせて二十二、富士(普字・不二)であるぞ。
神示の始めに示してあろう。二二(富士)は晴れたり日本晴ぞ。」


「012345678910]のそれぞれの数字は数霊であり「0」は1の前におかれる数霊で合計11数霊、その裏に下降する109876543210が計11霊ある。
登り数列「○九十」と裏が「誠」の漢字で九十コト成る。
登り11数霊と下り11数霊を「合わせて二十二。
これで表と裏を合わせた富士の図になる。
縦にすると
      二
      十
      二
 となる。そしてこれを富士(普字・不二)と文字を換えて説明している。
まず富士の「富」を分析すれば「宇宙」ということばを一字にまとめたような文字で下の「田」は十が回転している図である。「士」は上の「二十二」の縦書きの中に二つ見つけられる。上から下へ読んだときそして下から上へ読んだとき。この「二十二」はぐるぐる回転しても「二十二」なのだ。それを二十◎(フトマニ)と呼ぶ。
「普字」の「普」の字は「並日」。すなわち、日が現世とその裏にも輝いていることを示している。
fumio





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日月神示、五十黙示録 第五巻(昭和三十六年九月一日)
至恩之巻
第一帖
岩戸(言答)びらきと申してあるが、天は天の、地は地の、人民は人民の、動植物は動植物の、それぞれの岩戸をひらくのであるから、その立場々々によって違ふところがあるぞ、
それを自分のものさしで計って、岩戸ひらきとはこんなものぞと定めていると、いよいよ判らん時代となってくるぞ、気つけおくぞ。

第二帖
フトマニとは大宇宙の法則であり秩序であるぞ、
神示では012345678910と示し、その裏に109876543210があるぞ、
○九十の誠であるぞ、合わせて二十二、富士(普字・不二)であるぞ。
神示の始めに示してあろう。二二(富士)は晴れたり日本晴ぞ。

第三帖
判るように説いて聞かすから、今迄の智を一先づすてて、生れ赤児となりて聞いて下されよ。
天之鈿女(うづめ)の命が天照大神に奉った巻物には12345678910と書いてあったのぞ。
その時はそれで一応よかったのであるなれど、それは限られた時と所でのことで永遠のことではないぞ。

第四帖
この時代には一二三四五六七八九十の数と言葉で、死者も甦る程の力があったのであるなれど段々と曇りが出て来て、これだけでは役にたたんことになって来たのぞ。
岩戸開きの鍵であったが、今度の岩戸ひらきには役にたたんようになったのであるぞ。
始めに◎(○にヽ)がなくてはならん、◎(○にヽ)は神ぞ。

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以上、「コスモ・テン・パブリケーション発行、岡本天明筆ひふみ神示」下巻五十黙示録、至恩之巻から第四帖までを岩戸開きの鍵として抜き書きした。「012345678910と示し、その裏に109876543210があるぞ、○九十の誠であるぞ、合わせて二十二、富士(普字・不二)であるぞ。」の計算は合っているのだろうか。
fumio




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事戸  



一七、 黄泉の裁きを侵すことなかれ
    黄泉の壺を手にすることなかれ
    英知は黄泉にも等しく与えられ
    神の御業に等しく映り その対を
    成す様に 定められたからである

一八、 神の名を呼ぶとき 等しく黄泉をも
    影が呼んでいると 常に
    心に止めおく様に
    天秤の左右 どちらかが重くなった時に
    真に求めている者の名を
    知るということを覚えておく様に

「光の黙示録」より

*********************
「日月神示」荒の巻 第01帖 は
「言答開き成り成るぞ(イワトビラきナりナるぞ)」で始まり、途中、
「山(屋間)の文読み(ヤマのフミヨみ)、皆喜び(ミナヨロコび)、」とある。
このように「日月神示」では岩戸を「言答」としている。これは「ことど」とも読めるのではないか。
そこで古事記「黄泉國の条」を再掲すると、

爾千引石引塞其黄泉比良坂、其石置中、各對立而、度事戸之時、
伊邪那美命言、「愛我那勢命、爲如此者、汝國之人草、一日絞-殺千頭」。
爾伊邪那岐命詔、「愛我那迩妹命、汝爲然者、吾一日立千五百産屋」。
是以一日必千人死、一日必千五百人生也。


この中の「度事戸之時」の解釈は一般的には「コトドを渡す時で離縁の宣言をする時という意味である。
このコトドが「言答」で問答の意味だけでなく岩戸のことでもあるなら…。
其黄泉比良坂を引塞ぐ千引石とは実はコトドそのもであったのだ。「其石置中」も石を言(イワ)と読みコトとすれば九十(コト)が戸となっていたことがわかる。この戸を開くことを言答開き成るというのであった。
fumio




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私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
**********************
6月13日(金)~6月20日(金)
ヒット数:1,699 件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 

第1位(3)<3>水面に書いた物語
第2位(2)<1>女優(スター)
第3位(4)<4>あやかしのまち
第4位(5)<7>オーロラの町から
第5位(1)<2>ごめんなさい
第6位(7)<5>はるかなるメロディ
第7位(6)<8>軽々しく愛を口にしないで
第8位(8)<9>それってⅨじゃない
第9位(6)<6>ラスト・ランデヴー
第10位(11)<10>ときめきFALL IN LOVE
第11位(14)<11>マイ・スィート・ライフ
第12位(12)<13>素顔のマスカレード
第13位(10)<12>Stay with me
第14位(**)<**>まことのひかり
第15位(15)<18>恋すれば魔女
第16位(13)<16>Sentimentallady”M”
第17位(18)<15>NEVER GIVE UP!
第18位(16)<14>わかりあえる日まで
第19位(17)<17>しあわせになれる


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今週はどういうわけかアルバム「水面に書いた物語 収録曲以外から第14位の位置に「まことのひかり」が割り込んで驚いた。ライヴ映像もあるのでアクセスが多かったのかもしれない。ご愛聴感謝。
fumio





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一七、 黄泉の裁きを侵すことなかれ
    黄泉の壺を手にすることなかれ
    英知は黄泉にも等しく与えられ
    神の御業に等しく映り その対を
    成す様に 定められたからである

一八、 神の名を呼ぶとき 等しく黄泉をも
    影が呼んでいると 常に
    心に止めおく様に
    天秤の左右 どちらかが重くなった時に
    真に求めている者の名を
    知るということを覚えておく様に

「光の黙示録」より

*********************

    こうして毎日、同じ詩句を見ているとだんだん文章の構造や文字使いによって
作者の意図が透けて見えてくる。まず感じることは「等しく」を三回使用して黄泉と現世の等しさを伝えようとしていること。そして「様に」も三回と意外に多い、これは様(さま)に、とこの宇宙の姿形を感じさせようとしてのこと。
もっとも苦心したのは初めの二行と思われる。
「黄泉の裁きを侵すことなかれ
    黄泉の壺を手にすることなかれ」とあるが、
これは「黄泉の裁きを侵すべからず
    黄泉の壺を手にするべからず」でもいいが口調が気にいらないなら
「黄泉の裁きを侵すなかれ
    黄泉の壺を手にするなかれ」でも意味は通じる。
しかし、それでは伝えようとしたことが伝わらないきらいがある。

決定稿「黄泉の裁きを侵すことなかれ
    黄泉の壺を手にすることなかれ」には最重要な「こと」が入ってその存在を主張している。
「ことなかれ」とは「ひふみ」の数霊(かぞたま)の秘法「九十中零」なのである。
以前、九理 という記事で紹介した意識数学者、佐藤敏夫氏のホームページ神の数学・佐藤 を参照されればその意味が解ける。
fumio

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一七、 黄泉の裁きを侵すことなかれ
    黄泉の壺を手にすることなかれ
    英知は黄泉にも等しく与えられ
    神の御業に等しく映り その対を
    成す様に 定められたからである

一八、 神の名を呼ぶとき 等しく黄泉をも
    影が呼んでいると 常に
    心に止めおく様に
    天秤の左右 どちらかが重くなった時に
    真に求めている者の名を
    知るということを覚えておく様に

「光の黙示録」より

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    「黄泉の壺を手にすることなかれ」とは具体的にどうするのかよくわからない表現だが「手」が現世の三角ピラミッドと黄泉の三角ピラミッドが四角い底辺を接している三四三宇宙の構造ならば意味が通じる。すでにみたように「壺」は「坪」で岩戸を暗示していた。この三四三宇宙「手」はよく見ると四角い底辺同士が「キ」の字のようにつながって通れる状態にある。すなわちこの部分に岩戸をするなかれというのである。夜明けのためには現世と黄泉の「気」が通じ合っていなければならない。
fumio

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一七、 黄泉の裁きを侵すことなかれ
    黄泉の壺を手にすることなかれ
    英知は黄泉にも等しく与えられ
    神の御業に等しく映り その対を
    成す様に 定められたからである

一八、 神の名を呼ぶとき 等しく黄泉をも
    影が呼んでいると 常に
    心に止めおく様に
    天秤の左右 どちらかが重くなった時に
    真に求めている者の名を
    知るということを覚えておく様に

「光の黙示録」より

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    「黄泉の壺を手にすることなかれ」の「手」はこの三四三宇宙の構造を示唆している。つまりこの文字は現世の三角ピラミッドと黄泉の三角ピラミッドが四角い底辺を接している図なのである。それでこのピラミッドは対を成す様に定められたというのだ。
fumio

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一七、 黄泉の裁きを侵すことなかれ
    黄泉の壺を手にすることなかれ
    英知は黄泉にも等しく与えられ
    神の御業に等しく映り その対を
    成す様に 定められたからである

一八、 神の名を呼ぶとき 等しく黄泉をも
    影が呼んでいると 常に
    心に止めおく様に
    天秤の左右 どちらかが重くなった時に
    真に求めている者の名を
    知るということを覚えておく様に

「光の黙示録」より

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到黄泉比良(此二字以音)坂之坂本時、取在其坂本桃子三箇待撃者、悉迯返也。
爾伊邪那岐命、告其桃子、「汝如助吾、於葦原中國所有、
 宇都志伎(此四字以音)青人草之、落苦瀬而患惚時、可助告」、
賜名號意富加牟豆美命(自意至美以音)。


黄泉比良坂の坂本には桃があるという。それはやはり「百」の暗号で白の世界(現世)の上に一で蓋をしている図。追いかけてきた黄泉醜女もそこからは進めないので逃げ帰る。そこでイザナギは「汝如助吾、於葦原中國所有、 宇都志伎(此四字以音)青人草之、落苦瀬而患惚時、可助告」と言う。青人草を修飾する宇都志伎が現世(うつしよ)の写し(移し、映し、遷し)を示唆している。なにの映しかといえばそれが黄泉なのである。「百」の上の一が鏡になっていて鏡が結ぶ像は狂ってはいけない。
fumio

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一七、 黄泉の裁きを侵すことなかれ
    黄泉の壺を手にすることなかれ
    英知は黄泉にも等しく与えられ
    神の御業に等しく映り その対を
    成す様に 定められたからである

一八、 神の名を呼ぶとき 等しく黄泉をも
    影が呼んでいると 常に
    心に止めおく様に
    天秤の左右 どちらかが重くなった時に
    真に求めている者の名を
    知るということを覚えておく様に

「光の黙示録」より

*********************
「三四三」宇宙がなぜバランスを失っているいるのかの説明が古事記「黄泉國」の条の最後に記されていた。
最後其妹伊邪那美命、身自追來焉。
爾千引石引塞其黄泉比良坂、其石置中、各對立而、度事戸之時、
伊邪那美命言、「愛我那勢命、爲如此者、汝國之人草、一日絞-殺千頭」。
爾伊邪那岐命詔、「愛我那迩妹命、汝爲然者、吾一日立千五百産屋」。
是以一日必千人死、一日必千五百人生也。
故、號其伊邪那美命謂黄泉津大神。


最後に伊邪那美命が、追って來たとき千引の石で塞がれた黄泉比良坂でその石を挟んで二人が向かいあって立って、伊邪那美命は「愛しき我が夫よ、此のようなことを為すのであれば、汝の国の人草を一日千人絞殺する」と言い、伊邪那岐命は「愛としい我妻よ、汝が爲すならば。私は一日に千五百の産屋立てる。」といわれた。これをもって一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生れるようになった。それで伊邪那美命は黄泉津大神と名付けられたということである。これは一見ドラマの感動的シーンのようである。

 しかしながらこのとき、イザナミは黄泉を司るものとして一日に千人黄泉に来させると宣言していたのであった。イザナギはそれにこたえて現世を司るものとして千五百人誕生させるという。なんと五百人も多いのである。これでは死を支点にした「三四三」の天秤が現世に傾くのだ。「過ぎたるは及ばざるがごとし」千人に対しては千人。「黄泉の裁きを侵すことなかれ、黄泉の壺を手にすることなかれ」
fumio

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