不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています
monologue
夜明けに向けて
 





私的カウントダウン、アルバム「水面に書いた物語 」、「プロセス」「カリフォルニア・サンシャイン」「ひかりのくにへ」「現代の愛 」シリーズインストルメンタル曲集「夢神楽」などの今週のアクセス聴取ランキング
**********************
8月22日(金)~8月29日(金)
ヒット数 534件中  
順位前週前々週 
第1位(1)<1>祭りの夜
第2位(2)<2>夢の旅
第3位(4)<4>水面に書いた物語
第4位(4)<19>はるかなるメロデイ
第5位(3)<5>あやかしのまち
第6位(15)<15>そしてなにが残った
第7位(7)<7>マイ・スィート・ライフ
第8位(8)<12>Wake you
第9位(-)<->恋すれば魔女
第10位(-)<->ごめんなさい
第11位(-)<->わかりあえる日まで
第12位(16)<->小舟がひとつ
第13位(-)<->わんだふるわーるど
第14位(19)<9>ときめきFALL IN LOVE
第15位(-)<->Sentimental lady ‘M’
第16位(-)<->ハローマイラヴ(わが地球)
第17位(-)<->モニカの朝
第18位(-)<->愛と光のテーマ
第19位(6)<6>女優(スター)
第20位(-)<->Never give up!
第21位(-)<->まことのひかり
第22位(9)<8>素顔のマスカレード
第23位(13)<11>軽々しく愛を口にしないで
第24位(12)<13>ラスト・ランデヴー
第25位(14)<->STAY WITH ME

*****************************
今週も祭りの夜 が首位をつづけているがめぼしいのは第8位のWake youでこういう曲相が受けるとなると面白い 。
ご愛聴感謝。
fumio


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




1950年代にテレビ放送が始まると京都市四条大宮の駅前広場に街頭テレビというものができた。そこに人々が群がってプロレス中継で力道山が外国人レスラーに空手チョップをふるう姿を見た。映画館「島原劇場(八雲座)」のロビーにもテレビが設置されわたしも大相撲中継を見た。やがて一般家庭にもテレビが普及してわたしたち男の子は「少年ジェット」「快傑ハリマオ」「海底人8823(かいていじんはやぶさ)」など特撮ヒーローものに夢中になった。どの作品も主題歌が良かったが「快傑ハリマオ」の主題歌は三橋美智也が歌って特に名曲だったので好きでわたしも米国のエンターティナー時代よく歌ったものである。「エイトマン」の主題歌を前田武彦が作詞して世に出てきたことがなつかしい。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





1950年代にテレビの放送が始まるまでの庶民の娯楽の王者は映画だった。休みの日には近くの「島原劇場(八雲座)」という映画館がいっぱいになった。スクリーンに向かって観客みんなで主人公の応援したりした。わたしの同級生の母親や近所のおばさんが入場券売り場にいたのでわたしはタダで入った。そのころ、特に人気を博したのは東映時代劇だった。嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」、市川右太衛門の「旗本退屈男」、大友柳太朗の「怪傑黒頭巾」、山城新伍の「風小僧」などが記憶に残っている。ストーリーは勧善懲悪でどの作品もあまり変わらなかった。撮影所が近かったので大友柳太朗が化粧落としにわたしたちがよく行く吾妻湯という銭湯にやってきた。その東映時代劇もテレビの放送が始まるとだんだん人気が薄れていった。あんな時代もあったのだとふと思う。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




テレビのない時代わたしたち庶民は夜をどのように過ごしていたのだろうか。
食後、家族でラジオでドラマや歌を聴いたがあとは貸本屋で借りた本を読んで過ごした。
銭湯の帰りに親は「オール読物」などの大人向け小説雑誌、わたしたち子供は漫画、劇画が登場する前の「影」などの貸本漫画を借りて帰った。
さいとう・たかをの「黒い子猫」や「台風五郎」シリーズにはまり、わたしたちの世代は白土三平の『忍者武芸帳 影丸伝』によって社会の最下層に喘ぐ被差別民百姓たちが権力に立ち向かい一揆を起こす姿に感動した。貸本漫画から唯物史観などのイデオロギーを学んだのだ。それがのちの学生運動につながる。そして「カムイ伝」を掲載するために創刊された「ガロ」は当時の若者の必読アイテムになっていった。つげ義春のシュールな話題作「ねじ式」は何度読んでもわからなかった。やがて小島剛夕や水木しげるなど多くの才能が貸本漫画から社会の中央に進出していった。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




1988年9月14日午後9時過ぎ、窓からJRを臨む渋谷の芝居稽古場でわたしは芝居の稽古で 胴上げからの落下の稽古中、一瞬の暗闇の中で額が床にぶつかってエビ反りに首の骨を折った。救急車で運ばれた北品川第三病院のICUで手術を受けてリハビリテーションのために11月に転院した 武蔵村山病院に同じ劇団に所属していたMIYUKIが見舞いに来てイベントや歌謡ショーなどの司会などの仕事で歌を歌う機会があるので自分にもオリジナルの歌を作ってほしい、と言い出した。
それでわたしは退院後、ヤマハのミュージックコンピューターにシンセサイザー音源やドラムマシンなど使用して歌作りを始めた。そしてできあがったのが軽々しく愛を口にしないで だった。その歌の見本とキーをMIYUKIに合わせたカラオケのカセットを作ってMIYUKIに送った。それでMIYUKIは次の週のイベントの仕事に初めてオリジナルの歌を歌ったのだ。ずいぶん受けたと喜んでいた。それがアルバム「水面に書いた物語」の始まりだった。MIYUKIがリードヴォーカルをとるシリーズとして何曲目かに作った「わかりあえる日まで」は「第15回わたぼうし音楽祭」で優勝して作詞賞作曲賞を受けたのだった。思い返してみるとMIYUKIのあの要請がなければアルバム「水面に書いた物語」はできなかった。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨夜の「Grace ofJapan」は千葉県館山市にある安房国一宮洲崎神社(すさきじんじゃ、すのさき-)を採り上げていた。
祭神は、
[安房神社祭神天太玉命の后神、「洲ノ神(すさきのかみ)天比理乃命 (あまのひりのめのみこと)」だが、1997年7月20日、水難事故防止のために館山市「沖約600メートル波左間海中公園に日本で唯一の海底神社が末社として設置されたことで全国的に有名になってしめ縄張り替えなどの行事がよくニュースで報道される。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )







私的カウントダウン、アルバム「水面に書いた物語 」、「プロセス」「カリフォルニア・サンシャイン」「ひかりのくにへ」「現代の愛 」シリーズインストルメンタル曲集「夢神楽」などの今週のアクセス聴取ランキング
**********************
8月15日(金)~8月22日(金)
ヒット数 326件中  
順位前週前々週 
第1位(1)<1>祭りの夜
第2位(2)<4>夢の旅
第3位(5)<4>あやかしのまち
第4位(4)<19>水面に書いた物語
第5位(6)<21>ごめんなさい
第6位(6)<21>女優(スター)
第7位(7)<->マイ・スィート・ライフ
第8位(12)<->Wake you
第9位(8)<15>素顔のマスカレード
第10位(16)<->
第11位(-)<->水の中で
第12位(13)<8>ラスト・ランデヴー
第13位(11)<->軽々しく愛を口にしないで
第14位(-)<->STAY WITH ME
第15位(23)<22>そしてなにが残った
第16位(-)<->小舟がひとつ
第17位(-)<->New morning
第18位(-)<->しあわせになれる
第19位(9)<9>ときめきFALL IN LOVE
第20位(-)<->それってⅨじゃない
第21位(17)<25>オーロラの町から
第22位(24)<->愛し疲れて
第23位(14)<->今すぐに
第24位(19)<->Good-bye Sue
第25位(-)<->月とラクダ

*****************************
今週も祭りの夜 が圧倒的に首位をつづけている 。丁度祭りのシーズンだからなのか。ご愛聴感謝。
fumio


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




93/10/10 封印は解かれ玉も石も巷に溢れ…全てが石だと唱える者の声が…
93/12/22 刻印はなされたが、契りを執り行う者は見当たらない…麒麟は嘆く
94/01/22 麒麟との約束事(封印)の期限は29日一杯で切れる、進めよ…
94/02/02 麒麟の封印は解かれ、龍の息は頂きに舞う。混沌の中で清水を…
94/06/04 解かれた封印から赤い色を頼りに、隔り世から鬼が来る…
94/06/05 解かれた封印から血の色を頼りに、あなたの心から鬼が出る…
94/09/05 八つが峰に白き炎もて封印せし輪は放たれたが、人心は惑うのみ
94/11/30 何れに印があろうとも、印は付けられるという事実に思いを馳せよ
94/12/15 覚めた獅子は夜陰に紛れ彷徨す‥印を求め‥井戸の奥は空か水か?
94/12/21 舵取りは星を読めず、鎖は繋がれたまま‥印は紅白玉、闇の三角
95/01/13 火の壷は揺れ、磐石の支えとなる印は解かれる。雄飛あるのみ。
95/01/28 封じられた門が開き、祖土(オヤツチ)は子供達に印を与える‥起きよ
95/01/29 三角に結んだ契り、345の有限の封印‥真ん中で閉じよ、開く為
95/04/17 十字に切られた印の下、燦々と降り注ぐ叡智を無駄にする勿れ
95/04/18 憂刻より来たり慟哭の印を表に見た‥大青龍摩王、そしてその眷族
95/05/27 矢車、鵜の小鳩、輪印、人の思いは幾星霜を超えるだろう

***********************************************************************
印に関するメッセージ集。祖土(オヤツチ)はすでに子供達に印を与えたのだろうか。
fumio


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






昨夜の「SONG toSOUL」はボブ・マーリーの「ノー・ウーマン・ノー・クライ」を採り上げていた。
70年代ビートルズ解散後、アメリカンポップスや欧州ポップスに飽きた若者やミュージシャンたちはジャマイカで生まれたレゲエというリズムに魅かれた。ボブ・マーリーの1975年7月のロンドン公演を収録したアルバム「ライヴ!」から「ノー・ウーマン、ノー・クライ」のライヴ・ヴァージョンが先行シングルとして発表されて英国や米国のヒットパレードに顔を出した。わたしたち京都のミュージシャン仲間の間でもこのアルバムが評判を呼び、貸しまわされてわたしもカセットに録音して渡米の荷物に入れたものだった。
米国ではジミー・クリフ主演で歌手を目指す貧しい農村から都会に出て来た青年とレゲエを生んだ1970年代初頭のジャマイカ社会の現実を描いた映画ハーダー・ゼイ・カム (THE HARDER THEY COME )に人気があってよく再上映されるのでわたしもサンタ・モニカの映画館で妻と観た。ボブ・マーリーの公演がロサンジェルスのユニバーサルアンフィシアターで2回予定されてそのたびにチケットを買ったのだが2回ともキャンセルされて結局ボブは36歳の若さで亡くなってしまった。ライヴを目にすることができなかったのが残念だった。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




村井満Jリーグチェアマンと将棋棋士・渡辺明二冠が「接近する将棋とサッカー」という長い対談をしている。渡辺二冠はサッカーの審判員の資格をとって副審を務めたことがある珍しい棋士だがあまり知られていない将棋界の内情を詳しく語っている。あまり共通性があるとは思えないが接近しているのだろうか。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )








ロックやソウルを本場で英語で歌うことがわたしの渡米の目標だった。
わたしは、米国で語学学校時代、NBCテレビの「ゴングショー」のオーディションに受かって番組でレイ・チヤールスの「ジョージア・オン・マイ・マインド」を歌った。クラブなどのエンターティナー時代のレパートリーで一番受けたのはゲイリー・パケットとユニオンギャップの「Woman,Woman」だった。LAPD(ロサンジェルス市警)の女性職員たちがよくやってきてリクエストした。その後も色々なバンドに加わってロックやソウルを本場で英語で歌うことができたので一応初期目標は達成できたといえるのだろう。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




加賀テツヤに触発されてGSの黎明期について思い出したがそのころ京都関西ロック・ソウル界実力ナンバーワンを誇っていたタッシュ・グループについて触れておく。
  「・高畑晃   バンド・リーダー。エレキ・ギター。
  ・荒木卓郎  パーカッション。ギター。
  ・河合循   オルガン。
  ・古城たかし ヴォーカル。
  ・小川修   ドラムス。
  ・葵和行   ベース。」

かれらは上の写真中央(右から三人目)のオルガンの河合循の口髭が特徴的だったので英語の「髭(マスタッシュ)」のタッシュをとってタッシュ・グループと名乗っていた。レパートリーはオーティス・レディングのソウル音楽中心で「トライ・ア・リトル・テンダーネス」を「スリードッグナイト」のアレンジで演奏していた。まだそのころ高価で普及していなかったテープエコーをマイクにつなぎヴォーカルのスリムな古城たかしが足踏みして踊りながら歌うのだがリーダーのギター高畑晃の合図でいっせいに決め(キメ)で盛り上げる。何度か繰り返し終わったかと思うとバックが再び決め(キメ)を演奏し、古城がはじけるように踊り息も絶え絶えに歌い上げる。オーティスやジェームス・ブラウンのステージをよく研究していたようだ。その圧倒的なステージにはだれもがスゴイものを見たと魅了された。わたしは古城たかしのリズム感とヴォーカルフィーリングに一目おいていた。古城は普段地味な青年で話をしていても控えめな態度だった。舞台に出て歌いだすと変貌するのである。
そのタッシュグループが古城たかしとブルー・タッシュと改称し、歌謡コーラス・グループとしてデビューしたと聞いて驚いた。日本でロックやソウルを英語で歌ってもデビューすることは無理なので路線を変更したのだろう。その後わたしは米国でロックやソウルを英語で歌うことを選択して渡米した。米国で一緒に仕事した中島茂男は日本では高価だったテープエコーを持っていたのでわたしたちのヴォーカルは立派なエコーがついて他のエンターティナーよりすごく聴こえたのだった。
fumio



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






私的カウントダウン、アルバム「水面に書いた物語 」、「プロセス」「カリフォルニア・サンシャイン」「ひかりのくにへ」「現代の愛 」シリーズインストルメンタル曲集「夢神楽」などの今週のアクセス聴取ランキング
**********************
8月08日(金)~8月15日(金)
ヒット数 371件中  
順位前週前々週 
第1位(1)<1>祭りの夜
第2位(2)<4>夢の旅
第3位(3)<3>はるかなるメロデイ
第4位(19)<7>水面に書いた物語
第5位(4)<9>あやかしのまち
第6位(21)<15>ごめんなさい
第7位(-)<->マイ・スィート・ライフ
第8位(15)<2>素顔のマスカレード
第9位(9)<->ときめきFALL IN LOVE
第10位(-)<->小舟がひとつ
第11位(-)<->軽々しく愛を口にしないで
第12位(-)<->Wake you
第13位(8)<13>ラスト・ランデヴー
第14位(-)<->今すぐに
第15位(24)<->わかりあえる日まで
第16位(-)<->
第17位(25)<->オーロラの町から
第18位(7)<21>I'm looking for love
第19位(-)<->Good-bye Sue
第20位(17)<12>オクラホマシティナイト
第21位(5)<6>UFO ROCK
第22位(-)<->愛と光のテーマ
第23位(22)<17>そしてなにが残った
第24位(-)<->愛し疲れて
第25位(-)<->New morning

*****************************
今週も祭りの夜 が首位をつづけている 。
いつまでつづくのだろうか。ご愛聴感謝。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今日8月15日は終戦記念日。
二度と戦争を起こさないと決意を新たにする日。
政治家が世界情勢が変わったと戦争に向かおうとしてもわたしたち国民は戦争に反対しつづなければならない。
戦争の世紀は20世紀で終わり、21世紀は和解と協調の世紀。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





テレビ番組「みんなの広場」でデビューしたリンドアンドリンダースによって「ファニーズ」と名付けられたバンド「サリーとプレイボーイズ」は上京後、作曲家すぎやまこういちによって「タイガース」と改名され、狂熱のGSブームの幕を開けた。テレビ番組「みんなの広場」にナポレオンというバンドが出てジェファーソンエアプレインの「Sombody to love」を演奏した時はその演奏のうまさに驚いた。ナポレオンは「ナンバ一番」では「ファニーズ」の後を継いでリンドアンドリンダースの弟バンドの役割を務めた。わたしは京都の河原町でパチンコをしていると朝、テレビでギブソンのギターを弾いていたナポレオンのギタリストが隣の席に座っているのに不思議な気がしたものだった。「ナンバ一番」で人気を博したオックスのキーボード赤松愛がローリングストーンズの「テルミー」の曲中で気絶する演出で失神バンドと話題になったりしてGSブームは社会現象となった。「ナンバ一番」の天井が低すぎて和田アキ子の頭がつかえたという噂もあった。
そして世界的には有名バンドのミュージシャンがスーパーグループを結成してニューロックと呼ばれる音楽がブームになった。やがて日本のグループサウンズ時代も終焉を迎えて1970年11月、ザ・タイガースが解散。71年にスーパーグループPYG(ピッグ)「沢田研二(さわだ けんじ、1948年6月25日-):ボーカル
萩原健一(はぎわら けんいち、1950年7月26日-):ボーカル
大野克夫(おおの かつお、1939年9月12日-):オルガン
井上堯之(いのうえ たかゆき、1941年3月5日-):ギター
岸部修三(きしべ おさみ、1947年1月9日-):ベース
大口広司(おおぐち ひろし、1950年11月28日 - 2009年1月25日):ドラムス」が結成された。
のちに大口広司に代わってミッキー・カーチスのバンド「サムライ」やガロの「学生街の喫茶店」でドラムを叩いていた原田裕臣(はらだ ゆうじん)がドラムスを担当した。

わたしが初めてロサンジェルスで宮下富実夫の家を訪れた時、原田裕臣が居候していた。そしてある日日本に帰ると言い、中島茂男に自分の楽器を入れる頑丈なジュラルミン製のケースを記念に贈った。その後、中島はそのケースにギターに使用するエフェクターやコードなどを詰めて重宝していたものだった。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ