行政書士中村和夫の独り言

外国人雇用・採用コンサルティング、渉外戸籍、入管手続等を専門とする26年目の国際派行政書士が好き勝手につぶやいています!

行政書士になったきっかけ・・・

2007-04-30 02:00:10 | 資格・転職・就職

 ちょうど、9年前のGW明けから行政書士の勉強を始めたのでした。当時、海外プロジェクトの現地最高責任者だった私は、本当に疲れ切っていました。出がらしのお茶っ葉のように、今まで持っていた経験やノウハウをすべて出し切ってしまった様な感じがしたのでした。とにかく、何かを学び、充電したかったのでした。

 4月上旬、海外出張から戻ったばかりの私は、たまたま開いた夕刊で、目に留まった記事が「国家資格行政書士受験講座の無料オリエンテーション申込受付中」と書いてあった、資格受験学校の宣伝でした。「行政書士?何をする仕事だろう??まあいいか、何かの勉強だし、無料だから聞きに行ってみよう!それに日曜日だし!」と、早速電話で申し込んだのでした。

 色々と説明があったようですが、あまり意味も分からずに、個人インタビューなどもありまして、「中村さんの経歴だったら、是非この資格をお取りになって開業されたら良いですよ!」と、営業トークのような口調で(実際、講師の先生だった方で、当時本当にそう思われたのだそうです。大変失礼いたしました。)勧められたからではないのですが、「まあ、会社が終わった後の夜間の講座だし、授業料の補助もありそうだし、日曜日にも重複して受講もできるらしいし、とにかく通ってみよう!」と、即決したのでした。

 変な話しですが、この時点で、行政書士という国家資格者は、具体的に何をする職業なのかを本当によく知りませんでした。まして、外国人の在留資格申請手続の代行が出来る唯一の国家資格者(日本では、弁護士が申請代行できるようになったのは、ほんの2年程前からで、長年のあいだ、もっぱら行政書士の独壇場の仕事だったのです!)であった事など全く知らなかったのですから・・・。

 もし、私が見た夕刊の資格受験講座の広告が、司法書士や社会保険労務士などの資格講座であれば、間違いなく、その講座を受講していたと思いますし、それで、仮に合格(たぶん、合格はできないでしょうが・・・)したとしても、司法書士や社労士には決してならなかったと断言できます。それは、当時の私は、とにかく何か勉強でもして、充電がしたかっただけですから、勉強するテーマは、実際何でも良かったのでした。

 本当に不思議な縁と言いましょうか、運命のような巡り合わせだと、今でもときどき思ってしまいます。

 もう、開業して丸8年が経ち、9年目に入りましので、本当に様々な事件を処理して参りました。そして、何百人とは申しませんが、少なくとも、何十人かの方々の人生には、確実にお役に立つことが出来たと、自負している次第です。

 まさに、天職のように巡り会った、この行政書士という、エンドレスに知識や情報を更新してゆかねばならない、決して楽ではない仕事ではありますが、今後も自己研鑽を怠らずに、引き続きクライアントの皆様に代わって、行政官庁への申請代行者、或いは、代理人として、お役に立ち続けることができるのであれば、本当に幸せな限りであります。

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”マグナムが撮った東京”の写真展

2007-04-29 02:58:00 | あの頃の東京って?

 恵比寿ガーデンプレイスにある、東京都写真美術館で開催されている「マグナムが撮った東京」の写真展を、昨日見に行きました。

 ロバート・キャパ、ワーナー・ビショフ、デニス・ストック、エリオット・アーウィットなどが撮った1950年代や60年代の写真を見ていると、どこかで見たような風景か、或いは、自分自身が見たことがある、ワンシーンのような錯覚さえ起こさせるすばらしい作品です。

 ところで、東京オリンピック以前の東京は、確かにまだまだ貧しい国の都市だったと思います。ですから、その頃の時代に、けっして戻りたいとは思いませんし、また、戻る必要もないと思います。でも、ちょっと振り返ってみても、良いかなあと思うことがあります。

 当時はもちろん、物が今のように街にあふれてはいませんでしたし、物自体が少なかったこともありますが、それにしても、ゴミがとても少なかったという記憶があります。だいたい、今のように1週間に何回もゴミの回収があった記憶がありません。と、いうよりは、ゴミ自体があまり出ない消費システムであったような記憶があります。少なくとも、昭和30年代の中頃までは、味噌、醤油、豆腐などは、必ず容器を持って買いに行ったと思いますが・・・。それが、いつの間にやら、そういった習慣がまったく無くなってしまったのでした。それが、いつの頃から無くなったのか、確かな記憶はありません。でも、間違いなく、いつの頃からか、誰も味噌、醤油、豆腐を容器を持って買いに行かなくなっていたのでした。そうなってからは、確かにゴミの量が猛烈に増え、定期的なゴミ出しが始まったような気がしますが・・・。

 そんな、写真展の展示写真のシーンとはまったく関係のない、昭和30年代の東京の風景を帰宅後に再び思い出しながら、今日1日に買った物から出るゴミの量の多さに、「やはり、昭和30年代には戻れっこないよな!」と、あきらめている自分に苦笑したゴールデンウィークの初日でした。

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字が下手というよりも・・・

2007-04-28 00:05:44 | どうしてなんだろう?

 某証券会社から来たダイレクトメールを見て「あ~。最近は、外国人の社員でも無理して漢字で宛名を手書きで書くんだな!」と感心して、封筒の裏側も見て、「ん??ん???なんじゃ?これ?」と釘付けになってしまいました。な、な~んと、書いたのは外国人ではありません!立~派な日本人なのです!は~い。

 本当に!な~んともうしましょうか、字が下手とか、そういうレベルではなくて、漢字の部首のひとつひとつの書き方、形が、まるで今まで漢字を書いたことが無い人が書いたような字でして、正直に申し上げて、日本人で、このような不思議な字を書ける人を、生まれてこのかた見たことがありませんでした。帰国子女で、漢字をあまり書けない社員かなとも考えてみましたが、電話で話した感じでは、普通の若者でした。

 字は体を表す、とか言われていますが、そんな生やさしいレベルではないのです。もう一度、幼稚園、小学校からやり直した方が良いという感じです。ですから、当然、封筒はゴミ箱へ直行です。とても不快で、開封する気にはなれなかったのです。来週以降、きっと、彼から電話があるのでしょう!「お送りした資料読んでいただけましたか?」と聞かれたら、なんと答えましょうか???

 ふむ~ん。親切ならば、本当のことを言ってあげるべきなのか・・・。或いは、知らぬふりして、読む時間がないので捨てた、と言うべきなのか・・・。何か、憂鬱なゴールデンウィークになってしまいそうですね、トホホホ・・・。

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なつかしのカーペンターズ

2007-04-21 20:13:57 | 日記・エッセイ・コラム

  20日金曜日の夜、某国営放送で放送していたカーペンターズのドキュメンタリーの録画を本日見ました。それを見ていて、70年代の頃の多くの記憶が蘇って来ました。

 ベトナム戦争、沖縄返還、連合赤軍事件等々の暗い世相の中で、将来の目標や未来像を見つけ出すことができない自分自身が居た事を・・・。

 当然、当時の若者の音楽は、社会を非難したり、世の中を揶揄したりする曲が主流で、カーペンターズのような、軟派な音楽を堂々と聞いてはいけない雰囲気であった記憶があります。そして、それは、自分自信であったことも思い出しました。カーペンターズの曲は、食後のデザートのような、今で言うところの癒し系音楽で、実は結構好きだったのですが・・・。そう公言する事を、はばかられていた時代でもあったと思います。

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YouTube: Carpenters - Yesterday Once More

 しかし、カーペンターズの音楽には、どこか、次に来るであろう明るい時代と希望を予感させる音律があったような気がして聞いていました。75年~82年まで過ごしたメキシコ滞在時代にも、よくラジオから流れていました。

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YouTube: The Carpenters A Song For You

 また、Top of The World という曲は、出張で頻繁に飛行機に乗っていた頃、自分自身が有頂天となっていて、何となくマッチする曲だと長い間思っていたのですが・・・。当時の作詞者が「彼ら、リチャード&カレン・カーペンターが自家用ジェット機で忙しく移動していた頃に書いた曲だ!」と語っていたのを聞いて、はじめて納得すると共に、自嘲してしまいました。

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YouTube: Carpenters - Top of the world

 彼らのレコードやアルバムは、発売当時は1枚も買うことはありませんでした。しかしながら、私自身の青春時代や勤め人時代の多くのシーンを彩っていたBGMだった事が、ミドルエイジになってからはじめて分かり、今では時折、CDを衝動買いしています。

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YouTube: Carpenters - Rainy Days And Mondays

 少なくとも、私はカーペンターズの曲を聞いていても、なぜか、過去の辛いことや悲しいことに結びつくことはありません。それは、彼らカーペンターズの音楽が、本当に世界中の多くの人々に対して、希望と安らぎを与え続けてこられた「偉大なる癒し系音楽」だからだと、私は思うのですが、皆さんいかがでしょうか?

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YouTube: Carpenters - Close to You

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正しい採用こそが・・・

2007-04-11 03:26:30 | ちょっと一言!

 私が、はじめてアメリカ、ロサンゼルスのリトル・トウキョウへ行ったのは、今から30年以上も前の事です。当時、遊学していたメキシコから日本人の友人2名と、車で片道3~4日かけての旅でした。

 途中、テキサスやアリゾナでは、片側4車線程のフリーウェイが平原の中を整然と通っている上に、ところどころには冷房の効いた無人のドライブインも完備しているといった具合で、アメリカの経済力を思い知らされたのでした。一方、帰りは、メキシコ側の道路を通ったのでしたが、その道路はというと、荒涼とした砂漠道で、窓を閉めないと、地獄の釜の蓋を開けたよう熱風が吹き込むといった状態で、冷房の効いたドライブインなどどこにもない道路でした。当時、メキシコからの密入国者が後を絶たないと言われていましたが、この帰り道のドライブだけで、その理由がはっきりしました。

 ところで、目的地のロスの町に着くと、タコスとバーガーから逃れたくて、リトル・トウキョウの料理屋に駆け込みます。そこには、たしかに日本の光景があり、従業員のすべてが日本人だったのですが・・・。食事も終わりかけた頃だったでしょうか、いつの間にやら、若い店員さん達全員が見当たらないのです。どうしたのかなあ?と思っていると、移民局と書かれた制服を着た男性が責任者に何か質問をしていました。そして、この移民局の男性が帰ったあと、20分もすると、再び若い日本人の店員さん達が何もなかったように現れたのでした。つまり、彼ら日本人の若者達は、不法就労者だったようです。

 当時、1ドルが300円程でしたから、仮に、時給4ドルだったとしても、当時の日本ではとても考えられないような高給が得られたのでしょう。「なるほどなあ!」と、当時の私たちは、直ぐに納得できたのでした。そして、今現在の東京で「ちょっと前まで、結構な数の日本人の若者がアメリカの大都市で、不法就労していた時代があったのですよ!」と説明しても、今の日本の若い方々には、理解不能といった顔をされるのが落ちなのでしょう。

 水が高いところから低いところへ流れるように、古今東西、世界の人の流れも普遍的には変わらないようです。どんなに取り締まろうが、罰則を強化しようが、この流れを完全に止め去ることは不可能です。しかし、安い労働力という理由だけで、彼等を使おうとするメンタリティーの企業や経営者が激減すれば、少なくともこの流れはかなり減る筈だと、個人的には思うのですが・・・。

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