monologue
夜明けに向けて
 




ボビー・フラー殺害の動機が闇の組織のメンツやプライドだけではなく金銭もあるなら
かれのバンド、ボビー・フラーフォーのベーシスト、ランディは「ボビーは地下組織にコネクションがあるDel-Fiの出資者に支払われる80万から百万ドルの生命保険にかかっていた」と言うので生命保険の受取人たちも犯人と組んでいたと思われる。なるほどそうだったのかも…。
fumio




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law  


今日は、ライヴ配信でボビーフラーフォー「I fought the law」にチャレンジしました。
fumio

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認知  


ボビー・フラーは自分が死んだことを認知することができなかった。リンチを受けて人差し指が折れて泣き叫んでいる間に殺害実行部隊がゴムチューブを右腕に巻いてドラッグを静脈注射した。被害者の眠っているうちに車と一緒に全て燃やして証拠もすべて残さないようにして犯罪そのものをなかったことにして闇に封じてしまう。それが多くの事件に関わっても捕まらなかった闇の組織の手慣れた手口だった。ボビーはクスリで意識を失っているうちに母のオールズモビルに引きずり込まれた。車内でガソリンを遂行者たちがかけてブック状マッチで火を点けようとしたが揮発したガソリンが爆発しそうでこわくなってやめた。ボビーは気を失っているうちに揮発したガソリンを吸い込み呼吸困難に陥ってついには意識が身体から離れてしまった。そしてボビー・フラーの不可解な死が大ニュースになって怪死事件として世間が大騒ぎになったがそれでもかれは自分が死んだとは思わず辺りをさ迷い続けたのだった。
fumio




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わたしは1976年から1986年まで10年間ロサンジェルスに住んでハリウッド、ダウンタウン、海辺などでミュージシャンとして仕事していた。
有名なチャイニーズシアターにはいつも家族で新作映画を見に行ったので従業員と顔なじみだった。シアターの北西で左裏になるボビー・フラーの殺された駐車場に車を停めて映画を見たこともあるのでビー・フラー怪死事件に興味があるのだ。
fumio

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pj  


P.J.’sナイトクラブ という名の由来は オーナー、Paul RafflesとそのガールフレンドJudyのPとJからきている。P.J.’sとするとパジャマの意味にもとれるのでナイトクラブとして面白いのだ。かれらはカリフォルニアに移転するまではシカゴではThe Black OrchidというP.J.’sナイトクラブ とそっくりなナイトクラブをやっていた。それは「この人明日刑務所行きなの、だからやさしくしてあげてね」というような会話がされる店だった。若き社会派ロックシンガー、ボビーフラーが命が危なくなるとまで思わず歌詞で揶揄するのはわかる気がする。
fumio


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なにがハリウッドに生息する凶暴なMOB(マブ)の虎の尾を踏んだのか、といえば
ボビー・フラー4のヒット中の曲I fought the lawは「Breakin’ rocks in the hot sun I fought the law and’a the law won」「カリフォルニアの熱い太陽の下で岩を砕き法と戦って法に敗れた」、とシカゴからカリフォルニアに移転して来たマフィアをからかうような歌詞だった。
 「Robbing people with a six gun 」「6連発拳銃で人々から奪う」とマフィアのやり方を皮肉る内容なのでMOB(暴力組織)のやっているPJsナイトクラブでこんな歌を歌うな、と脅されたがボビーはこれから大ヒットという時なのでいうことを聞かなかった。口で言っても聞かないのでマブスター(手下)たちがチャイニーズシアターの左裏のフラー家の駐車場で実力行使したのだった。
fumio

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frank  


P.'jsナイトクラブは、他のクラブが閉まったあとも開いている夜のホッットスポットを目指していて有名人、ひねくれ者、犯罪者、ギャンブラー、ストリッパーなどが客として集まった。その店では、自分自身のレーベル、リプリーズレコード(Reprise Records. )を立ち上げたフランク・シナトラとドン・コスタがP.'jsナイトクラブ出演歌手のオーデションを担当してトリニ・ロペスは“Trini Lopez at PJs,” というライヴレコードを出してもらえた。従順な歌手はそれで良かったが新時代のヒーローとして駆けていたボビー・フラーはクラブ出演後、ロックスターなので全く従順ではなく、いうことを聞かないのでマブスター(暴力団員)たちがみんなで殴る蹴るの殴打して痛めつけた。そしてかれのアパートの駐車場の車の中でガソリンをかけて呼吸困難にしてしまった。暴力団の荒い仕事だった。それで怪死事件ということになったのだった。
fumio


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ここでサム・クック暗殺やボビー・フラー怪死などその他多くの闇に隠された事件の舞台として共通するP.J.'s ナイトクラブについて記しておく。

その頃、犯罪都市と呼ばれた、シカゴでFBIのギャング一掃作戦で追い詰められたマブ(MOB)と呼ばれるイタリア系暴力組織マフィアが1961年に活動拠点を映画産業、音楽など芸能の分野で繁栄し始めたハリウッドに新天地を求めてカリフォルニア州ロサンジェルス、ウエストハリウッドのサンタモニカ通り8151番地にP.J.'s ナイトクラブという名前で発足したマフィアの拠点なのだった。
クラブは「Bill Doherty, Paul Raffles, Phil Tanzini, and former Chicago police detective, Elmer Valentine」らによってオープンした。former Chicago police detectiveとは(シカゴの元私服刑事)という意味でシカゴの元刑事までがマフィアの暴力犯罪監視のために立ち上げに加わったのである。
fumio

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ウイキペディアに記載されているボビー・フラー事件の概要を以下に和訳すると
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"I Fought The Law"がトップ10ヒットになったすぐあと、ボビー・フラーはかれのロサンジェルスの家の近くに停めていた車の中で死亡して発見された。警察はその死を明らかな自死事故と考えた。しかしながら人々はフラーが殺されたと信じている。捜査は初めからやり損なった。現場は保たれず指紋は採取されなかった。ある証人は警官が現場で見つけたガソリン缶をゴミ箱に放り込むのを見たと申し立てた。加害者たちが車を燃やす前に逃走したと人々が推測するようにフラーは全身に複数の傷を負いガソリンをかぶって発見された。警察はのちに死因を犯罪の証拠がないとして「不慮の窒息」と変更した。公式死亡原因が当局から発表されたにかかわらず噂と憶測がフラーの怪死を取り囲んだ。
*************************************************************************
ということであるがネット上の多くのサイトを調べて事件の概要をもう少し詳しく見てみると、1966年7月18日月曜の暑い遅い午後、弟 のベーシスト、ランディ・フラー(Randy Fuller)とシェアしているN. Sycamore Ave,776番地の アパートの横の大きい駐車場でかれの母の愛車オールズモビルのフロントシートに横たわるボビー・フラー(23才)の死体が発見された。
ドアはロックされず窓は固く閉まり、車のキーは車内で発見されなかった。最初のハリウッド地区警官が到着して運転席側ドアを開けた時、フロントシート上のフラーの脇のシート上にブック状マッチがあることに気付いた。目撃証人によればフラーは顔と胸が打撃を受けたように青ずみ顎と口のまわりに乾いた血液の跡があった。かれの髪と衣服はガソリンにびしょ濡れだった。右腕はゴムチューブで固く結ばれていた。
犯罪現場捜査官たちは判断にあまりに多くの不可解な失敗をした。それはまるでなにか警察によるごまかしがあったかのように。バックシートで見つかった空のガソリン缶がそれを明らかに捜査に重要と思わない警官に取り除かれ近くのゴミ捨てに投げられた。オールズモビルは指紋検出のための粉をかけられなかった。それ以上の証拠の調査のために保存もされなかった。相反する多くの視覚的証拠にかかわらず明らかな自殺という発表を受けてラジオテレビはこの非現実な意見を最初のニュースとして世界に発信したのであった。
**********************************************
これが事件のあらましである。ボビー・フラーはアパートの駐車場でだれかに殴られ気絶している時に車内でガソリンをかけられて呼吸困難で死んだ。
警察はそれをなぜか初めに自殺と発表して重要な証拠のガソリン缶まで捨ててしまったのだ。不思議。事件の真相は闇の中。
fumio


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bobby  


事件は関わったものたちによって、よってたかって闇に封じられた。そのため現在ではかなりの洋楽ファンでも被害者ボビー・フラーの名前を知っている人は少なくなった。当時、売り出し中の新進ロックミュージシャン、ボビー・フラーは1966年7月18日にロサンジェルスの自宅の車のところで怪死を遂げた。
1966年 FEBRUARY 26,付けキャッシュボックス(CASH BOX)誌 Top 100 Singlesをチェックすると以下のようであった。
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1 THESE BOOTS ARE MADE FOR WALKIN’ Nancy Sinatra
2 THE BALLAD OF THE GREEN BERETS SSgt. Barry Sadler
3 LIGHTNIN’ STRIKES   Lou Christie
4 UPTIGHT (Everything’s Alright) Stevie Wonder
5 MY WORLD IS EMPTY WITHOUT YOU Supremes
6 MY LOVE Petula Clark
7 LISTEN PEOPLE Herman’s Hermits
8 CALIFORNIA DREAMIN’ Mama’s & The Papa’s
9 DON’T MESS WITH BILL Marvelettes
10 WORKING MY WAY BACK TO YOU 4 Seasons
11 CRYING TIME Ray Charles
12 ELUSIVE BUTTERFLY Bob Lind
13 BARBARA ANN Beach Boys
14 AT THE SCENE Dave Clark Five
15 I FOUGHT THE LAW Bobby Fuller Four
****     *****
   この週ボビー・フラーのバンドの「I FOUGHT THE LAW」 が15位に上がってきていた。そして翌週にはトップ10に入った。ところがそのボビー・フラーが7月18日にロサンジェルスの自宅の車のところで怪死を遂げた、という。その裏になにがあったのか。

fumio

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 高校時代の記憶が甦ってついふらふらと調べる気になった「ボビー・フラー怪死事件」もずいぶん時間がかかったけれど一応自分なりの結論が出た。マフィアのかかわった事件は司法まで巻き込んで闇に葬られてしまうのであとから掘り起こすのは実に困難である。探偵小説なら探偵が犯人であってはならないというルールがあるが現実の世界では昔からやくざが二足のわらじを履いたように当たり前のことである。三億円事件も警察内部関係者の犯行だから未解決という説が強い。実行犯の犯行後、警察に連絡が入るのを待っていた警官の制服の手下が証拠隠滅に出てガソリン缶を捨て、母ロレインがイグニッションに入っていたというキーを指紋が採取できないように回収してしまった。だれが見てもマフィアの仕業としか思えない荒い仕事も検死報告でただちに自殺として不信感が起こると今度はガソリン吸引による窒息と辻褄を合わせた。サム・クックの場合は裁判所まで巻き込んでサムの名を汚そうとしたしかれらが裏で組めば何でもできるのだろう。そんなことは高校時代には想像もできないことだった。アブラハム・リンカーン、ジョン・F・ケネディ、ロバート・ケネディ、キング牧師、明日を開く多くの貴重な生命がだれかの既得権益保護のために断たれてきた国、アメリカ、暗殺から手を切って本当の自由の国として立ち上がってほしいものである。

  ボビー、高校生のわたしにはずいぶん大人に見えたけれどきみはまだ23才だったんだね。アイドルからアーティストに脱皮してこれからという時にへんな事件に巻き込まれてしまった。それでもきみのロック魂はクラッシュ グリーン・ディ にカバーされたI Fought The Lawに受け継がれている。これからもだれかがカバーして受け継いでゆくのだろう。合掌。
fumio


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 ボビー・フラー怪死事件の実行犯はPJ’sに屯(たむろ)するマフィアの鉄砲玉だったのだろうが命令を下した真犯人はだれだったのだろうか。音楽を芸術としてとらえず金儲けの手段として考えるショー・ビジネスに巣くう者達としか思えない。

 わたしは同じボビーでもボビー・ケネデイすなわちロバート・ケネディが暗殺されたウイルシャー通りのアンバサダー・ホテルに家が近かったので散歩で前を通る度に妻と、「ここでロバート・ケネディが殺されたんだ」と話した。ロバートは司法長官時代マフィアと対決して恨みを買っていた。大統領選の候補者争いの途中立ち寄ったロサンジェルスのこのホテルで暗殺された。いつものように事件の真相は闇の中で実行犯ではあっても真犯人と思えないパレスチナ系アメリカ人のサーハン・ベシャラ・サーハンが終身刑で服役している。

 第二次世界大戦に軍に航空機を調達して財を成したビジネスマン John Siamasと Alex Siamasによって1957年に設立されたKeenレコードとはどんな会社だったのだろうか。設立当初はかれらは音楽制作現場には疎いのでビッグバンドのリーダーで音楽の現場で活躍するボブ・キーン(Bob Keane)にレコード制作現場を任せたのだがすぐに決裂してキーンは Del-Fi Recordsを自分で設立する。

  シアマス兄弟がサイドビジネスで設立したKeenレコードが出したレコードのリストは以下のようであった。

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年  アーティスト、曲名        レコード番号
1957 Sam Cooke You Send Me / Summertime 44013
1957 Sam Cooke Summertime B-2003
1957 Sam Cooke You Send Me / Summertime 34013
1957 Sam Cooke (I Love You) For Sentimental Reasons / Desire Me 3-4002
1958 Sam Cooke Lonely Island / You Were Made for Me 3-4009
1958 Sam Cooke Sam Cooke A2001
1958 Sam Cooke All of My Life / Stealing Kisses 3-2005
1958 Sam Cooke Win Your Love for Me / Love Song From "Houseboat" (Almost in Your Arms) 3-2006
1958 Sam Cooke Love You Most of All / Blue Moon 3-2008
1958 Jackie Gotroe Golden Spur / Summer Lightning 3-4029
1958 Sam Cooke Encore A2003
1959 The Stewart Brothers Sleep On the Porch / Yum Yum 2113
1959 Sam Cooke Encore Vol 1 B-2006
1959 Sam Cooke Encore Volume 2 B-2007
1959 Sam Cooke Encore Volume 3 B-2008
1959 Sam Cooke Sam Cooke Sings His Hits B-2010
1959 Sam Cooke Tribute to the Lady, Volume 1 B-2012
1959 Sam Cooke Tribute to the Lady, Volume 2 B-2013
1959 Sam Cooke Tribute to the Lady, Volume 3 B-2014
1959 Sam Cooke Hit Kit LP 8-6101
1959 Sam Cooke Everybody Likes to Cha Cha Cha / Little Things You Do 3-2018
1959 Sam Cooke Tribute to the Lady A2004
1959 Sam Cooke Tribute to the Lady S2004 1
1959 Sam Cooke Only Sixteen / Let's Go Steady Again 3-2022
1959 Sam Cooke Summertime (Part 1) / Summertime (Part 2) 2101
1959 Sam Cooke There, I've Said It Again / One Hour Ahead of the Posse 8-2105
1960 Sam Cooke Steal Away / So Glamorous 2118
1960 Sam Cooke Mary, Mary Lou / Eee-Yi-Ee-Yi-Oh 2122
1960 Sam Cooke I Thank God LP 8-6103
1960 Sam Cooke 'T Aint Nobody's Bizness (If I Do) / No One 82111
1960 Sam Cooke Wonderful World / Along the Navajo Trail 82112
1960 Sam Cooke With You / I Thank God 82117
1960 Sam Cooke The Wonderful World of Sam Cooke LP 8-6106
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以上、これだけのレコードを出してKeenレコードは1960年に倒産した。ほとんどがサム・クックのレコードだったことがわかる。わずか3年間で幕を下ろしたということである。そしてサム・クックは1961年に自分のレーベルSARレコードをを立ち上げている。その時、John Siamasと Alex Siamasの兄弟と共同出資者たちの胸に去来したものはなんだったのだろう。サムとの間にわだかまりがなかったとはとても思えない。しかしサムは自分の曲を出すためにレーベルを立ち上げたのではなく後進のアーティストの作品の発表の場を提供するために設立したのであった。

Keenレコードの出資者とDel-Fi Recordsの出資者とPJ’sクラブの経営者達は同じ穴の狢(むじな)であったのだろう。サム・クックが射殺された日、PJ’sクラブに赴いたのも一見(いちげん)の客としてではなく顔見知りで馴染みだったからだろう。ボビー・フラーもサムもそこに立ち寄ったあと不幸な死を遂げてしまったのである。

 殺害年度は違っても同じシステムが働きふたりともここで殺されて死体発見現場に運ばれたと見るのが自然である。
fumio


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やっと、考察に必要な材料は出尽くしたようなのでこれまでの記述をもとに本当に起きたことを推し量ってみる。
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 生前のボビーの最後の目撃者であるアパートの管理人は午前三時にかれとビールを飲んでいるので犯行時間は1966年7月18日午前 三時から死体発見時刻午後五時までの14時間の間に特定できるが、そのうち三人の隣人に目撃された白いマスタングのようなスポーツカーがスピードをあげて走っていった時刻、午前四時頃が最も近いと思われる。犯行はボビーのアパートの駐車場では行われなかった。もしそこで胸や肩に打撲傷を負い右人差し指を折るほどの乱闘またはリンチがあったのなら三人の隣人のだれかが痛みを訴えるただならぬ悲鳴を聴いているはず。普通あの町ではそんなことが起きればすぐにだれかが緊急電話911番に電話して夜中でも警察のヘリコプターが飛んでくるのだ。

 ボビーと部屋をシェアしている弟 、ランディがボビーは午前1時から2時までの間に出ていって帰って来なかったというのだから午前三時に管理人とビールを飲んでからかれは部屋には戻っていないことになる。すなわちその後犯行が行われた地点に自分の車で出向いたのだ。オールズモビルは家族の車だが母が朝用事で使うかもしれないので私用には使えない。エルパソで新メンバーを募っているときもその車に乗っていたので新メンバー達はボビーの車を認知していたから駐車場にボビーの車がないとわかってドアベルを鳴らしたのだ。

 
 その日、ボビーは自分の車で新たなプロジェクトに反対する影の投資者たちと話しをつけるためにに呼びだされたPJ’sクラブに行った。ボビーはフランクリンアヴェニューを東に走りヒルハーストアヴェニューで右折してキングスウエル通りまで走ってヒルハーストアヴェニュー( Hillhurst Ave,)1751番地にあるPJ's クラブまで走った。奇しくも射殺された日のサム・クックと同じ道を通って…。そこはボビー達のバンドの本拠地で通い慣れているし閉店後なので正装することもない。その時は話せばわかると信じていたのだ。しかしながら投資者たちにとってはタレントは金を儲けるための投資対象であってアーティストではないのである。自分達が見つけ水をやりここまで育てた金のなる木に勝手な行動をとられて商品価値が落ちると困る。投資者たちはなんとかバンドのミーティングまでにボビーを翻意させようとした。それで命令された実行犯たちはボビーを脅し翻意を迫った。もう操り人形ではなく自立しようとしていたボビーはOKせず諍いになった。多勢に無勢で袋だたきにあって胸肩に打撲傷を負い右人差し指も折れた。動かなくなったボビーを見て犯人たちはやりすぎたことに気づいた。そこが殺人事件現場になるのはまずい。死体をマスタングでアパートに運んで自殺にみせかける工作をした。フラー一家の駐車場でテキサス州・エルパソ・ナンバーのかれの家族のオールズモビルを見つけてボビーのキーでドアを開けた。フロントシートに座らせてキーをイグニッションに挿してスタートしようとしているように見せかけてその上に手をおいた。人差し指の折れている手でキーを廻してスタートしようとするはずがないのに。ガソリンをかけて証拠すべて残らないように燃やそうとした。ところがガソリンをかけると車内にガソリンが揮発して充満して呼吸もできないので窓を全部開けた。ブック形マッチを出してで火をつけようとしたが点けた途端爆発して自分も燃えてしまいそうで怖くなってやめてそのままにしてマスタングで逃げた。ドアをキーでロックしていてもカー・ステレオを盗られたり車内の物すべてを盗まれるこの町でロックもしないでドアを閉めただけで駐車場にこの車が置いてあった謎の答えはキーをイグニッションに挿したので逃げる時キーが手になくで外からロックできなかったということである。それが午前四時頃であった。あまり人々に信用されていない検死でガソリンの吸引による窒息が死因というのがもし本当ならこのときボビーはまだ死にきってはいなかったのでガソリンが肺に入ったと思われる。それを検出して死因としたのだろう。
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 そんな事件の推移が思い浮かぶ。はたして真相はいずこにあるのだろうか。
fumio


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 ハリウッドのまぶしい輝ける闇を透かして真相を見つけるために関わった人々の声に耳を傾けよう。

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 ボビー・フラーの親しい友人、Charlene Nowakは「17日の日曜にボビーと話したの。翌日行ってもいい?と、かれは一日中スタジオに入るから外に出る時間をとれないから火曜日に来いよというの。それは自殺する人のいうことのように聞こえなかったわ。」と証言する。

 ボビーは7月18日の早朝にはアパートにいた。真夜中から1時までまだそこにいたと母とローディ(楽器運び係)は確信している。ボビーはテレビを見たり電話したりしてまだそこにいた。「1時から2時の間にかれは電話を受けて出て行った。そしてそれから帰らなかった。かれはまだ部屋着のままだった。」とランディは言う。それは、ボビーは外出時にはいつも身なりをキチンと整えるのでパーティとかガールフレンドに会うのではないことを示唆している。報告書によるとアパート管理人Lloyd Esingerは「ボビーはかれの部屋に午前3時頃立ち寄ってビールをすこし飲んだ。ボビーは上機嫌だった」と回想する。だれかがボビーを目撃した事実のそれが最後であった。


 ボブ・キーンは「ボビーはあの夜LSDパーテイに行って幻覚状態で倒れて死んだ。それでパーテイ仲間が自殺に見せかけた」とありそうにもないことを言う。

 ボビーの死の4日後、フラーのアパートの二軒先のギタリスト、ジム・リースとドラマー、ダルトン・パウエル(Dalton Powell)がシェアしているアパートに、3人の武装した男達が現れた。リースは「ぼくが真夜中頃に帰るとダルトンが拳銃を持って立っていた。かれはぼくを探していた三人について語った。われわれはすでに翌日エルパソに帰ることを決めていた。それでぼくは弾を込めたピストルを帰り道のシートの下に置いていた。
ランディは「ボビーは地下組織にコネクションがあるDel-Fiの出資者に支払われる80万から百万ドルの生命保険にかかっていた」と言う。。ボビー・フラー亡き後残りの3人のメンバー、ギタリスト、ベーシスト、ドラマー、それぞれが事件の裏の地下組織の存在を感じていたのである。

 ボビーの叔父さんのひとりが警察に捜査を乞いに行ったとき、かれらは「自分にとってなにが良いか知っているなら口を閉じておくほうがいい」と言った、という。ランディはまた検死官にも強い不信感を持っていた。

 
 ボブ・キーンの影のパートナーとボビー。フラーとの仲介をして金をもらっていたコールガール、メロデイは「かれのストリートの3人の隣人が、白いマスタングみたいなスポーツカーが朝4時頃スピードをあげて走っていた、と報らせてくれた」と言う。
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 これらの証言あるいは思いこみの吐露によってわかることはわたしの高校時代にはまったく考えもしなかったことだが、警察、検死局、そして闇に紛れて姿の見えない地下組織のなんらかの関わりである。公式には自殺や事故と処理されて封印されてもやはりただのロックンローラーの自殺ではなかったのだろう。
fumio


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 ボビー・フラーは故郷エル・パソで新たなプロジェクトのためにミュージシャンを募っていた。そのミュージシャン達が約束のその日1966年7月18日午後5時にボビーのアパートに向かった。到着してかれの車がないことに気付いてアパートのベルを鳴らしても返事がなかった。ボビーの母ロレインが手紙のチェックに出ていって駐車場に行ったとき、そこにかの女がテキサスから乗ってきた家族の車、オールズモビルがあるのを認めた。かの女は走って運転席のドアを開けた。ガソリンの匂いが鼻をついた。ボビーはフロントシートに横たわっていた。ロレインは「キーはイグニッションに入っていました。まるで車をスタートしようとしたように手はキーの上にありました。眠っているのかと思って名前を呼んだけれど近付いてよく見ると寝ているのじゃなくて死んでいるとわかりました」と言う。

 ロサンジェルス検死局の公式検死報告は「死体は車のフロントシートでガソリンを缶3分の1ほどかぶってうつ伏せで見つかった。胸と肩に過度な打ち身があった。窓は全開でドアはロックはされず閉まっていた。キーはイグニッションにはなかった。死因はガソリン吸引のための窒息。」と語る。

 ボビーは衣服と髪もガソリンにずぶ濡れだった。かれの身体は完全な死後硬直を呈し死後3時間以上の経過を示唆していた。目撃証人達はボビーが喧嘩の最中に殴られたように見える、と証言した。まるで後ろに曲げたようにかれの右人差し指は折れていた。こんなすべての証拠を無視してロサンジェルス市警はボビーの死は自殺と判定した。公式警察報告は「犯罪の証拠はない。本件は終結した。カリフォルニア州法の下に封印して残される」ということであった。そしてボビーの亡骸は7月20日にバーバンクの霊場フォーレスト・ローンに埋葬された。

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 推理小説ではなく本当にあったことなので概要を語るだけでこんな長くかかったが以上が事件の顛末である。だれが見ても辻褄があわないことが多すぎるこの事件はなぜカリフォルニア州法の下に未解決のまま終結したとして封印して残されたのだろうか。裏でどんな力が働いたのだろうか。
fumio

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