(前の記事からの続き)
野崎さんの論文で、 「境界に生きた心子」 が 引用された部分は以上です。
「障害学」 という分野で 学術的に取り上げてもらい、 とても嬉しく思います。
BPD体験談のノンフィクションは 少ないとはいえ、
最近も2、 3の本が 出てきたようです。
それらの中で 拙著が選ばれたのは光栄です。
野崎さんの論文は、 続く第3章で、 BPDの人の生きづらさを、
BPD本人より むしろ社会のあり方に求める 独自の論を進めていきます。
興味深いことなので、 それも抜粋させていただきます。
【第3章 境界性パーソナリティ障害の障害学に向けて
私たちは 好む好まざるにかかわらず、
生きているかぎりは 社会と相対さざるを得ない。
先に見てきたように、 BPD患者は
「社会のなかで生きることそのもの」 に 〈生きづらさ〉 を感じているが、
その場合でも容赦なく、 生きているかぎりは 社会と相対さざるを得ない。
生きているかぎりは、
完全に個体だけが 問題として浮上してくることなど、 ほぼあり得ない。
BPD患者の 〈生きづらさ〉 は、
貴戸理恵の言う 「関係的な生きづらさ」 に 近いものではなかろうか。
「それは 個人の特殊な 状態や性質というよりも、
人が他者や集団につながるときに ある局面で 不可避に立ち現れてくる
関係性の失調のようなもの、 ではないでしょうか」。】
【第二章で取り上げた 心子の 「病状」 も、
心子のメンタルな 個体の失調というより、 心子と稲本、
あるいは 心子と周りの人たちとのあいだの 関係性の失調と考えた方がよい。
なぜなら、 ひとは 個体で完結して生きていくわけではなく、
かならず他者との相互作用によって 生きていかざるを得ないからである。
こうして、 BPD患者が 失調を起こすと考えるのではなく、
むしろ この社会によって規定された 関係性によって
〈生きづらさ〉 を生起させられる、 という発想にたどりつくのである。
さらに掘り下げていけば、
こうした社会こそが 「正常」 であり、
病気や疾患を持つ個人、 個体が 「異常」 であるという考え方を
疑問に付すことができる。
個人が 「異常」 だから 〈生きづらさ〉 を感じるのではなく、
〈生きづらさ〉 を誘引するような 社会的規範が存在するのだと
考えることができるのである。】
〔「境界性パーソナリティ障害の障害学」 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
(次の記事に続く)