一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『抗争』

2012-05-20 | 乱読日記

戦後の暴力団の抗争を、山口組三代目田岡組長の全国制覇から最近の道仁会と九州誠道会の抗争まで、「抗争」という切り口でまとめたもの。

著者は暴力団などに詳しいノンフィクション作家ですが、近年の暴力団排除運動で暴力団関係のノンフィクションにおいてもポリティカル・コレクトネスを意識せざるをえないようで、暴力団に対する書きぶりも、奥歯にものの挟まった感があります。

そして、暴力団のほうも最近は抗争が減りつつあるようです。  

上の者が殺され、また長期服役することで、下の者は上への階段を上がれる。こうして暴力団は新陳代謝を繰り返してきたが、今そうした風通しのよさはない。上の者は命が続く限り安泰で、栄耀栄華を続けられる。下の者は生涯、下積みのままで終わる。抗争の禁止は一面、暴力団富裕層の自己温存策なのだ。  

そして暴力団員への厳罰化の流れもそれを加速してします。  

 敵側の組長や組幹部を殺傷して「男を売り出し」たくとも、ひとたび発覚し、逮捕されれば、出所時に後期高齢者になっていることは間違いない。万一、その時点でも組が存続し、繁栄していたとして、大変な待遇で出所した組員を迎えようとも、それを享受できる体力も気力も持ち合わせていないだろう。
 ということは、組のために敵側を殺傷するのは割に合わないことを意味する。そのため現在ではたとえ配下の者を使って敵側を殺傷したとしても、その者を警察に出頭させない。殺し要員として温存し続け、何度でも使い回すことが行なわれている。よって暴力団の抗争でさえ迷宮入りすることになる・・・  
 上層部にとっても、抗争は迷惑である。抗争すれば暴力団対策法で組事務所の使用が禁止されるかもしれない。万一、抗争に参加した末端組員が無関係の市民や警察官を誤射すれば、遺族から民法や暴対法の「使用者責任」 を問われ、トップが損害賠償しなければならなくなる。  

 暴力団は抗争と言うドラマを失い、損か得かのビジネスマンに変質した。世論が暴力団に共感するところがないのは彼ら自身が変質したからだろう。  

著者は今の「抗争なき暴力団」はドキュメンタリー的には取り上げにくくなっていますが、専門化して闇にもぐった実行部隊、そして以前の「はぐれ者」を取り組む機能は何が代替して(それとも暴力団の世界にも「格差社会」があるのか)将来どうなるのか、というのも掘り下げて欲しいテーマではあります。  
週刊誌などにはあまり売れないでしょうけど。  


残念なのは、本書は週刊ポストの連載をまとめたものですが、前の章の繰り返しがそのまま載っているなど、機械的につなげただけで一冊の本としての編集作業がなされていないこと。
最近の新書商法の悪い部分。

コメント
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