monologue
夜明けに向けて
 



カリフォルニアサンシャインその55
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ある日、息子が「カラテキッド2」のオーデションの時に所属した事務所から電話がかかってきた。今度、エディー・マーフィー主演で『ゴールデン・チャイルド』 という映画を撮ることになって、そのゴールデン・チャイルド 役の子のスタント(代役)を息子にやってほしいというのだ。子役は学業などの関係でひとつの役を交代に演じるらしかった。

 チベットの少年僧の役なので頭を剃ってほしいという。たしかに坊主頭にしてしまえばみんな似たように見えるかも知れないと思った。でももうすぐ日本に帰国するつもりだし息子につきあっていると帰国が遅れるし、とちらっと考えた。それで息子に訊いてみた「頭を剃って映画に出る?」と。しかし息子は頭を剃るということがどういうことかピンとこないようなので「マルコメ味噌の宣伝の子供みたいな頭にして映画に出るかい?」と言い直した。するといやがった。こんな子供でもやっぱり坊主頭はいやなのかとちょっと感心しながら「息子はノー、といっています」とわたしはエージェントに伝えた。

 するとエージェントはあわてて、出演料は3000ドルですよ、と言い出した。その頃の3000ドルはかなり価値があった。しかしわたしは息子の意志を尊重してあらためて断った。何度も翻意を促そうとエージェントは3000ドルを繰り返していたが、わたしはこれでもう映画の撮影の関係で帰国予定が狂うことはない。あの撮影所に長時間縛られずにすむ、となんだかほっとしていた。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその54
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 宮下富実夫は81年に自分のユニット「富実夫FUMIO」をふたりの気のいい黒人、向かって左LANCE FOOKS(guitar) と右CALVIN HARDY(bass)とで結成して「DIGITAL CITY」というポップなアルバムを作った。「DIGITAL CITY」 の見本盤を見ると宮下は「to fumio yamashita family FUMIO富実夫1981 10 31 」と細いペンで手書きしている。そしてしばらくしてかれはアメリカを去った。それから日本での本格的活動が始まる。宮下の歩むべき道はアメリカではなく日本に用意されていたのである。
fumio



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カリフォルニアサンシャインその53

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 シングルレコード「カリフォルニア・サンシャイン」ができあがると山崎豊子の「二つの祖国」のモデルになった、二大日本語新聞「加州毎日」社と「羅府新報」社に持っていって紹介記事を載せてもらった。二紙とも日頃ほとんど芸能記事は載らないので紙面がすこし華やいだ。
そのころ、日系人のオピニオンリーダー上手亦男(うわてまたお)氏が日曜日の朝9時から10時までやっていた「ラジオ小東京」という番組があった。かれの事務所兼ラジオスタジオに「カリフォルニア・サンシャイン」を持っていって聴いてもらった。かれは歌詞がいいと気に入ってくれた。それでそれからよく妻とその番組にリクエストしてかけてもらった。その番組は日系人、日本人の間で高聴取率だったのでフリーウエイ上で聴いたという人が多かった。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその52
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  わたしはサンフランシスコ旅行中曲想を得た「カリフォルニア・サンシャイン」を宮下富実夫たちとのセッションで試しに披露すると宮下はタンバリンを叩き演奏に参加してくれて思いのほかみんなの評判が良かったのでレコード化を心に決めた。

 ベースとヴォーカルを頼まれていたバンドが解散状態になってひとりでエンターティナーの仕事をするようになると自由になったのでいよいよ宮下富実夫の使っていた多重録音機ティアック8トラック・レコーダーの後継機、タスカム8トラック・レコーダーとコンソール(調整卓)を購入した。
 そしてプロフェット5、ヤマハDX7などのシンセサイザーにMXRドラムマシンにスネアドラム、そしてエフェクター類、ノイマン・マイクなどの録音機材をスタジオと呼べるほど一通り揃えて「カリフォルニア・サンシャイン」の多重録音にとりかかった。
 物音のしない夜中に妻子が寝静まるのを待って自宅で「カリフォルニア・サンシャイン」の多重録音をするのだが幸いベースとギターは弾けるのでそれほど手こずらずにすんだ。一番むづかしかったのはヴォーカルだった。聴き直すと自分自身にOKがだせない。声がつぶれてこれ以上無理と判断すると他の調子のいい日にまわす。自宅だから時間を気にせず納得ゆくまでできた。当時はアナログからデジタルへの過渡期でミックスダウンはソニーのPCM変換器を使用してPCMデジタル録音した。 やっとマスターテープができあがると シングルレコードのマスターリング(レコードの溝をカットして原盤を作る作業)に当時ロサンジェルスで一番評判の良かった「マスターリング・ラボ」というスタジオに予約を入れようとした。すると「今週一杯は無理です。ピンク・フロイドのディヴィッド・ギルモアが個人アルバムのマスターリングでずっとリザーブしてますから」といわれた。それでしばらく待った。

 1984年2月7日、「マスターリング・ラボ」スタジオではPCM録音のデジタル音源は初めてでロックバンド「カンサス」もそのソニーのPCM変換器を使用した音源をマスターリングしてほしいといっているのでそれ用の器具を注文して手に入ったからその器具を使ってマスターリングするという。そしてわたしの目の前でその器具をマスターリングマシンに接続して作業を始めた。
ということでシングルレコード「カリフォルニア・サンシャイン」 は「マスターリング・ラボ」スタジオでデジタル音源をマスターリングした最初のレコードということになるのである。
費用は片面76ドルで両面ではタックス込み160ドル36セントだった。 
当時のロサンジェルスにはシングルレコードを作るような日本人ミュージシャンはほかにいなかったので普通レコード会社がやることをすべて自分でしなければならなかった。
アメリカのシングルレコードは無地の紙ジャケットに入っているだけで歌手の写真もなければ歌詞カードもついていない。実にあっさりしたものである。それではあまりにもあっけらかんとしているので日本のシングルレコード風に透明袋にジャケット写真兼歌詞カードを入れることにした。説明しにくいけれど表には妻に近所で撮ってもらった写真をあしらい、わたしは手書きでレタリングのように文字を描いた。その裏に歌詞を印刷してジャケット写真兼歌詞カードの一石二鳥の宣伝ポスターを作った。宣伝文句の部分を裁断してしまえばシングルレコードジャケットに見えるのだ。
SFのアルバム「プロセス」の写真は印刷業者の技術的問題で幻想的宇宙写真がただの青ベタになってしまった。何度やってもうまく出なかったという。写真を提供してくれた写真家堀山敏夫氏には悪いことをした。それで今度は別の業者を選び何度も足を運んで打ち合わせした。わたしもすこしずつ学習して進歩していた。人任せにしてほったらかしにしていると危ない。今度の業者はそんなレコードの仕事は初めてなので喜んでいた。担当の初老の婦人が自分は毛筆の字が得意なのでレタリング風文字のところを書いてやろうと何度も迫る。わたしは困ってやんわりと断った。あのとき、毛筆で「カリフォルニア・サンシャイン」と書いてもらっていればずいぶん感じが違っていたことだろう。
レーベル名をつけるとき、わたしたち夫婦の「FUMIO & RITSUKO YAMASHITA」の頭文字をとって「FRY」レコードにしたのだがだれかが「飛びそうな名前だね」と言っていた。でもフライはフライでも揚げるフライの綴りなのでフライパンをロゴマークにしてラベルを作った。

 
 Bill Smith というレコード製作工場に「マスターリング・ラボ」でマスターリングした、A面「カリフォルニア・サンシャイン」、B面「セイ・ツゥ・ミー・マイ・ベイビー」の各原盤(マスター)を持ち込むとまず「SHEFFIELD LAB MATRIX」社で表裏各181ドル5セント、両面計タックス込み345ドル34セントでレコードスタンパーを作ることになった。

 それから宣伝ポスターの不要部分を裁断したジャケット歌詞カードとまん中に貼るレーベル(ラベル)とナイロンレコードカバーを持っていってレコードプレスを頼むと1984年3月9日に片面661ドル5セント、両面でタックス込み1199ドル95セントで日本風シングルレコード1000枚がついに完成した。よく知らない作業もあったけれどそれは作詞作曲、演奏、歌、録音、その他、ほとんど全部手作りのレコードだった。前例がないことをやるのはだれかの真似ができないので失敗だらけでも面白い。もうレコードという形態の媒体の時代は終わって久しいのでこうしてアメリカでのレコード製作の手順と細かい値段などを記しておけば将来だれかの資料として役に立つかもしれない。


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  わたしはサンフランシスコ旅行中曲想を得た「カリフォルニア・サンシャイン」を宮下富実夫たちとのセッションで試しに披露すると宮下はタンバリンを叩き演奏に参加してくれて思いのほかみんなの評判が良かったのでレコード化を心に決めた。

 ベースとヴォーカルを頼まれていたバンドが解散状態になってひとりでエンターティナーの仕事をするようになると自由になったのでいよいよ宮下富実夫の使っていた多重録音機ティアック8トラック・レコーダーの後継機、タスカム8トラック・レコーダーとコンソール(調整卓)を購入した。

 そしてプロフェット5、ヤマハDX7などのシンセサイザーにMXRドラムマシンにスネアドラム、そしてエフェクター類、ノイマン・マイクなどの録音機材をスタジオと呼べるほど一通り揃えて「カリフォルニア・サンシャイン」の多重録音にとりかかった。


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 物音のしない夜中に妻子が寝静まるのを待って自宅で「カリフォルニア・サンシャイン」の多重録音をするのだが幸いベースとギターは弾けるのでそれほど手こずらずにすんだ。一番むづかしかったのはヴォーカルだった。聴き直すと自分自身にOKがだせない。声がつぶれてこれ以上無理と判断すると他の調子のいい日にまわす。自宅だから時間を気にせず納得ゆくまでできた。当時はアナログからデジタルへの過渡期でミックスダウンはソニーのPCM変換器を使用してPCMデジタル録音した。

 やっとマスターテープができあがると シングルレコードのマスターリング(レコードの溝をカットして原盤を作る作業)に当時ロサンジェルスで一番評判の良かった「マスターリング・ラボ」というスタジオに予約を入れようとした。すると「今週一杯は無理です。ピンク・フロイドのディヴィッド・ギルモアが個人アルバムのマスターリングでずっとリザーブしてますから」といわれた。それでしばらく待った。

 1984年2月7日、「マスターリング・ラボ」スタジオではPCM録音のデジタル音源は初めてでロックバンド「カンサス」もそのソニーのPCM変換器を使用した音源をマスターリングしてほしいといっているのでそれ用の器具を注文して手に入ったからその器具を使ってマスターリングするという。そしてわたしの目の前でその器具をマスターリングマシンに接続して作業を始めた。

 ということでシングルレコード「カリフォルニア・サンシャイン」 は「マスターリング・ラボ」スタジオでデジタル音源をマスターリングした最初のレコードということになるのである。
費用は片面76ドルで両面ではタックス込み160ドル36セントだった。


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当時のロサンジェルスにはシングルレコードを作るような日本人ミュージシャンはほかにいなかったので普通レコード会社がやることをすべて自分でしなければならなかった。
アメリカのシングルレコードは無地の紙ジャケットに入っているだけで歌手の写真もなければ歌詞カードもついていない。実にあっさりしたものである。

それではあまりにもあっけらかんとしているので日本のシングルレコード風に透明袋にジャケット写真兼歌詞カードを入れることにした。説明しにくいけれど表には妻に近所で撮ってもらった写真をあしらい、わたしは手書きでレタリングのように文字を描いた。その裏に歌詞を印刷してジャケット写真兼歌詞カードの一石二鳥の宣伝ポスターを作った。宣伝文句の部分を裁断してしまえばシングルレコードジャケットに見えるのだ。

 SFのアルバム「プロセス」の写真は印刷業者の技術的問題で幻想的宇宙写真がただの青ベタになってしまった。何度やってもうまく出なかったという。写真を提供してくれた写真家堀山敏夫氏には悪いことをした。それで今度は別の業者を選び何度も足を運んで打ち合わせした。わたしもすこしずつ学習して進歩していた。人任せにしてほったらかしにしていると危ない。今度の業者はそんなレコードの仕事は初めてなので喜んでいた。担当の初老の婦人が自分は毛筆の字が得意なのでレタリング風文字のところを書いてやろうと何度も迫る。わたしは困ってやんわりと断った。あのとき、毛筆で「カリフォルニア・サンシャイン」と書いてもらっていればずいぶん感じが違っていたことだろう。


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レーベル名をつけるとき、わたしたち夫婦の「FUMIO & RITSUKO YAMASHITA」の頭文字をとって「FRY」レコードにしたのだがだれかが「飛びそうな名前だね」と言っていた。でもフライはフライでも揚げるフライの綴りなのでフライパンをロゴマークにしてラベルを作った。

 
 Bill Smith というレコード製作工場に「マスターリング・ラボ」でマスターリングした、A面「カリフォルニア・サンシャイン」、B面「セイ・ツゥ・ミー・マイ・ベイビー」の各原盤(マスター)を持ち込むとまず「SHEFFIELD LAB MATRIX」社で表裏各181ドル5セント、両面計タックス込み345ドル34セントでレコードスタンパーを作ることになった。

 それから宣伝ポスターの不要部分を裁断したジャケット歌詞カードとまん中に貼るレーベル(ラベル)とナイロンレコードカバーを持っていってレコードプレスを頼むと1984年3月9日に片面661ドル5セント、両面でタックス込み1199ドル95セントで日本風シングルレコード1000枚がついに完成した。よく知らない作業もあったけれどそれは作詞作曲、演奏、歌、録音、その他、ほとんど全部手作りのレコードだった。前例がないことをやるのはだれかの真似ができないので失敗だらけでも面白い。もうレコードという形態の媒体の時代は終わって久しいのでこうしてアメリカでのレコード製作の手順と細かい値段などを記しておけば将来だれかの資料として役に立つかもしれない。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその51
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わたしは高校時代に好きだったリヴェリアス(Riverias)の『カリフォルニア・サン(California Sun) 』 、ママズ・アンド・パパスの『夢のカリフォルニア』 、そしてしばらくのちに大ヒットしたアルバート・ハモンドの『カリフォルニアの青い空』 、イーグルスの 『ホテル・カリフォルニア』、などのカリフォルニアを歌った名曲の数々に触発されて、自分自身のカリフォルニアの太陽讃歌を作りたいと常々願っていた。

 1981年9月29日、わたしと妻と息子はサンフランシスコへ家族ドライヴ旅行した。運転中、なぜかカリフォルニアの陽光の詞とメロディが流れこんでくる。宿泊した、ヒチコックの映画『サイコ』を思い出させる、ゴキブリの出没する安モテルのメモに走行中に浮かんだ詞を書きつけた。

 
 カリフォルニアは日本列島ほどの広さの州なので北海道と沖縄の気候が違うように北カリフォルニアと南カリフォルニアでは気候風土が異なる。サンフランシスコは南カリフォルニアに位置してロサンジェルスから車で約六時間ほどの距離である。

 坂道で息切れする愛車を叱咤してチャイナタウンや観光名所を巡ってゴールデンゲイト・ブリッジを見おろすリンカーン・パークで『咸臨丸入港百年記念碑 大阪市長中井光次書』と書かれた黒い碑を前にして感慨に耽った。前に座る当時4才であった息子の大きさとの比較で碑の大きさがわかるだろう。この異国の仮マホロバ(カリホロニア)の地(つち)の上に立って勝海舟をはじめとする幕末のサムライたちが真のマホロバであるべき日本(ひのもと)の祖国を思い、新時代を築く礎(いしづえ)となる決意をどのように固めたのかと…。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその50
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 1978年7月4日、独立記念日、わたしがエンターティナーの仕事から帰宅してしばらくして午前3時くらいに臨月を迎えていた妻が腹が痛いと訴えた。すぐにUSCジェネラルホスピタルへ車に乗せて行った。すると出産は隣のウィメンズホスピタルで行うとのことだった。大きな腹を抱えたラテン系の妊婦で賑わう待合室で妻があせって、もう生まれると言っても看護婦はゆうゆうとしてまだまだととりあってくれない。妊婦の人数がだんだん減ってやがて看護婦が妻を連れて行った。わたしは妻が出産に立ち会ってほしがっているからと立ち会いを頼んだが断られた。立ち会うためには前もってそのためのコースを受講しなければいけなかったらしい。妻はストレッチャーに乗せられて産科に入って行きわたしはドアの前で立ちつくした。受付のあたりで時間をつぶして待っていると午後5時くらいに名前を呼ばれた。新生児室には多くの赤ん坊が紙おむつ姿でうつ伏せに寝ていた。ガラス越しにわが子を探した。他の子よりかなり小さい子がそうらしかった。ラテン系の子はみんな大きく見えた。腕に巻かれたネーム票を確認して看護婦に告げると妻のいる分娩室に連れて入れてくれた。初対面のちっちゃな赤ん坊はキョトンとした顔をしていた。髪がナポレオンのような形に生えていた。宇宙人みたいにみえた。2700gで抱くとずいぶん軽かった。産婦は体調が回復するまで何日か入院するのか、と思っているとみんなすぐに退院するのだという。それでそのままヘトヘトの妻を乗せて車で帰宅した。アメリカの女性は丈夫で自分で車でやって来て出産すると自分で車を運転して帰る人もいると聞いて驚いた。日本では産後の肥立ちが悪くてよく命を落とすという話しを聞いていたのでお産は大イベントだと思い込んでいたのだ。
fumio


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カリフォルニアサンシャインその49
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わたしがハリウッドのクラブでエレキギターの相棒と仕事が終わった時、店の外に出てギター、ベース、アンプ類を車のトランクに運び込んで一旦店に戻って店主と三人でしばらく談笑してから外に出ると車のトランクを数人の黒人がバールでこじ開けていた。幸い、まだ楽器を盗らずに逃げていった。それで翌日、修理工場へトランクの修理に行って、みてもらうとトランクの奥に穴があいて後部座席が外れていたので穴の補修と座席の嵌めこみを頼んだ。多かれ少なかれエンターテイナーはそういう目に遭っている。一時、店のドアを開けて飛び込んできたガンマンがエンターテイナーのピアノに向けて発砲する事件が流行ったことがあった。その頃はみんな戦々恐々としていた。西部劇の一場面のようだった。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその48
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ある時、中島茂男がしばらくサンフランシスコに行くと言い出した。わたしはわずかばかりの餞別を渡し見送った。
それから仕事は振り出しに戻った。アコースティックギターにギターマイクをつけてひとりでエンターティナーの仕事をこなした。
そのうちラテンギター、ジャズギター、女性ピアノという変則的な編成のバンドのベース兼ヴォーカルを頼まれた。ロックも演歌も歌謡曲もラテンインストルメンタルもなんでもありだった。とにかく譜面をたくさんコピーしてきてなんでもやれるようにまわりもちでだれかの家に集まって練習した。のど自慢などの出場者のバック演奏も譜面通りではなくその人のキーにあわせてすぐ弾けなければいけない。審査の間にはわたしはゲストのプロとして演歌の「与作」を歌ってみせたりした。わたしの家の裏庭で日曜に機材を使用してみんなで稽古していると裏の長屋のメキシカンや黒人住民が石を投げ込んできた。休みの日にうるさいと腹が立ったのだろう。わたしにとってそれは幸せな日々であった、とにかく歌を歌って暮らせるのだから…。
それは幼い頃からの望みだった

 そのころ、島健 はジャズ雑誌のファン投票で上位に入るトランペッター、アル・ヴィズッティ (AL VIZZUTTI)のバンドでキーボードを弾いていたがそれだけでは生活できないのでクラブのピアニストも始めた。わたしはその店に仕事ではなく客のフリして訪れてかれの伴奏でスタンダードやポピュラーソングを歌ったりした。
 ある音響メーカーの新製品のPCMレコーダーがいかにクリアな音でデジタル録音できるかのテストと宣伝のためにジャズバンドの紹介を頼まれて、わたしはアル・ヴィズッティのバンド を紹介した。ひとり100ドルのペイで請け負って、ドラムス、ベース、ギター、キーボード、トランペットとプロユースのスタジオで時間をかけてPCM録音した。それが日本でその社の宣伝資材として使用されたのだろう。
そのとき、島健はキーボードをハモンドオルガンの名器B3の音が出る設定にしたと自慢していた。一般の人には、それがどうした、という話題だがわたしは感心してその音を聴いた。かれは仕事をまわしたお礼にわたしの曲をアレンジしてやる、といっていた。それはかれらにとっておいしい仕事だったのだろう。

 わたしは「カリフォルニア・サンシャイン」のシングルを作っている時、島にアレンジを頼んでアルにトランペットのソロを頼もうかと思ったが、それではあまりに人頼みに過ぎるので思いとどまった。今にして思えばそれも面白かったかも。なにしろ島がのちに日本でストリングスアレンジしたサザンオールスターズの「TSUNAMI」はレコード大賞を受賞したのだから…。
 やがてラテンギター、ジャズギター、女性ピアノにわたしのベース兼ヴォーカルのバンドもみんなのモチベーションが落ちて自然解消のようになった。日々の仕事をこなすだけでなにかの目標がないとバンドの維持はむづかしい。
中島茂男はいつのまにか、サンフランシスコから戻ってきていたがもうエンターティナーには戻る気はなく別の方向に転進していた。それでわたしは中古のギブソンレスポール・エレクトリックギターを購入してふたたびひとりでエンターティナーを始めた。どんな形態であろうと歌を歌い人を楽しませて暮らせることは幸せだった。
宮下富実夫、中島茂雄、山下富美雄、そして島健というバラバラな指向性をもつミュージシャンたちをほんの一瞬邂逅させてアルバム「プロセス」を作らせふたたびチリジリにした存在の意図は奈辺にあったのだろう。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその47
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1980年の終わりにアルバム「PROCESS」は完成して、そのころ流行の媒体、カセットテープの形でリリースした。翌年、仲間の芸術家集団の援助と要請をうけてジャズクラブ『処女航海(MAIDEN VOYAGE)』において1981年1月18日(日)午後9時、入場料5ドルでこのアルバムの収録曲をライヴ演奏した。クラブ『処女航海』は昼間はバンドの練習スペースとして貸していた。それでわたしたちが到着した時アマチュアのバンドがまだ稽古していた。入れ替わりにジャズのクラブはこんなふうになっているのかと思いながら仲間と楽器と機材のセッティングをして開演を待つ。島健はピアノはスタジオミュージシャンとして手伝ったけれど自分は正式メンバーではないからと客席で見ていた。ごく普通にまるでいつもの仕事のようにライブは始まり普段はジャズの演奏を聴きにくる聴衆の前でわたしたちは全く異質な音楽を淡々とくりひろげた。楽屋では仲間たちがドライアイスを買ってスモークマシーンに入れたり用意してわさわさしている。ライヴの後半、嵐 の曲で宮下富実夫が中国銅鑼その他のパーカッションを打ち鳴らし舞う際、舞台機材店で借りだしたスモークマシーンでステージがドライアイスの煙に覆われて真っ白になった。そのあとエンディングの「HOME TOWN」 を歌うと、冷たいガスがのどに入ってむせそうになって危うかった。ライヴではなにが起こるかわからない。演奏の稽古は充分したけれどドライアイスの煙を吸わないように歌う稽古はしていなかった。はじめからアンコールを求められることなど考えていなかったのでアンコールの声が沸いた時、困った。応えられる曲数があまりなく知っている曲をやりつくしてファー・イースト・ファミリー・バンドの曲「セイ」まで演奏してごまかした。そしてすべてが終わると「You are different!」と聴衆が叫んでいた。 そして、アルバム「PROCESS」 は80年代初頭には一部の支持者以外には全く理解されることなく20年の眠りについた。ふたたび目覚めるきっかけはわたしがアリオンの主宰する世紀末フォーラムに参加したことであった。そこで知り合った佐藤邦明氏の尽力によってCD化 されたのだ。デジタル化されたおかげでホームページ上にアップロードすることができたので不特定多数の人がその気になれば聴けるようになったのである。


fumio

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カリフォルニアサンシャインその46
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1980年11月4日、その日、わたしの一家は朝からピクニック気分でおにぎりを作って用意した。インディゴランチ・スタジオの中では昼食は買えないということなのでエンジニアの分まで作って持っていった。宮下富実夫の家族、島健の家族とみんなで曲がりくねった坂道を宮下一家の大きなヴァンに乗り込んで登って行った。着いたところはUFOが飛来するという噂にふさわしい趣(おもむき)のあるスタジオだった。わたしたちがスタジオに入っている間、家族たちはロビーや丘陵の広い庭で過ごすことができる環境であった。INDIGO RANCH(インディゴ・ランチ) 24chスタジオは当時最高のレコーデイング設備を備えていた。 スペイン語のランチョ(別荘)のように山の中腹にあるのでミキシングの日はピクニックのようだった。それで朝から妻が多くのおにぎりを握り、付け合わせのおかずを用意して行ったのだ。
プロデュースの宮下フミオの指揮の下、各楽器の音決めから試行錯誤のミキシングが進んだ。エンジニアはメインとサブがいて数人の助手がテープ類を用意してくれた。プロデューサーとしての宮下富実夫がまず中央に陣取りわたしと中島がその左右に座る。宮下は普段の友達関係の仮面を脱ぎ真剣勝負モードに入った。
24トラックの元テープをまわし、まずドラムスの音から音色を決めてゆくのだがそれに一番時間がかかった。スピーカーはJBLで音が粒立って聞こえる。細部まで視覚化して見えるように再生する。他の楽器やヴォーカルの音決めはあまり問題なく進んだ。それから一曲ずつ各楽器と歌のバランスやリバーブ、エコー、エフェクターなどのかけ具合など時間をかけてミックスしてステレオマスター・テープを作ってゆくのである。初めの録音時、杉本圭がまだ不慣れなためにいわゆる白玉全音符でコードを押さえていただけのストリングアンサンブルのパートを宮下がこのミックスダウンの際に演奏のリズムに合わせて調整卓のフェーダーを上下してリズム感を出した。昼には宮下家の家族、関わったミュージシャン仲間、ミキシングエンジニアなど弁当を持ってきていない、みんなにおにぎりをふるまった。昼食はアメリカ人のエンジニアも和気藹々とおにぎりを食べてくれた。宮下が個人的に多重録音した「嵐」だけはミックスをひとりにまかせた。じゃまにならないようにわたしたちは席をはずしたのだ。一休みしてふたたびやり直して最終曲まで進み多くの耳で何度も何度も聴きなおしてみんながOKした時、やっと終了する。午後も集中してミックスを続けついにマスター・テープができあがってスタジオの壁に埋め込みになっている大スピーカーから出る音をみんなで聴き直していると「ドラゴン・ライダー」 でスタジオ全体が飛んでいるような錯覚に襲われた。今もあの時の感覚がわたしのどこかに残っている。
fumio


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カリフォルニアサンシャインその45
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わたしは高校時代アメリカのヒットランキングをノートにつけていたのだが1965年のブリティシュ・インヴェィジョンの頃、Moody Bluesという英国のバンドの Go Now という曲がヒットした。おきまりのリズム&ブルースを基調にしたロックバンドだと思っていたのだがのちにポ-ル・マッカートニーに誘われてウイングスに参加するギターのデニー・レインが脱退してから採り上げる曲想が Tuesday Afternoon のようにがらりと変わってしまった。それからかれらの音楽はプログレッシヴロックと呼ばれるようになった。ヒットを目指すのではなく独特の思想性や内省的な世界観を表現しているようだった。
わたしたちがミックスダウンを行うことになったインディゴランチ・スタジオはそのムーディブルースが始めたスタジオでマリブの丘の上にあった。ニール・ダイアモンド、ヴァン・モリソン、ビーチボーイズ、ニール・ヤングといったミュージシャンたちがレコーディングに使用し、オリヴィア・ニュートン・ジョンはアルバム 「Totally Hot」 を78年にそこでミックスダウンしている名スタジオだった。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその44
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ミックスダウンとはトラックダウンとも呼び、8チャンネルトラック、16チャンネルトラック、24チャンネルトラックなどに録音したばらばらな楽器や歌をひとつにまとめ作品に仕上げる作業のことである。そのとき、各楽器の音色を調整し音量のバランスをとり、エフェクターをかけたりヴォーカルにエコーやリバーブをかけたりする作品完成のための最重要な作業なのである。
レコードのレコーディングはエジソンが「メリーさんの子羊」歌ってレコード盤に直接刻んだ時代からテープを使用する1チャンネル1トラックのモノラルから2チャンネル使用するステレオへそしてビートルズの4チャンネル多重録音に始まるアナログ多重録音へと移りそして倍々(バイバイ)ゲームで8チャンネルそしてすぐに16チャンネルのスタジオが主流になりそれからなんと24トラックという大きい立派なスタジオが当たり前になってしまった。それでわたしたちもアルバム「PROCESS」のプロジェクトではハリウッドのチャイニーズシアターの向いのビルにあった「ガナパーチ」というインデイアン名のエンジニアがやっている24チャンネルスタジオPARANAVA STUDIOを録音に使用しのだがプロデューサーとしての宮下富実夫は厳しくて最高の作品を製作するためにはガナパーチのPARANAVA STUDIOはレコーディングには使用してもミックスダウンには機材がふさわしくないと判断した。理由は基本的な設備、装置や機材。それで当時最新最高の機材やエンジニアを揃えた有名スタジオインディゴランチ・スタジオ(INDIGO RANCH STUDIO)に予約を入れた。それでPARANAVA STUDIOにおいてすべての録音を完了してできあがったレコーデイング済みテープのミックスダウンにはインディゴランチ・24トラッスタジオ(INDIGO RANCH STUDIO)を使用することになったのだった。
fumio

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カリフォルニア・サンシャインその43
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宮下富実夫に映画の主題歌の仕事が入った時、インデアン名「ガナパーチ」の24chスタジオPARANAVA STUDIOを使用した。英語圏用に日本の民謡の英語版を作って主題歌にするという指示を受けて、英訳は専門家に頼んで、昔、日本でジミー時田のバンドでウェスタンをやっていた人に歌ってもらった。わたしたちの役目はバック演奏と囃しことば「ナカナカナンケ、ナカナンケ」とコーラスすることだった。PARANAVA STUDIOの広い収録室でワイワイとみんなで打楽器類を叩き祭りの雰囲気をだした。そのとき普段キーボードでは気付かない島健のリズム感に驚いた。
映画ができあがって喚ばれた試写会に行くと、それは神代辰巳監督の「一条さゆり 濡れた欲情」という作品だった。英語版を作ってアメリカで公開する目論見のようだった。試写会では演奏を集中して聴き作品は流して見たけれどその後、アメリカで実際に公開されたのかどうかは定かではない。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその42
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米国の地方からのお上りさんの聖地、チャイニーズシアターの向かいの24チャンネルトラックスタジオ(PARANAVA STUDIO)でのボーカルの収録がようやく終って録らなければならないのはドラムス、パーカッション類とピアノであった。宮下富実夫には白龍飯店(インペリアルドラゴン)でのデイスコパーテイのたび何度もドラマーとして参加してもらっていたのでその腕を見込んで中島茂男がこのアルバムでもドラマーとしての参加を打診した。宮下は腰を痛めているということで心配だったがわたしも打楽器での参加を要請した。プロデューサー、宮下富実夫はこの日はドラマー兼パーカッショニストとしての仮面を付けてレコーディングルームに入った。わたしたちは調整室から指示してダメだしする。ドラムスのレコーディングはOKが出るまでパターンを変えて叩き直すので重労働だが宮下は最後まで元気でへたばらかった。それから様々なパーカッションに挑む。何種類もの大きさの違うチャイナドラム、ゴングをブラ下げ踊りながら叩く。ライヴではその踊りが見せ場になるのだ。楽器店にあるほとんどの打楽器を揃えて曲に合わせてパフォーマンスしてゆくのだ。宮下の打楽器関係を全曲録り終えて、最後に島ちゃん(島健)のピアノを青春 とふるさと の2曲レコーディングした。かれは日本でもスタジオミュージシャンとして活躍していたので簡単なコード譜を渡して打ち合わせするだけで曲に合ったフレイズを紡ぎだした。当時の世間の最低賃金は1時間2ドル50でエンターティナーのペイの相場は一晩で50ドルなので50ドル支払った。とにもかくにもレコーディングはそれで完了した。あとはミックスダウンで完成である。
fumio

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カリフォルニア・サンシャインその41
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中島茂男が「青春」という言葉が好きだからアルバムに入れたいといって日本語で歌詞を書いてきた。それでわたしは英語で「puberty」 という題名にした。そしてコーラスの部分は「Age of puberty イズ・ザ・メモリーズ・ホーム」とした。
 ある日、息子が留学中のセントラル・オクラホマ大学(University of Central Oklahoma) の生徒達にアルバム「プロセス」を聴かせると収録曲の「puberty」 という題名に異を唱えていたということだった。このことばはなんだか恥ずかしいからもっとほかのことばはなかったのか、というのだ。思春期から青春期あたりを表すにはyouthや the springtime of life、young days、adolescence.などあたりさわりのないことばがあるのだが、「reach the age of puberty」という表現があって、「 思春期に達する, 年ごろになる」ということなのである。それは語源的には「pube」が性的成熟を意味してpubic hair(陰毛)の語源でもある。the age of pubertyを語源通りに具体的に訳せば「毛が生える頃」となる。それでオクラホマの大学の生徒達はこそばゆく感じたのだろう。しかしながら、あたりさわりのない通常の表現より反対はあってもなにかを奥に秘めた表現のほうがふさわしく感じたので採用したのだからしかたがない。かと言って母国語で「毛が生える頃は思い出の住処」とコーラスせよと言われると二の足を踏んでしまう。われながら勝手なものである。
fumio

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