行政書士中村和夫の独り言

外国人雇用・採用コンサルティング、渉外戸籍、入管手続等を専門とする26年目の国際派行政書士が好き勝手につぶやいています!

やはり、年とったのかなぁ?

2008-01-31 02:51:45 | その他

 昨日30日、東京入管横浜支局に某依頼人の申請を出しに行く途中、いつものとおり横浜一番のお洒落な通りと云われている元町通り商店街のウィンドーを眺めながら歩いていました。

 地下鉄が開通したこともあるのでしょうが、数年前の閑散とした頃に比べて、昼間からショッピングに訪れる人々が明らかに増えていました。

 「やはり、消費マインドはだいぶ回復しているようだ!でも、このサブプライム問題でどうなるんだろう?」などと思いながら、歩いていると、どこかで見たような顔??? 「あっ、T君だぁ!」と思い、「タッちゃん?」と声を掛けました。

 呼ばれたT君は、不思議そうに私の顔を覗き込んで、暫くして「あっ!なんだぁ!ずいぶん変わっちゃったから分からなかったよ。すごく白髪増えたんじゃない?」と、T君。

 「もともと、白髪多かったんだけど?あっそうか!コロンビアに行ってから増えたんだ(実際、身の危険となるような状況のてんこ盛りと事故が多発した現場でした。)。」 「俺も当時は、まだ20代か30歳そこそこだったしねぇ。あれから、コロンビアに赴任して、その後再びメキシコに赴任、その後は、スペインにも赴任したしね。」と、私。

 「昔のイメージがあったもんで、あんまり変わっちゃったから分からなかったよ!でも、目を見たら、同じだったから思い出したよ。」と、T君。

 そのT君は、1980年頃にメキシコで知り合った友人で、当時20代後半でしたから、25年以上も前の事です。当然ながら私は若々しかった???のでしょう。その後、私も帰国し、何度かT君とは会っていたのですが・・・。やはり、メキシコ当時の20代後半の私のイメージがあったのでしょうか。

 「今は、こんな仕事をしているんだよ。もう9年になるんだけどね。早いもので。いわゆる、先生って呼ばれる仕事さ。」と、私はT君に名刺を渡しました。

 このT君、メキシコ人女性と結婚して、一度はメキシコ国籍に帰化した変わり者で、その後残念ながら離婚して日本に帰国。今度は、日本人女性と再婚し、一時は下北沢で小さなメキシコレストランを経営していたのだったが・・・。どうやら、再び日本国籍を回復したようであった。

 「俺も、一時はメキシコ国籍だったから、横浜入管にも何回かは来たよ。」 「ところで、これから、どこへ行くの」と久しぶりに話をしたい風なT君。それは、私もまったく同じであったのだが、クライアントの依頼事案の処理が優先なのである。

 「うん、横浜入管に出す申請があってね。直ぐに終わるかどうか分からないので、近いうちにまた会おうや。」と、私。 実際、この後のスケジュールが詰まっており、事務所に来客があり、また、明日大安に立川の法務局へ届くような会社設立申請を朝10時必着の郵便で送付しなければならず、これらを片づけてから、某エスニックレストランを経営するクライアントの店舗へ出向く事にもなっていたので、携帯の電話番号を交換して、足早に立ち去ったのでありました。

 案の定、申請完了まで1時間少々待たされて、再び元町通りを歩きながら、ショーウィンドーに写る自分自身の姿を見て、

 「それにしても、T君、あまり老けてはいなかったなぁ。同じ50代にしては若かった。どう見ても40代だな。場合によっては30代に見えそうな風体だ。それに比べて、私はどう見ても年相応だ。まあ、仕方ないかあ!」と、つぶやく私。

 そんな、年月の早さと、自分自身の老いを実感した2008年1月早々の出来事でした。

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カストロは深夜族!・・・らしい?

2008-01-24 12:18:54 | 海外事情

 9年ほど前の1999年に、まだ私が行政書士と通訳との二足のわらじを履いている時に、キューバに行く仕事がありました。そこで、とある行事が行われることになり、日本大使館の方々といろいろお話しする機会があった時の事です。

 「うちからは、大使が出ますから、あちらからは最低、担当大臣は必ず出席しますが、問題はカストロが来るかどうかが、直前にならないと分からないのですよ・・・」

 「担当次官のXXさんやXX省のOO次官でも知らないんですか?」

 「ええ、大臣クラスでも、カストロが今どこで何をしているか知っている人はほとんど居ないようなのです。」

 「えっ! 大臣クラスでもですか? それって何か理由でもあるのでしょうか?」

 「ええ、何かその昔、CIAに暗殺されそうになってから、このように居場所を秘密にしているとのことで、聞くところによると昼夜の生活が逆転しているとの事です。」

 実際、私もとある高官の方に「カストロさんは、いらっしゃるのでしょうか?」とこっそり聞いてみましたところ、

 「少佐が、いまどこで何をしているのかは私達でさえも本当に分からないのですよ。」と、首をすくめられてしまいました。

 こんな話を聞くと、何か陰湿で暗い感じがするものなのですが、そこはラテンのお国キューバです。皆さん、カラっとしています。どこかの北の方にあるお国のような怖さや陰湿さは全くありませんでした。

 キューバは確かに、アメリカから経済封鎖され、頼みのロシアも今は全く頼りになっていないようなので、カナダ、スペイン、そして日本などと多国間外交を展開しているようです。しかし、それでもやはり経済的には相当苦しい状況のようです。

 その一方で、超高級ホテルや立派なゴルフコース、豪華なフレンチレストラン(いずれも外資とキューバ政府との合弁事業か、国営企業です。)、或いは、外国製品なら一通り揃うドルショップ(勿論、ドルしか使えません。)などがあって、明らかな二重経済構造です。

 しかし、医療システムは素晴らしく、かかりつけ医師が地域の病院に密に市民の健康状態を報告して、必要に応じて高度な専門病院に移送して貰えるシステムが昔からあるようです。医療レベルは想像以上に高く、心臓外科治療では世界的なレベルにあるのだそうです。

 まあ、カストロさんも、未だにキューバのヒーローで多くの支持者は確かにいますので、彼の在任中に政権が変わることはないのでしょう。しかし、ポスト・カストロとなると・・・。タクシー運転手さんなどに聞いてみても、「ラウルではねぇ・・・」と、暫定議長の弟君ではなかなか難しいようです。

 優秀な大使館の若い書記官氏曰く、「アメリカあたりでは、あそこはどこそこが管理し、そこから先はどこそこが管轄するとか、もう既にマップができあがっているようです。」とのこと。

 キューバ議会の選挙のニュースを見ながら、暗視カメラを装備したCIAの特殊部隊の真夜中の進入に対して、髭面のカストロが猛然と反撃するシーンが頭に浮かんで、まるでハリウッド映画の世界のようだなと苦笑してしまいました。

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サブプライム問題に何も言えなかった日本の銀行の怪

2008-01-19 02:11:11 | 社会・経済

 米国のサブプライム問題の表面化に端を発した株安が続いている。国際原油価格やレアメタル、穀物相場もすべて異常な高値である。中国やインドの台頭も確かに原因の一つではあるのだが、最大の原因はやはりサブプライム問題にあると私は思うのである。

 20年程前、某山手線駅付近の、とある新聞販売店の立ち退き料が10億だったのだそうだ。当然、その立ち退き料を貰った経営者は、3億程の家を世田谷に買い、残りで事業用の賃貸物件を買ったとのことであった。

 当時、土地の値段は上がる一方で、銀行は抵当権設定額をどんどん勝手に引き上げて、土地保有者に融資をし続けたのであった。そして、その土地は直ぐに値上がりしたから、銀行は、直ちにその土地を担保に更に貸し付けて土地建物を買わせ、資産と借金が同時にどんどんと雪だるま式に増え続けたのであった。この構造インフレが、当時のバブル経済であった。

 それと、ほぼ同じような貸し付けが、米国では中間所得層相手に何年も前から行われていた事を銀行関係者ならば皆知っていた筈である。日本でも、何年も前に某国営放送でこの問題を取り上げており、私自身も見ていて知っていたのである。ところが、米国金融機関は、それからも土地価格が下がると困ると思ったのか、今度は、ラテンアメリカ出身等の低所得者層をターゲットとした高利の不動産融資へと拡大し始めたのであった。それが、米国バルブの崩壊の時期を遅らせている理由の一つである。

 ところで彼らラテン系の移民達の多くは、英語が不自由な低所得移民層ばかりであるから、アメリカで家を持てたことが夢だと感じていたのであった。しかし、金融機関は、只それだけで許す筈もなかったのである。

 彼らに、不動産の資産価値が上がった分に対して、更なる融資額を増額し始めたのであった。その融資増額分は、他の物件へ再投資できる程の額ではないので、彼らの多くは家財や被服、或いは、宝飾品等々の消費へ走ったのである。こうして、米国バブル経済の崩壊を先送りするために、多くの人々が米国金融機関の口車に乗せられて、更なる無理な借金を重ねて消費に走り続けていたのであった。当然ながら、その多大なる恩恵は中国やインドばかりが受けているのではなく、日本の輸出型の大企業もその恩恵を受けていたのである。

 そして、これらの上積み融資分も含めて、返済できない人々が、昨今激増してきたのである。これが、いわゆるサブプライム問題なのである。つまり、米国バブル経済は実は20年前の日本の時よりも、更に長期間に渡っていたのであるから、その額は膨大な金額になっていたのである。

 更に悪いことには、これらの見せかけだけの増えた資産を元に、デリバティブによる金融商品が開発され、それが投資ファンドとなって日本の株式市場やら不動産市場にも既に流れ込んでいた事が事態を深刻化させているのである。だから、こういった実体のないデリバティブ系の投資ファンドマネーが株式市場から急速に消えている訳であるのだから、株価が下がるのは当然といえば当然なのである。

 実は、いずれはこんな状況になるであろう事を一番よく知っていたのが、日本の金融機関の関係者だった筈である。それが、彼らと一緒になって、火に油を注いで手助けしてしまうとは・・・。あの20年前の馬鹿げた経験によって得た、10年以上に渡る苦い苦い体験がどうして米国金融関係者に伝わらなかったのだろうか? 或いは、伝えようとしなかったのか? 或いは聞いて貰えなかったとでも言うのだろうか? まったくもって怪なるはなしである。

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東京駅前に突然現れる馬車列って?

2008-01-09 12:18:48 | うんちく・小ネタ

 新任の外国大使が日本に赴任した時に、その新任大使は、その赴任国の元首に信任状を渡す必要があります。日本の場合、実際の元首は事実上、内閣総理大臣ですが、法律上は元首としての国事行為は象徴天皇が行うことになっています。ですから、新任大使はこの本国元首からの信任状は天皇に渡さなければなりません。

(コロンビア共和国カルデナス大使赴任時の写真)

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 その際、宮内庁は馬車か車かで送迎してくれるのだそうです。馬車か車かは、大使の希望に応じるのだそうですが、多くの大使は馬車での送迎を希望するそうです。当然といえば当然ですが。ところで、君主制を採用している数少ない国の外交官だとしても、国王が提供する馬車なんて滅多に乗れるもんじゃありません。まして、共和制の国の役人であれば一生に一度あるか無いかの話になるわけですから、各国の大使の間では、この馬車による皇居への送迎は日本赴任での最大の隠れたる楽しみの一つなんだそうです。

 馬車で皇居への送迎といっても、大使公邸からではなく、あの東京駅丸の内側の煉瓦作りの駅舎前から皇居に向けた真っ直ぐの道を通って行く短い道のりです。実際、見たことはないのですが、現天皇である平成天皇が、皇太子時のご成婚の時に使ったようなクラシックな馬車なんだそうです。

 今から、14年ほど前、当時の勤務先の女性の同僚が、某国大使館秘書として採用されることとなった時に、この話をしたところ大変驚いて「それ本当なの?大使が聞いたら、きっと喜んじゃうかも!」なんて言っていたのを思い出しました。ちなみに、この時彼女の履歴書のスペイン語での作成をちょっとお手伝いしたのですが、今ではこの彼女も同大使館の官房長みたいな役割で偉くなられたようです。

 さて、この馬車による送迎はいままでは、いつ何時にやるかは事前には分かりませんでしたが、今後は宮内庁のHPで事前に発表するそうです。時刻は午後3時頃だそうですから、事務所からもそう遠くはないので一度見学に行ってみようかと思っています。

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もう、平成20年なんて!

2008-01-04 02:52:47 | その他

 今年で平成20年と元号が平成に変わってから丸19年目になります。カミさんに婚約指輪をプレゼントしたのがやはり平成元年でしたから、年を取るのもやむを得ないのかもしれません。

 さて、大正デモクラシーから昭和20年までの戦火への20年、昭和20年の終戦から奇跡の復興であった戦後20年、そしてバブル経済末期の平成元年からバブル崩壊による経済の低迷から20年と、この3つの20年を比べて見ても一目瞭然でして、戦後復興の20年間が最も明るく希望があった20年であったようです。

 私自身、戦前の暗い20年や、戦後ドサクサの昭和20年代の事は全く知りません。しかし、物心ついた昭和32年以降の日進月歩の変化は、子供心にもこの先々がどうなるのかが分からない程、毎日がわくわくするような楽しみな日々であった記憶があります。実際、団扇・ラジオ時代から扇風機・白黒TVへ、塩漬け・洗濯板から冷蔵庫・洗濯機へ、電報・自転車から自宅電話・自家用自動車へ、そして白黒TVからカラーTVへと、毎日毎日どんどん進歩し、普及して行き、ライフスタイルがめまぐるしく変わって行ったのでありました。

 では、この平成の20年程の時代ですが、そんなに見捨てたものではないのです。例えば、携帯電話の爆発的な普及やインターネットの普及などは、到底想像すらできなかった訳です。平成元年頃は、ショルダー式の重~い肩掛け鞄のような通話料の馬鹿高い移動電話だったのです。しかし、今では小学生でもGPS付きの携帯を持っています。PCも、まだまだフロッピーディスクから起動していた事業所用が主流で、PCが内蔵のハードディスクに変わり始めたばかりの頃でした。しかし、今では家庭用PCの性能でも、200倍以上のデータ容量と数百倍の処理能力があり、当時であったら学術用の汎用コンピュター並のマシーンになってしまう程の性能なのです。更には、今では世界中の情報が、インターネットを通じて瞬時に画像データを含む大量のデータをやりとり出来ますが、20年前まではFAXか、テレックスによる文字情報しかやりとりできませんでした。

 ですから、失われた時代と言われているようですが、決してそんな事はないと思います。私は、本当に失われたのは、馬鹿げた狂気と非常識と自惚れだけだったのではなかったのかと思っています。

 そして、これからの20年は、一体どうなって行くのでしょうか?皆さん、ワクワクしながら未来に希望を持とうではありませんか! 

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