建国記念の日に当たり、自分の不明を記して教えを乞うこととする。
日本書紀や古事記(勿論、抄訳や現代語訳)を読んで(更には記憶によって)の疑問であるが「民である日本人は何時・どこから生まれたのであろうか」という点である。記紀では、神々が国土や人間の存在に必要な神羅万象を含めた国造りに励まれている途中に、忽然と民が現れるように記されているように思う。イザナギの尊が黄泉の国から逃げる際に神の命令を受けて追跡する予母都志売(よもつしこめ)という醜女は神ではないようで、既に天界には神でない下働き(人間)の存在が見て取れるし、天界(高天原)を追放されたスサノオの尊が出雲に降り、八岐大蛇を退治するくだりでは生贄にされそうになっていた美少女クシナダ姫が登場することから、既に神々とは異なる民(人間)が相当の社会生活を営んでいたように書かれている。旧約聖書では、神がアダムとイブをこしらえて彼等の子孫が地上に満ちたとされているように思っているが、日本神はどうも人間を作らなかったのではと思っている。皇室の祖である大和朝廷成立は、既に九州や出雲には強力な勢力圏(王朝)が存在しており、九州での勢力争いに敗れた神武天皇が新天地を求めて東に逃れて(東征)大和の地に至って勢力を得たのではと推測している。農耕民族にとって温暖・豊穣な九州の地は極めて魅力的であったであろうし、それを捨ててまで地理・情勢ともに不明な東方に向けて船出しなければならない必然性が見当たらないように思える。古事記は、多くの伝承を集約・併記したものであるのに対し、日本書紀はその伝承を時系列的に再編集・再構築したものとされているが、再構築に当たっては時の政権の正統性を主張する一方で、未だ根強い九州・出雲の勢力に配慮したものにならざるを得なかったのではと推測している。神が人間を作らなかったのではと云う疑問は、神話を正確に読み解く知識がないための混乱であろうが、神道の尊称にも原因があると思う。記紀に付されている尊称は「尊」あるいは「命」であるが、神道では人間も死後は神となるとされているために現在でも仏教の戒名に相当する諡は「〇〇命」とされる。代々神道である自分の諡は「〇〇翁命」となるわけで、この辺も混乱を助長させる一因になっているのではないだろうか。
記紀への疑問と大和朝廷成立に関する疑問のあれこれを書いたが、建国記念日に対する疑問ではない。本日の産経抄で知ったことであるが、作家の福田恒存氏は『私が望んだのは「建国記念の日」などという休日ではない。「紀元節」という祝日である』と書かれているそうで、紀元節という呼称は神武天皇即位の科学的な裏付けで成立するものでは無く、皇統に対する社会的合意・国家観・日本人としてのアイデンティティ等の全てを包括した意味合を持つ表現と捉えられているように感じた。自分も前段のような些末な事象に捉われず「建国記念の日」いや「紀元節」の一日を過ごすことにしよう。