monologue
夜明けに向けて
 



私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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2月20日(金)~2月27日(金)
ヒット数:1,777件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 

第1位(2)<2>あやかしのまち
第2位(5)<4>ごめんなさい
第3位(1)<1>水面に書いた物語
第4位(4)<3>軽々しく愛を口にしないで
第5位(9)<10>それってⅨじゃない
第6位(3)<7>ときめきFALL IN LOVE
第7位(11)<8>女優(スター)
第8位(7)<5>ラスト・ランデヴー
第9位(6)<6>オーロラの町から
第10位(12)<14>Stay with me
第11位(8)<11>はるかなるメロディ
第12位(13)<14>マイ・スィート・ライフ
第13位(17)<17>Sentimentallady”M”
第14位(10)<9>素顔のマスカレード
第15位(12)<12>わかりあえる日まで
第16位(16)<15>恋すれば魔女
第17位(15)<18>しあわせになれる
第18位(18)<16>まことのひかり
第19位(19)<19>NEVER GIVE UP!


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またまた「あやかしのまち」が首位を奪い返した。首位は入れ替わっても全体的にはあまり変わらないようだ。ご愛聴感謝。
fumio




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光よりの光、オリオンの神の座よりの一条の光として来りて伝える、
我が名はARION,O∴O、愛と光の戦士達に伝える

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 1989年9月3日より、環惑星エネルギー変換が始まった。いにしえの力と約束を得て新たなる『時間』へ向けての変換だ。心ある人々は『自らの内的衝動』によって、新たなるエネルギー表出へ向けて自己変換の用意を始めている。この動きは1989年11月~12月にかけて最も大きくなるだろう。
 
 簡単に説明すると惑星単位でのエネルギー変換が始まっているということだ。以前に人々をつき動かしていたエネルギーを、旧エネルギーと呼ぶとしよう。旧エネルギーの単位が1だとすると人々は1のエネルギーを受けて1の行動を起こしていたことになる。それはが新エネルギーでは10の単位のエネルギーを受けて、10の行動を起こすことになる。

 『飛びたい』と言っていた人々の明暗が別たれるのもこの時期だろう。変換しつつある環惑星エネルギーの波動の中で『旧エネルギー』の夢を追い続けたり、旧エネルギーの願いにしがみつく人は「飛べない」のではなく自らの意志で「飛ばない」だろう。1の単位の夢と行動の範囲でしか動けないと思う人は、10の単位での夢や行動について行けないからだ。また1の単位の夢は10の単位の行動を起こすには、衝動力、起爆力、行動力のどの点を取っても不均衡を起こすだろうからだ。

 世の中は長い間『1以下の単位』の夢を人々に与え続け、その範囲で収まるような規則や約束事を作って人々を規制してきたが、それらも変化して行かざるを得ないだろう。それらの規定内に収まらないエネルギーが動き始めたからだ。             
 
 心ある人々及び戦士達よ、新たなるエネルギーの変換へ向けて用意しなさい。このエネルギー変換は1989年7月7日に神霊界でギア・チェンジが行われた結果の成り行きだ。今年1989年12月始めまでは変換の為の地ならしと用意に当てられるだろう。そして1990年からは新たなる創造の為の行動に入るだろう。

 想い願うこと、そしてそれを行動することによって実現させる。この法則は今後も同じだが、想い願う対象が1の単位群から10の単位群に変化している事を自覚せねばならない。想い願い、そして勇気をもって行動に移す。そこで恐らく今までに感じなかった新しい事実(自分の心の動きとしての)に出くわすだろう。1単位群の想いや願いに慣れている人々にとっては当然の事なのだが、まず驚くだろう。今まで自分が平気だと頭で思っていたことが実際の行動として成立しなかったりするだろう。しかし、ひるんではいけない。これは当たり前の事だと思うこと。多くの人はここで引き返してしまう。新たなるエネルギーは未知の事なので、怖じけづく人が多いのほ当たり前なのだが、決して引き返したり舞い戻ってはいけない。

 怖じけづいたら、その場で留まっていること。前に進めない場合は後ろに戻ってはいけない。留まるのは辛い場合もあるだろう。人は前か後ろかを早く決めて安心したいと思うのが普通だからだ。しかし、留まって欲しい。そしてよく見るのだ。想い願ったという事実を、そこで吟味するのだ。何故、自分はそれを想い願ったかを思い出すのだ。その想い願いが自分の内よりのものであり、外的要因によって新たなる場面に遭遇した為に混乱してはいても、想い願った事実に相違が無いということならば勇気が出るまで、その場に留まることを薦める。つまり10単位のエネルギーの世界には行けないなどという結論を焦って出してはいけないということだ。そこで留まらずに舞い戻ってしまっては、10単位のエネルギーの世界から遠ざかってしまう。
   
 惑星単位で変革が起きていることを膚で感じている人々よ、新たなるエネルギーはあなたがたにとって未知のものであるがゆえに、あなたがたに征服欲と勇気を奮い起こすだろう。新たなるエネルギーの世界に飛ぶ為のチャンスは、各々のレベルによって強弱の差はあるものの大体3度ある。全て各々の生活の中で起きるだろう。何がチャンスで何がそうでないか、それは各々の直観力と判断力に任される。誰も強制したり勧誘したりしないだろう。各々の生活レベルの中で挑発者は現れるだろう。何故ならば今が『その時期』で挑発によって人は、多くの場合勇気を奮い起こすキッカケを掴むからだ。そして、その挑発は自分達が招くものだということを忘れてはならない。


 光の子達よ、起きなさい。起きて自分達が既に新たなるエネルギーの世界において輝こうとする意志をもっていることを確認しなさい。旧い夢や執着に惑わされずに勇気をもって新しい世界を見詰めなさい。

 私達神霊族はあなたがたと共に、この変革を大いなる創造へと導いてゆく。あなたがたのそばに、私達の愛と光を感じなさい。私達と共に光の方向へと飛ぶ者そしてそうでない者の全てに、この環惑星エネルギー変換は影響してゆく。1単位の世界に拘束されることは、これからの創造エネルギーの流れにそぐわなくなってゆくだろう。多くの人が「自らの内的衝動によって」私達と共に新たなるエネルギーの世界で創造に携わってくれることを望んで止まない。愛と光と存在、そしてそこへ導く勇気と希望…
                    ---ARION,O∴O---


4 SEP 1989
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<狼の禊の為に>

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1.我々は愛によって滅ぶことを望まない。
  愛によって創造することを望む。
  我々は情によって目が曇ることを望まない。
  我々は情によって解放されることを望む。
  我々は制度によって打ちひしがれることを望まない。
  我々は制度によって問題が明らかになることを望む。

  我々は人と、その魂のあるべき姿を見詰めたい。
  間違いと知りながら、なおざりにすることを望まない。
  自分の心の方向性さえも見失ってしまった人々に
  道を指し示すために、我々は光と愛を注ぐ。

2.形あるものは全て壊れる。しかし魂も心も形は持たない。その魂や心に、形を当て嵌めて成型し、形を持ってしまったが故に壊そうとする人々を許してはならない。また人々は魂や心を成型し、その故に『タイトル』としての名を付けたがるが、これは全ての物事を形状と名前でしか判断出来ない彼らの便宜の為である。一旦、形や名前を持ってしまうと突然、そこに『立場』などというものが現れて、魂や心を拘束し始める。かくて『あるべき姿』 『…でなくてはならない』などといった限界という名の水平線が見えてくるに至る。そして『責任』や『義務』といった名前の拘束の罠が、そこかしこに見え隠れするようになり、心や魂は本来の姿である自由を見失う。窒息状況に陥った成型化された心や魂は、『責任』や『義務』を果たしながら、限界という名前の水平線に向かって走りながら、空しく存在することを余儀なくされる。

3.人の心や魂は宇宙中枢エネルギーであるところの『カミ』に帰属するものだ。人の心や魂は『カミ』に名前が無いのと同じく、形や名前を持たない。それほど崇高であるべきものに、形や名前を当て嵌めようとするなどは『』カミ』に対する暴挙としか言いようが無い。


4.我々天使族の末裔である者たちの魂に触れることは、ならない。 物質至上主義者よ、その手を離しなさい。 物質的なものしか受け入れず、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、 そして、手に触れるものしか信じられない人よ、あなたがどう言おうとあなたの世界は闇の世界なのだ。 そして、そういった物質的な充足を求める人に迎合する人々もまた自ら進んで光に背を向ける人々なのだ。 光に背を向けた時、闇が始まる。


5.物質的充足は形の充足だ。心や魂を形に当て嵌め、名前を付け、その形、名前通りの充足を得ても実際には、心も魂も定まった形も名前も持たない為に、その充足は一瞬のものでしかない。次の瞬間には、再び充足を求めて心、魂は彷徨を始める。哀れなる欲望の放浪民、充足されない欲望のボヘミアン。彼ら欲望のボヘミアンにも等しくチャンスは訪れる。 光の愛の充足への旅のチャンスは訪れる。しかし、そのチャンスを見下し、見過ごすことの多いのも彼らの特徴だ。

6.しばしば心優しき『魂の民』が彼らの道連れとなる。心優しき『魂の民』は、物質的なる者たちとの物質的結合を手放すことが出来ない為に、苦しみ嘆く心を犠牲にして、物質的なる者との魂の心中を図ろうとする。そしてカミの意志は抹殺される。
                       ---ARION,O∴O---



1989/11/09 23:47
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光よりの光、オリオンの神の座よりの一条の光として来りて伝える、
我が名はアーリオーン、愛と光の天使

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 私達の秘密としている情報を少し話そう。それは、この日本の神話だよ。日本書紀や古事記、いわゆる記紀は後の世の為に編纂されたもので正しい歴史書とは呼べないんだ。

 まず宇宙には『アメクモ族』と呼ばれた種族が居たことから話そう。彼らは、あなたがたの居るこの銀河系に遥かな昔にやって来て色々な惑星に植民していた。彼らの目的は『人型種族の繁栄と進化』だった。多くの惑星での入植、人種混合そして人型種族の進化を担ってきた。彼らの足跡は『モノリス』によって辿ることができるよ。地球にもやって来た、それは遺伝子操作によって地球原人が発生した後だけどね。他にも宇宙から植民した人型種族は居たけれど、今の段階では私達の流れを話すのが筋だから、他の種族については語らないこととするよ。

 アメクモ族は今で言うアジア中央高原に降り立った。そこから多くの国に向けて陸路と海路で渡って行ったんだよ。この種族は後の世にアメクモ族の名前を残す為に自分達の名前に『アメ』『アマ』、つまりAとMで始まる音を配したんだよ。エジプトに伝わった名前にもあるね?キリスト教では最後にアメンと唱えるね?日本では『アメノ…』という名前が多いね?ラテン語に至っては『アモール』は『愛』の言葉だ。みんな『アメクモ族』の印だよ。

 さて彼らは日本に向けても陸路と海路で渡って行った。(紀元前の話)スサノオとその父フツの曽祖父に当たる男は海路で行くグループの首領だった。陸路で渡った仲間は先に日本に到着した。海路で渡った仲間は東南アジアの島々で数々の仕事をこなしてから朝鮮に渡り休んでから日本の壱岐対馬に渡り、その後出雲に住んだ。スサノオの父フツは出雲でスサノオを生んだんだよ。陸路で先に入っていた仲間はイザナミ・イザナギと呼ばれる人々が有名だね?彼らはヤマト原人を制定し、九州に強い国を築き始めていた。そして海路のグループが携えて来た、いわゆる『十種の神宝』を要求していた。何故ならば、この神宝を持つ者が日本のスメラとなる事が決まっていたからだよ。アメクモ族の当初の予定では陸路と海路との両方のグループが協力して、日本を制定し文化と人頸進化の為に邁進する筈だったが、陸路の仲間は自分達の権利を優先したい為に協力を断る者も出て来たんだよ。そこで首領の血を引くフツはスサノオを諸国制定の雄として送り出すことにしたんだ。その頃、九州にはイザナミ・イザナギの国があった。彼らの長女はアマテラスという名前の、たいそう賢く強い女性だった。

 フツの死後、スサノオは彼の器量を全て受け継いで生まれた第5子のトシを伴い九州を制覇にかかっていた。イザナギ・イザナミはスサノオの強大な力と知恵に恐れを成して、娘であるアマテラスをスサノオに差し出すことによって同盟を申し出てきた。アマテラスは既に結婚してはいたが当時には一夫一婦制の掟はなかったのでスサノオとの婚儀には問題はなかったんだよ。スサノオ、トシの親子は九州を制覇し瀬戸内海沿岸を制覇した。成人し経験を積んだトシはオオトシと呼ばれる様になっていた。既に年を取っていたスサノオはオオトシに『十種の神宝』を手渡し、ヤマトの国に入る様に伝えた。ヤマトの豪族ナガスネヒコはスサノオ親子との親睦を深める為に、彼の妹をオオトシに差し出した。オオトシはヤマトに入り実質上の日本の王となる為に、名前を変えた。『オオトシ(大歳)』から『アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト(天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)』と変えたんだ。ニギハヤヒは奈良に入りヤマトの王としての地位を確立したんだよ。彼の御陵は三輪山なんだよ。三輪山はピラミッド建築になっているよ。

 そして今、あなたがたはこの日本での『アメクモ族』の2000年統治の証とLてのモノリスを振動させるんだよ。これはその時になったら詳しく伝える予定だけど、実際に黒御影石を使ってモノリスを建造する時期になったんだ。大きさも形状も決まっているし、場所も決まっているけれど、これは芸術品として売買できるものでは無いので、その点を考慮して建造されなくてはならない。このことは、いずれ実現されるだろうとしか今は言えない…
                    ---ARION,O∴O---


'89/11/15 01:39
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 人は皆、真実を知りたがっていると思うのは間違いだ。真実を知りたくない、見たくない人は多い。真実どころか事実さえも目をそむける人は多い。その人達は「見たくない、知りたくない」人達だ。見れば、或いは知れば、その次の行動をしなくてはならないからだ。現状を維持していたい気持がどこかにある。しかし、同時に現状に不満ばかりを言っている場合もとっても多い。不満はいうけれど事実も真実も見たくない。現状を打破して良い方向にゆきたいというけれど事実も真実もフタをして見えなくしている。それは、見てしまったら自分が現状を改善してゆく行動に出なくてはならなくなるからだ。こういう人達は自分は何もしたくない。なんの努力もしたくないが、不満を言っているともしかしたら他人が自分の現状を良くしてくれるかもしれないと秘かに心の中で思っている。事実や真実をあるがままに見るのは誰にとってもたやすいことではない。傷付く事も多い。ショックで口もきけなくなる時もあるだろう。しかし、自分が見なくては自分の思う通りに改善する事はできない。見たくない、知りたくない人達は一言で言えばズルイのである。 

 万が一、他人がその人達の不満を聞いて何らかの行動に出て改善しようと努力したとしよう。その結果、その他人から見て改善されたとしても不満を言っていた本人の行動の結果ではないので彼らはその結果に満足できない時の方が多いだろう。そんな時、見たくない人達はその他人を攻撃する。「しなくても良い事をして悪くした」と言うだろう。あたり前だ。不満を持っている本人にしか改善する事は出来ないからだ。自分が行動に出なかった事が間違いだ。見たくない知りたくない人達は言いかえれば、傷付きたくない、努力したくない、良くなりたくない人達だ。向上心の無い人達に他人は何も出来ないだろう。本人に気付きがなく他人の非を攻撃してばかりいる人達に何を言っても聞く耳を持たないだろう。

 たったひとつ出来るだろうことは、その人達の気付きを待つ事だ。耳を貸すと彼らの不満改善デームのコマにされてしまい、失敗などしたらこっぴどくやっつけられてしまう。あなたの意志、そして宇宙の意志、それらの方向性をあなたの本能の中の直観力で捜しなさい。これだ!_と思う事を信念でガードしながら進みなさい。見たくない知りたくない人達に構っていると知らない内に足を取られ彼らの仲間にされてしまう。自分の信じる道を信じる仲間と歩みなさい。

 人は不安を隠す為に必要以上に話したりするものだ。言葉で言葉を追いかけて、言葉で言葉を隠し言葉で言葉を飾り、言葉で言葉を結論づける。そして、その言葉の羅列から他人はその人の不在を読みとる。本質から出た言葉は飾る必要がない。隠す必要もない。なぜならば、それが本質から出た以上、それは「在る」からだ。その言葉はただ「在る」のだ。他に何も必要ない。在る事、それだけ。そして、その言葉に他人は感動する。本質から出た言葉は他人の本質にストレートに切りこんでゆくからだ。

 誰にどう言われようと、思われようと誰に何をされようと自分が決めて実行しようと思う。その意志の根底を成すものを「信念」と言う。信念は本質から来たものである以上、他人にどう言われようが、信じられようが、疑われようが、確かにそこにその人の信念が在るとしか言えない。信念がないと、他人の心ない言葉や行動に影響され、自分の道を見失う。自分のしている事が自分の意識と宇宙の意識つまり潜在意識とに照らし合わせて正しいと思えるなら、自信を持って進むべきだ。照らし合わせに自信がないなどと、言うのはもっての外だ。本の少しの直観さえあればわかる筈だ。
                ---ARION,O∴O---


1988 10/7
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霊的な事に携わる人に対する偏見について

 この社会の中で『霊的』な事というだけで、謂れのない差別や偏見がある。ここにある例をとって考えて見て欲しい。

 ある人が東芝の所有する土地を借りてすんでいる。この人は過去から現在に至るまで、東芝の物質的な援助を受けながら仕事をしてきた。東芝は彼の発明する電化製品を発表、販売する事によって発展してきた。彼は、ある時期からソニーとも深くかかわって仕事をしていた。ソニーは東芝とは異なり、彼の精神的な分野での成長に関連する事々での援助を引き受けてきた。斬新な電化製品の継続的な発明には精神的な安定が必要だったのだ。

 彼はソニーの精神的な援助がなければ、良い仕事は出来ないからと東芝に話したが東芝は、自社の製品がソニーのブレーンの力を借りていると世間に思われるのは困る、ソニーとの表立った付き合いは困ると譲らなかった。ソニーは彼の仕事を、精神的にバックアップする事自体に意義を見いだしていたので、彼の仕事の結果が全て東芝の方に還元されていても、文句は言わなかった。

 ある日、彼の家でソニーの人と彼が談笑している時に、東芝の人が突然やってきた。鉢合わせをしてしまったのだ。この事件で怒ったのは東芝だった。彼にソニーの存在は必要ないと東芝は主張した。彼は土地を借りて仕事をしているし、現在までの彼の発明品を発表してくれた恩があるので、あまり事を荒立てたくないと思って、その場を丸く治める為に『東芝さんのお陰で今までやって来れたんですよ。ソニーさんの為にやっている訳ではありません。ソニーさんは便利屋みたいなものですよ。』と言い訳した。
                        
 彼の仕事の原動力となる、精神的な安定はソニーとの関係の中から生まれてくるので、絶交してしまう事は耐え難い苦痛となる。かと言って東芝の援助を受けないで、やってゆく自信は彼には無かったので、なるべく東芝を刺激しない様に苦心しながら付き合ってゆく事にした。心のどこかで『東芝もきっといつかは分かってくれるだろう』と思いながら付き合っていた。数カ月経って東芝と彼の関係は元通り、波風の立たない関係に戻った。彼はソニーの精神的な援助に感謝しながらも、現実に物質的な援助をしてくれる、東芝の意向を気にしている自分が情けなかったが『背に腹は代えられない』と自分に言い聞かせていた。東芝は彼とソニーの付き合いが終わっていない事を知ってはいたが、彼をこれ以上刺激すると仕事に響くと思って、何も言わなかった。とにかく東芝は彼の発明能力が向上するなら、ソニーのブレーンであろうが松下のブレーンであろうが構わないという態度に出て来たのだった。この東芝の態度は彼にとっても都合は良かったが、彼の本質を東芝が理解しようとしない、いや理解したがらない事に寂しさを感じていた。彼の発明品を評価しても、彼自身を正当に評価していない東芝の態度に、彼が不満をもつのは当然であったのだ。

 ある日、国際家庭電化発明委員会から、彼の製品だけを集めた発明展を開催したいと申し出があった。彼は勿論、大喜びで受諾した。早速、東芝に話を持ち掛けた。東芝は『出来る事はしましょう。でも我々だけがスポンサーになるのではなく、ソニーにも半分出して貰うことにしましょう。』と言った。そして付け足して『だって、そうでしょう?あなたはソニーさんとも、仲良くやってらっしゃるんじゃあないですか?』と言ったのだった。
 彼はこの時、初めて自分自身を正当に評価していなかったのは、外でも無い自分だったと気付いた。何故ならば自分という心を持った人間を正しく評価していたソニーと付き合うのに、東芝に隠れて付き合う事しか出来なかったという事実は、実際に自分自身が東芝をソニーより評価していたという事になると気付いたからだ。東芝、つまり物質的な援助を、発明に欠かせない精神の拠り所としてのソニーより評価していた。これは取りも直さず自分が物質的な事を、精神的な事より優先していたという事実に突き当たるという事なのだった。彼は勿論、ソニーにスポンサーの話は持ち掛ける事は出来なかった。しかし東芝は強引にソニーに出掛けて行ってスポンサーの話を取り付けてしまったのだった。もう彼には、どうする事も出来なかった。ソニーと彼の友好関係は、東芝の一方的な物質的攻勢にあって崩れ去ってしまった。彼を正しく評価していなかった東芝の、援助を受け続けるのにも嫌気がさしてしまったが、今となってはどうする事も出来ないと彼は、過去の栄光に思いを馳せながら、惰性の毎日を過ごす事を余儀なくされている。何故、披が東芝に引け目を感じなくてはならなかったか?ソニーとの付き合いよりも、東芝との付き合いの方が長かったからだろうか?

 これはビジネスの世界では実際には起こらないだろうと思われる事だが、どうだろうか?あなた方は、どうだろうか?彼の立場に立って考えて見てご覧?
霊的な事、精神的な事とは根本的な事にも拘らず、軽視されているのが現状だ。しかし、これが現状だと手をこまねいていて良いものだろうか?これが、あなた方にもう一度よく考えてみて貰いたい大命題なのだよ。


20 DEC 1988
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平常心について

 私ARION,O∴Oは、宗教で教えている『平常心について』を話すつもりは無く、本来の意味での『平常心について』を話したいと思う。そこのところを了承して貰いたい。あなたがたは、どういう状況の時に平常心について考えるだろうか?平常心でいる状況の時には、殆どと言っていいほど脳裏をよぎらないのが、この『平常心』という言葉だね?では、どんな状況の時に『平常心』という言葉が取り沙汰されるのだろうか?そこから考えてみたい。

 自分で自分がうまくコントロール出来ていないなあ…と感じられる時、或は、あなた以外の誰かがコントロール不能に陥っているように見える時、そんな時に『平常心』が取り沙汰される場合が多いだろう。外的或は内的な要因によって引き起こされる一時的な自失状態に陥った後に訪れる内省状態に於いて、人は初めて自分が平常心を保っていなかった
と気付くことが多い。しかし、この気付いた時の状態は自分自身が平常心を保っていないことの続行中の状態であることには気付かせないことが多い。つまり『平常心』を云々している人の状態は即ち『平常心』を保っていない状態の人の姿と言える。少し回りくどい言い方になったが直観力を働かせて視ると理解出来る筈だ。

 平常心とは『流れる水の心』だ。澱み無く流れ続ける水、川と言ってもいい。水は一時的に形に嵌められることはあっても、水に恒久的に形を与えることは出来ない。平常心とは不動のものではなく、流動のものだ。平常心とは汚れも異物も全てをその中に内在させつつ、しかし、そのどれでもなく、かと言って聖なるもの清いものだけで成り立つものでもない。全てを包含しつつ、そのどれにも長く留まらない。あなたがたが普段思っているような平常心の説明とは異なった説明をしてしまったかも知れないが、頭を使わずに胸で感じて貰えば幸いだ。よく『平常心』と言えば、普段の自分の心の状態だと思っている人が多いが、これは大いなる誤解だ。普段の自分、つまり興奮もしていなければ落胆もしていない、非常にアイマイなどっちつかずの状態を平常心と言う訳ではない。そんな状態は間隙状態としか言いようがない。平常心を取り戻すとか失うなとか言う前に、まず自分が果して平常心とやらを本当に体験したかどうかが問題とされるべきだろう。本当に味わっていないで、取り戻したり失ったりする訳がないだろう?平常心は辿り着くべき場所を指し示す心の動きであって、平常心自体が目的では無い筈だ。

 平常心は水であり同時に空(宇宙)だ。
 たひらかに、ひろごりて在る心の状態だ。
 平常心は縦軸と横軸の間を波線で結ぶ。
 平常心は裡に膨張と収縮を併せ持つ。
 平常心とは揺れ動く振動するもの。
 平常心とは語るものではなく、感じるものだ。
以上、今日はここまで話しておこう。

              ---ARION,O∴O---


'89 10/23   02:18
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私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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2月13日(金)~2月20日(金)
ヒット数:1,730件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 

第1位(1)<4>水面に書いた物語
第2位(2)<1>あやかしのまち
第3位(7)<10>ときめきFALL IN LOVE
第4位(3)<3>軽々しく愛を口にしないで
第5位(4)<2>ごめんなさい
第6位(6)<6>オーロラの町から
第7位(5)<8>ラスト・ランデヴー
第8位(11)<7>はるかなるメロディ
第9位(10)<2>それってⅨじゃない
第10位(9)<16>素顔のマスカレード
第11位(8)<5>女優(スター)
第12位(12)<14>わかりあえる日まで
第13位(14)<9>マイ・スィート・ライフ
第14位(3)<11>Stay with me
第15位(18)<17>しあわせになれる
第16位(15)<13>恋すれば魔女
第17位(17)<15>Sentimentallady”M”
第18位(16)<19>まことのひかり
第19位(19)<18>NEVER GIVE UP!


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当然のように「水面に書いた物語」が首位に居座っている。三年前にカウントダウンを始めた頃は 「NEVER GIVE UP!」や「はるかなるメロディ 」が強かったがやはりすべては変遷しているようだ。ご愛聴感謝。
fumio

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人間淘汰論  
            
 苦い記憶の持ち主である昭和8~13年位に生まれた人を親に持つ、現在20代から30代の人々に顕著に現れている傾向は、やはり「自分本位」傾向だ。DINKSと呼ばれる形態も別居結婚という形態も、友達夫婦という呼称も、これらの世代に始まった。

 これらの呼称に代表される人々は、自分で淘汰の道を選んだ。ワガママで勝手気儘な、放縦な生活は決して他人との共存を許さない。『自分』と呼ぶ個体の欲するままの、『自分』しか目に入らない生活に他者は入り込めない。そうした考えの人間が寄り集まって、お互いの自由を尊重するという名前ばかり恰好の良い生活を始めた。

 そうした人々でも、ヒトリボッチは辛いから形だけでも、将来の保険の為に結婚するが、自分のしたいことを犠牲にしてまでも他者との生活を望む訳では無い、従って最低限の譲り合いは話し合いで決定しようということになる。子供は要らない。何故ならば子供は親に犠牲を強いるからだ。親のどちらかが犠牲を多く受け持つことになると不公平だから、要らない。

 仕事を持つという大義名分の名の下に、家庭での雑用分担をお互いに相手に押しつけようとする。または相手より稼がないからという、自己劣等扱いで家庭での雑用を引き受ける。稼いでいるということは、割に昔から優勢の立場をその人間に与えてきた。勝手に生きていたいが、寂しくなるのはイヤという人々は、自分の大義名分の為に、そして、自分勝手な生活の自分勝手の部分を賄う為に、仕事を持つ方向を自分自身に課してきた。

 …と同時に自分勝手な生き方をする人間を淘汰する方向へと、自分が選んで生きていることを知っているのだろうか?極論ではなく、今現在、あなたがたの周囲で起こっていることなのだ。DINKSに子供を持てとは、私は言わない。友達夫婦だと誇っている人々に対して、男と女のあり方について考えてみろとも私は言うつもりは無い。全てあなたがたが選ぶことなのだ。

 自分の子孫が欲しいから、子供を生もうなどと考えるのも自分本位の性格の域から一歩も脱していない者の言い分だ。自分本位でワガママで、自分勝手で生きたい人に用意されている将来は「孤独」だ。結婚という形さえ持てば、将来「孤独」にならないという保険を手に入れたと、そう思うのなら、思えばいいだろう。形は全て壊れるというのが、この世の法則だ。相手を人間と認めることが、一体どういうことなのかが分からない人々は、自らが決定したように淘汰されるしか、道が無い。私や宇宙連合は、あなたがたに強制はしないし、出来ない。あなたがたの選ぶ将来に対してコメント出来る、それだけの立場なのだから。

 人間は淘汰されるのではなく、自らを淘汰する方向にある。しかも下らない一瞬の夢でしかない、『自分』と呼ぶその個体の欲望の為にね。

                       ---ARION,O∴O---


MAR.21.1991
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《アリオン語録》

○この世に起きることの全てを肯定することは、それらの存在を肯定することで、それらの所産物の影響を容認することではない。肯定と否定、これは共に同じものを語りながら現代人に二つの異なる感情を喚起する。肯定ならばOKで否定ならばNOという二つの感情を。あなたがたは、よく見なければならない。肯定も否定も、共に同じものの側面を語っているに過ぎない。冷静に客観的に『自分』を見る行為はあなたの心に黄金をもたらす。
 何かについて賛否両論があって初めて、その何かは「普通」の状態だと言える。賛成ばかりだとしたら、それは気味の悪いモノとなる。これは「明らかに人の可能性を奪うモノ」以外についての話だ。その何かが「明らかに人の可能性を奪うモノ」、例えば故意による殺人であった場合には賛否両論という余地は無いからだ。しかし、思想や哲学など人の生きる道について語ったモノは、賛否両論があって当然だ。もし賛否両論が無ければ、それはファシズムに近いモノと言えるだろう。あなたがたは口ではファシズムを嫌いながら、行動ではファシズムを求めていたりはしないだろうか? 一つの塑(モノサシ)で全てを計ろうとしてはいないか?


○人は何者かであろうとする時に自分を見失う。例えば自分は山田洋二という名前だと意識した行動をしようとすると、一挙に山田家の重みや経歴があなたにおぶさってくる。自分を何と呼ぼうが根のところにあるものは何一つ変化しない。自分が夫であるとか父であるとか、或いは兄であるとかそういった分類上のネーミングによって何重にも縛られて一番奥の自分が見えなくなる。


○残る者と残される者、彼らの動機は異なるが行為は同じ。前者は自分で選び、後者は選ばないというプロセスの推移は異なっても結果は同じ。自分で選んだ筈の自分の家庭や環境は順境であれば「自分で選んだ」ことに満足しているが、逆境になれば途端に「自分で選んだ」事実を隠し、あたかも外部からの力によって「選ばざるを得なかった」かのように振る舞う。このような心の動きはズルく自分本位で幼児性の抜けきらない大人に見られる。未熟な精神の成せるワザだ。


○人は苦痛を和らげるために麻酔を用いるが、これは外科的手術のみの語ではない。心の痛みを和らげるためにも、人は同じ様なことをする。まさか心に麻酔注射をする訳にはゆかないので、それに替わるものを用いる。心の痛み用の心の麻酔注射とでも言うべきそれはあきらめと切り離しである。

 まず心の痛みにつながるものに対しての能動行為(例えば手に入れるとかつかむとか食べるとかの自分→外部への働きかけのこと)をあきらめようとする。心が痛むということは、こういった行為の結果が思わしくなく、少なからず失望を経験している筈だから、この能動行為そのものが良くなかったことにしてあきらめることで、心に痛みを再び与えないようにしようとするのだ。

 そして、それでも心に痛みが残るとき、人はその能動行為の基となった原因すらも、切り離そうとする。(例えば、食べたかったが食物を手に入れることが出来なくて失望したとすると、この失望から痛みを生じる。この痛みに対して麻酔を行う(あきらめる)為に、食物を手に入れる努力が良くなかった…と思う。それでも心に痛みが残るとき、人はそもそも空腹だったのが悪かったのだと思う。そして食欲という欲を自分の心から切り離そうとするだろう。



91/07/08
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《アリオン語録》

 愚痴や不平を多く言う人は、前進する勇気の無い人だ。愚痴や不平を言いながら、足踏みをしている。何にしろ、自分の置かれた境遇を変えるのは『自分』でしかない。

 ~イズムに陥るのは、自分に手かせ、足かせをはめているようなものだ。~イズムを主張する為に、どれほどの自己規制が行われていることか。或いは、他者に対する規制までが行われてはいないか?現在、~主義、~イズムと呼ばれているものは、自己の為というより、他に主張する為のツールになっているキライがある。信念と~イズム(主義)とは別個のものだ。信念は他に主張する必要は無い。そもそも、他に自分の主義を理解させようと思うことに疑問を感じて欲しい。理解させよう、という考え方が倣慢なのだから。

 あなたがたは、一体、どんな状態を思い浮かべて「平和」と呼ぶのだろうか?戦争が無ければ、平和なのだろうか?目の前で残虐な方法で人が殺されなければ、或いは一般に知られていなければ平和なのだろうか?争いの無い世界を欲しているのか?

 美しい花々に囲まれて、全ての人が幸福で満ち足りた笑顔を浮かべている状態は平和と呼ぶのだろうか?私は、それを「死」に近い状態と呼ぶ。人は、生まれてから死ぬまで葛藤から逃れることは無いだろう。その葛藤の中から、常に前進してゆくことを学ばねばならないからだ。一部の者の策略の為に多くの関係も無い人々の命が、犠牲にされる戦争は決して良くない。しかし、戦争という状態は、毎日の生活の中に隠された種子の芽生えでしかない。この芽を摘むだけでは、何も変わりはしないことを覚えておきなさい。誰が種子を蒔いたのか?何の為に?誰が種子を育てたのか?何の為に?

 あなたがたは、気付かねばならない。そして、その種子を蒔かせない為には何をするべきか?
戦い続けなさい、それが「平和」なのだから。一瞬たりとも油断してはならない。「平和」とは、多くの人の想像を裏切って、苛酷な戦いの連続であることを私はここで明言しておこう。あなたがたの心の中にある「平和=「ユートピア」=「永遠の幸福」といったような幻想には終止符が打たれねばならない。

 この世にあるものを利用しなさい。あなたがたに必要なものは、全てある。それ以上に、それ以上に要求する心の全てをフロンティア精神とは呼べない。

 言葉も身体も飾りたてる必要は無い。本当の宝石は、その人の経験から学んだ心の中の宝石だ。人に不快を催させる風体をせよ、と言っているのではない。その程度のことは理解できる筈だ。

 自分自身を、よく見ることは大切なことだ。自分を『自分』以上に見せたり、感じたりすることは害になっても決して益にはならない。

 他者と話す時には、相手のモノサシについてまず知る必要がある。その為にも、まず相手の意見を聞く態度は必要だ。相手を威圧して、結論を導いても結果は自分だけの寂しい満足となるだろう。

 生きていても何か満足感が無い、つまらない、虚ろだ…と感じている人に是非、試して貰いたいことがある。まず、自分が嫌だ、キライだと思っていることを考えて欲しい。カテゴリーに分けて考えることを勧める。例えば、家事の中で自分がキライだと思うことを考えて、見つかったらまず、それをやる。とにかく、やろうとしてみるのだ。やりながら、何か他のことがしたくなったら、それをメモしておく。一応、キライなことをやり終えるまでは続行することを勧める。そして終了したら、先程メモしておいたことをやってみる。もし、他のことが見つからなかったら、再びキライだと思うことをもうひとつ考えて実行する。後は、先程の行程をリピートするだけだ。実際にやってみなければ、この行程のもたらす効果は理解できない。やってみれば、あなたはきっと何もかもつまらない…という気分からは開放されているだろう。

 怒りは分析されるべきだ。人が怒る時には理由があり、その理由の出所を抹消しなければ何度も同じ理由で怒ることになるからだ。憤懣と怒りは区別されるべきだ。ヤリ場の無い憤懣は、時として人の原動力となるからだ。しかし、怒りは百害あって一利なしと知るべきだ。



Mar.11.1991
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《アリオン語録》

 証明は、それを必要とする心の持ち主にのみ有効なものだ。時間を追いかけ、消えゆく自己の破片を捜す。いつまで、この虚しいゲームを続けるのか。確認できることは、全て「過去」のものだと知りなさい。「今」は確認出来ず、ただ在るものだと知りなさい。全てのことに、全ての道があり、全てのことに全ての答がある。ゆえに、比較することは厳密には無理だと、私は言うのだ。善意によって成されたことが、全て善の結果を導く訳ではない。しかし、悪意によって成されたことに善の結果は決して訪れない。

 時のしじまを縫って訪れる光の繊維を縒り合わせ、一つの布を織りあげる。これは、あなたがたに与えられた課題の一つとして考えるべきではない。あなたがたが自らの決定により、あなたがたの楽しみの中でこそ実行されるべきことの一つなのだ。そうでなければ、この布は輝かない。あなたがたは、周囲を見回して「アレコレ」と比較して愚痴を言うが、比較対象として見ている者と自分が、決して同じ存在では無いことに気づいてはいない。

 行きなさい、話しなさい、行動しなさい。あなたがたの待っていた時は満ちたのだ。この日まで流された汗と涙が報われるかどうかは、あなたがた一人一人の、決断と行動によって決まるのだ。戦いの時に必要なのは、完壁な個人の自覚とそこに繋がる全体性の把握、そして、その双方を同時に知覚することの出来る、双方向性を持つ鋭敏な知覚だ。相手を傷つけないための思いやりと、あなたがたが言う時によくあることだが、単に自分が面倒なことに巻き込まれたくないという意味であったりする。



1991/06/02/22:8
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《アリオン語録》

 あなたがたは、戦争という言葉で何を思い浮かべるだろうか?
過去何度もこの地球上で大小の戦争が行われ、その度に大地は荒れ人々の心は引き裂かれて来たのだ。人間は権力や権威、そして物的利益の為に戦争を起こしてきた。人間の文化遺産を全て、力の為に使うという愚を犯し続けた。戦争は、あってはならない。しかし、いさかいは、あるものだ。この違いは、国家と個人の違いだ。国家を挙げていさかう時に、戦争となる。個人のレベルで何とか、問題を解決してゆこうと努力するべきものだ。万が一、戦争が起こったら当事者同士のみを戦わせよ。これは、個人のいさかいのレベルにまで規模を落とす為に必要なことだ。

 現在、起きている湾岸戦争について、一方的に悪者扱いされているフセインを我々は悪者扱いしていないことを伝えておこう。あなたがたの一部で信じられているような、単なるクウェート侵略の是非を問うてこの戦争が起きているのでは無いからだ。アラブの地に欧米のルールを持ち込むことが、アラブを分裂させる原因になっている。

 あなたがた日本人は行動をしなさい。反対の行動をせよと言っているのではない。個人が束になって、一つの力となることだ。束になった力で、何をするか?実際に政治の現場へ行って抗議をしなさい。遠いところから叫んでいても、着実に政治家たちは参戦方向へと行動している。あなたがたが政治に無関心であった分だけ、今、政治に関心を持ちなさい。

 たった一人で何が出来るか?ではなく、たった一人でも理想を現実に変えてゆく行動力を持ちなさい。あなたがたは報道に対して真実を求める権利がある。歪められた情報に対して、抗議するだけの気力を持ちなさい。政治は財界と密接に関わっているから、財界人の動きと共に政界人の動きを監視しなくては、本当のことは分からないだろう。

 デモンストレーションの方法は従来通りにやりながら、考え方だけは違うと言っても周囲には伝わらない。自分たちの枠の中だけで呼吸していると、周囲のことが見えなくなるだろう。既に60年代に使い古されたフレーズを繰り返すのが「精神世界」では無い。今、ここにあなたが居ること、これが精神世界の基本なのだ。全ては、「今、ここから」始まる。穏やかに微笑むだけの救世主は、今までも、これからも居ることは無いだろう。

 もっと、見なさい! あなたの周りに何が起こっているのかを。
身体に良いことが万能だろうか?身体に良いとされていることを実行する為に、犠牲になっているものは無いのか?あなたがたは、「これが良い」となると「これ」ばかりを望み、「あれが良い」となると「あれ」ばかりを望む。そして「あれもこれも良い」となると「どうでもよくなる」

 信じるものの為に生命を投げ出せる思いは、百万べん唱えられる反戦の叫びよりはるかに説得力があることを思い出して貰いたい。武力に対して武力で戦うのは愚か者のやることだ。しかし武力に対して花で戦うのは、もっと愚かなことだ。武力に対して効果のあるものは、力だ。本当の力とは、花や微笑みといった、あなたがたの偽善的なフレーズに飾られた額縁の中の絵では無い。本当の力とは、血の滲む愛情だ。自分の生命を投げ出せることだ。

 あなたがたよ、目を覚ましなさい。あなたがたが対岸の火事だと思っている、その対岸にも、あなたがたは生きている。自分と呼んでいる、その小さな個体は世界中に生きている。あなたがたよ、起きて行動しなさい。今、行動しなければ、あなたがたの選ばない未来は、確実に少数の者の利益と引換えに、足音を忍ばせて近づいてくる。

 まず、自分自身から、自分の家族から、そして自分の住む地域から、自分の働く職場から、叫びなさい「私たちは本当のことが知りたいのだ!」と。そして、そのために何が出来るのかを、話し合いなさい。何が出来るかがわかったら、即、行動に移しなさい。ひとりひとりが「本当のこと」に目覚めようとする時に、国家も目覚めようとするだろう。その時こそ、初めて国民の為の政治が成立する。だから、ひとりひとりの目覚めを妨げてはならない。

 目覚めは気付きから始まる。気付いた時に、気付いたことをウヤムヤにしてはいけない。気付いたことを、ちゃんと記録しなさい。気付いたことについて、調べたり検証したりすることを怠っていては、気付きは目覚めにつながらない。目覚めにつながらないどころか、気付きの回路を鈍くしてしまう。だから、気付きを大切にしなさい。あなたの気付きも、別の人の気付きも大切にしなさい。 自分の起こした行為について、間違いを発見したら、なるべく早く訂正しなさい。小さな行き違いが、大きな亀裂に発展することは、よくあることだ。自分が間違っていた、と言えない人は自分を大切にしていない人だ。自分を大切に出来ない人は、結果的に他人を傷つけてしまう。どんなことでも、自分が最大の努力を払ったと言えるものがある人は、幸福な人だ。

 何をするにも慌てる必要は無い。慌てないで、しかし迅速に行動するべきだ。何事も熟考してからでないと行動出来ない人は、そういう癖を愛しているからに外ならない。大概、最初に考えていたことを行動に移す場合が多いのに、思考に時間を掛けないと気が済まない人も多い。これも、思考している自分が好きなだけだ。これからの世界は、白黒の決着の速い世界になってゆくだろうから長時間思考したり熟考したりしないと、行動する決断の出来ない人は、困る場面が増えてゆくだろう。いつも、自分にとって何が一番大切なのかを考えていれば、自分が行動に移す時に迅速に処理出来るようになるだろう。

 現状維持は楽だという夢は捨てなさい。現状を維持しようとすれば、死に物狂いで活動して行かねば維持できないという現実を認識しなさい。死に物狂いで活動してゆくことで、現状維持を打開する道も見えてくる。楽しいことが、楽なことでは無い。人と話をする時に欺瞞的な自己満足で終わっていないか?キチンと自分の思いは伝わっているか?キチンと相手の言いたいことを把握出来ているか?分かったフリをすることは決して思いやりでは無い。理解できなかったら、キチンと聞きなおす態度を持ちなさい。理解出来るまで、相手に説明を頼みなさい。そうすることは、相手を傷つけたり、迷惑を掛けることとは決して同じではない。これらのことがキチンと出来ない人が、政治に携わる人達を駄目にするのだ。

 人と議論をすることは喧嘩をすることでは無い。論理の上でたたかうことがあっても、相手や自分の全人格とたたかうことと同じに感じてはいけない。あなたがたは、誰かの意見を聞く時にその人の肩書で判断してはいないか?
そういう姿勢が、この世に権威の暴力を生むのだ。良いと思ったものを良いと言い、悪いと思ったものを悪いと言う。こんな当たり前のことが、全く作動しない社会を作ったのは、あなたがた一人一人の「間違った思いやり」と自分だけ良ければ、それでいい」の姿勢だ。あなたがたは個人的に善であっても、組織化すると不善になるという事実を見て見ぬフリをするが、何故だろう?

 美しい断片を、全ての箇所に使って一つの像を組み立てても全体を見ると決して美しいものが出来ない時が多い。真実は、どの断片をとっても真実に変わりはない。真実は美しく快いものばかりでは無い。


Feb.12.1991
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《アリオン語録》

 尊敬するということと、尊敬できるということとは全く違う。尊敬するというのは、対象の持つ能力や性格などに対して素直に擾等を認める言葉である。尊敬できるというのは、対象の持つ能力や性格に対して高飛車になっている。尊敬できると言う人は、本当は自分が一番だという意識が見え隠れしている。同じ尊敬という言葉があっても、その後に付加される言葉によって、その言葉を発する人間の品性をうかがうことができる。

 『…する』と『できる』には大きな隔たりがある。こんなことは説明するまでもないだろうが、『する』は実行すること。『できる』は実行する段になった時に、実行可能だという意味合いで使われる場合が多い。しかし『できる』は実行することではない。あなたがたは、どうだろうか?言葉の端々に『できる』がチラチラしていないか?『できる』と言うより『する』 と言う人間を信じなさい。そして、あなたがたも『する』と言う人間になりなさい。

 自分が一番興味を持っていることを、他人に報せることや自分自身の姿を他人に報せること、それが自己表現であった。現実には、こういった自己表現は少なくなって来ている。つまり、他人を対象としなくなったのである。では一体、何を対象としてしているのだろうか?自分を対象としての自己表現になってしまっているのだ。自分に自分を報せる、自己表現の対象が自分である、それは鏡の前での独り芝居。大勢の独り芝居の主役たちが、それぞれに何の関係も持たずに生きようとしている。自分が主役であり、自分がたった一人の観客である、この芝居には虚しい拍手の音が聞こえる。何をやっても全て自己満足でしかない世界。何故、他人に対して自己表現をしなくなったのだろうか?

 自立しない人が増えてきた。自立しない人間には自由は遠い夢だ。自分で立つ為に、人間は約1才前後くらいの時に何度も何度も転びながら努力する。何度も頭を打ち、何度も泣きながら、それでも幼い人間は努力する。そう、自分で立つために。ところが、一旦立った人間が精神的には立とうとしないのは何故なのか?精神的に自立する為に必要なものは、何なのだろうか?自分自身に対する周囲の期待は、じつは自分自身が長年培ってきたものであるということを、ここで言っておきたい。自分自身こそが全ての価値判断の要となっているということを知らなければならない。周囲が期待したり希望したりしていると理解するのは、実はあなた自身なのだから。

 自分の心の在り処が分かっている人には、周囲の期待も希望も価値を持たない。自分の心の在り処とは、自分の心のありのままを見ることが出来る…言い換えれば自分の心のありのままを、今ここでテーブルの上に拡げることの出来る人なのだ。ありのままを見つめることの出来る人は、逃げも隠れもしない自分を見ることの出来る人で、そういった人は誰に対しても自分のままで付き合えるし、誰に対しても何も隠す必要はない。自分のありのままを見る事のできる人は、従って嘘をつく必要もない。誰の前でも自分自身をテーブルの上に、拡げて見せることのできる人は自分自身という枠組みを他人の前に拡げてみせることの出来る人だ。テーブルの上に拡げることで、客観的に見ることもできる。自分のこころに響く相手を見つけるのに、これほど簡単な方法は無いと言える。


 尊敬すると~できるについて、どんな場合においても尊敬できるという表現は使うべきではないのだろうか?正確に言えば、好ましい人間関係においては『尊敬できる』という表現法は使うべきではないと言おう。尊敬は『する』『 しない』というどちらかの動詞がつくべきで、『できる』『 できない』ではない。

 心と欲望はどう違うのか? 
心とは魂の前庭の様なものだと以前にも話したが、ここでは眼球のたとえで考えて貰いたい。つまり眼球の体外に表れている部分、つまり瞳の部分が心で、その他の大きな部分が魂の部分だ。そして、欲望とはその瞳の部分に映るありとあらゆる外部の状況だ。人間は瞳に映る数々の事象に一瞬目を奪われるが、次々と新しいものに視点を移動させてゆく。視点を移動させはするが、眼球自体が移動する訳ではない。そして多くの事象の中から、特にある情報をビック・アップして網膜から大脳に伝えてゆく時に、リマーク付で送信する。これは、目の前を過ぎ行く数多くの事象とは異なった扱いを受けている。心と欲望の違いは、たとえればこの目の前を過ぎ行く多くの事象とリマーク付で送信される情報との違いだ。欲望とは目の前を過ぎ行く数々の情報であり、心とはリマーク付で大脳に送信される情報の違いだ。



JULY.13.1990
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私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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2月6日(金)~2月13日(金)
ヒット数:1,939件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 

第1位(4)<1>水面に書いた物語
第2位(1)<2>あやかしのまち
第3位(3)<5>軽々しく愛を口にしないで
第4位(2)<4>ごめんなさい
第5位(8)<5>ラスト・ランデヴー
第6位(6)<11>オーロラの町から
第7位(10)<9>ときめきFALL IN LOVE
第8位(5)<7>女優(スター)
第9位(16)<12>素顔のマスカレード
第10位(12)<4>それってⅨじゃない
第11位(7)<6>はるかなるメロディ
第12位(14)<17>わかりあえる日まで
第13位(11)<8>Stay with me
第14位(9)<10>マイ・スィート・ライフ
第15位(13)<13>恋すれば魔女
第116位(19)<18>まことのひかり
第17位(15)<15>Sentimentallady”M”
第18位(17)<16>しあわせになれる
第19位(18)<19>NEVER GIVE UP!


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 またまた「水面に書いた物語」が首位に立った。
2007年03月31日に始めたこの私的なカウントダウン、いつだれも曲を聴かなくなって終わるのかと思っていたが3年ほど経ってもいまだにつづいている。
ちなみにその第一回の順位を以下に掲げておく。
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2007年03月23日(金)~3月30日(金)

1位NEVER GIVE UP!
2位あやかしのまち
3位軽々しく愛を口にしないで
4位ごめんなさい
5位オーロラの町から
6位はるかなるメロディ
7位ときめきFALL IN LOVE
8位女優(スター)
9位マイ・スィート・ライフ
10位ラスト・ランデヴー
11位それってⅨじゃない
12位Sentimental lady”M”
13位恋すれば魔女
14位Stay with me
15位水面に書いた物語
16位素顔のマスカレード
17位わかりあえる日まで
18位しあわせになれる

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「NEVER GIVE UP!」の位置が首位と最下位。
どんな意味があるのだろうか。ご愛聴感謝。
fumio




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