「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (5)

2015年02月18日 20時58分15秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
場面2では、 心子が冗談を言ったのに対し、 稲本も冗談で応じる。
 
ただ、 稲本の冗談が過ぎたものであると 感じた心子は、
 
それまでの穏やかな応対から 急変し、 突如傷つき、 調子を狂わせてしまう。
 
たしかに、 稲本の言い方には
 
「私が傷つかない言い方なら、 心子も傷つかないだろう」 という
 
思い込みがあったかもしれない。
 
しかしながら、 心子の傷つきようは
 
やはり尋常ならざるものがあるだろうと 言わざるを得ないだろう。
 
また、  「怒りや恨みはない」 と言いながらも、
 
「私を傷つけたこと、 今まで何回もあったね」 とも言う。
 
通常私たちが考える  「怒りや恨み」 とは違うとしても、
 
稲本に傷つけられたことを  「根に持つ」 ぐらいには、
 
心子は 「壊れやすい」 と理解することができよう。
 
BPD患者は、 自分の存在が 根本から肯定できないがゆえに、
 
上記のような 独特の 〈生きづらさ〉 に苛まれる、 そのように通常は考えられる。
 
だが、 視点を逆転させてみて、 次のように考えることはできないであろうか。
 
すなわち、 この社会は、 BPD患者に対してのみならず、
 
ありとあらゆる人々にとって生きづらい。
 
そして、 その 〈生きづらさ〉 は、
 
社会的に構築された 「弱者」 に より重くのしかかる。
 
こんな不正義な社会であるからこそ、 BPD患者が生きづらくなるのは、
 
その意味で理にかなっていると 言えるのではないか。
 
実際、 心子をはたから見ていた稲本は 次のように言う。
 
《ボーダーの人は 何かしら純粋なものを待望している。
 
良くも悪くも 世の常識に染まることがない。
 
普通の人間は、 自分と周りとのバランスを取ったり 達観したりしながら、
 
より多様で柔軟な 人生観を見いだしていこうとする。
 
それとも 現実とぶつかることを回避して、 本音と建前を使い分けたり、
 
長いものに巻かれたり、 事なかれ主義で 浮世を渡っていく。
 
しかしボーダーの人は 決して世間ずれすることがないという。
 
心子も権威的なものになじまず、 体制におもねる者を嫌った。
 
威力を笠に着て 弱い人を泣かせる手合いには、 憤りをあらわにした。
 
世俗の不条理や権力に 屈することなく、
 
そのために自分が不利になるのを 微塵も意に介さない。
 
こういう無垢な心根が ボーダーの人の魅力だ。
 
それが社会の虚偽粉飾を暴いたり、 マンネリ化を打ち破ることがある。
 
危険性を伴うと同時に、 ボーダーの人の独創的な面である。》[22]
 
[22]稲本[2009:73] 。
 
〔「境界性パーソナリティ障害の障害学」 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 
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