monologue
夜明けに向けて
 





わたしは東川口病院での骨折回復期、リクエストがあれば病室でもリハビリルームでもなんでもかんでも歌っていた。わたしがリハビリルームに行くとみんなリハビリを忘れて耳を澄ませていた。洋楽のスタンダードスタンドバイミーカントリーロードはわたしのレパートリー中でもリクエストが多い。トム・ジョーンズのヒット曲「思い出のグリーングラス」も実に好きな方が多くてずいぶん受けた。アメリカでもセリフの部分でお客さんたちみんなが感動するのだった。ブルック・ベントン風の「マイウエイ」はクラブでは定番になっていてわたしもかならず一晩に一度は歌わないと終われなかった。しかし、病院では一番得意なロックは歌えなかった。吼えるように歌わないと感じがでないので退いてしまう。喚(わめ)くときっとうるさいと文句が出ただろう。ビートルズなら「レット・イット・ビー」や「ヘイ・ジュード」ぐらいまでが許容範囲だった。そして、いよいよわたしの退院フェアウエルライブが近づいてくると様々な意見が飛び交った。
リハビリの人々がわたしに対して歌うとか、場所は廊下がいいとか、みんな勝手なことをいうのでわけがわからなくなった。そのうち、わたしが自分で歌わなければならない、という意見が優勢になった。自分で自分に送る歌を歌うのはおかしいと思ったけれどみんなわたしの歌を聴きたいということで、それでは歌います、とOKした。場所は廊下で十分わたしの声なら病院中に響くので大丈夫ということだった。そうかもしれないけれどアメリカのステージかクラブのマイクの前以外ではあまり歌ったことがないのでマイクなしで廊下で歌うのはちょっと不安だった。普通、病院の廊下で一生懸命歌っている歌手を見かけることはあまりないので経験としては面白いのかもしれない。それでも結局は、ナースステーションを12月11日の午後5時にその時間だけ借りてライヴショーパーテイを催すと川上理学療法士が決めてきたのである。
そしてついに退院フェアウエルライブの日が来た。森岡聡司OT(作業療法士)はパソコンにつなぐスピーカーをもってきてマイクスタンドも用意してくれたのだった。そしてスタート時間の午後5時になってナースステ-ションに集まってみんなで用意をしたが言い出しっぺの山田眞莉OTは自分が人前で歌うことをびびって姿を見せなかった。それでリハビリの職員が手分けして探した。一階二階三階各病室やトイレに屋上、しかし見つからない。仕方なしに、わたしがショーをひとりでやることにして、集まっってくださった多くの看護師、ヘルパー、医師、患者などのパーテイ客や聴衆に取り繕って言い訳をしてから車椅子に座ったまま「誰もが幸せに」を歌った。わたしが歌い終わると歌い終わるのがわかったのか山田OTは姿を見せた。それでわたしの横に立った山田OTに歌唱指導しながらきみよ、幸せにを一緒に歌った。普段、外交的性格でよく笑わせてくれる山田OTが意外に人前に出るのを怖がるあがり症だったことがわかった。本当に意外だった。みんなのリクエストに応えてアンコールでみんなが聴きたいという有名曲を楽しく色々歌い終えて部屋を出ると大塚真代主任が近づいて来てわたしの自作最新曲「虹の歌」を聴きたかったと残念がっていた。他の看護師たちはわたしの声で「ホワイトクリスマス」を聴きたいとリクエストした。もうライヴは終わった後なのでそれはまたなにかの機会にと思いながらもみんなそれぞれ勝手なことを言うのが面白かった。
退院する患者さんが歌を歌って別れてゆくのは初めて、とかみんな口々に言いながらうれしそうに打ち上げを終わったのである。病院のような場でも、集う者の心次第でそこにいることがうれしく楽しい場になり得るのだ。そんなことを思う楽しいライブパーテイだった。普通は経験できない、すばらしい体験に感謝…。
fumio

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森岡作業療法士は小説好きらしくわたしがネットにアップしている自伝風小説「カリフォルニアサンシャイン」を探して読んで、その中に出てくる、わたしたちワールドツアー仲間がSFという名前でアメリカで製作発売したプログレッシヴ・ロックカセットアルバム「プロセス」について興味を覚えて聴きたいというので息子に家から持ってきてもらった。他の音楽ファンの人々はポップな歌が好きそうなので読売新聞の芸能欄で紹介された個人的ポップロックアルバム「カリフォルニアサンシャイン」を記念に贈ったものだった。そして大塚真代作業療法主任がわたしの自作最新曲を訊くので「虹の歌」と応えるとその場でスマホで検索して聴いたりしていた。そんなこんなでついにフェアウエルライヴの日が来た。
fumio

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2015年11月8日に、吉田ゆう子看護師、磯山真緒ヘルパーなどが、木村玉雄氏という患者さんが退院するというので退院する方に贈るホヤホヤの新曲「きみよ、幸せに」を歌って祝福した。それからしばらくしてリハビリ担当の川上理学療法士に木村玉雄さんの退院の時作ったばかりの「きみよ、幸せに」を歌ったというと第一回目のパフォーマンスを聴きのがしたとすごく残念っていた。
そして10日、10時半に家族がきて退院する須賀正雄さんのために看護師さんが山下さんが歌を歌います、と紹介してくれたので「きみよ、幸せに」を心を込めて歌って祝福した。すると、ご家族が後で礼を言いに来た。実にうれしい思い出になった。わたしの担当の山我看護師も初めてわたしの歌を聴いたといって喜んでいた。そのうちにわたしの腓骨の骨折も治ってきてわたし自身の退院が近づいてきたのだった。それでわたしの退院にはみんなでフェアウエルライブをすると山田眞莉OTやリハビリ職員の皆さんがいいだした。それではと「だれもが幸せに」というタイトルにしてわたしは国際的にもと英語も入れたのだった。
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「だれもが幸せに」 詞 曲 山下富美雄

1、並んだベッド今日卒業するんだね
Same time same spaceともに過ごした仲間が旅立つ
巣立ちゆく背中にかけることばは
「Congratulations! Be happy!」
Wish you wish you luck and happiness
Wish you wish you wishing you luck and happiness

2、On the long and winding slope just took a rest for a while
Once more once more let's get started again walk on one more time

それぞれの人生それぞれ生き抜いていつかまた会える日まで
Wish you wish you luck and happiness
Wish you wish you wishing you luck and happiness
Wish you wish you wishing you 誰もが幸せに 誰もが幸せに 誰もが幸せに


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その最後のフェアウエル・パフォーマンスは色々、案がでた結果、二階のナースステ-ションで行うことになったのである。わたしの担当医、小川整形外科医はわたしの顔を見るたびにライブの日にちと時間を訊いたのだった。洋楽が好きでとても楽しみにしていたのだった。ヘルパーさんもみなさん楽しみにしていて、その日は休みで来られないからどうしたらいいのと嘆いてぼやく人もいて、ビデオを撮ってネットにアップしてあげるからと他のヘルパーさんがなだめていた。ひとりの患者が退院するからといってそんな騒ぎになるのは不思議だった。
fumio

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たしは日本に修行にきた当時、こんな歌、ひかりのくにへを作ったことがある。
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     ひかりの くにへ  詞 曲 山下富美雄

暴風雨(あらし)嵐の海へ漕ぎ出すひとよ 雷光(いなずま)が今行く手を照らす
今はまだ君の時じゃないとだれかが耳打ちしているようだ
吹きすさぶ風に笑顔を向けて まだ見ぬ国へ 旅立ちの朝
 自由な空へ舞い立つひとよ 暗闇を今引き裂くように

一人より二人それがいいさ ぼくも一緒に出かけてみよう
はじける胸に希望をつめて愛するひとに巡りあう旅
ひかりの くにへ旅立つひとよ 霊魂(たましい)が今明日を拓く 
生命(いのち)の国へ飛翔(はばた)くひとよ 生命(いのち)の国へ飛翔(はばた)く人よ
 ひかりのくにへ旅立つ人よ  

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この歌が評判になって宗教の祭りで歌われた頃はまだ、だれかが「今はまだ君の時じゃない」と耳打ちしていた。果たして、それから時代はどう変わったのか…。
fumio


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送る  


看護師さんたちと話していると病気が治って退院する患者さんにかける言葉がただ、「サヨナラ」や「お元気で」というだけでは寂しくてつまらないという意見が多かった。それではみんなで祝福してあげる歌を作ろうかということになった。それでわたしは「きみよ、幸せに」という曲を作ったのだった。
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   きみよ、幸せに 詞 曲 山下富美雄


1、なじんだベッド今日あとにするんだね
同じ場所同じ時ともに過ごした仲間が旅立つ

巣立ちゆく背中にかけることばは

「おめでとう。元気でね。」

きみよきみよ、幸せに

きみよきみよきみよ、幸せに

2、長い坂の 途中で一休み 

もういちどもういちど歩み始めるめでたい日がきた

それぞれの人生それぞれ生き抜いていつかまた会える日まで

きみ よきみよ、幸せに

きみよきみよきみよ、幸せに
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fumio

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意外  


リハビリ担当作業療法士大塚真代主任が東川口病院にもウクレレ部ができたのでウクレレの調弦の仕方を教えてほしいというので広いリハビリルームで教えた。リハビリ中の皆さんも興味深げに見守っていた。わたしの担当医小川邦明整形外科医もウクレレ部に参加するという。東川口病院はずいぶんアート的に進んでいた。わたしがノートパソコンを持ち込んで音楽をヘッドフォンで聴いて色々作業していると、リハビリ科の川上政孝理学療法士がわたしの曲「祭りの夜」をネットで聴いたといって「ピカソみたいな歌だ」と評していた。他のリハビリ職員たちにも曲のURLをメールしたという。それで一時ネット上で「祭りの夜」のアクセス回数が増えてしばらくブームになったことがあった。意外で仲々楽しい経験だった。
fumio

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骨折患部のふくらはぎをギプスで固めてもらって横になっているとユーチューブにアップしてある「戦士たちは今」」などの米国家庭生活ビデオを見てわたしがアメリカでロックをやっていたと知ると東川口病院に勤める様々な人々がわたしをいじりに来た。
リハビリの山田眞莉OTがわたしを見ると「ハロー」というので「ハーイ・メアリ・山田」と応じると
「わたし、メリーさんなの?」と大喜びする。本名のマリと呼ばれるよりうれしいようだった。
ある看護師さんが外国人患者に英語で「検温する」と言いたいというので「チェック・ユア・テンプラチャー」と教えるとテンプラチャーが覚えにくくてうまく言えないというので「天プラ茶ー」と覚えたら言えるよと答えたりしたものだった。
fumio

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ヒビ  



2015年8月30日( 日曜)午前5時半頃、シャワーを摂ろうと洗面脱衣洗濯部屋に一歩入ると転んで右足がメキっと鳴って倒れた。妻に右足に触ってもらうと熱いから折れていると判断して救急車を呼んでくれた。
救急車からまず東川口病院2B病棟の部屋に運びこまれた。
担当医師は整形外科小川政明医師に決まった。担当看護師は山我(やまが)久美看護師。
レントゲンで腓骨骨折と診断された。完全に折れているわけではなくヒビが入ったような状態ということだった。「ヒビですか?」と安心したように問うと「ヒビといっても折れていることに変わりはないんです」と言われてがっかりした。それから約3ヶ月と少し、看護師、ヘルパー、リハビリの皆さんとの交流の楽しい入院療養が始まった。
fumio

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今日はいよいよ名人戦挑戦権を争うA級順位戦に初登場する藤井聡太王将(19)が佐藤康光九段(52)と対戦するので将棋ファンは注目して目が離せない。
毎日新聞に、そのA級順位戦の組み合わせ抽選過程が掲載された。他のクラスを全て中村修九段らがコンピューターソフトで抽選したあと最後に残ったA級の抽選で20年以上前、棋士が米国旅行のお土産として買ってきたトランプを使用されたという。
その米国旅行とは1985年6月30日、ロサンジェルス「ホテルニューオータニ」で開催された、海外初タイトル戦 棋聖戦の同行取材団だったのだろう。わたしはその頃ロサンジェルスの将棋クラブで出迎えたので懐かしく思い出す。
fumio

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感謝  



そして、ある時、東川口病院で以前のことを知る事情通のヘルパー小口和代さんに、脳外科医藤原医師は脳出血で亡くなったと聞いて愕然とした。わたしたち多くの患者の脳を手術によって治癒してくださったご自身がその症状によって亡くなるとは思いもよらぬことだった。こうしてわたしが今も文章を紡ぐことができるのは藤原先生のおかげ…。感謝。合掌…。
fumio


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再会  



そして、2004年 1月、東川口病院の出口で妻を待っているとだれかが左手を握る。顔を見てもだれかわからなかったが白髪の多い小さなおじさんだった。そしてわたしの背中をポンとたたいて立ち去ってゆく。妻がやってきて挨拶したときそれが脳を手術してくれた藤原先生と気づいた。白衣でなくて普段着だったのでわからなかった。いつも病院のそばで自分の知っている顔を見るとフレンドリーに握手するらしい。手術後何年してもわたしを憶えていてもらえてすごくうれしかった。
fumio

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1992年2月16日の「第一回川口市ボランティア・フェスティバル」の日、オーディションで選ばれた方達がパフォーマンスする第一部が終わって、第二部に『ぞうれっしゃ合唱団』というコーラスの方々のサポートを受けてわたしも出演した。最後のアンコールには『わかりあえる日まで』を英語バージョンで歌ったのだが、その英語バージョンを喜んだお年寄りが近づいて来て「英語で歌ってくださって、ありがとう」といって土下座をされたことがあった。その時は驚いてなんと応えればいいかわからなかった。そんなふうにして川口にも新たな風が吹き始めたのだった。
fumio

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本日、6月17日は父、山下幹雄の命日。
かれは1923(大正十二)年三月二十一日、滋賀県伊香郡西浅井山門(やまかど)の地で山下孫吉と山下いとの四男として生を享け、戦後京都で専売公社に務め母房子と職場結婚して新三菱重工に転職して車のバルブの弁を作る。そして1997年(平成九年)午後三時十分。74才で肺炎によって没した。合掌…。
fumio

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退院  


その頃、家族で少し前に観た映画「レナードの朝」で主人公のロバート・デニーロが脳の機能がうまくはたらかない人を好演していたので息子にはその姿が焼き付いていてわたしの脳の手術中、「お父さん、レナードみたいになるの?」と不安そうに妻に尋ねたりしたものだった。それからひと月ほど経っていよいよその脳の中身が治った頃を見計らって、クリスマスの日に右脳にかぶせる頭の骨の嵌めこみ手術が行われた。
まず右太腿を切開して保存してあった骨を取り出す。麻酔が効いているので痛みは全く感じない。
頭を切り開かれて患部に骨を嵌めこまれても深い麻酔状態でなにもわからなかった。
手術後の回復期、わたしは大暴れして人々に迷惑をかけたという。点滴に鎮静剤を入れられておとなしくさせられた。翌年1992年一月に退院して家に帰ったわたしがほっと一息つくと、まるでそのときを測っていたように電話が鳴った。それは『第一回川口市ボランティア・フェスティバル』への出演依頼だった。川口市でもボランティアの新しい風を起こす、ムーブメントをスタートするために企画されたという。その電話の熱い口調から意気込みが伝わってきた。入院さえ親以外には報らせていないはずなのにどうしてわたしの退院を知ったのか驚いた。そのタイミングの良さに妻と顔を見合わせた。妻はわたしの不在中、一度も電話の呼び出し音が鳴ったことがないというのに…。
fumio

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深海から泡が立ち昇る、世界を抱く貝は真珠の夢から覚めた様だ
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ホワイトブラザーのひのもと国での修行とはまず欠落していた原子力や核関連の知識を核、原発博士を演じられるほどに書物で深めること。それから首の骨を損傷して世界的規模の音楽フェスティバルに出場することだった。そして次の修行として1991年11月20日、風呂場での脳出血。修行とはいえ運び込まれた東川口病院での藤原医師とその仲間の医師らによる緊急開頭手術はハードだった。死なない程度のぎりぎりまでいった。手術の翌日、わたしのベッドサイドにやってきた担当看護師がわたしの頭や足の術後大げさなように見える保護ガーゼ包帯などなどの状態を見てどうしたのかと尋ねるので、脳内出血で藤原先生に執刀してもらって右脚の太腿に切り取った頭の骨を埋めてもらいました、と答えると、それは大変でしたねというので、いや右脚が少し賢くなったようです、と答えた。笑っている間もなく、次から次に来る看護師やヘルパーたちに同じようなやりとりをしていると、やがてパタパタと草履の音がして藤原先生がやってきた。家がそばなので病院を庭のようにして気になることがあるとすぐ草履をひっかけてくる。患者や職員はパタパタと歩く音がすると藤原先生の回診だとわかるというのだ。藤原医師はわたしの頭と脚の状態を細かくチェックしてまずまずとひとまず安心したようだった。丸く切った頭骨を埋めた右脚の調子はどうかというので脳の力が移って心なしか賢くなって良かったです、と答えると冗談がいえるぐらいならよかった。このまま順調にゆけば一ケ月後のクリスマスの日に嵌めこめそうだとうれしそうに言ってくれた。わたしは、そうか、なるほどクリスマスか、となんとなく思った。
fumio

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