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monologue
夜明けに向けて
 



わたしのホームページ 「ようこそMONOLOGUEへ」のインストルメンタル曲以外の全ての曲の2010年、前半6ヶ月間カウントダウン。
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(2010年1月1日~6月30日)
ヒット数2万6,128件中

順位   曲名  アクセス数

1位ごめんなさい   1015
2位水面に書いた物語 997
3位あやかしのまち 912
4位はるかなるメロディ 761
5位軽々しく愛を口にしないで 710
6位女優(スター) 586
7位ラスト・ランデヴー 577
8位ときめきFALL IN LOVE 568
9位マイ・スィート・ライフ 523
10位オーロラの町から 435
11位それってⅨじゃない 388
12位素顔のマスカレード 328
13位Stay with me 316
14位Sentimentallady”M” 301
15位恋すれば魔女 268
16位わかりあえる日まで 248
17位まことのひかり 217
18位NEVERGIVE UP! 207
19位しあわせになれる 194
20位プロセス189
21位もっと自由に 58
22位We all need love 49
23位リアル・リアル・ラヴ 46
24位ハロー!エンドレスドリーム 37


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 2010年も早いものでもう半年経過したのでその間のカウントダウンを掲載。昨年一年を通してののベストスリーは1位「水面に書いた物語」 2位「ごめんなさい」 3位「あやかしのまち」ということだったが今年の前半はごめんなさい が人気を集めて首位にあがっているようだ。 ご愛聴感謝。
fumio

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ナショナル洗濯機「愛妻」号が今朝の洗濯でこの家にわれわれが入って以来約20年間の役目を終えた。アメリカでは使いにくい全自動式洗濯機を使用していたので二槽式洗濯機の使い勝手の良さはありがたかった。最後の頃は悲鳴のような音を立てたり水が少しこぼれたりしたが今日までよく働いてくれた。松下が家電のブランド名までパナソニックに統一するのは松下で一時期働いた者としては少し寂しい。 二槽式洗濯機を製造するメーカーはどんどん減ってしまって環境に悪影響を与えない昔ながらの粉石鹸を使用する人々は大変だ。メーカーは違えど買い換えた自動二槽式洗濯機でこれからも海や自然をあまり汚さないように洗濯しよう、と思う…。
fumio


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ロック誕生以来の直線的なロックが多方面に成長してアートロックやブラスロックが台頭してきた時代にBlood, Sweat and Tears というグループが出てきた。わたしはかれらの Spinning Wheel という歌の歌詞にしびれた。「上がったものは下がる。回転する車輪はまわり続ける」というのはこの世のしくみを簡潔に表現していて素晴らしいと思った。

  新時代を開くようなレナウンの軽快なコマーシャルソングで出てきた「しばたはつみ」という歌手がアメリカに武者修行に行って帰国後テレビの番組でそのブラッド・スェット・アンド・ティアーズの名曲You've Made Me So Very Happy を歌ってみせた時、この歌は相当むづかしいと思っていたのでそのうまさにビックリした。

 かの女は1968年には新宿音楽祭金賞を受賞、1996年には日本ジャズヴォーカル賞大賞を受賞するなど実力通りの活躍をみせた。ところが今年2010年3月27日、57歳で急性心筋梗塞で死去という報に接した。数少ない日本の実力派女性ジャズポップシンガーが急ぎ足で去ってしまったのだ。もう歌の世界でやるべきことは終えたのだろうか。なにかあっけない気がして残念だった。合掌。
fumio

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私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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6月18日(金)~6月25日(金)
ヒット数: 903件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 
 
第1位(1)<2>水面に書いた物語
第2位(3)<5>はるかなるメロディ
第3位(8)<4>軽々しく愛を口にしないで
第4位(2)<1>ごめんなさい
第5位(9)<11>女優(スター)
第6位(5)<6>ときめきFALL IN LOVE
第7位(4)<7>ラスト・ランデヴー
第8位(10)<10>オーロラの町から
第9位(6)<3>あやかしのまち
第10位(11)<9>それってⅨじゃない
第11位(13)<8>Stay with me
第12位(7)<14>マイ・スィート・ライフ
第13位(18)<16>しあわせになれる
第14位(12)<12>Sentimentallady”M”
第15位(14)<13>素顔のマスカレード
第16位(15)<15>恋すれば魔女
第17位(19)<18>まことのひかり
第18位(21)<19>プロセス
第19位(16)<17>わかりあえる日まで
第20位(17)<20>NEVER GIVE UP!
第21位(-)<->もっと自由に
第22位(20)<->ハロー!エンドレスドリーム
第23位(-)<->We all need Love

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  今週も水面に書いた物語 がトップを続けている。最後方のもっと自由にが注目株。ご愛聴感謝。
fumio

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2006年度から、ロサンジェルスを拠点にして米国ツアーを主戦場にしている女子プロゴルフの宮里藍選手が大活躍をして話題になっている。お客さまとして参戦するのではなく拠点をアメリカにしたことが実を結びつつあるようだ。石川遼選手も米国を拠点にしてしまえば米国でも勝ち始めるのだろう。

 戦後の女子スポーツ界に多大な足跡を残した人物のひとりに岡本綾子選手があげられる。かの女は1981年、日本の女子選手では初めて本格的にアメリカLPGAツアーに参戦した。当時、日本女子プロゴルフ協会と揉めて大きな問題となったが、野茂英雄、イチロー、松井秀喜などその後の日本人スポーツ選手のアメリカにおける成功の礎を築いたのである。

   わたしがロサンジェルスでミュージシャンの仕事をしていたある日、馴染みのお客さんがクラブにやってきてスピーチの練習をさせてくれと頼む。明日、岡本綾子という日本の女子プロゴルフ選手がアメリカLPGAツアーに本格的に参戦しにくるのでその歓迎式でスピーチをするというのだ。アメリカ人の前なので日本語ではなく英語でないといけないので緊張しているようだった。かれは前もって書いてきた原稿を持ってマイクを使用して流暢に読み上げた。その深夜の練習が功を奏して翌日のスピーチはうまくいったのだろう。岡本綾子選手はそれから米国でリトルママという愛称で大活躍して17の大会で優勝した。そして2005年には世界ゴルフ殿堂入りしたのである。何事も初めは大変だが海外でよく女性が活躍できたと感心する。そんな先駆者がいてこそ現在があるのだ。
fumio

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1968年から1970年、沖縄の米軍基地からベトナムへ爆撃機が飛び立ち北爆を展開している頃、全共闘大学紛争が吹き荒れ岡林信康や高石友也が
友よ を歌い若者たちを鼓舞していた。しかしその歌声はどこか遠くで響いているようでわたしの内部ではあまり共鳴しなかった。

 ある日、工場の深夜勤務で夜中にブラウン管を作っているとラジオ番組で
チューリップのアップリケ という歌が 流れてきた。昼間は工場にそんなラジオ番組が流れることはなかったので珍しい気持で聴いているとその京都弁の歌詞に思わず引き込まれた。数日後、耳から離れないその歌の楽譜を探して友達の前で弾き語りしてみせた。するとかれは涙をこぼして聴いていた。日頃強がっているのに意外だった。その時、この歌を作った岡林信康の感性はすごいと思った。


  そして、幾年かが過ぎ去りわたしは工場勤めなどで貯めた金で渡米してロサンジェルスで暮らしていた。そこの日本語放送で「服部半蔵・影の軍団」という番組が始まって息子が忍者の格好を真似した。その主題歌 「Gの祈り」を歌っていたのが岡林信康だった。わたしはすぐにその曲をコピーしてクラブの仕事で歌ったものである。岡林はフォークの枠にははまらないなにかをもったアーティストだった。かれは近い将来、
友よ の時に響かなかった人々まで動かしそうな気がする。
fumio

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私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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6月11日(金)~6月18日(金)
ヒット数: 1,018件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 
 
第1位(2)<3>水面に書いた物語
第2位(1)<2>ごめんなさい
第3位(5)<5>はるかなるメロディ
第4位(7)<8>ラスト・ランデヴー
第5位(6)<10>ときめきFALL IN LOVE
第6位(3)<1>あやかしのまち
第7位(14)<9>マイ・スィート・ライフ
第8位(4)<4>軽々しく愛を口にしないで
第9位(11)<6>女優(スター)
第10位(10)<13>オーロラの町から
第11位(9)<7>それってⅨじゃない
第12位(12)<14>Sentimentallady”M”
第13位(8)<7>Stay with me
第14位(13)<12>素顔のマスカレード
第15位(15)<11>恋すれば魔女
第16位(17)<15>わかりあえる日まで
第17位(20)<20>NEVER GIVE UP!
第18位(16)<16>しあわせになれる
第19位(18)<18>まことのひかり
第20位(-)<->ハロー!エンドレスドリーム
第21位(19)<19>プロセス

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  今週はひさしぶりに水面に書いた物語 がトップになった。最後方の第20位に珍しくハロー!エンドレスドリームが食い込んできた。ご愛聴感謝。
fumio

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 1970年代のある日曜日の朝、UHF放送で神戸サンテレビの番組を見ているとRCサクセションと井上陽水が出演していた。観客の前でライヴで演奏してみせる番組だった。RCサクセションは人気があってぼくの好きな先生」 を元気良く歌った。井上陽水のほうはまだあまり知られていなかった。もしゃもしゃの頭でひとりでギターを抱えて 夏まつり をしっとりと弾き語りした。歌は上手かったけれど見かけが悪かった。アンドレカンドレという変わった名前で以前にデビューしていたそうだが世間にその名前をあまり知られることはなかった。1971年秋、ファースト・アルバム『断絶』制作開始に合わせて名前を本名、井上陽水にしていたのである。1972年「ヤマハ・ポピュラー・コンテスト」に」「紙飛行機」で入賞してわたしたち音楽ファンの間でやっと知られる存在になってきた。ファースト・アルバム「断絶」からシングルリリースされた 「傘がない」 がわたしたちに衝撃を与えた。この歌の歌詞は見事に時代を射ていた。それからかれの名前は一部のファンの間だけではなく一般の音楽ファンに拡がっていったのである。


   そして1973年のアルバム『氷の世界』は、日本市場で初のミリオンセラーを記録する 。その中にRCサクセションの忌野清志郎 と共同で作った名曲 帰れない二人 が含まれていた。あの神戸サンテレビの番組などで培った二人の交友関係がこの曲に結晶しているようだった。まさかあのむさくるしい同世代の若者がのちに日本の音楽界の中軸になるとはあの頃は思わなかったが実力通りのことなので喜ばしい。忌野清志郎は一足先に逝ってしまったのでもう一緒には帰れない二人になってしまったのかもしれない。
fumio

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いちご白書 という学園闘争を題材にした映画があった。
バフィ・セントマリーの歌う主題歌サークル・ゲーム』 がヒットして時代の雰囲気を表していた。日本では1960年の安保闘争、そして1968年から1970年に全共闘大学紛争が吹き荒れた。そのころ国鉄に中核派と書いたヘルメットをかぶった学生たちがゲバ棒を抱えて乗っているのを見ると同世代の若者としてはなにやら血が騒いだものだった。

1975年にフォーク・グループのバンバンがシングル「いちご白書」をもう一度 歌って大ヒットした時、作詞作曲が荒井由美と聞いて驚いた。荒井由美といえば「ひこうき雲」というアルバムで出てきてわたしたちの間では歌は上手くないけれどその感性の天才ぶりが評判だった。かの女が学園闘争の頃を題材にして作る歌の深さにビックリした。それまでの日本の音楽家と一線を画する新世代の作り手だと思った。
 
  あの時代に安保闘争、大学紛争を経験した世代は、独立国であるはずの日本が戦争に敗れたとはいえ戦後60年を経過してもまだ戦勝国のひとつに国内に戦略基地を提供し続けて右往左往している現状をどう思っているのだろうか。「もう若くないさ」とのいいわけは虚しく響くだけ。
fumio


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1969年11月、「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に関西・四国地区代表の「赤い鳥」というフォークグループが竹田の子守唄 を歌って「オフコース」や「チューリップ」を破って優勝した時は本当に驚いた。「赤い鳥」というフォークグループの前評判も知らなかったしその歌は京都の民謡のはずなのに聴いたことがなかったのだ。なんだか「五木の子守歌」に似ているなと思った。どうしてこんな名曲を聴いたことがないのか不思議だった。それから被差別の歌ということで放送が自粛されたりすることになる。伏見の竹田地方にはのちに道路工事の仕事で行ったことがある。あの歌はこのあたりの歌なのかと思った。「赤い鳥」は「ハイファイセット」や「紙風船」に分裂していったがかれらが遺した最大のものはこの竹田の子守唄 のように思う。
fumio

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私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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6月4日(金)~6月11日(金)
ヒット数:949件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 
 
第1位(2)<3>ごめんなさい
第2位(3)<4>水面に書いた物語
第3位(1)<1>あやかしのまち
第4位(4)<6>軽々しく愛を口にしないで
第5位(5)<2>はるかなるメロディ
第6位(10)<8>ときめきFALL IN LOVE
第7位(8)<9>ラスト・ランデヴー
第8位(7)<11>Stay with me
第9位(7)<12>それってⅨじゃない
第10位(13)<10>オーロラの町から
第11位(6)<5>女優(スター)
第12位(14)<13>Sentimentallady”M”
第13位(12)<14>素顔のマスカレード
第14位(9)<7>マイ・スィート・ライフ
第15位(11)<17>恋すれば魔女
第16位(16)<18>しあわせになれる
第17位(15)<16>わかりあえる日まで
第18位(18)<15>まことのひかり
第19位(19)<19>プロセス
第20位(20)<20>NEVER GIVE UP!
第21位(21)<22>カリフォルニア・サンシャイン
第22位(22)<21>リアル・リアル・ラヴ

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  今週はごめんなさい がひさしぶりに首位に立った 。最後尾には今週もカリフォルニア・サンシャインリアル・リアル・ラヴがついている。ご愛聴感謝。
fumio

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はしだのりひことシューベルツのベースの井上博が1970年3月31日に腎臓病で亡くなってシューベルツが4月に解散したあとジローズの杉田二郎が北山修の詞に曲をつけて大阪万博でのコンサートで戦争を知らない子供たち 歌った。MBS毎日放送「ヤングおー!おー!」に出演して再結成したジローズがその歌を歌うとそれははわたしたちの世代のアイデンティテイを示す歌になった。戦前戦中派、闇市派、戦後派、とさまざまに世代を呼んできたがわたしたちにしっくりきたのはこの「戦争を知らない子供たち」だった。今後「戦争を知っている子供たち」を作らないためにわたしたちはなにをすればよいのだろうか。
fumio

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  京都は古くて新しい街である。そこには常に古い事物と新進の機運が共存している。
グループサウンドが流行れば岡崎からタイガースが出てくる。フォークが流行れば1968年日本ではフォークスタイルのオリジナル曲があまりなかった時代に、杉田二郎、塩見大治郎、細野徹次郎の三人のジローズが
「あなただけに」 を東芝EMIより発売してヒットした。そして1969年9月立命館大学のフォークバンド、ウッディーウーも佐竹俊郎作詞作曲の 「今はもう誰も 」 をリリースして関西フォークシーンで知られる存在になった。京都のアマチュアフォークバンドはこぞってこの先発バンドの曲をコピーしていた。特に「今はもう誰も」はコード進行がCから普通のEmではなくEのメジャーに進むので斬新だった。そのうちアリスというギターをリズムカットばかりに使用するバンドの音楽性がわたしたちの間で話題になってきた。良い曲が多いのにあまり世間一般には流行らなかった。そして1975年の9月にシングル「今はもうだれも」 が街に流れて驚いた。聴き慣れたウッディーウー盤ではなかった。この曲がアリスをやっと実力通りのあるべき位置へと導いたのだ。この曲の作者ウッディーウーの佐竹俊郎は2003年5月28日に逝去している。そこでも「今はもうだれも」と歌い続けているだろうか。合掌。
fumio

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  歌謡界の女王、美空ひばりが好きな歌を訊かれて「風」 と答えたことがあった。なにか意外で似合わない気がしたが自身が歌う歌は演歌や大衆歌謡であっても好きなのはこういう歌だったのだ。シューベルツの「風」はボブ・ディランの「風に吹かれて」に想を得て人生を歌った作品のようだった。美空は歌謡人生の終盤に「川の流れのように」で本当に歌いたい歌に巡りあったような気がする。

 1968年後半に日本のフォークグループの草分け「ザ・フォーク・クルセダーズ」が解散して同志社大学出身の端田宣彦(はしだのりひこ)がシューベルツを結成する時、同志社大学の後輩たちのフォークバンド「ザ・ヴァニティー」から越智友嗣(おちゆうじ)と井上博(いのうえひろし)をメンバーに加えた。石塚成孝(いしづかしげたか)だけは学業を優先した。

 1969年1月、はしだのりひことシューベルツのリリースした「風」は大ヒットして日本のフォークソングの定番になった。「ザ・ヴァニティー」ではあまりリードを歌う機会がなかった井上博がテンガロンハットをかぶってウッドベースを弾きながら二番を歌いルックスの良さもあって人気者になった。

   メンバーの抜けた「ザ・ヴァニティー」の方は石塚成孝(同志社大) 岡田恒夫(京都産大) 松田伸昭(大阪工大)という他校のメンバーとの「ザ・ヴァニティー」を再結成して1969年9月に「最後のお話」というシングルをキングレコードからリリースしている。

  ところがはしだのりひことシューベルツのベースの井上博が1970年3月31日に病死してシューベルツは4月に解散した。あっという間のことだった。そしてそれから30数年を経て 2003年にザ・ヴァニティーのリーダーであった石塚成孝が逝去したという。

「ヴァニティ」とは虚栄心, うぬぼれ 、 空虚, むなしさ, はかなさ, つまらなさ、むなしい物事, はかない行為、空(くう)などの意。過ぎてしまえばすべては空(くう)で、そこにはただ風が吹いているだけ、だったのだろうか…。合掌。
fumio

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1960年代後半のある日曜日、京都市内に遊びに行っている弟から電話があった。「今からギターを持って十字屋の二階に来い」という。京都の三条通にある十字屋楽器店が主催する音楽サークルの演奏会があるらしいのだ。出演バンドのひとつに同志社大学在学中の学生たちの「ザ・ヴァニティー」というフォークバンドがあった。メンバーはギターとヴォーカル石塚成孝(いしづかしげたか),ギターとヴォーカル越智友嗣(おちゆうじ)、ウッドベースとヴォーカル井上博(いのうえひろし)の三人。得意曲サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」で聴かせた石塚のリードヴォーカルと切れの良いギターストローク、越智の柔らかいハーモニーの組み合わせは抜群だった。そしてキーボードが口髭(マスタッシュ)を蓄えているのでタッシュグループと名付けた関西ナンバーワンのソウルロックバンドと謳われたバンド「タッシュグループ」がオーティス・レディングの「トライ・ア・リトル・テンダーネス」を白熱演奏した。すごかった。細身のヴォーカルがジェームス・ブラウンのような振りで踊り歌いバンドが一体になって盛り上げる。ヴォーカルにわたしたちの知らない最新テープ式エコーマシンをかませて深みのある圧倒的サウンドを演出していた。かれらはのちに古城たかしとブルー・タッシュと名乗り京都レコードから「東京の夜に泣いている」をリリースしてレコードデビューしている。かれらをただの歌謡コーラスグループと思っている人は本来の演奏を聴けばぶっ飛ぶだろう。わたしはその演奏会に飛び入りのように参加して弟のギターの伴奏で「アンチェインドメロデイ」を歌った。作曲家山室紘一氏がサークルの顧問をしていて「ギター一本ではなくオーケストラのバックで聴きたい」とのコメントをくれたのを記憶している。その後わたしは渡米したのでそれは実現しなかったのだが…。
fumio

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