「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (1)

2015年02月14日 22時16分33秒 | 「境界に生きた心子」
 
 もうひとつ、 立命館大学講師などを勤める 野崎泰伸さんの、
 
 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 という論文にも、
 
 「境界に生きた心子」 が引用されました。
 
(『現代生命哲学研究』 第3号 ( 2014年3月): 15- 30)

http://www.philosophyoflife.org/jp/seimei201402.pdf
p.20~25
 
 長くなりますが、 「境界に生きた心子」 について論じられた部分を 紹介します。
 
 拙著の引用部分を 《 》 で示します。
 
 [ ] は野崎さんの注釈です。
 
 
【第2章 BPDの実例 ―― 手記をもとに
 
ここでは、 実際のBPD患者の生活を、 ある手記をもとに描いてみよう。
 
ここで題材にする手記は、 稲本雅之の 『境界に生きた心子』 である。
 
これは、 BPD患者である村瀬心子と、 その恋人である稲本との交流を、
 
稲本自身が綴ったものである [13]。
 
なぜ この手記をもとに分析するのか。
 
それは、 稲本が描く心子が、
 
BPDによくありがちな行動を とるように思えたからである。
 
稲本は次のように記している。
 
《 心子が求めるのは、 痛みを百パーセント理解され、
 
全てを抱擁される 理想的な愛情である。
 
わずかでもそれに飽き足らないと、 その悲しみが 怒りと化して荒れ狂い、
 
自他を傷つける。
 
心子自身、 その感情を抑えることが できなくなってしまうのだ。》 [14]
 
[14]稲本[2009:3] 。
 
《 まさしく 「理想化とこき下ろしの 両極端を揺れ動く」 というのは、
 
僕がただならず 振り回されているものだ。
 
俗にジェットコースターと言われる。
 
全か無か、 白か黒かの 「分裂(splitting)」 は、
 
ボーダーの人の特徴である 二分思考だ。
 
人間は 善悪の両面を合わせ持った、
 
灰色で割り切れないものだ ということが認識できない。
 
百パーセント理想的な 文句なしの人間か、 自分を打ちこわす最悪の輩か、
 
一方でしかなくなってしまう。
 
それは 自分自身についても同様で、
 
素晴らしいところもだめなところも 両方あって自分なんだという、
 
統合された自己イメージをキープできない。
 
心子は 並外れた夢や気概と、 無力感や絶望との 両極を行き戻りする、
 
「不安定な自己像」 を擁している。》 [15]
 
[15]稲本[2009:46-47] 。
 
 
[13]本論に直接関係するわけではないが、
 
『境界に生きた心子』 の書籍の帯には、
 
「激しい感情の荒波に巻き込まれ、 壮絶ながらも、
 
ピュアでドラマチックなラブストーリー」 とある。
 
販売促進が 帯の目的のひとつであるとはいえ、
 
こうした文言が 販促として成立するような 社会のありように対し、
 
私は次の二点において 疑問を投げかけたい。
 
ひとつめは、
 
患者あるいは なんらかのハンデを背負った者が 恋愛物語に登場するとき、
 
それをあたかも 純粋なものとして描こうとする点である。
 
ふたつめは、
 
いわゆるロマンティック・ラブ・イデオロギーを 前提として描こうとする点である。
 
出版社が、 こうした点を 読者に対して あからさまに要求している点において、
 
この社会における恋愛の表象、
 
とりわけ なんらかのハンデを有する者との 恋愛の表象は不問にされている。
 
この点は 非常に大切な論点であるが、 本論の性質を鑑み、 これ以上は触れずにおく。
 
〔「境界性パーソナリティ障害の障害学」 野崎泰伸 生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 
コメント
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