昭和25年、つまり1950年に改正・施行された戦後の国籍法は、外国人父と日本人母とのあいだに生まれた子に日本国籍が付与されないという極めて異常な法律であったことは意外と知られていない。というか、もう忘れ去られようとしているのである。
こんな父系優先血統主義な法律が、民主国家として生まれ変わった戦後の1950年7月1日から1984年11月30日頃までの20数年余りの間、世間から大した非難も無く続いたこと自体が今になってみれば誠に不思議なのである。
進駐軍が統治していた昭和20年代初頭当時の頃は、すべての民事案件に対してまでも事細かく関与していたはずのGHQ民政局からも、男女不平等との指摘もまったく無く、そのまますんなりと認められたことも、これまた大きな謎の一つなのである。
女性に参政権さえも無く、家督相続は男子のみであり、妻側から離婚を言い出すことなどさえ出来なかった戦前や明治時代の話であるのならば理解は出来るのだが・・・。
戦後の日本は、女性にも欧米諸国並みに参政権や被選挙権が与えられ、男女平等の民主国家になったはずであったのに、なぜ国籍法だけが時代を逆行したのだろうか・・・。とにかく、実に摩訶不思議な話なのである。
渉外戸籍の実務家としてやって来たこの11年余りの間で、今以て最も大きな謎の一つなのである。
例えば、明治時代に出来た旧国籍法では、日本国籍は、日本人父でも日本人母でも平等に付与されていたのである。ところが、戦後制定された新国籍法では、母が日本人であっても父が外国人であれば国籍が付与されなかったのである。更には、日本人父が認知したとしても、外国人の母との婚外子であれば、この婚外子にも日本国籍が付与されなかったのである。
保守的な政治家さん達は、古き良き日本人の夫婦間を司る道徳にとっては絶対に不可欠な条文だとか、日本古来の文化から来た条文だとか主張していたと記憶している。が、兎にも角にも20数年余りの間このような差別的で、かつ、時代を逆行した条文が入っていた国籍法が放置され続けていたのは事実であったのだ。
ちなみに、道徳観で言えば、明治の日本人の方が、戦後の日本人より遙かに厳格であったであろうし、その厳格な明治人が作った国籍法は、今現在の国籍法よりもよほど国際感覚に優れていたようにも思えるのだが・・・。
この旧国籍法であるが、更に驚くことには、大正5年に改正されるまでは、なんと日本人男女と婚姻した外国人夫や外国人妻になった者達にさえも、自動的に日本国籍を付与していたのである。更には、日本人が養子にした未成年の外国人養子に対しても、同様に自動的に日本国籍を付与していた事なども、殆どの方々はご存知ないと思うのである。
武家社会で何百年も培われていた習慣が、まだまだ残っていた厳格な明治の日本人が、道徳感に欠けていたとは誰も思わないのである。しかし、かといって男女平等精神が当時の明治の日本人に既にあったとも到底思えない。むしろ、男女平等どころか、まだまだ男尊女卑の時代だったはずである。
では、なぜ戦後に改正された国籍法だけが、時代を逆行するような大きな改正が行われたのであろうか?
それを推察する為の一つの仮説を立ててみると、割とスムーズに納得できたのである。その仮説とは、進駐軍の米兵達の存在である。
つまり、昭和21年から進駐してきた数多くの駐留米軍兵により、日本国はサンフランシスコ条約を締結するまでは、国連の連合軍(実質は米軍)によって占領されており、大量の若い米軍兵士達が街を闊歩していたのである。
そして、貧しい子供達は、その米兵達にギブ・ミーと駆け寄って、チョコレートやチューインガムをせがんでいたらしいのだ。
それは、なにも子供達ばかりではなかったようだ。一部の女性達も自らの身体を張って。ある者は生きるためにやむなく、米兵に近寄って行った者もいたと、物の本に書いてあるのだ。
ある意味では、それは日本近代史における恥部であったのかもしれない。そんな状況を苦々しく、或いは、嫌悪感を抱いて眺めていた日本人行政官達が多々居たのかもしれなかったのだ。いや、きっと本当は彼等行政官達の多くはやはりチョコレートやガムを欲しかったのではなかろうか。そして、進駐米軍兵士どもから施されたくないと思ったに違いないのだ。
そんな鬱屈した行政官達が、お国の為と称して、この国籍法の改正に関わったと考えられないだろうか?
つまり、「米兵の野郎と出来た日本人女から生まれた子供達などには、決して日本国籍などやるものか!」と逆恨みのように思って、この昭和25年施行の国籍法が立案されたと仮定するならば、外国人男性との婚姻では日本国籍を付与しない規定は勿論の事、たとえ日本人男性から認知があったとしても外国人女性との婚外子という非道徳的な結びつきで生まれた子に日本国籍をなどは付与しないという、極めて恣意的かつ怨嗟に満ちたと思わざるを得ないような内容の国籍法にすり替えた理由が簡単に説明できるからである。
勿論、以上に述べた事は飽くまでも仮説あって、何ら証拠のある話でも無く、単なる馬鹿げた憶測なのかもしれない。
しかし、米兵達と楽しそうに腕を組んで歩く日本人女性達を見て、彼等を本気で嫉妬し、かつ嫌悪し、更にはチョコレートやチューインガムを食べたくとも食べられなかった恨みで、フラストレーションが極限にまで溜まり鬱屈していた行政官達がこの豹変した国籍法の立案者であったと仮定すれば、明治時代に制定された、あのおおらかで国際感覚に優れていた旧国籍法の条文が、いとも簡単にこの鬱屈した条文に変貌してしまった謎が簡単に理解できるのである。
コメント、ご指摘ありがとうございました。お尋ねの件ですが、国籍留保の届出期間については知りませんでした。
ただし、ご指摘の通り、そもそも国籍留保条項は、移民達を移民先の国々に定住促進させる目的で大正13年に付け加えられた規定であったと確かに何かの本に書いてあった記憶があります。
一方、農民としての移民が100%であり、入植先の交通の便が至って不便であり、大都市にしかない日本大使館への届出を行う事が事実上困難な当時の交通事情を知った上で、敢えて生まれた二世の親に子供の出生の届出と国籍を留保をさせる国籍留保を課した意図とは、入植先である移民先国に根付かせる為に、事実上日本国籍を遡って喪失させ、仕方なく現地国籍を選択せざるを得ないという、ご指摘の通りの事実上の棄民政策があったのことはどうも間違いないように思われます。
ところがこの棄民条項が、1950年7月1日施行の戦後の改正国籍法の第12条(旧国籍法では、20条の2)にも引き継がれて、二重国籍防止の為の条項として、いつの間にやら新たな解釈が付けられて今現在に至る迄もほとんど問題視されずに、当たり前のように受け入れられている事も残念なことだと思います。
残念ながら、帰化による日本国籍以外に方法はありません。