一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『職業としての政治』

2010-12-14 | 乱読日記

仙石官房長官の「暴力装置」発言を契機にマックス・ヴェーバー『職業としての政治』を読んでみました。

これは第一次世界大戦直後、ミュンヘンの学生集会でおこなった講演なので、当時の時代背景を映しているとともに文章論理展開がつながって長いものになっています。
そのため以下引用が長くなりますが、私が下手なまとめをするよりはいいかと。
(以下強調の太字は原文(訳文)のルビ、斜体は私です)  

まずは「暴力装置」について

国家とは、ある一定の領域の内部で--この「領域」という点が特徴なのだが--正当な物理的暴力装置の独占を(実効的に)要求する人間共同体である、と。国家以外のすべての団体や個人に対しては、国家の側で許容した範囲内でしか、物理的暴力行使の権利が認められないということ、つまり国家が暴力行使への「権利」の唯一の源泉とみなされているということ、これは確かに現代に特有の問題である。  

このように「自衛隊という軍事組織を「暴力装置」と呼ぶこと自体は(受け止める側への配慮を除けば)政治学・社会学的には間違ってはいないのですが、問われているのは国家がその独占している暴力装置をどのように行使するかなわけです。  

なので、仙石発言については言葉遣いを云々するのでなく、「暴力装置」を使う側(日本では「文民統制」といいますね)としての現政権がいかに政治権力を適切に行使しているかを本来問題にすべきだったのでしょう。  


官僚と政治家の違いについては、こう述べています。

官吏である以上、「憤りも偏見もなく」職務を執行すべきである。闘争は、指導者であれその部下であれ、およそ政治家である以上、不断にそして必然的におこなわざるをえない。しかし官吏はこれに巻き込まれてはならない。党派性、闘争、激情--つまり憤りと偏見--これは政治家の、そしてとりわけ政治的指導者の本領だからである。政治的指導者の行為は、官吏とはまったく別の、それこそ正反対の責任の原則の下に立っている。官吏にとっては、自分の上級官庁が、--自分の意見に反して--自分には間違っていると思われる命令に固執する場合、この命令を、命令者の責任において誠実かつ正確に--あたかもその命令が彼自身の信念に合致しているかのように--執行できることが名誉である。このような最高の意味における倫理的規律と自己否定がなければ、全機構が崩壊してしまうであろう。これに反して、政治指導者、したがって国政指導者の名誉は、自分の行為の責任をまさに完全に自分一人で負うところにあり、この責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし許されない。官吏としてきわめて優れた人間は、政治家に向かない人間、とくに政治的な意味で無責任な人間であり、この政治的無責任という意味では道徳的に劣った政治家である。  

ここの部分、特に誰が何に対して責任を負うかを整理すべきという視点は、民主党の「政治主導」、またはいわゆる「官僚支配」を議論する際に参考になりますね。

また、昨日今日話題になってる菅総理の「仮免許」発言などは「政治的な意味で無責任」以前の問題かと・・・  


そして、「暴力の行使」という特殊な手段が認められていることに、政治における倫理問題の難しさがある、と説きます。

 それでは、倫理と政治の本当の関係はどうなっているのか。時折り言われてきたように、この二つの間にはまったく関係がないのか。それとも逆に、政治的行為には、他のすべての行為の場合と同じ倫理が妥当すると見るのが正しいのか。この二つの主張の間には、よく、一方が正しいか、他方が正しいか、ようするに絶対的な二者択一の関係が存在すると信じられてきた。しかし、この世のある一つの倫理に基づいて立てられた掟は、恋愛、商売、家族、役所のどの関係についても、従って、細君、八百屋のおかみさん、息子、競争者、友人、被告の中の誰に対する関係についても内容的に同じだというのは果たして本当だろうか。政治が権力 --その背後には暴力が控えている--というきわめて特殊な手段を用いて運営されるという事実は、政治に対する倫理的要求にとって本当にどうでもよいことだろうか。
 [中略] 
 だがここで問題なのは手段である。高貴な究極の意図なら、彼らの攻撃する敵の方でも、主観的には完全な誠実さをもって、同じように主張している。まさに「剣をとる者は剣によって倒れる」であって、闘争はどこでおこなわれようと、しょせん闘争である。それでは--山上の垂訓の倫理ということになるのか。山上の垂訓--とは福音の絶対的倫理のことであるが--は、今日、この掟を好んで引用する人々の考えているより、もっと厳粛な問題である。それは笑いごとではないのである。科学における因果法則について、それは思うがままに停めて、自由に乗り降り出来るような辻馬車ではない、と言われてきたが、同じことは山上の垂訓についてもいえる。一切か無か。もし陳腐なものとは違った意味がそこから出てくるとすれば、これこそ垂訓の意味である。だからたとえば、富める若者は「この言葉を聞きて悲しみつつ去りぬ。大いなる資産を有(も)てる故なり」ということにもなったのである。福音の掟は無条件で曖昧さを許さない。汝の有(も)てるものを--そっくりそのまま--与えよ、である。それに対して政治家は言うであろう。福音の掟は、それが万人のよくなしうるところでない以上、社会的には無意味な要求である。だから課税、禁止的課税、没収--ようするに万人に対する強制と秩序が必要なのだ、と。しかし倫理的掟はそんなことを全く問題にしない。そこにこの掟の本質がある。つまりそこでは「汝のもう一つの頬も向けよ!」である。一体他人に殴る権利があるのか、こんなことは一切問わず、無条件に頬を向けるのである。これは聖人でもない限り屈辱の倫理である。人間は万事について、少なくとも意欲の上では聖人でなければならぬ、キリストのごとく、使途のごとく、聖フランチェスコのごとく生きねばならぬ。これが掟の意味である。これを貫きえたとき、この倫理は意味あるものとなり、〔屈辱ではなく〕品位の表現となる。そうでないときはである。なぜなら、無差別的な愛の倫理を貫いていけば、「悪しき者には抵抗(てむか)うな」となるが、政治家にはこれとは逆に、悪しき者には力もて抵抗(てむか)え、しからずんば汝は悪の支配の責めを負うにいたらん、という命題が妥当するからである。
 [中略]
ところが「結果」などおよそ問題にしないのが、この絶対的倫理である。
 ここに決定的な問題点がある。まずわらわれが銘記しなければならないのは、倫理的に方向づけられたすべての行為は、根本的に異なった二つの調停しがたく対立した準則の下に立ちうるということ、すなわち「心情的倫理的」に方向づけられている場合と、「責任倫理的」に方向づけられている場合があるということである。心情倫理は無責任で、責任倫理は心情欠くという意味ではない。もちろんそんなことを言っているのではない。しかし人が心情倫理の準則の下で行為する--宗教的に言えば「キリストは正しきをおこない、結果を神に委ね給う」--か、それとも、人は(予見しうる)結果の責任を負うべきだとする責任倫理の準則に従って行為するかは、底知れぬほど深い対立である。
 [中略] 
 しかしこれでまだ問題は終わっていない。この世のどんな倫理といえども次のような事実、すなわち、「善い」目的を達成するには、まず大抵は、道徳的に疑わしい手段、少なくとも危険な手段を用いなければならず、悪い副作用の可能性あるいは蓋然性まで覚悟してかからなければならないという事実、を回避するわけにはいかない。また、倫理的に善い目的は、どんな時に、どの程度まで、倫理的に危険な手段と副作用を「正当化」出来るかも、そこでは証明できない。
 [中略] 
 この目的による手段の正当化の問題にいたって、心情倫理も結局は挫折を免れないように思われる。実際、この心情倫理には--論理的につきつめれば--倫理的に危険な手段を用いる一切の行為を拒否するという道しか残されていない。論理上そうなのであって、もちろん現実の世界では、心情倫理家が突然、千年至福的預言者に早変わりするといった現象を、われわれは終始経験している。たとえば、今の今まで「暴力に対しても愛を」説いてきた人々が、次の瞬間には一転して暴力の行使--一切の暴力の絶滅状態をもたらすであろう最後の暴力の行使--を呼びかけるような場合がこれで、ドイツの将校が出撃のたびに、さあこれが最後の攻撃だ、これで勝利が来、ついで平和が来ると言ったのと似ている。心情倫理家はこの世の倫理的非合理性に耐えられない。彼は宇宙的=倫理的「合理主義者」である。諸君の中でドストエフスキーをご存知の方なら、この問題が適確に展開されている玲の大審問官の場面〔『カラマーゾフの兄弟』〕を覚えておられるであろう。心情倫理と責任倫理を妥協させることは不可能である。またかりに、われわれが目的は手段を神聖化するという原理一般をなんらかの形で認めたとしても、具体的にどのような目的が、どのような手段を神聖化できるか、を倫理的に決定することは不可能である。
 [中略]
人間団体に、正当な暴力行使という特殊な手段が握られているという事実、これが政治に関するすべての倫理問題をまさに特殊なものたらしめた条件なのである。
 人は誰でも、目的は何であれ、一度この手段と結託するや--政治家はすべてそうしている--この手段特有の結果に引き渡されてしまう。信仰の闘士--宗教上の闘士も、革命の闘士も--の場合は特にそうである。ここであえて現代を例にとって説明して見よう。暴力によってこの地上に絶対的正義を打ちたてようとする者は、部下という人間「装置」を必要とする。そのためには、この人間装置に、必要な内的・外的なプレミアム--あの世またはこの世の報償--を約束しなければならない。そうでないと機能しない。内的なプレミアムとは、現代の階級闘争という条件下では、憎悪と復讐欲、とりわけ怨恨と似非非倫理的な独善欲の満足、つまり敵を誹謗し異端者扱いしたいという彼らの欲求を満足させることである。一方、外的なプレミアムとは冒険、勝利、戦利品、権力、俸禄である。指導者が成功するかどうかは、ひとえにこの彼の装置が機能するかどうかにかかっている。従って指導者自身の動機ではなく、この装置の動機に、いいかえれば赤衛軍、スパイ、アジテーターなど、指導者が必要とする装置に、上に述べたようなプレミアムを永続的に与えることが出来るかどうかにかかっている。指導者がこのような活動の条件下で実際に何を達成出来るかは、彼の一存でいかず、その部下の倫理的に全く卑俗な行為動機によって最初から決まってしまっている。
 [中略]
--この点で丸めこまれるようなことがあってはならない、というのは、唯物論的な歴史解釈もまた、意のままに飛び乗れる辻馬車ではなく、革命の担い手の前で〔都合よく〕停まってはくれないからである。
 [中略]
 およそ政治をおこなおうとする者、特に職業としておこなおうとする者は、この倫理的パラドックスと、このパラドックスの圧力の下で自分自身がどうなりうるのかということに対する責任を、片時も忘れてはならない。  

「卑俗なプレミアム」といえば、それを与えることにたけていたのが小沢氏だと思います。
ただ彼はそれによって何を達成しようとしていたのか(はたまたそういうものがあったのか)が今問われているのでしょう。  



「暴力装置」という仙石発言に対しても、言葉狩りをするのではなく、「ではあなたはその暴力装置(自衛隊以外も含む)を行使するにあたり、政治家として何を倫理的な準則にしているのか」とすかさず問う野党やマスコミがいればかっこよかったんですけどね。

 



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