『黒笑小説』は東野圭吾の短編集。
短編の分だけ急カーブのひねりが効いていて面白い。
特に売れない作家と編集者の関係を題材にした冒頭の4作は、作家と編集者に対する実体験を元にしたであろう観察眼が光っています。
解説で奥田英朗が書いているように「編集者が情熱を注ぐのは、賞を取れそうな新人と売れる作家に対してだけ」という現実をブラックユーモア(黒笑)でつつんでいます。
『ブラック・スワン』でも触れられているように、文学者の世界は「一握りの人がパイの大部分をぶんどって、残るみんなは、何を間違ったわけでもないのに、手元にはほとんどなんにも残らない」(これを著者のタレブは「果ての国」と名づけてます)という構図があるので、出版社・編集者は勝ち馬に乗りたがるのも仕方のないことではあります。
果ての国の反対には「月並の国」があります。
一方で、月並みで平凡で中ぐらいの連中が取り仕切っている類の仕事がある。そういう仕事だと、平凡な連中が、全体として見れば大きな力を持つ。
もしわたし自身が誰かにアドバイスするとしたら、勧めるのは稼ぎが何倍にもなったりしない仕事の方だ!
とタレブは言います。
東野圭吾の毒は、作家という仕事が「最果ての国」に属することに加えて、そこに乗ろうとする編集者が「月並みの国」に属していることで、より効果が大きくなっています。
流通ルートを持つ出版者がないと作家は日の目すら見ない一方で、作家に日を当てる側の編集者は収益を上げる=勝ち馬に乗ることを宿命付けられた「平凡」な人々の集合体なわけで、そこには「作家を育てる」という大義名分とは違う行動原理が働き、そこが悲喜劇を生むわけです。
そういう悲劇、というかこじれてしまった例として、知ったのが中村珍、という漫画家。
漫画家よりも雑誌の連載が打ち切りになった経緯をつづったブログの方を先に知ったのですが(参照:ご愛読ありがとうございました)ここを読むと、作家と編集者のコミュニケーションのズレが拡大していく様子が(作家の側からだけですが)痛々しいほどにわかります。(ちなみに打ち切りになった連載は、別の雑誌で復活したようです。)
商売という目で見れば、作家における雑誌連載の負担、編集者のインセンティブなどを読み間違ったという感じもしますが、若手漫画家とてはまず雑誌に連載しないと始まらないという弱い立場から出発しているので、そこでの編集者との関係悪化は負の連鎖を招くことになるのだと思います。
東野圭吾は人気作家になった今だからこそ、それをユーモアに昇華できるわけですが、「何を間違ったわけでもないのに、手元にはほとんどなんにも残らない」人にとっては笑える状況ではないはずです。
編集者・出版社側は(当然のことながら)本件についてコメントはしていないようですが、これから売れる(かもしれない)作家の生殺与奪の権利を握っている、しかも新しい売れる作家を発掘していくのが大きな役割だということの自覚が、日常生活で多数の(結果的に)売れない作家を相手にしている中で鈍くなってきてしまっていたのかもしれません。
僕自身「平凡で中ぐらいの連中が取り仕切っている類の仕事」に従事する身として、自らを省みる必要がありそうです。
ところで、中村珍は1冊だけ初期の短編を集めた『ちんまん』という単行本を出しているので買ってみました。
ストーリーは荒削りながらもう一歩ひねれば面白いな、という感じではあるのですが、ちょっと絵が好みでなかった(画風が濃い目なのと、登場人物はなぜかみんな顎がとがっているあたりが・・・)のが残念です。