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流河に何を見出すや?
崩石に何を思わんや?
轟く大地は何を生む?
囁く風は何を置く?
溶ける、溶けてゆく。
流血の歴史。
涙の歴史。
ARIONの詩編「SOUND とこの部屋の仲間へ」
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これまで試みたことのない解読を続ける。
「崩」は解字すれば「山の下に月月」ではじめの月を日月(ひふみ)神示のように「ふみ」と読めば、
「山の下のふみ」そしてもうひとつの月は山王であり月読であるニギハヤヒのことのようだ。
崩」をクズ霊と読めば長野県戸隠(とがくし)神社の九頭龍大神。石は意志と思える。
まとめるとARIONが「山下ふみ」つまりわたし(yamashita fumio)に、ニギハヤヒ九頭龍大神の意志に何を思わんや?
と尋ねているようである。
わたしの仲間、宮下フミオ(miyashita fumio)は米国から日本に帰って活動拠点を定める時、奈良の天河大弁財天社(てんかわだいべんざいてんしゃ)の宮司に相談すると、裏天河に当たる長野県戸隠を拠点にすることを勧められた。それで戸隠神社で地主神である九頭龍大神に参詣してから活動を始めたのであった。丹波哲郎の映画「大霊界」やヒーリングミュージック「眠りのコンサート」など様々な音楽活動を推進した。そんなことを思い出す。宮下フミオもまた可き人であったのだろう。
fumio
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流河に何を見出すや?
崩石に何を思わんや?
轟く大地は何を生む?
囁く風は何を置く?
溶ける、溶けてゆく。
流血の歴史。
涙の歴史。
ARIONの詩編「SOUND とこの部屋の仲間へ」
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「流河」をなぜ今ルカと読むのかと考えると水面に書いた物語の主人公の名前がルークであったかららしい。「何を見出すや?」と問われると ギリシャ語のΛουκᾶς(Lukas)は、聖書ではルカと音訳され、ラテン語ではルカス(Lucas)やルキウス(Lucius)そして英語ではルーク(Luke)なのである。わたしは知らずに聖人ルカの名前を使用して「水面に書いた物語」を書いたのだった。ARIONは以前から知っていたようだ。わたしは今やっとそんなことを見出した。
fumio
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ウイキペデイアその他によるとルカ(Λουκᾶς, Lukas, ギリシア語発音でルカス, 福音記者ルカ「路加」)本名ルカノスは西方世界では医者及び画家の守護聖人とされ、ルカ及びルカ福音書はしばしば牛のシンボルで表されるという。『ルカによる福音書への反マルキオン的序文』に、ルカはシリアのアンティオキアの出身で、シリア人、職業は医者」とする記述があるという。ギリシャ人を両親として生まれている。福音書及び使徒行伝には著者についての記述が欠けているので『ルカによる福音書』及び『使徒行伝』が本当にルカの手になるものかどうかが議論されているという。新約聖書の他の福音書も著者に関しては疑問が呈されていて本当はだれが著者なのか研究者間で議論されている。
これらの記述をまとめるとルカはシリア出身のギリシア人で、医師であり画家であり、翼のある牛のマークをシンボルに使う執筆者であったらしい。ひとつの枠に入らない多くの才能を持っていた可き人だったのだ。ARIONのいう同化地球人の匂いがする。ミケランジェロと同じように(宇宙から来たという意識を抹消していないタイプの同化地球人)だったのだろうか。
fumio
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流河に何を見出すや?
崩石に何を思わんや?
轟く大地は何を生む?
囁く風は何を置く?
溶ける、溶けてゆく。
流血の歴史。
涙の歴史。
ARIONの詩編「SOUND とこの部屋の仲間へ」
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第一連のひらがな部分はARIONに導かれるままに「記紀」の封印に挑んだが今のところ一応及第点だったようだ。
この 第二連はクェッションマークを並べて「何」という存在を特定させようとしているようである。
これまでと違う眼で現時点での解読を試みよう。
「何」は可き人だろうか。
そうすると「流河」はルカと読んで新約聖書の『ルカによる福音書』及び『使徒行伝』の著者とされる人物かもしれない。
『使徒行伝』は教派や訳によって『使徒言行録』(しとげんこうろく、ギリシア語: Πράξεις τῶν Ἀποστόλων、ラテン語: Acta Apostolorum)『聖使徒行実』『使徒行録』『初代教会の働き』『使徒のはたらき』『使徒たちの活動』などと呼ばれる、新約聖書中の一書である。このルカになぜ今光を当てるのだろうか。
fumio
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先週のディーライフの海外ドラマ「コールドケース」は「グラフィティ」だった。
それは1982年の話で不良少年たちが壁や給水塔に名前のタグなどをスプレーペイントで描く「グラフィティ」の縄張り争いのイザコザの話だった。
「グラフィティ」とはラッカースプレーやフェルトペンを用いる落書きのことで1970年代にニューヨークで、壁や電車などに落書きをすることから始まり、汚れた町に住む人たちの心が荒(すさ)んで犯罪が蔓延して社会問題化した。
ニューヨークはその頃、世界一危険な町といわれたが、ジュリアーニ市長が改革に乗り出し地下鉄の電車の落書きをすべて消すことから始め、町をきれいにしてそこに住む市民の意識を高めて、犯罪を撲滅してニューヨークを安全な町にしたのだった。
ロサンジェルスでは、早逝したわたしのロサンジェルス時代の仲間のアーテイスト吉田等が「トニー・ヨシダ」と名乗り公共の建物や目立つ場所に本物のアートとしての壁画を描く運動を推進した。それは今も通りかかる人々の心を潤し感動や安らぎを与えている。
fumio
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「吼唸る素八 九植え
奇待てる、霊岸
在耶待てる、田己 を 倦む
火九八、主気早裏死 詠歌
汝丹を基愛夢」
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この意味不明の解読結果を説明してゆくと、
吼え唸る素戔嗚(スサノオ)八(スサノオの霊数)九(ニギハヤヒの霊数)を植え
奇(クシヒコ)、つまりニギハヤヒの継承者を待つ霊岸
在耶(ありとして在るヤの神)を待つ田(十字の回転)己(おのれ)を倦む
火九(ニギハヤヒの霊数)八(スサノオの霊数)「主気早裏死」は文字そのままで主は現世の裏で死とされている。
丹(に)は赤・朱系の色でかくり世。「基愛夢」はわれわれの生命の基が愛と夢ということ。
fumio
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くうなる そは、くうへ
あやまてる、れきし
あやまてる、たみ を うむ
かくや、すきさりし えいか
なに を もとめむ
ARIONの詩編「SOUND とこの部屋の仲間へ」より
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このひらがな部分の2008年の時点での解読結果は
「空なる祖は空へ
過てる歴史
過てる民を生む
かくや過ぎ去りし栄華
何を求めむ」であったが今回もっと深掘りしなければ
ARIONの意に沿わないようだ。
現在の目で解読し直してみる。なにが見えるのだろうか。
「吼唸る素八 九植え
奇待てる、霊岸
在耶待てる、田己 を 倦む
火九八、主気早裏死 詠歌
汝丹を基愛夢」と無理を承知で読んでみた。
fumio
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お彼岸に合わせて『現代の愛』シリーズ の一曲光闇ツアーを編集したのでどうぞお聴きください。ご愛聴感謝。
fumio
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2013年のGoogle最多検索文字列は「What is twerking?」という。
twerkingとはマイリー・サイラスの 動画で爆発的流行を始めたセクシーな踊りのことで昨年オクスフォード英英辞典に追加された新語だが、日本にも早晩上陸して流行するのだろう。
しかし、アメリカンフットボールの試合中真似してはいけないようだ。
USA TODAY によるとPittsburgh Steelers のレシーバー Antonio Brownがエンドゾーンでtwerkingをして約90万円 の罰金を科されたという。ずいぶん高くて、かわいそうなような…。
fumio
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今日はゴーマン美智子(Miki Suwa Gorman 、旧名:諏訪美智子)さんの命日。
昨年、右足腓骨を骨折して入院中のわたしにゴーマンさんが9月19日に80歳で亡くなった、と妻が新聞記事を持ってきてくれた。命日の9月19日といえば、その日、大塚真代作業療法士(OT)とのリハビリ中スポーツの話をしているうちに大塚OTがホノルルマラソンを目指している、というのでわたしはゴーマン美智子という人がボストンマラソン、ニューヨークシティマラソンで2回ずつ優勝してその活躍が「走れ、ミキ」という本やドラマになって現在の女性アスリートブームの草分けになったと話した。ゴーマンさんのことを思い出したのはずいぶん久しぶりだった。あの日9月19日にゴーマンさんは亡くなって、わたしたちにマラソンの話をさせて自分の死をわたしに報せに来たのだと感じたのだった。
わたしが初めてゴーマンさんを見たのは1980年代半ばで妻と息子との散歩中だった。VONSというスーパーマーケットに立ち寄って帰りにオリンピック通りを走っている女性を見かけた。その女性がゴーマン美智子さんだった。かの女は当時ロサンジェルスの日本語学校「羅府第二学園」の先生をしていた。息子をその学校に入れて日本語を教えてもらううちに交流が始まってゴーマンさんはクリスマスの学芸会で「一寸法師」の劇を息子を一寸法師の役にして上演すると言い出して脚本を書いた。わたしは音楽を担当して妻は背景の清水寺の絵を描いて草むらなどの小道具を担当した。その劇は評判を呼び、方々から頼まれてオレンジカウンテイなどを巡演した。別れた米国人の夫に娘の美嘉(みか)ちゃんがクリスマスプレゼントにパソコンをもらったけれど印刷の仕方がわからない、というのでわたしはマニュアルを読んで「print」と打ち込むことを美嘉ちゃんに教えたものだった。わたしたちが日本に帰る時ゴーマンさんは自分の特製マラソンシューズを妻に記念にくれた。
ゴーマンさん、日本語学校の学芸会や運動会は楽しかったね。
今日は赤飯を炊いて供えますから一緒に食べましょう。合掌…。
fumio
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太安万侶が万葉仮名で記した原文
「最後、其妹伊邪那美命、身自追來焉。爾千引石引塞其黄泉比良坂、其石置中、各對立而、度事戸之時、伊邪那美命言「愛我那勢命、爲如此者、汝國之人草、一日絞殺千頭。」爾伊邪那岐命詔「愛我那邇妹命、汝爲然者、吾一日立千五百産屋。」是以、一日必千人死一日必千五百人生也。故、號其伊邪那美神命、謂黄泉津大神。亦云、以其追斯伎斯而、號道敷大神。亦所塞其黄泉坂之石者、號道反大神、亦謂塞坐黄泉戸大神。故、其所謂黄泉比良坂者、今謂出雲國之伊賦夜坂也。」
日本書紀「黄泉の国」原文の同じ個所
「伊弉諾尊、已至泉津平坂。故便以千人所引磐石、塞其坂路。與伊弉冊尊相向而立、遂建絶妻之誓。時伊弉冊尊曰。愛也吾夫君、言如此者。吾當縊殺汝所治國民日將千頭。伊弉諾尊、乃報之曰。愛也吾妹、言如此者。吾則當産日將千五百頭。因曰。自此莫過。即投其杖。是謂岐神也。又投其帶。是謂長道磐神。又投其衣。是謂煩神。又投其褌。是謂開囓神。又投其履。是謂道敷神。其於泉津平坂。或所謂泉津平坂者。不復別有處所。但臨死氣絶之際、是之謂歟。所塞磐石、是謂泉門塞之大神也。亦名道返大神矣。」
最後(いやはて)に其の妹伊邪那美命、身自(みずか)ら追ひ来りき。 ここに千引(ちびき)の石をその黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、 その石を中に置きて、各對(おのおのむか)ひ立ちて、 事戸を度(わた)す時、伊邪那美命
言ひしく、 「愛(うつく)しき我が汝夫(なせ)の命、かく為(せ)ば、 汝(いまし)の國の人草、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ。」といひき。 ここに伊邪那岐命詔(の)りたまひしく、 「愛しき我が汝妹(なにも)の命、汝然為(いまししかせ)ば、 吾一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てむ。」とのりたまひき。 ここをもちて一日に必ず千人(ちたり)死に、一日に必ず千五百人(ちいほたり)生まるるなり。 故、其の伊邪那美命を號(なづ)けて黄泉津(よもつ)大神と謂ふ。 また云はく、その追(お)ひししきしをもちて、道敷(みちしき)大神と號(なづ)くといふ。 またその黄泉の坂に塞(三八)りし石は、道反之(千がへしの)大神と號け、 また塞(三八)り坐す黄泉戸(四三十)大神とも謂ふ。 故、其の謂はゆる黄泉津比良坂は、今、出雲国の伊賦夜(一二八)坂と謂ふ。」
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石に名前をつけるのは不可解だが「千人所引磐石」は書紀では、「所塞磐石、是謂泉門塞之大神」と記されて
その塞の神は、悪霊の侵入を防ぐ神で生殖縁結びの神であり 岐の神(くなと、くなど のかみ)とも呼び、「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意という。
「サイ・ソク・ふさぐ・ふさがる とりで」の「塞」を「塞(さや三八)り」と読むのは三輪(三八)を表している。
ここの記述にはなぜか、千引(ちびき)」「千頭ちがしら)」「千五百(ちいほ)」「道反之(千がへしの)」と「千(ち)」ばかりが選ばれている。「千と千尋(ちひろ)の神隠し」でその存在が認識されたニギハヤヒは「千(ち)」の神であった。「塞(三八)り坐す黄泉戸(四三十)大神」は三輪(三八)に坐す黄泉戸(四三十)大神で黄泉(四三)の封印に閉じ込められた大神(ニギハヤヒ)。
最後はその黄泉比良坂の場所を特定する記述になっている。「出雲国の伊賦夜(一二八)坂」の出雲は島根県を指すのではなく系統を示している。
伊賦夜(一二八)は一二八を上から並べれば三八でやはりニギハヤヒの三輪山ピラミッドを示唆しているのだ。
「これで「三重に守られた聖柩は、地と血とチによって封印が解かれる」というメッセージの聖柩は地と血と「チ」によって封印が解かれただろうか。
fumio
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最後(いやはて)に其の妹伊邪那美命、身自(みずか)ら追ひ来りき。 ここに千引(ちびき)の石(一八)をその黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、 その石を中に置きて、各對(おのおのむか)ひ立ちて、 事(九十)戸を度(わた)す時、伊邪那美命
言ひしく、 「愛(うつく)しき我が汝夫(なせ)の命、かく為(せ)ば、 汝(いまし)の國の人草、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ。」といひき。 ここに伊邪那岐命詔(の)りたまひしく、 「愛しき我が汝妹(なにも)の命、汝然為(いまししかせ)ば、 吾一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てむ。」とのりたまひき。 ここをもちて一日に必ず千人(ちたり)死に、一日に必ず千五百人(ちいほたり)生まるるなり。 故、其の伊邪那美命を號(なづ)けて黄泉津(よもつ)大神と謂ふ。 また云はく、その追(お)ひししきしをもちて、道敷(みちしき)大神と號(なづ)くといふ。 またその黄泉の坂に塞(三八)りし石は、道反之(千がへしの)大神と號け、 また塞(三八)り坐す黄泉戸(四三十)大神とも謂ふ。 故、其の謂はゆる黄泉津比良坂は、今、出雲国の伊賦夜(一二八)坂と謂ふ。」
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「事戸を度(わた)す時」は書紀では「建絶妻之誓」となっていて、「事戸」は妻を絶縁する誓いのようだ。
石(一八)は「平」の上の部分。「黄泉比良逆」は平が逆で八の形のピラミッドの下を一で塞いでいる。
そんな一八を中に置くと横から見れば イザナギ (現界)
八 (ピラミッド)
一 (戸)
イザナミ (かくり世)となっている。
ふたりの名の「ナ」の字は「七」にしても「十」の形で「事(九十)戸は「一八」の九とふたりの十。
fumio
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太安万侶が万葉仮名で記した原文
「最後、其妹伊邪那美命、身自追來焉。爾千引石引塞其黄泉比良坂、其石置中、各對立而、度事戸之時、伊邪那美命言「愛我那勢命、爲如此者、汝國之人草、一日絞殺千頭。」爾伊邪那岐命詔「愛我那邇妹命、汝爲然者、吾一日立千五百産屋。」是以、一日必千人死一日必千五百人生也。故、號其伊邪那美神命、謂黄泉津大神。亦云、以其追斯伎斯而、號道敷大神。亦所塞其黄泉坂之石者、號道反大神、亦謂塞坐黄泉戸大神。故、其所謂黄泉比良坂者、今謂出雲國之伊賦夜坂也。」
日本書紀「黄泉の国」原文の同じ個所
「伊弉諾尊、已至泉津平坂。故便以千人所引磐石、塞其坂路。與伊弉冊尊相向而立、遂建絶妻之誓。時伊弉冊尊曰。愛也吾夫君、言如此者。吾當縊殺汝所治國民日將千頭。伊弉諾尊、乃報之曰。愛也吾妹、言如此者。吾則當産日將千五百頭。因曰。自此莫過。即投其杖。是謂岐神也。又投其帶。是謂長道磐神。又投其衣。是謂煩神。又投其褌。是謂開囓神。又投其履。是謂道敷神。其於泉津平坂。或所謂泉津平坂者。不復別有處所。但臨死氣絶之際、是之謂歟。所塞磐石、是謂泉門塞之大神也。亦名道返大神矣。」
最後(いやはて)に其の妹伊邪那美命、身自(みずか)ら追ひ来りき。 ここに千引(ちびき)の石(一八)をその黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、 その石を中に置きて、各對(おのおのむか)ひ立ちて、 事戸(九十)を度(わた)す時、伊邪那美命
言ひしく、 「愛(うつく)しき我が汝夫(なせ)の命、かく為(せ)ば、 汝(いまし)の國の人草、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ。」といひき。 ここに伊邪那岐命詔(の)りたまひしく、 「愛しき我が汝妹(なにも)の命、汝然為(いまししかせ)ば、 吾一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てむ。」とのりたまひき。 ここをもちて一日に必ず千人(ちたり)死に、一日に必ず千五百人(ちいほたり)生まるるなり。 故、其の伊邪那美命を號(なづ)けて黄泉津(よもつ)大神と謂ふ。 また云はく、その追(お)ひししきしをもちて、道敷(みちしき)大神と號(なづ)くといふ。 またその黄泉の坂に塞(三八)りし石は、道反之(千がへしの)大神と號け、 また塞(三八)り坐す黄泉戸(四三十)大神とも謂ふ。 故、其の謂はゆる黄泉津比良坂は、今、出雲国の伊賦夜(一二八)坂と謂ふ。」
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古事記では「千引(ちびき)の石」で黄泉比良坂を塞いだのは伊邪那美命(イザナミ)だが書紀では伊弉諾尊(イザナギ)が「千人所引磐石」で其坂路を塞いでいる。千引の石は千人で引く岩ということだが、神話とはいえイザナミにしてもイザナギにしてもどうしてひとりでそんな石を動かせるのだろうか。
古事記では、その石は最後に道反之(ちがへしの)大神と名付けられ、書紀では「亦名道返大神」となっている。どちらも千(ち)の部分が道に置き換えられているのだ。道=千ということになる。
そこで千引(ちびき)の石の「千」に「道」を代入すると「道引(みちびき)の石」。「千引の石」とは実は「導きの岩」なのであった。でも「千人で引くほど重い岩」のほうが物語としてはおもしろい。
fumio
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