行政書士中村和夫の独り言

外国人雇用・採用コンサルティング、渉外戸籍、入管手続等を専門とする26年目の国際派行政書士が好き勝手につぶやいています!

日本の製造業が国際的に強い、本当の理由とは! (上)

2008-04-30 01:05:06 | 国際・政治

 日本は、太平洋戦争で焦土と化した国土から奇跡の復興を遂げた国として、世界中の多くの学者や専門家はその理由をマスコミでコメントし、書物や文献等で、諸説が発表されてきた。特に、日本の多くのメーカーが、国際企業として成長してきた理由については、世界中に注目されるところとなって色々な理由が述べられていたと思う。それは、日本人の勤勉性だとか、教育の高さとか、はたまた禅にあるような文化だとか色々な理由が言われ続けて来たのであった。しかし、実感として”これだ”という決定的な理由に巡り会った事は無かったのである。

 ところが、私は偶然にも20数年前に某国の国際共同事業での技術移転の現場通訳として参加した時に、日本と外国の製造メーカーとの決定的な違いとも思える多くの出来事を実体験することができたのであった。

 勿論、私は学者でも専門家でもないし、今でもそうなのである。であるから、日本と外国のメーカーの歴然たる違いの源流を形成していると思われる根本的なシステムを考えたときに、この日本固有の独特のシステムしか思い浮かばなかったのである。そして、それは今でも変わらないのである。とはいえ、私個人としても、この日本固有のシステムにも多くの問題を抱えていると思っている。場合によっては、それが大きな弊害となっている製造メーカーも多々あると思っているのである。

 そのシステムとは”終身雇用制”と”ボトム・アップ方式”である。な~んだと思われた方々は多いと思う。しかし、バブル崩壊以前の日本企業のほとんどは、”終身雇用制”と”ボトム・アップ方式”を採用していた筈である。勿論、世渡り上手な者が出世し易く、公正な個人評価が行われにくいとか、飛び抜けた優秀な人材が育ちにくいとか、古参の人員が占めて組織を硬直させるとか、終身雇用制の弊害は確かにあったと思う。また、ボトム・アップ方式によるビジネスシーンの決断力無さや決断時間の遅さなど、外国企業との交渉の際の問題点や弊害も多々あった事は事実である。

 それでも、バブル崩壊によって、大手メーカーから中小零細メーカーまでの多くの企業が多かれ少なかれ、終身雇用制の部分廃止やら、トップダウン方式による経営という路線に方向転換をして来たのである。ところが、従来の終身雇用制とボトムアップ方式を頑なに堅持してきたトヨタ自動車やキャノンなどの企業だけが結果として業績の好調を維持し続けて、いわゆる勝ち組メーカーになってしまったのである。勿論、これらのメーカーも成長部分に於ける人員増加分を派遣や請負方式に依存したりしてはいたものの、基本的には従来の正社員に対する終身雇用制を維持・堅持したメーカーだったのである。

 これらの勝ち組メーカーの方針に刺激されて、他の多くの製造メーカーはここ数年、急に再び方向転換を始めて、成果主義の見直しをしたメーカーが可成り増えているのである。結果として、これに伴って、業績を回復させたメーカーが急増しているという皮肉な結果が出ているようである。勿論、異論や反論が多々あることは承知の上で、敢えて従来の終身雇用制とボトムアップ方式の重要性を私が強調しているのは、それが日本の製造メーカーの強さの源流にあるからだと私は思うからであり、実際にその実例を知っているからなのである。

 では一体、それはどんな実例なのだろうか? 私が体験した現場での実体験の一部を、次回このブログで具体的に書いてみたいと思う。

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さすがに・・・理解不能です!

2008-04-27 23:30:34 | 秋葉原って?

 昨日土曜日は、入管手続関係者の同業者による研究会があったために、馴染みのクライアントに変更して貰って、久しぶりにアキバの我が事務所に日曜出勤しました。

 クライアントに在留資格認定証明書を引き渡した後、別件の定款変更に関わる書類を作成し、概ね目処がついたところで終了して、いつものように秋葉原駅に向かって帰路を歩いて帰っていると・・・。ガード下にあるケンタッキーフライトチキンの店舗の前で、何やら携帯電話のカメラで何かを撮影しているオタク君達を発見しました。

 派手なメイドさんの撮影でしたら、日常の風景で、特に気にはしないのですが・・・。近づいてよ~く見ると、ななな~んと、あのカーネル・サンダースではないですか!それも、メイド姿です!

Photo_7  さすがに、このキモイ カーネル・サンダース、私にはまったく理解不能です。最近、ちょっと、アキバも、恐喝事件が起きたり、ホコ天でお尻を出すお馬鹿な自称グラドルが逮捕されたり、ちょっと変な雰囲気になっているようです。困ったものです。

 

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もしかしたら・・・。

2008-04-21 01:42:54 | あの頃の東京って?

 昭和37年小学校2年生の秋、私は慢性の腎炎であることが分かり、突然長期欠席せざるを得ない事になったのでした。

 食事から塩分摂取を極力さける為に、御飯・味噌汁という朝食から、パン・コーヒーという食事に切り替えたのでした。そして、私だけには、更に無塩醤油、無塩バターを使った特別食を母が別途に作ったのでした。それは、お世辞にも美味しい食事ではありませんでしたが、作った母はさぞかし大変だったと思います。また、病の原因の一つであると思われた扁桃腺も切除しました。

 まだ遊びたい盛りの子供にとって、学校を長期欠席せざるを得ない状況はとても辛いことでした。その上に、学校の授業を受けられなかったので、3年生へは進級できないと、年明け早々担任の先生に言われたのでした。私は、父母という家庭教師によって自宅学習することになったのでした。父は、算数と理科を担当し、母は国語と社会と担当しました。しかし、本当に一番辛かったのは、今思えば実は父や母だったのでしょうね。

  私が発病したのは、ご近所に住む大学生が私と同じ腎臓病で亡くなった直後の事でした。ですから父や母にとってはさぞかし深刻で、本当に必死だったのだと思います。そして、私も子供ながらに、その父母の真剣さを理解したのでした。”また皆と遊びたい!XXさんのお兄さんみたいに死んじゃうのはいやだ~” 直らないかもしれない病を罹った8歳の子供の正直な気持ちでした。

 1日でも早く学校に戻りたかった私は、味が無いような不味い食事でも我慢して食べました。また、父母が教えてくれた勉強もどんどん進んで取り組みました。結果、算数と国語は短期間で5~6年生レベルまで進んでいたのでした。

 学校を休んで6ヶ月近く経った3月のある日、担任の先生が訪れて、私の健康状態と自宅学習の状態を見に来られたのでした。4月からの3年生としての通学については、医師からは一定の条件であれば、通学を再開しても構わないとの許可が出ていたのでした。一方で、担任の先生は、私の学力の進捗の事を最も心配していたようでした。しかしながら、算数、国語の進捗具合を見て、これなら進級に全く問題は無いと、私の3年生への進級を許可して頂いたのでした。

 昭和38年4月、私は半年ぶりに学校に通うことができたのでした。しかし、飽くまでも特別扱いでした。体育はすべて見学、給食は食べずに午前中の授業4時間で帰宅していたのでした。しかし、検査結果が良好であったことから、午後の授業への出席も、その後直ぐに医師は許可してくれたのでした。但し、給食は別の食事とすること、体育の授業に出ない事が条件でした。

 母は、毎日私に塩分を控えたお弁当やサンドイッチを届けてくれました。今でもその姿は決して忘れる事はありません。私が発病した年の夏のラジオ体操の日に付いて来て、そのまま居着いて飼い犬となったテリー系の雑種犬を連れて、毎日欠かさずやって来てくれたのでした。そして、いつも学校の校門の門扉に犬のベルトを結びつけ、校庭を弁当箱を抱えて縦断してやって来る母の姿を、私はいつも窓辺から眺めていたからです。私が気が付かなくとも、同級生が”中村君の弁当が来たよ!”と教えてくれたのでした。その手作り弁当は、旨味の基本というべき塩分が殆ど含まれていない特別食でしたから、決して美味しい弁当ではありませんでした。しかし、私は我慢して食べたのでした。でも甘い卵焼きだけは美味しかったと記憶しています。

 そして、1年後の昭和39年3月、医師はついに腎炎から完治した事を宣言して、通常通りの生活を送ることを許可してくれたのでした。病に倒れてから実に1年6ヶ月後の事でした。当時、直らない病と言われていただけに、本当によく回復できたものだと今でも思っています。年老いた父は、今なお健在ですが、母は23年前60歳を前にして亡くなりました。父と同級生で、医学書を父に見せては今後の治療方法を丁寧に説明していた名医のM先生も、70歳を前にして既に亡くなられています。

 こんな特別な思い出のある小学校も、もうすぐ跡形もなく取り壊される運命です。やはり、寂しい限りです。

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恐怖?のプール開き!

2008-04-12 02:45:05 | あの頃の東京って?

 昭和36年、杉並第5小学校の1年生の時、私にとっての最大の事件は、プール開きのクラス代表者選びでした。私は、クラスでは背丈は一番高く、運動も得意な少年でした。ですから、同級生は皆、当然私が水泳も得意であると勘違いしていたようです。

 そして、6月末のある日、担任のT先生が、「来週XX日に、いよいよ学校のプールが使えるようになります。そこで、プール開きを行いますので、皆で男子、女子のクラスの代表者を選びましょう。」と言ったのでした。また、悪いことに、その日は確か授業参観日でもありましたので、多くのお母さん達も来ていたのでした。勿論、私の母も来ていました。

 泳げない私は、まさか自分が候補に選ばれるとは夢にも思ってもみませんでした。そして、担任のT先生が、「皆さん、だれを代表にしましょうか?男子は誰にしましょうか?」と言ったところ、”KM君”という声が真っ先に上がりました。KM君は、成績優秀ですから、当然だと思いました。先生が黒板にKMと書きました。ところが、近所に住むS君が”中村君”と言ってしまったのです。私は、心の中で”えっ!僕、泳げないのに!”と、思ったのでしたが、”先生、僕泳げません!”とは、何故か言えなかったのです。

 そうこうするうちに、T先生は、「それでは、男子はKM君か中村君のどちからを選びましょう!女子はMK子ちゃんという声しかありませんでしたが、皆さんMK子さんで良いですか?」

 「は~い」と、皆が大声で返事をしたので、T先生は「それでは、この列から一人づつ、KM君か中村君かを言って下さいね!」と言うと、一人ずつ聞き始めたのです。

 黒板に書かれた”KM”と”中村”の文字の下に、”正”の字が次々と書かれていったのでした。それは、私にとっては、地獄のような思いでした。運動が得意であった私は、クラスメートから、当然に水泳も得意であろうと思われていたのでしたが・・・。でも、実際の私は、まったく泳げない少年だったのです。別に嘘を付くつもりなど、さらさらなかったのですが・・・。只々”泳げない”と、皆の前で言いそびれてしまったのでした。それは、羞恥心から言うタイミングを逃してしまっただけの事だったのですが・・・。

 一票一票とKM君と私は票を競り合ったのでした。票が競り合う毎に、同級生達は歓声を上げていたのでした。しかし、私にとっては、私の名前を呼ばれる度の歓声は、地獄の悪魔達の雄叫びのように感じたのでした。おそらく、私は顔色を真っ青にしていたと思います。しかし、T先生はそんな私の表情には最後まで気付いてくれなかったようです。

 そして、授業参観に来ていた母は、私が泳げない事を知っていながら、涼しい顔をしていました。母は、海育ちですから、走るのは苦手でも、泳ぎは得意だったからです。そんな意地悪な母を、私は恨みましたが、どこ吹く風でした。後で聞いたら、「練習すれば直ぐに泳げるようになると思ったからよ」と・・・・。いつもこんな調子の、お気楽というか朗らかな母でしたから。

 そして、とうとうKM君と私の票が同数となって、最後の投票者に回って来ました。それが何と、女子の代表になっていたマドンナのMK子ちゃんでした。

 MK子ちゃんは、勉強がとても出来ましたし、色白で、背も高い上に、大人のように行儀の良いお嬢さんでしたから、”ちょい悪”の私としては、憧れのマドンナというよりも、尊敬していたような記憶があります。そんなMK子ちゃんに、T先生がKM君と中村君どちらにしますか?聞いたのでした。

 MK子ちゃんは、”う~ん”と暫く考えていたのでした。私としては、当然選んで欲しくないのですが、KM君を即座に選んでも欲しくなかったのでした。そして、MK子ちゃんは、考えた末にKM君を選んだのでした。それは、ほっとした反面、寂しさもあったのでしたが・・・。

 ちなみに、それから私は内緒で猛特訓をして、プール開きまでに泳げるようになっていました。ですから、同級生達はこのプール開きの代表者選びで、私が冷や汗をかいていた事などは誰もまったく知らなかったと思います。

 この時、子供の私は、この小学校というはじめての共同社会で、最初の人生の生き方を学んだのでした。それは;

一、正直に事実を述べないと、自分自身を大変な苦境に追い込む事が多々あること。

一、仮にその時には事実でなくとも、それが後日実現可能であるのならば、敢えてその事実を述べる必要が無いこと。しかし、それが出来なかった場合、大変な信用失墜となるリスクがあること。

 このプール開きの代表者選びのシーンですが、その後にも時々夢に出て来て、何度か冷や汗をかきました。やはり、真実を素直に述べた方が、人生は絶対に楽なようです。しかし、実際の人生ではそう簡単に真実ばかりを言えない事も多々あるようでして・・・。

 敢えて言うのならば、9年前私がまだ駆け出しであった頃、もう既に44歳で副所長などと名刺に書いてあるものですから、クライアントさん達から「先生は、もうベテランでいらっしゃるので?」と聞かれて、慌てて「いやいや、まぁ私なんかは、この業界ではまだまだ駆け出しでして。それより・・・」と上手く話を逸らせた(職業倫理上、嘘は言えませんから!)ものでしたが・・・。また、事務所の経営戦略上、”登録したばかりの新人です”とも言えませんものねぇ。クライアントさんを不安にさせてしまう場合もある訳ですし。特に、複雑な案件(在留特別許可など)であればあるほど、尚更そうゆう傾向にあるかと思います。例え、確実に処理できる自信があったとしてもです。医者や弁護士等でも、少なからずそれは同じだとは私は思うのですが・・・。

 まあ、そんな小学校1年生の時の、今でも鮮明に覚えている昔々の出来事でした。

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出身小学校が消える!

2008-04-06 15:06:30 | あの頃の東京って?

 今日4月6日の朝日新聞の朝刊都内版に、私が41年前の昭和42年に卒業した小学校である杉並第五小学校が「80年余りの歴史に幕」との記事が出ていました。荻窪に住まわれている方から、そのような話が出ているとは聞いてはいたのですが・・・。しかし、いざ私や妹が通っていた小学校が消えてしまうと聞くと一抹の寂しさがあります。その記事を呆然と眺めながら数多くの記憶が一気に蘇って来たのでした。

 友達と、鉄人28号の主題歌をがなり立てながら帰宅した通学路。襷・鉢巻き扇子を持って応援団長をやっていた運動会。腎臓を悪くして長期欠席し、母が作った無塩弁当を毎日届けて貰っていた3年生の頃。選挙で学級委員に選ばれてしまって困惑した事。得意だった算数や体育の授業。授業中にお父さんがお亡くなりになったと呼ばれて泣きながら帰って行った同級生。諸先生方に時々叱って頂いた事。学校の都内巡りのバスで乗った首都高速道路がガラガラだった事。野球、水泳に明け暮れた夏の頃。カメラ好きの父が同行してくれた遠足、等々。全く忘れていたことさえも不思議と次々と思い出されて来たのでした。

 私が入学したのが、昭和36年4月ですから東京オリンピックのまだ3年半前ですから、東海道新幹線はまだ無く、新宿駅さえも木造の駅舎であったと記憶しています。そんな日本がまだまだ貧しかった頃から、東京オリンピックという国際舞台に日本という国が再デビューして、あの奇跡の高度成長を続けた頃だったのでした。

 「サラリーマンは~気楽な稼業と、きたもんだぁ!」という台詞ではじまる、クレージーキャッツ植木等の”スーダラ節”が大ヒットした頃でもありました。 

 その中央線荻窪駅の北側の住宅地天沼地区にある杉並第5小学校では、高度経済成長によって、地方からどんどんと若い子連れの勤め人家庭が流入して来たのでした。当時、東京駅から電車で30~40分ほどで来られる東京郊外の西外れの便利な町で、井伏鱒二などの著名な作家や画家なども住む文化の香る新興住宅地でもあったのでした。ちなみに、荻窪より西の小金井、国立、八王子などは、当時はまだまだ田園風景が多く残る長閑な土地でした。

 そんな子供達を抱えた活気のある若い家族がひしめいていた当時の荻窪天沼地区も、今は高齢者だけが住む住宅と、独身者だけが住むマンションやアパートばかりなってしまって、小学校に通う子供達が居なくなってしまったようです。これも、時代の流れ。やむを得ないのかもしれません。そういう私自身も、既にこのこの町から離れてしまった一人である訳なのですから・・・。

 この思い出が山のように詰まった小学校で起こった出来事を、これを機会に次回から少しづつ書き残してみようかと思っています。

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