自分の国は自分で守れ

Mikuのブログ

ちょっと残したくて

2023-11-05 08:16:34 | 日記

婦人公論.jp

https://fujinkoron.jp/articles/-/1033

 

上皇后陛下に本をお渡ししたら

山岸 純おじちゃまとは先日、徳川慶喜に関する講演をした時に、久しぶりに再会したのよね。

井手 講演したのは、徳川慶喜公終焉の地。二百六十余年に及ぶ、世界で類を見ないほど長期の治世は大政奉還によって終止符を打たれたわけだけど、江戸城を明け渡した慶喜はいくつかの地に移り住み、1901(明治34)年以降は、当時の町名から「第六天」と呼ばれた東京・小石川の屋敷に住んでいたんだ。

山岸 今は、国際仏教学大学院大学になっているわね。

井手 僕の母も、母の兄で美喜ちゃんの祖父にあたる徳川慶光も、第六天で生まれ育った。戦後、戦火を免れた第六天は、華族制度が廃止されたため、国に物納されています。

山岸 純おじちゃまに会ったのは、私の母の葬儀以来だったから……。

井手 24年ぶりかな。僕の母は、自叙伝『徳川おてんば姫』を書き終えて、やっと刊行した直後の2018年7月に、95歳で大往生したんだ。

山岸 ホッとなさったのね。

井手 葬儀の際は、今の上皇上皇后両陛下をはじめ、天皇皇后両陛下、秋篠宮家、常陸宮家、三笠宮家、高円宮家からお花やお供物をいただきました。その御礼で記帳にうかがい、母の著書を上皇陛下の侍従長にお渡ししたところ、ある日突然、上皇后陛下の侍女長から電話がかかってきて――。「皇后さま(当時)が本をお読みになり、大変懐かしかったとおっしゃっていたので、それをお伝えするために電話しました」、と。思わず背筋が伸びたし、なんてお優しい方だろう、と感激したよ。

山岸 私は、慶喜家の当主だった叔父・慶朝が病気に臥してからの4年間、名古屋の自宅から叔父のいる茨城まで毎週看病のために通ったの。2年前に叔父が亡くなったことで慶喜家は絶え、遺言で財産の管財人を任されることになりました。

井手 慶朝は僕の従兄弟にあたるわけだけど、子どもの頃は家が近かったこともあって、しょっちゅう一緒に遊んでいた。夏になると、伯母の和様(徳川慶光夫人の和子さん)が、かき氷の出前を頼んでくれるのが楽しみでね。僕らは和様のこと、おたぁちゃまと呼んでいた。そして母や慶光の姉が、高松宮妃喜久子殿下。僕の父は、高松宮邸の隣で開業医をしていたので、従兄弟たちと御殿のプールで遊んだのをよく覚えている。

「ありがとう」は「おそれいります」

山岸 私も、妃殿下にはよくお会いする機会がありました。それは皇族の方にお目にかかる、というより、家族の集まり、という雰囲気。慶喜家はご実家なので、私たちのことをたびたび気にかけて、素敵なバッグを譲ってくださったり、かわいいお人形をくださったり。特にお正月は、毎年御殿にご挨拶に行ったわね。

井手 あれは、夢のような時間だったなあ。別世界だもの。

山岸 大広間があって、シャンデリアがあって。

山岸 その器が、また素敵なのよね。

井手 そして5、6間あるような細長いテーブルに、おせち料理がダーッと並べられている。

山岸 羽子板の形をした漆塗りの器が並んでいるのだけど、ひとつひとつに違うお料理が盛られていて、それが圧巻の美しさ。

井手 妃殿下のお誕生日が12月26日、新年を迎えて1月3日が高松宮宣仁殿下のお誕生日だから、年末年始はおめでたい日が続いていた。新年祝賀の儀のあと、皇族方は正装のまま高松宮邸に集まるのが習わしで、母はお茶出しのお手伝いに行っていたんだ。「お姉様、お写真を撮らせていただいていいかしら」と、趣味だったカメラで撮影した写真を、母はずっと大切にしていました。

山岸 雛飾りも見事だったわよね。雛段に飾られた小さな笥の引き出しのひとつひとつにまで、ちゃんとお着物が入っているの。お雛祭りで忘れられないのは、小学4年生頃のこと。御殿に上がったら、お食事に北京ダックが出てきて。この世にこんなにおいしいものがあるのか、と大感激しました。でも実は、子どもがご馳走をガツガツ食べるとみっともないからって、伺う直前に家でごはんを食べさせられていて――。お腹がいっぱいで山盛りの北京ダックを少ししか食べられなかった無念を、今も覚えています。(笑)

井手 御殿に上がる時は、母から言葉遣いも注意されたね。

山岸 そうそう。子どもは、3つの言葉しか使ってはいけないって言われた。「こんにちは」や「ありがとう」はNG。「こんにちは」は?

井手 「ごきげんよう」。「ありがとう」は「おそれいります」。

山岸 「失礼します」もダメで、「ごめんあそばせ」。

 
 

何億という遺産をすべて騙し取られて

井手 昭和天皇の弟君である高松宮殿下は、とても気さくな方だった。SPが苦手で、ご自分で車を運転して外出なさることも。僕が、勤め先の帝国ホテルで休憩時間に外に出たら、歩いている殿下にバッタリ会ったことがあってね。驚いてご挨拶をしたら、「よぉ」と手を挙げられた。

山岸 外出が、いい息抜きになっていたんでしょうね。

井手 リベラルな考えの持ち主で、世界情勢をよく見ている方だった。これは母から聞いた話だけど、大戦前、東條英機が首相になればアメリカとの戦争は避けられなくなる、と大変危惧されていたらしい。そんな殿下の存在を、昭和天皇はとても大事になさっていた。

井手 僕たち一行はマイクロバスで行ったけど、確かに一度も止まらなかった。殿下の葬儀は、費用や交通、警備などあらゆる面で昭和天皇の葬儀の予行練習となり、2年後の崩御の際、滞りなくとりおこなうことができた、と聞いています。

 

山岸 子どもの頃、純おじちゃまのお母様はなんてお美しい方なんだろう、と思っていました。お料理も得意で、字もお上手で。

井手 母は妃殿下から、有栖川流の書道の手ほどきを受けていたからね。妃殿下の母上は、有栖川宮家から慶喜家に嫁いだ方だったので。宮家に嫁いでからも、亡くなった母上に代わって、妃殿下は毎週小石川の屋敷で妹たちに書道を教えていた、と聞いています。

山岸 徳川のお姫様として育てられた思い出は、本にも書いてあったわね。とても細かいことまで記憶されていて。

井手 でも、母は決して気取った人ではなかったよ。活発で、テニスも麻雀も大好きで。結婚して徳川の家を離れてからは、苦労もたくさんしたと思う。最初の夫を戦争で失い、婚家によって大切な娘と引き離されたあと、前夫の親友で医師の井手次郎と再婚。戦後、父が横浜で開業した時は専門の外科以外、何でも診たので、ちょっとやそっとのことでは動じなくなったんだろう。ヤクザも来たし、パイプカットなんて言葉も平気で口にできるようになって。父の病院で、毎日よく働いていた。

山岸 そんなお母様に、純おじちゃまはずいぶん苦労をかけたのよね。私がおじちゃまに24年間会わなかったのも、昔からいい噂を聞いていなかったからよ。雑誌で話すようなことじゃないかもしれないけど。

井手 いや、いいんだ。確かに僕は若い時から放蕩を重ねてきたから。その最たる出来事が、2004年に妃殿下が亡くなった時に母が賜った何億という遺産をすべて騙し取られてしまったこと。僕のような世間知らずを騙すのは、プロの詐欺師から見れば赤子の手をひねるようなものだったんだろう。親類からよく思われていないのは、当然のことだよ。

 

お姫様が都営住宅に。明るく生きる、という強さ

山岸 もちろん、警察には相談したんでしょう?

井手 100回以上出向いた。でもよく言われるように、詐欺罪での立件の難しさを思い知ったよ。どうにもならなかった。80歳を超えた母に、涙ながらに全財産を失ったことを伝えた時、母はたった一言、「最初からなかったと思えばいいじゃない」って言ったんだ。心底、すごい人だと思った。すべてを手放し、クーラーもない、郊外の狭い都営住宅に引っ越すことになっても、文句ひとつ言わない。敷地3400坪のお屋敷で生まれ育ったお姫様がさ。

山岸 想像だにしていない晩年を、悔やむことなく過ごせたのは、育った環境が大きいかもしれないわね。

井手 大勢の人に囲まれて育った母たちは、何気なく口にする「やりたくない」「嫌い」「おいしくない」といった言葉が、どれほど周囲を傷つけてしまうかを知っている。だから、相手を不快にするネガティブな言葉は口にしないよう、厳しく躾けられた、とよく言っていた。僕が夜間、清掃の仕事に出かけて、昼間はおふくろのために3食作るような生活になっても、狭いお風呂で背中を流してあげると、「極楽、極楽」って喜んでくれた。明け方、帰宅した僕を起こすまいと、音を立てないようにトイレに行っていたのも知っている。

山岸 なんだか、泣けてきちゃう。純おじちゃまとは、再会したあとに電話で6時間くらいお話ししたじゃない? 人生のどん底を味わって、心からお母様を大切にしようと思ったこと、私たちが受け継いだものの大切さが身にしみてわかったことが伝わってきて。だから、私が任された慶喜家のあれこれを一緒にやっていけそう、と心から思えたの。

井手 美喜ちゃんがそう思ってくれるなら、嬉しいよ。

 

慶喜家の生の歴史を後世に伝えたい

山岸 私は今、叔父が遺した慶喜家の資料を松戸市戸定(とじょう)歴史館に寄贈するため、資料と向き合う日々を送っています。どれも歴史的に貴重なものばかりで、学芸員の方の助けを得ながら、とにかく勉強の毎日よ。

井手 母が常々言っていたことだけど、慶喜公が無血開城という大きな決断をなさって、日本は明治の世を迎えることができた。なにより大政奉還は、700年近く続いた武家社会の終焉であり、今の私たちの暮らしは、こうした過去の積み重ねと時代の大きな転換によって成り立っている。そのことを忘れてはいけない、とね。母にとって、「祖父・慶喜」は特別な存在だったんだと思う。

山岸 私は純おじちゃまより一世代下にあたるけど、自分に流れる慶喜家の精神は感じています。なにより、「愛」を受け継いでいる。私が管財人になったのは、然るべき形で慶喜家を閉じるにはどうすればよいか、を任されたということでもあるの。

井手 慶喜家のことを後世に伝えていく役目もね。

山岸 そういえば最近、祖母の手記も見つかったのよ。和子おばあちゃまは会津藩の9代目藩主松平容保の孫なので、会津戦争のあと、鶴ヶ城(若松城)にあったものはどうなったか、とか、ご自分が見聞きした幕末から明治にかけての思い出が綴られていました。慶喜家のお墓も私が管理しているけれど、300坪もあってとても個人で維持できるようなものではない。できれば史跡として遺せるよう、各方面にご協力をお願いしていくつもりです。

井手 僕にできることがあれば、なんでも手伝うよ。それにしても美喜ちゃんのエネルギーには頭が下がる。

山岸 祖父の慶光おじいちゃまも一時家を出て、その間、和子おばあちゃまがしっかり家を守っていらしたように、明治以降の慶喜家は女が頑張ってきた。だから私も慶喜家の最後の者として頑張りたい。この家にはダメ男がいるから。(笑)

井手 耳が痛い(笑)。長い年月をかけ母が頑張って書いた本からは、戦前の華族の暮らしぶりだけでなく、武家社会が終わって「徳川」が置かれた立場や軍人との結婚生活、皇族との交流の様子もわかるので、ぜひ読んでいただきたいです。そういえば美喜ちゃんと再会した日は、奇しくもおふくろの一周忌の前日だった。

山岸 ご先祖様が私たちを導いてくださったのかもしれないわね。

 

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出典=『婦人公論』2019年10月8日号
井手純井手純

1950年神奈川県生まれ。母は徳川慶喜の孫、久美子。帝国ホテルを退職後、母の自叙伝『徳川おてんば姫』(東京キララ社)の執筆活動を長年支える。

山岸美喜山岸美喜

1968年東京都生まれ。祖父は徳川慶喜の孫、徳川慶光。クラシックコンサートの企画事業を手がけるほか、「徳川将軍珈琲」宣伝大使も務める。

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