monologue
夜明けに向けて
 

ログ  


ロバートプラントのビッグログは映画のシーンのような映像で世界のファンを魅了。わたしも妻にリクエストされてなんとかカラオケなら歌えそうになってきたけれどギターの弾き語りはまだできない。
fumio

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妻がロバートプラントのビッグログのビデオにはまってわたしに歌ってくれ、というので歌詞を覚えているがむづかしい。
fumio

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瓢箪  


「Hopi prophecy states that World War III will be started by the people who first received the Light -- China, Palestine, India and Africa. When the war comes, the United States will be destroyed by "gourds of ashes" which will fall to the ground, boiling the rivers and burning the earth, where no grass will grow for many years, and causing a disease that no medicine can cure. This can only mean nuclear or atomic bombs; no other weapon causes such effects. Bomb shelters will be useless,」
「第三次世界大戦は初めに光を受けた人々「中国、パレスチナ、インド、アフリカ」によって始まる。戦争が起きれば、合衆国は大地に落ちる「灰の瓢箪」によって壊滅する。河は沸騰し地球は焼け、草は何年も生えない。そして薬では治癒しえない病を引き起こす。これは核あるいは原子爆弾を意味する。他の兵器はこのような影響を及ぼさない。防空壕は役に立たない」とホピ族は警鐘を鳴らしている。核爆弾は形状によってニックネームがつけられ広島の原爆リトルボーイ、長崎の爆縮原爆ファットマン、「灰の瓢箪」"gourds of ashes" という次世代瓢箪型核爆弾によって壊滅するというので人類はなんとしても第三次世界大戦を回避せねば…。
fumio


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依頼  


わたしはその頃、ロサンジェルスのクラブで中島茂男というギタリストとコンビを組んでエンターテイナーとして生活していた。
そしてある時、中島がそろそろアルバム「プロセス」を作ろうというのでプロデユースをヨーロッパツアーからロサンジェルスにまわってきたファーイーストファミリーバンドの宮下フミオにプロデュースを依頼したのだった。プロデュース料は1000ドルでその頃まだ一般的ではなく先端的楽器とみられていたシンセサイザーで一曲製作を依頼したのだった。
fumio



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わたしがエンターティナーとして初めて採用されたのはリトルトーキョーの「栄菊」という店だった。しばらく仕事しているとロサンジェルスの多くのクラブのオーナーたちが次々に見に来てどこかの店でママをやっているという女性がやってきて自分の店でエンターティナーをやってほしいという。「栄菊」のオーナーは「栄菊」では女性ピアニストを探すからかまわない、というので引き抜かれた。次の日に行くとその店は「あしび」といって沖縄語で「遊び」という意味だった。ステージにオルガンが置いてあってそれまで蛇皮線などのバンドが沖縄民謡を演奏していたらしかった。店の経営が思わしくなくなってエンターテイナーを入れ替えてみようということになったらしい。客層は沖縄県人会のたまり場のようだった。「栄菊」では日本の曲も演奏したが「あしび」ではほとんど洋楽で店の女の子がビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」をよくリクエストしてくれた。3連符のギターを忙しく弾きながらなんとかこなした。ビートルズの曲目では「オール・マイ・ラヴィング」は人気がある。歌詞が胸に響くようだ。ジョン・レノンの歌う「アクロス・ザ・ユニヴァース」もよく米国人にリクエストされ演奏した。わけのわからない呪文のような歌詞の部分が好きな人が多いようだった。ところがその店も一冬越して次の年にはつぶれてしまった。残念ながらエンターテイナーの入れ替え程度ではもたなかったようだ。そういうわけでわたしはすぐに別の店の仕事を探す羽目になってしまったのである。
fumio

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映像  




その週のゴングショーは米国公共学校中で話題になってその日の放送時間にみんなテレビの前に集まった。
ターキーと呼ばれた日本人留学生天野猛仁がテレビを写真に撮ってくれたのだった。おかげでこのようにその映像が残っているのである。写真の一番上に書かれている文字は、1978 mayゴングショーにて、
サンキュー、ターキー!
fumio

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クラスメイトのオルガはわたしもゴングショーに出たいといってリタ・クーリッジがカヴァーしてヒットしたボズ・スキャッグスの 名曲We are all aloneを選んで一生懸命稽古した。わたしはギターの伴奏でつきあった。それでオーディションにも付き合ってギターの伴奏してほしいという。しかし、本番ではオーケストラがついてもオーディションは厳しくて他者のサポートは許されない。みんな伴奏なしで素で歌って実力を評価されていた。
その日、わたしはサンセット通りのNBCのオーディション会場にオルガを連れて行ったが残念ながらオルガは落ちてしまった。南米系の出場者は多いのでなにか特別なことがないと歌がうまいだけではむづかしいようだった。わたしの場合は日本人が英語の歌をテレビのコンテスト番組でソウルミュージックを歌うのは珍しいので面白いからオーデションに受かって出場できたらしい。
fumio

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ozaki  


わたしがこれまで一番歌がうまいと思った日本人歌手は尾崎紀世彦だった。
それでわたしは尾崎のアルバムの1曲「ジョージア・オン・マイ・マインド」を練習してNBCテレビの「ゴングショー」に出演したのだった。視聴者は日本人がどうしてジョージアの歌を歌うのか変に思っただろう。「フミオ・フロム・トーキョー」と紹介されて、京都出身なので「キョートなのに」と思った。日本といえばトーキョーと言うのが決まり文句のようだった。
歌っている途中、司会も兼ねていた名プロデューサー、Chuck Barris(チャック・バリス)が女性と踊ってみせて、最後までゴングは鳴らされなかった。点数は審査員全員8点の札を上げてコメントは「ナイスバラード」だった。ジャパニーズイングリッシュと揶揄される日本的発音の言葉の訛りで途中で打ち切られなくてホッとした。
fumio


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わたしはダウンタウンのPawn shop(ポーンショップ)で中古アコースティックギターを買って学校に下げて行った。先生たちは別に怒ることがなかった。
それで休み時間にアルゼンチン娘、オルガが「タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング」「ユー・ライト・アップ・マイ・ライフ」「ウイ・アー・オール・アローン」などの伴奏してくれと頼むのでバックを弾くと思いのほか、声も良くてうまかった。

そして、わたしは自分の英語歌唱力の実力を正しく知るために米国NBCテレビの超人気バラエテイ番組「ゴングショー」にオーディションを受けた。
その頃、米国NBCテレビの超人気バラエテイ番組「ゴングショー」は新人芸能人の登竜門として人気で運のいい出場者はレコードデビューしてビルボードHot100に入ってゴングショー出身歌手として人気になった。歌、ダンス、ジョーク漫談など審査員の前で様々な芸を披露して競う。パフォーマンスが良くないか、あるいは面白くないと途中で判断されるとその時点で合図されてゴングを鳴らされて打ち切られる。その時の出場者の愕然とする反応がなんとも面白くて人気があったのだ。最後までゴングが鳴らされないとジューシー・モーガンなど4人の辛口、軽口の人気審査員たちがおもむろに点数札を上げてその点数の合計でその週の優勝者が決まる。賞金は500ドルでわたしの通ったLA HIGH(ロサンジェルス高校)外国人英語教育プログラムの同級生たちはみんなゴングショーのファンで、フミオも出演しろ、と勧める。この番組に日本人が出演するのは見たことなかったけれど貧乏留学生のわたしにとって500ドルは大金でもし賞金がとれればこの国で何か月か暮らせると思って応募することにした。わたしが応募した日のサンセット通りのNBCのオーディション会場にはスターを夢見る夥しい応募者がやってきて控え室はごった返して殺気だった雰囲気の出場者が真剣に踊りやパフォーマンスの稽古していた。そのオーデイションの空気は神経質でピリピリしていた。集まったシンガー達はスターを目指すだけあってさすがにみんな感心するほど歌がうまかった。順番にパフォーマンスしてゆき、わたしはギターを抱えて師と仰ぐレイ・チャールズのジョージア・オン・マイ・マインドを歌った。第1次選考に通って数日後、第2次選考に喚ばれて行くと今度は人が少なく、歌ってみせるとキーボード奏者が音合わせしてどういうふうにギターを弾くかとかオーケストラのキーの打ち合わせなどをしてOKが出て誓約書を渡された。本番の時、オーディションと同じ服装で出ることなど、こまごまとあってバラエテイなのであまり羽目を外し過ぎてショーをぶちこわさないように誓約させるらしかった。 放送には7秒ルールというのがあってライヴ放送でも7秒間遅らせて放送するのだと学校の先生が言っていた。それで突然の放送禁止用語にも対処できるし電波ジャックにもその7秒で対処するということだった。放送業界は表面上楽しそうでいて、いつも神経をとがらせているのだなあと感心したものだった。
fumio

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のちにプログレッシヴロックグループSFでわたしの相棒となる中島茂男は淡谷のり子が審査委員長を務めたロサンジェルスでの「海外のど自慢大会」でフォークの歌を歌って優勝したこともあったがそれでもロサンジェルスの音楽関係ではなかなかいい仕事がなく、外に立っていると車上で銃を構えた男たちが射ってきて頭の上のガラスに弾丸の穴があくようなリッカーストア(酒屋)の店員をしたりしていた。あまりいい環境とはいえない地区だったのである。それで大型クラブ「エンカウンター」のエンターテイナー募集のオーデションを受けたのだった。
昔、60年代後半から70年代初頭にかけてヤング720(ヤングセブンツウーオウ)という若者向け番組があった。今記憶している司会者は「関口宏、松山英太郎、竹脇無我、由美かおる、小川知子、大原麗子、吉沢京子、岡崎友紀 、黒澤久雄、目黒祐樹」 といった当時売り出しの若者たちだった。ヤング朝食会というトークコーナーには横尾忠則など当時を代表する新進気鋭の芸術家たちがでていた。グループサウンズブームのはしりのころで多くの若手バンドが出演していた。今も憶えているのはゴールデンカップス と改名する前の横浜のバンド「グループ アンド アイ」の演奏で日本のバンドと思えないリズム・アンド・ブルース・フィーリングをもっていて素晴らしかった。当時、若者であったわたしたちはこの番組によって時代の息吹を感じたものだ。
SFの相棒、中島茂男は日本時代、この番組に出演したりするミュージシャンだった。渡米後、ミュージシャン仲間だった泉谷しげるや井上陽水、山本コータロー、モップスの星勝 らが訪ねてゆくようになる。
鈴木ヒロミツが役者に転進して出身バンド「モップス」をおろそかにするようになってギターの星勝は「月光仮面の歌」を自分で歌ったりしたがアレンジを本格的に勉強して井上陽水のアレンジを担当することになって自分のアコースティックギターを中島茂男に貸しておいてロサンジェルスで仕事をする時、そのギターを使ってアレンジするようになったのである。それでわたしはホテルに中島とそのギターを運んだものだった。
fumio

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一瞬  


隣の席のアルゼンチン娘、オルガはある時、「男のものは日本語でどう言うの」と訊く。わたしはそんなことを訊かれると思っていなかったので虚を衝かれて外国人にどう教えたらいいのか、あなたもきっと迷うように少し迷ってノートにchin chinと書いた。すると、そうチンチン、わたしの国では女のほうはこういうのとラテン語らしいスペルをノートに書く。わたしは確かめるためにその言葉を発音してみた。すると突然態度が変わり「声にだして読まないで」と眉をしかめて怒りだした。自分が先に訊いておいて勝手に怒るな、と思ったがまわりのラテン系の人には意味がわかるから戒めたのだろう。おかげで一瞬見たその言葉は覚えることができなかった。残念なようなそうでもないような気がした。
fumio

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LAハイスクールのわたしたちのクラスに入って来た、かわいいアルゼンチン娘オルガ(OLGA GOMEZ)は英会話力も文章力もあるので先生たちが重宝して米国公共学校の英語コラムを書けと頼んだ。それまでは、どこから来た学生もコラムを頼まれると出身国の紹介をしていたのでオルガも喜んで受けてアルゼンチンのお国自慢のコラムを書いた。それでわたしはそれまでなにも知らなかったアルゼンチンという南米の共和国の基本的な知識を得たのだった。そのコラムの評判がとてもよかったので先生たちは、次はfumioが書けとわたしに書くように迫って来たのである。
わたしはこれまでの学生たちのコラムのように出身国の紹介をするほどの英語力がまだないのでまったく違う内容の「歌を作ろう。信じようと信じまいとだれでも作れる。あなたにもできる、とにかくやってみよう。」という英語コラムを書いてみた。
すると、予期せぬ題材で衝撃的だったようで次から次へと先生たちがやってきて「fumio、どうしたらいいの。わからない」と訴えてきたのだった。
それで「でたらめでもわけがわからなくてもなんでもかんでもまず歌ってみて」と励ましたのだった。あのコラムを読んだだれかがその方法で名曲を生んだかも…。今このブログを読んだあなたが名曲を作るかも。
fumio


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月の  


 月の娘は、皿を割った
 木星王は嘆いた
 赤い目をした大地の子供は笑った

「SOUNDとこの部屋の仲間へ」より

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以前は気づかなかったがこの預言の「月の娘」という表現は この前アップした「赤い月の形としての物語」と共通している。同じ出来事を指している。
福島県の原子力発電プラントを皿と表現していたのである。災害の発生する前に警鐘をきちんと受け止めておくべきだったと今にして思う。
fumio


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生涯の友大島純男氏が、フェイスブックで高校時代から洋楽ファンだった渡邉勝美氏がわたしがこの頃どうしてるか心配しているので何らかの形で近況を知らせてくださればありがたいのですがと示唆してくれたので昨日電話した。勝美氏は元気そうで現在は家庭菜園で大根や白菜などを作っているという。
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中学時代それまで洋楽を聴かなかったわたしも高校に入って夕食後家族の団欒を抜けてクラスの友達たちが聴いているというラジオのカウントダウン番組「9500万人のポピュラーリクエスト」を聴き始めた。次の日クラスメイトとその ランキングに入った曲の話で盛り上がった。その頃黒人コーラスグループ、ヴェルヴェッツの「愛しのラナ」という曲がクラスメイトの間で評判だった。クラスメイトはまだだれもレコードプレーヤーをもっていなくてレコードを買うという発想はなかった。毎週その番組を聴いて「愛しのラナ」が何位になったか、「エル・エー・エヌ・エー」といっているところがいいとか、自分はどこの部分が好きかと話すのだった。今から思えばのんびりした時代だった。わたしは父が買ってきたオープンリールテープレコーダーにその番組を録って「愛しのラナ」を覚えた。その頃は知らなかったがその「愛しのラナ」の作者がロイ・オービソンだったのである。わたしがやっと洋楽に目覚め始めた1963年に、ロイはヘレン・シャピロや新人バンド、ビートルズとのジョイント・ツアーをしていた。そのツアーバスの中で「オー・プリテイ・ウーマン」を作って隣の席のジョージ・ハリソンに曲はこうして作ると教えていたのだった。かれはその後の自作自演ブームの魁(さきがけ)だった。
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渡辺氏は以上の記事の高校のクラスメイトのひとりだったのである。
fumio


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I have rebirth.

fumio

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