一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

「文學界」4月号

2011-05-23 | 乱読日記

内田樹センセイの最終講義が収録されているというので初めて(文学雑誌というもの自体も)買ったのですが、けっこう盛りだくさんなので読了するのに時間がかかってしまいました。

文学雑誌というものは、作家に発表の機会を与えるためにあるのか、有名になった作家が恩返しとして出版社の売り上げに貢献するためにあるのか素人にはその位置づけがよくわかりません。
桐野夏生の『白蛇教異端審問』などを読むと、いろんなしきたりがあってけっこう難しい世界のようでもあります。

「文學界」と自ら業界を代表するタイトルを(しかも旧字体で)冠しているあたりから老舗の自覚が伝わってきますが、吉本ばなな(まともに読んだの初めてだったが、なるほどこういうものを書くのか)、角田光代らの書き下ろしや藤沢周、島田雅彦らの連載などさすがに強力です。

ほかにも、内田センセイの講義(これはブログの読者にとってはいつも通りの感じ)や柄谷行人・山口二郎の対談、高橋源一郎・糸井重里の対談などもあっりますが、こっちは新しい読者を呼び込むための工夫なのでしょうか。

柄谷行人・山口二郎の対談は「イソノミアと民主主義の現在」と題して、古代ギリシャの政治システムから現代社会を変える方向を考える、という難しいもの。
柄谷行人は『マルクスその可能性の中心』を読んで、(理解できたとはいえないけど)その理路が凄いなと思ったのですが、そのうちに地域通貨の提唱をされるなど凡人の想像力を超えてしまったのでずいぶんご無沙汰です。
なので、この対談も十分理解できたとはいえません。

まずは政権交代を主張していた山口教授

山口 ・・・ところが民主党が政権をとってからは大変な混迷の連続でした。民主党政権に対しては私は外から見ていただけなのですが、民主党の一番大きな問題は、理念や思想のレベルできちんとした土台を作っていなかったということです。

物事を変えようとすると、当然、既存の権力の反対にあいます。そうすると、理念のない政治家はたちまち怯んでしまい、現状維持という立場に変わってしまい、野党時代に主張していたはずの対決の構図を描くことを躊躇してしまいます。

政権交代をすれば社会が変わるだろうという幻想を多少煽りすぎた部分はありましたが、その幻想を断ったところに、今回の政権交代の意義はあったと思います。

以前は民主党のブレーンだったと思うのですが、今は距離を置いているとはいえちょっと他人行儀すぎるような。少なくとも政権交代の前段階で予見できたのでしょうからアドバイスをしてあげればよかったように思います。それとも、政権交代後に重用されなくなったとか言うことがあるのでしょうか。

つぎに柄谷氏

柄谷 現在、民主主義と呼ばれているのは、自由・民主主義です。相互に反する自由主義と民主主義の結合です。別の観点からいえば、自由と平等という相克する原理の結合です。「自由」を強調すると不平等が生じる。「平等」を強調すると、自由が抑制される。自由・民主主義は、自由と平等の危ういバランスの上にあります。だから、一方の極に行き過ぎれば他方に揺り戻しがおこる。そのように政権交代がなされる。経済的先進国の政治形態はどこでもそうなっています。このゆな形態が世界史において最終的なものだ、といったのが、フランシス・フクヤマの「歴史の終焉」論です。
 しかし、僕の考えでは、それは「資本=ネーション=国家」というシステムなのであって、最後の形態ではありません。それを変えることはできるのです。

このあと、既存の民主主義の問題点とかそれを超えるビジョンとか「交換様式D」とかの話になっていくのですが、ついていけず。
二人の対談もかみ合っていない風でした。


そのあとの高橋源一郎と糸井重里の対談「「さよなら」するものしないもの-ニッポンの30年とこれから」の方が面白かった。
もとから馴染みがあるというところもあるんだろうけど、世の中の切り取り方と、切り取ったものの見せ方がやっぱり上手い。
僕の思考力が落ちてきたので、わかりやすいものに向いているということもあるかもしれませんが。

先が長くなりそうなので続きは明日。


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