monologue
夜明けに向けて
 



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fumio


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プログレッシヴロックグループSFのアルバム「プロセス」のミックスダウンについて

ミックスダウンとはトラックダウンとも呼び、8チャンネルトラック、16チャンネルトラック、24チャンネルトラックなどに録音したばらばらな楽器や歌をひとつにまとめ作品に仕上げる作業のことである。そのとき、各楽器の音色を調整し音量のバランスをとり、エフェクターをかけたりヴォーカルにエコーやリバーブをかけたりする作品完成のための最重要な作業なのである。
レコードのレコーディングはエジソンが「メリーさんの子羊」を歌ってレコード盤に直接刻んだ時代からテープを使用する1チャンネル1トラックのモノラルから2チャンネル使用するステレオへそしてビートルズの4チャンネル多重録音に始まるアナログ多重録音へと移りそして倍々(バイバイ)ゲームで8チャンネルそしてすぐに16チャンネルのスタジオが主流になりそれからなんと24トラックという大きい立派なスタジオが当たり前になってしまった。それでわたしたちもアルバム「PROCESS」のプロジェクトではハリウッドのチャイニーズシアターの向いのビルにあった「ガナパーチ」というインデイアン名のエンジニアがやっている24チャンネルスタジオPARANAVA STUDIOを録音に使用しのだがプロデューサーとしての宮下富実夫は厳しくて最高の作品を製作するためにはガナパーチのPARANAVA STUDIOはレコーディングには使用してもミックスダウンには機材がふさわしくないと判断した。理由は基本的な設備、装置や機材。それで当時最新最高の機材やエンジニアを揃えた有名スタジオインディゴランチ・スタジオ(INDIGO RANCH STUDIO)に予約を入れた。それでPARANAVA STUDIOにおいてすべての録音を完了してできあがったレコーデイング済みテープのミックスダウンにはインディゴランチ・24トラッスタジオ(INDIGO RANCH STUDIO)を使用することになったのだった。
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わたしは高校時代アメリカのヒットランキングをノートにつけていたのだが1965年のブリティシュ・インヴェィジョンの頃、Moody Bluesという英国のバンドのGo Now という曲がヒットした。おきまりのリズム&ブルースを基調にしたロックバンドだと思っていたのだがのちにポ-ル・マッカートニーに誘われてウイングスに参加するギターのデニー・レインが脱退してから採り上げる曲想が Tuesday Afternoon のようにがらりと変わってしまった。それからかれらの音楽はプログレッシヴロックと呼ばれるようになった。ヒットを目指すのではなく独特の思想性や内省的な世界観を表現しているようだった。
わたしたちがミックスダウンを行うことになったインディゴランチ・スタジオはそのムーディブルースが始めたスタジオでマリブの丘の上にあった。ニール・ダイアモンド、ヴァン・モリソン、ビーチボーイズ、ニール・ヤングといったミュージシャンたちがレコーディングに使用し、オリヴィア・ニュートン・ジョンはアルバム 「Totally Hot」 を78年にそこでミックスダウンしている名スタジオだった。

1980年11月4日、その日、わたしの一家は朝からピクニック気分でおにぎりを作って用意した。インディゴランチ・スタジオの中では昼食は買えないということなのでエンジニアの分まで作って持っていった。宮下富実夫の家族、島健の家族とみんなで曲がりくねった坂道を宮下一家の大きなヴァンに乗り込んで登って行った。着いたところはUFOが飛来するという噂にふさわしい趣(おもむき)のあるスタジオだった。わたしたちがスタジオに入っている間、家族たちはロビーや丘陵の広い庭で過ごすことができる環境であった。INDIGO RANCH(インディゴ・ランチ) 24chスタジオは当時最高のレコーデイング設備を備えていた。 スペイン語のランチョ(別荘)のように山の中腹にあるのでミキシングの日はピクニックのようだった。それで朝から妻が多くのおにぎりを握り、付け合わせのおかずを用意して行ったのだ。
プロデュースの宮下フミオの指揮の下、各楽器の音決めから試行錯誤のミキシングが進んだ。エンジニアはメインとサブがいて数人の助手がテープ類を用意してくれた。プロデューサーとしての宮下富実夫がまず中央に陣取りわたしと中島がその左右に座る。宮下は普段の友達関係の仮面を脱ぎ真剣勝負モードに入った。
24トラックの元テープをまわし、まずドラムスの音から音色を決めてゆくのだがそれに一番時間がかかった。スピーカーはJBLで音が粒立って聞こえる。細部まで視覚化して見えるように再生する。他の楽器やヴォーカルの音決めはあまり問題なく進んだ。それから一曲ずつ各楽器と歌のバランスやリバーブ、エコー、エフェクターなどのかけ具合など時間をかけてミックスしてステレオマスター・テープを作ってゆくのである。初めの録音時、キーボードの杉本圭がまだ不慣れなためにいわゆる白玉全音符でコードを押さえていただけのストリングアンサンブルのパートを宮下がこのミックスダウンの際に演奏のリズムに合わせて調整卓のフェーダーを上下してリズム感を出した。昼には宮下家の家族、関わったミュージシャン仲間、ミキシングエンジニアなど弁当を持ってきていない、みんなにおにぎりをふるまった。昼食はアメリカ人のエンジニアも和気藹々とおにぎりを食べてくれた。宮下が個人的に多重録音した「嵐」だけはミックスをひとりにまかせた。じゃまにならないようにわたしたちは席をはずしたのだ。一休みしてふたたびやり直して最終曲まで進み多くの耳で何度も何度も聴きなおしてみんながOKした時、やっと終了する。午後も集中してミックスを続けついにマスター・テープができあがってスタジオの壁に埋め込みになっている大スピーカーから出る音をみんなで聴き直していると「ドラゴン・ライダー」 でスタジオ全体が飛んでいるような錯覚に襲われたのだった。
fumio

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test  


“There is a tiny planet in the spacious universe from the long time before.
We all live on it that shines blue to the core.
Wish we’d be going together forever more.”

Eyes are different,skins are different,faces are different.
Words are different,dreams are different,nations are different.

lai- la la la la, lai- la la la la, lai- la la la la la,

lai- la la la la, lai- la la la la lai- la la la la la

 Come to me here by my side, when you need someone to love.
And you feel all alone in the end of this world.

 Talk to me how you cried,talk to me how you tried.
Hold my hand see my eyes.
I’m gonna comfort you,my friend.with this song.

 Sing across the ages, jump across the places,
Sing across the races,by the day we  see eye to eye.

 Every time we share sad tears, our pains melt like the ice,
We become full of joy for living life in this world.

 Can’t you see how we survived? can’t see how we revived?
Take my word see my way.
I’m gonna take you to my soul with this song.

 Sing across the centuries, jump across the countries,
Sing across the histries,by the day we  touch heart to heart.

 Winds no difference,  clouds no difference, lights no difference,
Skies no difference, seas no difference, lands no difference

lai- la la la la, lai- la la la la, lai- la la la la la,

lai- la la la la, lai- la la la la lai- la la la la la


 Sing across the fires ,
 Jump across the wires ,
Sing across the deires,by the day we  walk hand in hand.


 Sing across the whole earth, jump across the voyagers,
Sing across the universe.by the day we  see eye to eye.
By the day we  smile heart to heart.

 Brothers with you, sisters with you, my friends with you.
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fumio







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わたしのロサンジェルス生活時代、仲の良かった曼荼羅画家、吉田等(トニー・ヨシダ)
が「UCLAの映画館でSpace Odyssey「2001年宇宙の旅」をやってますよ、」と教えてくれたので見に行ったことがあった。それはスタンリーキューブリックの作品でこの映画で各地に出現する黒い石柱状のモノリスについて当時は知識がなくてよく意味がわからなかった。今にして思えば現代のAIに支配される時代を予言する名作だった。教えてくれてありがとう、トニー
fumio



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修正  


以前書いたこのブログの文章が少し間違っていたので以下のように修正しました。
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1989年のある日、わたぼうし音楽祭事務局から茶色の封筒が届いた。
わたしがコンテストに応募した何曲かのうちわかりあえる日までという曲が8月に奈良で開催される「第15回わたぼうし音楽祭」の出場作品に選ばれたという報せだった。他の曲の方が自信があったのですこし意外な気がした。あらゆるものの違いが悪いものではなく大切なものという分断から統合へのコンセプトが受け入れられる時代に入ったのだろうかと思った。優勝すれば2年後の1991年にシンガポールで開催される予定の「第1回アジア太平洋わたぼうし音楽祭」の日本代表となるということだった。
fumio

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ネットにニフティを利用している、わたしのホームページに掲載している歌の歌詞が文字化けしているので修正するためにftpソフトを起動すると残念ながらホストにつながらなかった。
「アカウントの接続が解除されました」とエキスプローラにでてきた。いつのまにか接続を解除されていたのだ。驚いた。
fathful(心遣い)は何処に。
fumio

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宇宙創成、進化、絶滅、再生を描くプログレッシヴロックアルバムSF「プロセス」
過程
人生の日々
心船
青春
龍騎兵

故郷  
をハリウッドで共に制作した中島茂男が昨日アメリカからオロブランコとネーブルオレンジの詰め合わせを贈って来た。
シゲさん、サンキュー!メリークリスマス!Have a good new year!
fumio

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お昼は天国のヴィデオのコメント「コンバットヘヤーの山崎ひろし」には思わず笑ってしまった。ごめんね。
fumio


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shige  


10日日曜の朝、歯を磨いていると中島茂男、シゲさんから行ってもいいかと電話がかかってきた。
Wajindenというバンド公演にきたらしい。
それで午後2時にタクシーでシゲさんがひとりで来た。
シゲさんはコーヒーを飲みながらわたしのギブソン• アコースティック• ギター• ハミング• バードを弾き色々以前のレパートリーなどをセッションした。久しぶりの楽しいライヴの時間だった。これから中目黒に行くという。ずいぶん忙しくて大変らしかった。
fumio



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ヘルパーのフィリピン女性レンは
「所得税はインカムタックスね、どうしてインカムがないのに払うの」
と問う。そういえば収入はインカムというけれどコロナ騒ぎで旦那の内装の仕事が減ってインカムが以前のようにインしていないのだ。
レンはタガログ語でフェイスブックに日本での生活を詳しく書いているのでフィリピンの多くのフォロワーたちが日本の役所で行われているハラスメント状況についてよく知っている。
残念だけど仕方ない…。
fumio

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昨日、いつも金曜と日曜に来てくれるヘルパーのフィリピン女性に
「ハイ、ハウ アーユー」と挨拶すると「アイム ノット ファイン」という。
「毎晩、眠れなくて4キロ痩せたわ」と続ける。そういえば少しすっきりして見えた。
みかけが良くなっても喜んでいられない。
旦那の仕事は内装業でまだ売掛金が入ってきていないので所得税が払えてないから、川口税務署の特別国税徴収官 今井弘正氏に差し押さえると脅されているらしい。
子どもが幼稚園から小学生まで三人いるのに家を差し押さえられたら暮らせないと泣く。これはハラスメントね、というから
そうだね、と思わずうなずいてかわいそうで恥ずかしくて情けなかった。
外国から来た人がハラスメントと思うような行為が日本では当然のように行われているのだ。
妻が、かの女自殺するかもしれないわね、と呟いた…。
fumio


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米国英語教育プログラムでのクラスメイトだったイラン人たちはみんな大声で意見を述べ合うのだがその中にも思慮深げな人物はいて、みんなが騒いだあと静かに締めのようなことをいう。そして他民族の代表のようにわたしにも意見を訊く。わたしは部外者としての意見を述べた。かれらはチェスが好きで昼休みも休み時間も集まって楽しんでいた。チャンピオンらしいヒゲの男が脇を通ろうとするわたしを見とがめてチェスをしようと誘う。他民族代表としてわたしをチェスという知的競技に誘っているようだった。わたしは日本将棋は好きだったので松下電器で働いていた頃、将棋部で将棋職域団体戦京都滋賀大会で松下電器の選手の一員として出場して優勝したことがあったけれどチェスはあまりやったことがなくどうせ歯が立たないから断った。勝負するのなら勝てないにしてもいい勝負ぐらいにはしたかった。
 そしてある日「ボビー・フィッシャーのチェス必勝法」という本を図書館で借りて帰った。何日か真剣に勉強してチェックメイト(詰み)のテクニックや基本定跡を覚えて、昼休みに集まって騒いでいるチェス好きのそばに素知らぬ顔で近づいた。やはり一通り対戦相手に勝ったクラスのチャンピオンが手持ち無沙汰になってわたしを誘うので仕方なさそうに受けて立った。油断していたらしく局面は覚えた定跡通り進み、チャンピオンは不思議そうに自分のキングを倒した。かれはボビー・フィッシャーに負けたようなものだった。申し訳ないような気がした。いくら強くても自信過剰で定跡にはまってしまってはいけないのだ。
fumio

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わたしが留学した頃、米国公共英語教育プログラムの主要メンバーはイランからの留学生たちだった。その頃本国イランでは親米強硬路線であったパーレビ王が米国の庇護のもと政権を担っていた。それで友好国としてイランからの留学生を大量に受け入れていたのだった。かれらは議論好きでいつもワイワイガヤガヤやっていた。しかし、パーレビ政権の批判をする時だけはなぜかは声をひそめた。本国で批判すると警察に連行されるので米国内でさえ大きな声で批判するのが怖かったのだ。そしてしばらくするとかれらがいつのまにか姿を消した。本国イランでパーレビ政権が倒された。フランスに亡命していたホメイニ氏が帰還してイランイスラム革命と呼ばれる革命が勃発したのだった。あの留学生達は好戦的だったので今回のハマスのイスラエル攻撃作戦に裏から関与しているかもしれないと残念だけど思ってしまう。
fumio


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イスラエル軍がパレスチナのガザに侵攻しそうになってきたのでこんな記憶が蘇る。
米国公共英語学校で
「フミオ、今度クラスに入って来た娘、かわいいぞ。」とイスラエル軍のパイロットだったという生徒がある日、ニヤニヤした。その娘はわたしの後ろの席に座った。それがわたしの一生の伴侶との邂逅の瞬間だった。以来、現在までわたしたちはともに暮らしている。あのキューピッド役をしてくれたイスラエル軍のパイロットだったという生徒は今回の作戦に関与して人殺しに加わるのだろうか。
fumio


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岩倉  


わが友、大島純男が編集した「森寛子 父・岩倉具視の「喰違坂の遭難」を語る ほか」という本が届いた。 
征韓論で賑わった嵐の時代、西郷隆盛や大久保利通などの関わっていた歴史の重要な場面。
五百円札のモデルとして知られる岩倉具視が赤坂の喰違坂で暗殺されそうになった事件についての本だった。
よく死ななかったものだと思う。
fumio


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