『LOST』ファイナルシーズンをまとめ借りしているので週末までに観なければ。
自分を追い込むべきことは他にあるだろうに・・・
夏の間に読んだ本の感想をまとめて
ドラッカーの『傍観者の時代』にカール・ポランニーとの交流に触れたところがありました。
ポランニーといえば日本でも80年代の「ニューアカ」ブームのころ、栗本慎一郎が紹介して経済人類学や著書『大転換』が話題になりました。
『大転換』が絶版なので、論文集である本書を購入したまま積読だったものを、「」というあたりが震災復興での内陸部移転の議論の理解に何か示唆がないかなと(当然ポランニーの議論は大掛かりなものなので、直接役に立つようなものではないは承知で強引にこじつけて)1970年代の翻訳はこんなだったよなという文体を久々に味わいながら読みました。
ポランニーの主張をひとことで言うのはとても無理なのですが、一つの切り口としては市場を中心とした経済学の考え方が社会全体についての議論をゆがめているという論点があります。
人類の歴史においては、貨幣は交換だけを目的として生まれたものではないし、生産は「所得を稼ぐ」ことを動機として行なわれてきたものではない。「人間の経済は原則として社会関係のなかに埋没しているのである。」ところが近代に至り市場経済学が流布すると、「市場メカニズムから、経済決定論がすべての人間社会に通用する一般的法則であるという妄想が生まれた」。この法則は市場経済においては正しいのであるが、その結果
被災地の農業や水産業の復旧のときに企業の参加などが議論されていますし、実際復興のための資金をどうするか、その前に既存の借金をどうするかといういことが大きな問題になっていますが、その意味では既に社会関係が経済システムのなかに埋め込まれてしまっている中での復旧復興をどうするかが問題になります。
地域コミュニティを維持したうえでの復興の重要性も言われていますが、震災前の地域コミュニティというものがどのようなものであり、それを(外形的に)そのまま復活させることがいいのか、という議論が必要になるのでしょうか。
切り口の方向は違いますが似たような論点を提示しているのが宇沢弘文の『社会的共通資本』
「社会的共通資本」とは、自然環境(大気、水、森林、河川・・・)、社会的インフラストラクチャー(道路、交通機関、上下水道、電力、ガス)、制度資本(教育、医療、金融、司法、行政)をいい、それらは市場経済的基準によって、または官僚的基準によって管理されてはならない、という主張です。
ただ、しっくりこなかったのが「市場経済的基準によって、または官僚的基準によって管理されてはならない」ものを「社会的共通資本」と定義しているので、本の内容がその理論体系の説明になっていて、なぜ社会的共通資本という概念が必要で実際の意思決定において有用かというところがいまひとつ腹に落ちてこないこと。
極端に言えば「重要なものは重要だ」と言っている感じがしてしまいます。
共感する部分もあるのですが、たとえば被災地の復興における議論のときに、立場の違う人や様々な選択肢の中で説得力を持つのかなというところがよくわかりませんでした。
この本に限らず、経済学の素人からみると、経済学者の議論はそれぞれの体系の正当性を主張していて議論がかみ合わないことがよくあるように思います。
たとえば現在の景気刺激策や財政問題などについても、経済学者とかエコノミストの間で何でこんなに意見が割れるのだろうか、しかも「原理的なところでそもそも相手はわかっていない」というようなそれぞれの流派や体系の塹壕の中から手榴弾を投げ合っているような議論が多いのは不思議に思います。
異種格闘技ならそれで、がっちりと組み合って素人にもわかりやすい議論をしてほしいと思います。
ポランニーの言うところの社会関係を経済システムの中に埋め込むことに成功した経済学者たちは、その後個々の理論の純化の方向に進むことで「一般的に通用する法則」から離れていったのかもしれません。
多分こちらもそういうことを言っているのだと思います。
小幡績PhDの行動ファイナンス投資日記「政治経済学 Political Economy」
自分を追い込むべきことは他にあるだろうに・・・
夏の間に読んだ本の感想をまとめて
ドラッカーの『傍観者の時代』にカール・ポランニーとの交流に触れたところがありました。
彼の目指したのは、市場が、唯一の経済システムでもなければ、最も進化した経済システムでもないことを明らかにすることだった。そして、経済発展と個の自由を両立させつつ、経済と社会を調和させる場は、市場以外にあることを示すことだった。
少なくとも市場は、財の好感と資本の配賦にのみ使うべきであって、土地と労働の配賦に使ってはならなかった。それらのものは、相互扶助と再分配、すなわち経済合理性ではなく、社会的合理性と政治的合理性によらなければならなかった。
少なくとも市場は、財の好感と資本の配賦にのみ使うべきであって、土地と労働の配賦に使ってはならなかった。それらのものは、相互扶助と再分配、すなわち経済合理性ではなく、社会的合理性と政治的合理性によらなければならなかった。
ポランニーといえば日本でも80年代の「ニューアカ」ブームのころ、栗本慎一郎が紹介して経済人類学や著書『大転換』が話題になりました。
『大転換』が絶版なので、論文集である本書を購入したまま積読だったものを、「」というあたりが震災復興での内陸部移転の議論の理解に何か示唆がないかなと(当然ポランニーの議論は大掛かりなものなので、直接役に立つようなものではないは承知で強引にこじつけて)1970年代の翻訳はこんなだったよなという文体を久々に味わいながら読みました。
ポランニーの主張をひとことで言うのはとても無理なのですが、一つの切り口としては市場を中心とした経済学の考え方が社会全体についての議論をゆがめているという論点があります。
人類の歴史においては、貨幣は交換だけを目的として生まれたものではないし、生産は「所得を稼ぐ」ことを動機として行なわれてきたものではない。「人間の経済は原則として社会関係のなかに埋没しているのである。」ところが近代に至り市場経済学が流布すると、「市場メカニズムから、経済決定論がすべての人間社会に通用する一般的法則であるという妄想が生まれた」。この法則は市場経済においては正しいのであるが、その結果
「社会関係のなかに埋め込まれていた経済システムにかわって、今度は社会関係が経済システムのなかに埋め込まれてしまったのである」
被災地の農業や水産業の復旧のときに企業の参加などが議論されていますし、実際復興のための資金をどうするか、その前に既存の借金をどうするかといういことが大きな問題になっていますが、その意味では既に社会関係が経済システムのなかに埋め込まれてしまっている中での復旧復興をどうするかが問題になります。
地域コミュニティを維持したうえでの復興の重要性も言われていますが、震災前の地域コミュニティというものがどのようなものであり、それを(外形的に)そのまま復活させることがいいのか、という議論が必要になるのでしょうか。
切り口の方向は違いますが似たような論点を提示しているのが宇沢弘文の『社会的共通資本』
「社会的共通資本」とは、自然環境(大気、水、森林、河川・・・)、社会的インフラストラクチャー(道路、交通機関、上下水道、電力、ガス)、制度資本(教育、医療、金融、司法、行政)をいい、それらは市場経済的基準によって、または官僚的基準によって管理されてはならない、という主張です。
ただ、しっくりこなかったのが「市場経済的基準によって、または官僚的基準によって管理されてはならない」ものを「社会的共通資本」と定義しているので、本の内容がその理論体系の説明になっていて、なぜ社会的共通資本という概念が必要で実際の意思決定において有用かというところがいまひとつ腹に落ちてこないこと。
極端に言えば「重要なものは重要だ」と言っている感じがしてしまいます。
共感する部分もあるのですが、たとえば被災地の復興における議論のときに、立場の違う人や様々な選択肢の中で説得力を持つのかなというところがよくわかりませんでした。
この本に限らず、経済学の素人からみると、経済学者の議論はそれぞれの体系の正当性を主張していて議論がかみ合わないことがよくあるように思います。
たとえば現在の景気刺激策や財政問題などについても、経済学者とかエコノミストの間で何でこんなに意見が割れるのだろうか、しかも「原理的なところでそもそも相手はわかっていない」というようなそれぞれの流派や体系の塹壕の中から手榴弾を投げ合っているような議論が多いのは不思議に思います。
異種格闘技ならそれで、がっちりと組み合って素人にもわかりやすい議論をしてほしいと思います。
ポランニーの言うところの社会関係を経済システムの中に埋め込むことに成功した経済学者たちは、その後個々の理論の純化の方向に進むことで「一般的に通用する法則」から離れていったのかもしれません。
多分こちらもそういうことを言っているのだと思います。
小幡績PhDの行動ファイナンス投資日記「政治経済学 Political Economy」
経済学は戦前までは、political economy、政治経済学が経済学だったのだ。その後、経済学が勝手に離脱暴走し、自らの社会的存在価値を失わせることで、あるいは政治から自由になることで、学問を発展させてきただけだ。
そして純化した経済学が、貪欲に、純化できずにテクニカルには発達が遅れていたほかの社会科学を侵食して行ったのが、この30年の出来事なのだ。
政治学は数理モデル化することにより、政治から自由になり、政治分析として社会に貢献することを止めた。いや経済学的手法の呪術にかかってしまった。
そして純化した経済学が、貪欲に、純化できずにテクニカルには発達が遅れていたほかの社会科学を侵食して行ったのが、この30年の出来事なのだ。
政治学は数理モデル化することにより、政治から自由になり、政治分析として社会に貢献することを止めた。いや経済学的手法の呪術にかかってしまった。